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「それでは、こちらの契約書の最後、受け取り欄……丙のところにサインを」
キビキがカウンターに置いた紙には、甲が誰だの、乙がどうだの、丙になんだのと、細かな文字で色んなことが書かれている。確かに、乙の欄には、桂木巧と、なじみ深い、くせのある文字でサインがされている。間違いなく、巧の字だ。
「ちょ、ちょっと待って」
当然のようにサインペンを差し出して来るキビキに、
「わたし、受け取れません。こんな大金」
真由子ははっきり言った。相手が強面の大人だったら、そう気が強い方ではない真由子は断れなかったかもしれない。しかし目の前にいるのは、まだ子供だ。
「しかし……」
改めて見れば信じられないほど端正な美少年に、困り顔で見上げられた真由子は、それはそれでたじろぎそうになったが、ぐっと拳を握り、
「要らないものは、要りません! ……いこっ!」
ばか騒ぎを続けるサキとチエの腕を引き、店を後にした。
「またのご来店をお待ちしております」
去り行く真由子の背に頭を垂れるキビキ。名残を惜しむように、ドアの鈴が鳴った。
「変な店だったねー」
名残惜しそうに振り返るサキとチエの手を引き、真由子は帰路を急いだ。
その後はいつも通り、冷たい冬の海風に吹かれながら堤防沿いを歩き、三叉路でサキと、点滅信号でチエと別れ、帰宅した。母は近くのスナックで働いているため、帰りは遅い。どんなに帰りが遅くても、食事はいつもきちんと用意してくれている。
愛娘へ。ハンバーグがレンジにあります。サラダは冷蔵庫。なるべく早く帰ります。
こたつに置かれたメモを流し読みながら、マフラーをほどき、手袋をまとめて端に置く。
ペン立てから適当にペンを、ピンクの蛍光ペンだった、を取り、
親愛なる母へ。無理しないでね。愛娘より。
メモに書き足した。夕飯にするには、少し時間が早い。こたつに潜り込み、スイッチを入れた。じわじわと足元が暖まってくる。真由子はこたつの上に顎を置き、盛大にため息をついた。
(何考えてんのかしら、あいつ)
あの質屋の契約書の署名は、確かに巧の筆跡だった。何度かメッセージカードや手紙でもらったのと、まったく同じ。
(あれから、もう一週間かあ……)
真由子はごろんと頭を横にし、唇を尖らせた。あの時のことを思い出す。
「もし、さ」
いつものように二人で寒がりながら、運動場の隅っこにあるベンチで一緒にお弁当を食べている時、巧が言い出した。今思えば、この時点で、巧はいつもと様子が違った。
「もし、おれたち、今までのこと何もかも忘れても、また今みたいに付き合うのかなあ?」
何を言い出したのか分からず、真由子は首を傾げた。
「だから、もし……もしもの話だけど、今までのことが全部リセットされても、さ。おれたちって……」
「……まわりくどい」
箸を止め、真由子は巧を見た。血の気が引いていくのが自分でも分かる。
「別れたいの? そうなんでしょ? わたしがこの町を出て行くから」
「そうじゃねえよ。そうじゃなくて……」
怒って唇を尖らせる巧。
「わたしが巧を捨てて行くんだって、怒ってるのよね?」
「おれ、別れたいなんて一言も言ってないだろ。ただ……」
弁明しようとする巧を、
「わかんないわよ、そんなの!」
真由子は遮った。
「今まで二人で積み重ねて来たこと、なにもかも全部なかったことになったら、どうなるかなんて分からない。わたしが巧を好きになるかなんて分からない! だいたい、巧がわたしを好きになるかも分からないじゃん!」
「おれはまた、きっと、真由子を好きになる。だから、もしおれが何もかも忘れても……」
辛抱強く何かを伝えようとする巧を振り切り、真由子は立ち上がった。
「遠距離恋愛なんて無理だって、そう思うなら、そう言えばいいじゃん!」
「違うんだって! 聞いてくれよ!」
「もういい! わけわかんないこと言って、ごまかさないでっ!」
蓋の開いた弁当を抱えたまま、クラスへ逃げ帰った。戻るなり、大声で泣いた。みんな、びっくりしてたっけ。その時のことを思い出すと、顔から火が出そうだ。
(まあいいや。明日、聞こう。仲直りのきっかけにできるかも)
あれから巧とは一週間、一言も会話をしていない。あっちから話しかけてくるまでは、と意地を張ってきてみたが、もう疲れた。付き合い続けるにせよ、続けないにせよ、はっきりさせなくちゃいけない。自分のためにも、巧のためにも。
どっちみち、二人でいられる時間はもう、そんなに残っていないのだから。




