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「ほら、早く食べちゃいなさい」
急かされても、昨日で中学は卒業。急ぐ理由なんてない。勇希はパジャマ姿のまま、仏頂面で椅子に腰掛けている。母の作ったホットドッグから湯気が上がっている。勇希の大好物だ。
「高校は中学よりずっと遠いんだから。早起き癖つけとかないとダメなんだからね」
「分かってるって」
少し苛ついて、勇希はホットドッグをつまみ、かぶりついた。自然に視線はテレビの上の写真たてに向かう。
(ゲンタ)
写真の中の柴犬は、口の端をきゅっと上げ、笑っているように見える。
「……あんたのせいじゃないんだからね」
野菜ジュースを出しながら母親が言う。
「リードの金具が外れるなんてね……」
「僕が安物を買ったせいだ。だから金具が壊れて、ゲンタが轢かれた」
「違うわよ。散歩してるだけで壊れるなんて思わないもの」
涙がこみ上げて来そうになり、勇希は慌ててホットドッグを平らげた。
「ごちそうさま」
自分の部屋に戻り、いつものパーカーとカーゴパンツに着替えた。ゲンタの物を見ると思い出して辛くなるので、ずいぶん処分したが、そもそも家自体に、ゲンタとの思い出が多すぎる。
「いってきます」
勇希は家を出た。大宍山の南の麓に建つ生家は、真裏に両親が営むガソリンスタンド、桝谷サービスステーションがある。その敷地を通り抜けようとした時、外国産の高級セダンが止まっているのに気づいた。特徴的な、ゴールドのボディ。
車の脇に勇希の父と、ふくよかな男が立ったまま談笑している。
「いやあ、どこかでぶつけちゃったみたいでねえ。参りましたよ」
突き出た腹を揺らし、悪びれず笑うのは高級車の持ち主、公望蔵之介だ。公望は勇希を見つけると、
「やあ、坊ちゃん。元気かい」
手を振って声をかけた。黙って会釈を返す勇希。ぐっと拳を握る。
「桝谷さんとこの坊ちゃんは、容姿端麗、学業優秀で宜しいですな。うちのバカ息子ときたら、地元の高校はどこも受からんから、遠くの私立で寮生活ですわ。自慢できるもんは腕っ節だけで」
「まあ、勉強がすべてではないですからね」
追従する父に吐き気がする。もちろん父に落ち度はないが、ダメだ。早く立ち去ろう。勇希は歩く速度を上げた。
「そうだ!」
公望は大仰に手を打った。
「今度、うちの全国のお得意さんたちを集めて大きな試乗会をするんです」
「ほう、それは凄いですな」
「たいしたことはありませんよ。でももし良ければ、その時にこちらの宣伝をしておきますよ。ガソリンはもちろん、オイル交換や修理、車検も是非って」
「そいつはどうも。いつもお世話になってばかりで」
「そんな、そんな。うちとお宅の仲じゃないですか」
ちら、と勇希を見ながら笑う公望。いたたまれず勇希が駆け出そうとした時、
「おい勇希。ちょっと、これ」
小走りにやって来た父が、ピンク色のハート柄がプリントされたリードを差し出した。持ち手のあたりにマジックでゲンタ、と書いてある。勇希の字だ。
「壊れたとこ、直しといたからな。もしいつか、また飼いたくなったら、飼っていいんだからな」
受け取ったリードは、確かに、外れていた金具のバネが元どおりになっている。勇希はうつむき、
「……治らない」
「うん? なんだって?」
優しく尋ねる父に、
「死んだゲンタは治らない!」
叫んで、リードを持ったまま駆け出した。山際沿いに県道を走る。雲間から差して来る日差しが眩しい。しばらく走り続けると、巨大な赤い看板が否応なく目に入って来る。
キンモチオートセンター。片仮名のロゴマークの下に、疾走するスポーツカーのシルエット。外国産高級車ばかりを扱う、輸入自動車販売代理店だ。勇希は目を伏せ、なるべく看板を見ないようにしながら左の車道へ駆け込んだ。車でもギリギリ通れる幅。息が切れて来たので走るのをやめ、歩き出す。しばらく登ってから更に左へ、登山道に入った。急勾配。要所要所には人の手で階段が設えられているが、きつい。もう登るのをやめようかと思うぐらいで、不自然に拓けた場所に出た。高い木々に囲まれた空は枝葉に覆われているが、山の頂がほど近いため木洩れ陽が鮮やかだ。
その広場の中央あたり、一番太陽があたる場所に、大人の腰ほどの高さまで石が積まれた台座があり、古い木製の社が祀られている。
勇希とゲンタの、秘密の遊び場。生来、人と争うのが嫌いで、一人でいることが苦にならない勇希は、学校で居場所がなかった。ガソリンスタンドを切り盛りする両親は物心ついた頃からいつも忙しく、勇希の一番の遊び相手は飼っていた柴犬のゲンタ、遊び場所はこの山神の祠だった。
勇希は落ちていた小枝を拾うと、
「持っておいで!」
叫んで投げた。小枝は草むらに落ち、見えなくなった。声に驚いた鳥が慌てて飛びたつ。
「持ってきてよ、ゲンタ……」
目から涙が零れ落ちる。




