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質屋・籠の備忘録  作者: 甲乙イロハ
婚約指環
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「子供の頃から……いや。出会ったあの日から、ずっとだ。宮廷のガキどもはみんな、汗水垂らして働く親父や仲間たち……俺を見下してた。臭い、暑苦しい、汚い、むさ苦しいって……。だけどおまえだけが、俺たちのことを分かってくれた。だから……」


 蛮鷹の言葉が途切れた。その手を、燕姫のふっくらとした両の掌がやわらかく包んでいる。


「なぜ、わたくしが屈辱的な政略結婚を受け入れたのか……知っていますか?」


 間近で燕姫に見つめられた蛮鷹は、頭を振るのが精一杯だ。


「わたくしが嫁ぐ決心をしたのは、蛮鷹、あなたを戦に行かせたくなかったから。誰かに殺されたりはもちろん、あなたに誰かを殺してほしくなかったから」

「お、おまえ……」


 息を呑む蛮鷹。燕姫は目に光るものを浮かべながら、


「……蛮鷹。これ以上ない餞別です。もはや思い残すことはありません」


 頬を赤らめ、微笑んだ。


「燕」


 蛮鷹が言った。子供の頃のあの日以来で名のみを呼ばれた燕姫は目を丸くした。


「一緒に逃げよう。俺と、どこかへ」

「だ、だめです。わたくしが嫁がねば、帝国と戦になってしまいます。むしろ帝国はそれこそが真の狙い……」

「燕が嫁いだら、絶対に戦にならねえのか?」

「それは……わかりませんが……」

「言っとくが、俺は燕が暮らす国となんか、戦えねえ。戦なんざ、やりたい奴らにやらせときゃいいんだ!」

「蛮鷹……」

「行こう、燕!」

「で、ですが……」


 燕姫は頭を振る。


「やっぱり行けません。それは間違った道です。一国を預かる家の者として許されない、あまりに身勝手な道……」

「どんな道を行こうが、どうせ何かに苦しむんだ。それなら俺は、いま俺が、一番後悔しない道を選びたい。それは、おまえと一緒に生きるって道だ」


 蛮鷹の言葉に、迷う燕姫。


「おまえは、どうなんだ?」


 まっすぐ見つめてくる蛮鷹の眼差し。しばしの沈黙のあと、


「……わかりました」


 燕姫は心を決めた。


「一番悔いがないのは今のこの気持ちに殉ずること。ともに行きましょう」


 力強くうなずいた燕姫に、蛮鷹は大きな口を横に伸ばし、向日葵のように笑う。


「そうと決まれば」


 手をつないだまま、カウンターに飛びついた。


「なあ、あんた」


 淹れたての紅茶を啜りながら、革表紙の本を読んでいたキビキが視線を上げる。


「なんでしょう?」

「こいつはこの国の第一王女……つまり、この〈八雷〉の正当な持ち主って訳だ」


 キビキは本を閉じて脇に置くと、片眼鏡をかけて、ダイヤと燕姫を見比べた。


「……なるほど、確かに権利がないわけでは……」

「な、いいだろ?」

「なにがでしょうか?」

「いや、だから、このダイヤを質入れするから金を工面してくれよ」

「それは……」


 キビキが言い終えるより早く、


「だめです!」


 目を吊り上げ燕姫が叫んだ。


「これは国宝、しかもすでに帝国への献上品になると決まっています。これを我々が独断で売り払うことなど決して赦されません」


「まったく。お姫様は、これだから……」


 しわを寄せた眉間を掻く蛮鷹。


「いいか、燕。世の中、なにをするにも金がいるんだ。金があればそれでいいってわけじゃねえが、金がなきゃ生きていけねえんだよ」

「わたくしが世間知らずなのは認めます。それでも、今、この国宝まで失われれば、わたくしだけでなく、父上と、この国にまで汚名が及びます。蛮鷹、お願いだから……」


 今にも泣き出しそうな顔で、蛮鷹に懇願する燕姫。誰も入り込めない二人の世界に、


「お取り込み中、おそれいりますが」


 キビキが割って入った。


「たしかに、そちらのお客さまはこのお品の所有者の一人でいらっしゃいますが、あなた同様、お品に対する執着心や思い入れが全くございません。この品自体は、将来たいへん有望ではございますが、現時点では、当店でお預かりすることはできかねます」

「買い取れねえってことか?」

「はい」


 素っ気ないキビキに、蛮鷹が手を合わせる。


「頼むよ、なあ。ちょっとだけでいいから」

「だめです。お引き取りください」

「思い入れのある品物が必要なのですね」


 燕姫が言った。


「わたくしが大切に思っている物なら良いのですか?」


 うなずくキビキ。燕姫は首の後ろに指を回し、胸に下げていたロケットを外した。王国の紋章が細やかに象眼されている。興味をひかれたキビキが片眉を上げた。


「おまえ、それ……」


 驚く蛮鷹に、うなずく燕姫。


「ええ。大切な、母上の形見。だけど、もっと大切なのは……」


 燕姫がロケットの金具を指で押し、蓋を開けた。中には小さな、金属の輪っかが入っている。最初は不審げに眉をひそめた蛮鷹の、その眼がみるみる開かれる。


「これが、わたくしの一番の宝物です」


 燕姫が指先でつまみ、差し出したのは、鉄でできた、細い、しかし太さが均一でなく、なんとも不格好な、指環だった。


「鍛治修行を始めた蛮鷹が、お父様からもらった鎚で打ち、わたくしにくれたのです」

「拝見します」


 鉄の指環を受け取り、じっと見つめるキビキ。しばらくして、


「承知しました」


 そう言うと、キビキは備え付けの引き出しを開け、金貨を四枚取り出しカウンターに置いた。


「こんなに……?」


 驚く蛮鷹。


「ロケットが金貨一枚。指環が金貨三枚です。宜しいですか?」

「……どうする? 金貨三枚もありゃ、しばらく暮らせる。母ちゃんの形見はやめとくか?」


 気遣わしげに蛮鷹は言ったが、燕姫は頭を振った。


「いいえ。今までこの二つはわたくしの最高の宝物でしたが、これからは蛮鷹、あなたがそばにいてくれますから」

「燕……」

「いてくれるのですよね?」

「……おうっ!」


 蛮鷹は力強く応え、燕姫を抱きしめた。


「こちらのダイヤモンドはどうなさいますか?」

「悪いけど、あんた、城へ返しといてくれねえか?」

「お断り致します」

「なあ、頼むよ。落ちてたのを拾ったとか、そこは適当にさ」

「お断り致します」

「やってくれたら、いつかきっと恩返しするからよ」

「お断り致します」

「話、聞いてただろ? 宝石泥棒で御用になってる俺が、のこのこ返しに行くわけにはいかねえんだよ」

「お断り致します」


 困り顔で蛮鷹は頼み込むが、キビキは鮸膠にべも無い。


「では、わたくしが返してきます」

「だ、だめだっ!」

「なぜです?」


 顔を上げた燕姫と、蛮鷹の視線がぶつかる。


「絶対だめだ! 城にはあの馬鹿皇子がおまえを迎えに来てるじゃねえか。さっきのノロマな手下ども以外にも、すげえ数の兵がいる。戻ったら、おまえ、二度と……」


 まくしたてる蛮鷹を見て、燕姫はくすくす笑う。


「落ち着きなさい。大丈夫です。まだ誰も、わたくしたちのことは知りません。今までと同じように、また抜け出してきますから」

「じゃ、じゃあ俺もついていく」

「途中までね。〈八雷〉を盗み出したあなたと一緒の方が、よっぽど危険ですわ」


 不満げに唇を尖らせる蛮鷹を、燕姫は愛しげに見つめる。


「お話はついたご様子ですね」


 キビキが言う。


「それでは、このお品は質草とし、当店でお預かり致します。月に元本の一割、今回は金貨四枚を融通しておりますので、銀貨四十枚をお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、サインを」


 差し出された契約書には細かな文字で色々なことが書かれていた。文字の読み書きが怪しい蛮鷹は顔をしかめたまま読みもせず、燕姫は文字こそ読めるものの書いてある意味がほとんど分からなかったため、ほとんど字面だけをなぞり読み、文末にサインを記した。


 蛮燕、と。

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