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蝉がないている。
真上から照りつける、陽光に蒸されたアスファルトを、くたびれた焦げ茶色の革靴で踏みしめ、とぼとぼ歩いていく男。その半袖シャツには汗がにじみ、地味で無難な色柄のネクタイ同様、鼠色のスーツのズボンもよれよれだ。
絵に描いたような、うだつの上がらぬ中年サラリーマン。
男は、やはり相応のため息を吐き、両手で抱えた黒電話を見下ろした。一昔前までは、どこの家庭にもあった、ダイヤル式の黒電話だ。今となっては懐かしのレトロ家電。年齢を重ねるほど、時代の移ろいは早くなる。
「ぜんぶ本物なのに、百円ですって!?」
酒焼けした女の声に耳をつんざかれ、男はハッと顔を上げた。見れば、右手の平屋に見慣れない看板が上がっている。
「……質屋?」
質一文字を円で囲っただけのシンプルな図柄だが、長年雨風に晒されてきたのだろう、それなりに歴史を感じさせる、古びた一枚板の看板だ。
「こんなとこに……」
質屋なんかあっただろうか? 男が昔々のおぼろげな記憶を辿っていると、
「は? なによそれっ! 失礼な店ねっ!」
男の目の前で質屋のドアが荒々しく開き、
「もういいわよ、他の店にいくからっ!」
激しい鈴の音と共に、中から派手な化粧をした、キャバ嬢らしき女が飛び出してきた。男はとっさに避けたが、足がもつれ、転んだ。
「いったたた……」
両手が塞がっていたため、左肘と腰を地面にしたたかに打ち付けてしまった。痛みに呻きながら、男は抱えた黒電話が無事だったことに、ほっと安堵の息を吐く。ヒールの音も高らかに憤然と、男に謝罪する素振りすら見せず立ち去っていく女の後ろ姿に、文句の一つも言って然るべきところだが、
「偽物……だったのかな?」
女が肩から下げた幾つもの同じ形、同じ色のブランド品のバッグを眺め、男は言った。最近は偽物も造りが精巧になってきていて、プロでもない限り見分けるのが難しくなっているとか……
「本物ですよ」
「ひっ……!」
不意に頭上から声をかけられ、男は文字通り飛び上がった。あわてて振り返った男に、
「本物のヴォルチェのバッグ。最新の、人気モデルです」
すらすら言ったのは、漆黒のスーツを着た少年だった。
「カラーも一番人気の赤。三つとも、最初から売る目的で、客からせしめたようですね。ある意味、不景気なのか……最近は、ああいう方が多くって……」
少年は、妙に大人びた苦笑をもらした。色白で、線が細いため、声が低くなければ少女かと思っただろう。長めに切り揃えられた艶やかな墨色の髪に、ややつり目がちな紫の瞳は年齢不相応に静謐で、貫禄さえ感じさせる。
「客全員に同じバッグを買ってもらえば、一つだけ残して他を全部売り飛ばしても、買ってもらった客全員に『あなたに買ってもらったバッグを使ってるのよ』と見せかけられるって寸法らしいです」
「……はあ」
ため息とも返事とも判別つかない声を返し、男はのろのろと立ち上がった。ズボンについた砂埃を払い、足を踏み出す。
「当店になにかご用だったのでは?」
この質屋の関係者らしい少年に問われ、男は頭を振った。あんな本物のブランドものでさえ、二束三文と評される店だ。こんな黒電話など持ち込めば、何を言われるか分かったものではない。さきほど入った、商店街のアンティークショップで同年代の店員に言われた言葉が脳裏によみがえる。
(こんなガラクタ、一円の価値もないね)
有名な国民的長寿アニメで描かれている黒電話のモデルになった品であれば高値で売れる。ネットの噂に一縷の望みを託してみたのだが、結果は散々。汗と恥をかいただけで終わった。
「質草はそちらですか?」
男が抱える黒電話を見下ろし、少年は言った。
「で、でも、これはただの古い電話で……本当に、ただの……」
無価値な黒電話だ。そう言おうとした男に、
「良かったら無料鑑定だけでもいかがですか? 意外な価値があるかもしれませんよ」
少年はにっこり微笑んだ。
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