30
消毒液や薬品の匂いが漂う廊下を、真由子が歩いていく。
「おう、真由子ちゃん。来てくれてたのか」
ちょうど売店から出て来た漁師姿の男が声をかけて来た。巧の父親だ。
「こんにちは、おじさん」
「今日はたくさんいい魚が揚がったんだ。あとで家まで届けとくよ」
「やった! いつもありがとう!」
手を叩く真由子に、巧の父親は照れ臭そうに太い指で鼻の下をこすると、
「……ほんと、すまねえなあ」
所在無げに、ねじり鉢巻きをした頭を掻いた。
「巧のバカときたら、こんな可愛い彼女のこと、すっぱり忘れちまいやがったみたいでよ」
「忘れちゃったものは仕方ないわよ。元気なら、それで十分。でしょ?」
「あいつ、誰に似たんだかホント頑固でよ。真由子ちゃんと一緒に町を出ろって言ってるのに……」
「お爺ちゃんが漁を辞めるし、おじさんも歳だし。一人じゃ心配だって言ってたよ。巧」
「あいつ……」
巧の父親は声を詰まらせ、顔をしかめた。
「おれは情けねえよ。子供に気なんか使わせちまって……」
「ううん。巧は立派よ」
真由子は首を振った。
「自分で決めた道だもん。わたし、尊敬してるのよ。町に残るって決めた、巧のこと」
巧の父親は口を結んでうなずき、洟をすすった。それから、うん、と頷くと、
「これ、一緒に食いな」
レジ袋に入ったプリン二個を真由子に手渡した。
「あいつ暇そうだから。ゆっくりしてってくれよ」
そう言い残し、ぶらぶらと中庭へ歩いていった。真由子は脇の階段を上がり、巧のいる病室に入った。個室ではないので、他の患者たちにちらり、あるいはじろり、と見られる。
「ようっ」
いつものように軽く手を挙げ挨拶する真由子に、
「ああ、小林さん」
巧は会釈して応えた。
「この前はありがと。助けてくれて」
ぺこっと頭を下げた真由子に、
「……いいよ。助けたって実感、ないんだ。なんか、体が勝手に動いた感じでさ。なんでか分かんないけど」
言ってから、巧は照れ臭そうに笑った。巧の父親そっくりのその笑顔は、やっぱり前と何も変わらない。
「これ、お父さんがくれた。ここ置いとくね」
真由子は巧の父からもらったプリンを、テレビ台の脇に置いた。
「おじさん、甘いもの大好きだもんね。もらっちゃったら悪いわ」
ふふ、と笑う真由子に、
「親父の好物まで知ってるんだもんなあ。変なのは、おれ……なんだよな?」
しみじみ言う巧。
「クラスのみんなから聞いたよ。おれ、小林さんと付き合ってたんだよな? 他のことは覚えてるのに、小林さんとのことだけ、全然覚えてないんだ。なんか、むかーし同じクラスになったのは覚えてるんだけど……」
「……不思議だね」
真由子はベッド脇の丸椅子に腰掛けると、
「わたし、パティシエになるのが夢でさ」
切り出した。
「卒業したら町を出て、都心の製菓学校へ行くの。専門の学校で勉強したいから」
「へえ……」
巧は初めて聞いたように、少し眼を見開き、
「で?」
言った。
「ほんとに何もかも忘れたんだね」
真由子は笑い、
「……ねえ。巧?」
巧にしてみれば突然下の名前で呼ばれ、どきっとしたことだろう。そこへ更に、
「つき合って。わたしと」
言った真由子に、
「なっ、なんだよ、それ」
戸惑う巧。
「そんな、急に言われても……」
「わたし、巧の笑った顔が好き」
真由子は微笑んで、続ける。
「なんでも一生懸命に考えるところが好き。勝手に突っ走っちゃうのは困るけど、そこも好き。いつだって、自分より他の誰かを大事にしちゃうところが、大好き」
矢継ぎ早に告げられ、巧は顔を真っ赤にした。言葉が出ない。
「入院中はどうせヒマでしょ。わたしを好きになる理由でも、考えといてよ」
立ち上がり、病室を後にした。病院を出て、雨上がりの雲間から日差しがのぞくなか、真由子は歩き出す。
なにもかも最初に戻ったなら、また一から始めればいい。
あなたがわたしを忘れても、離ればなれになっても、わたしはやっぱり、あなたが好き。
「とうっ!」
真由子は軽やかに水たまりを飛び越えた。




