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質屋・籠の備忘録  作者: 甲乙イロハ
ギンガムチェックの包み紙
30/82

30

 消毒液や薬品の匂いが漂う廊下を、真由子が歩いていく。

「おう、真由子ちゃん。来てくれてたのか」

 ちょうど売店から出て来た漁師姿の男が声をかけて来た。巧の父親だ。

「こんにちは、おじさん」

「今日はたくさんいいが揚がったんだ。あとで家まで届けとくよ」

「やった! いつもありがとう!」

 手を叩く真由子に、巧の父親は照れ臭そうに太い指で鼻の下をこすると、

「……ほんと、すまねえなあ」

 所在無げに、ねじり鉢巻きをした頭を掻いた。

「巧のバカときたら、こんな可愛い彼女のこと、すっぱり忘れちまいやがったみたいでよ」

「忘れちゃったものは仕方ないわよ。元気なら、それで十分。でしょ?」

「あいつ、誰に似たんだかホント頑固でよ。真由子ちゃんと一緒にここを出ろって言ってるのに……」

「お爺ちゃんが漁を辞めるし、おじさんも歳だし。一人じゃ心配だって言ってたよ。巧」

「あいつ……」

 巧の父親は声を詰まらせ、顔をしかめた。

「おれは情けねえよ。子供に気なんか使わせちまって……」

「ううん。巧は立派よ」

 真由子は首を振った。

「自分で決めた道だもん。わたし、尊敬してるのよ。ここに残るって決めた、巧のこと」

 巧の父親は口を結んでうなずき、洟をすすった。それから、うん、と頷くと、

「これ、一緒に食いな」

 レジ袋に入ったプリン二個を真由子に手渡した。

「あいつ暇そうだから。ゆっくりしてってくれよ」

 そう言い残し、ぶらぶらと中庭へ歩いていった。真由子は脇の階段を上がり、巧のいる病室に入った。個室ではないので、他の患者たちにちらり、あるいはじろり、と見られる。

「ようっ」

 いつものように軽く手を挙げ挨拶する真由子に、

「ああ、小林さん」

 巧は会釈して応えた。

「この前はありがと。助けてくれて」

 ぺこっと頭を下げた真由子に、

「……いいよ。助けたって実感、ないんだ。なんか、体が勝手に動いた感じでさ。なんでか分かんないけど」

 言ってから、巧は照れ臭そうに笑った。巧の父親そっくりのその笑顔は、やっぱり前と何も変わらない。

「これ、お父さんがくれた。ここ置いとくね」

 真由子は巧の父からもらったプリンを、テレビ台の脇に置いた。

「おじさん、甘いもの大好きだもんね。もらっちゃったら悪いわ」

 ふふ、と笑う真由子に、

「親父の好物まで知ってるんだもんなあ。変なのは、おれ……なんだよな?」

 しみじみ言う巧。

「クラスのみんなから聞いたよ。おれ、小林さんと付き合ってたんだよな? 他のことは覚えてるのに、小林さんとのことだけ、全然覚えてないんだ。なんか、むかーし同じクラスになったのは覚えてるんだけど……」

「……不思議だね」

 真由子はベッド脇の丸椅子に腰掛けると、

「わたし、パティシエになるのが夢でさ」

 切り出した。

「卒業したらここを出て、都心の製菓学校へ行くの。専門の学校で勉強したいから」

「へえ……」

 巧は初めて聞いたように、少し眼を見開き、

「で?」

 言った。

「ほんとに何もかも忘れたんだね」

 真由子は笑い、

「……ねえ。巧?」

 巧にしてみれば突然下の名前で呼ばれ、どきっとしたことだろう。そこへ更に、

「つき合って。わたしと」

 言った真由子に、

「なっ、なんだよ、それ」

 戸惑う巧。

「そんな、急に言われても……」

「わたし、巧の笑った顔が好き」

 真由子は微笑んで、続ける。

「なんでも一生懸命に考えるところが好き。勝手に突っ走っちゃうのは困るけど、そこも好き。いつだって、自分より他の誰かを大事にしちゃうところが、大好き」

 矢継ぎ早に告げられ、巧は顔を真っ赤にした。言葉が出ない。

「入院中はどうせヒマでしょ。わたしを好きになる理由でも、考えといてよ」

 立ち上がり、病室を後にした。病院を出て、雨上がりの雲間から日差しがのぞくなか、真由子は歩き出す。

 なにもかも最初に戻ったなら、また一から始めればいい。

 あなたがわたしを忘れても、離ればなれになっても、わたしはやっぱり、あなたが好き。

「とうっ!」

 真由子は軽やかに水たまりを飛び越えた。

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