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8 裕福な平民お嬢様は、今日もミートパイを焼きます。

 フェリシアが調理室の隅を借りてバターを刻みながら小麦粉と混ぜていると、メイドのエイダが林檎を山盛りにしたかごを抱えて来た。真っ赤で小ぶりな林檎は、お菓子用の少し酸っぱい品種だ。


「お嬢様、今日はアップルパイにしましょうよ」

「でも、もうフィリングは作ってしまったのよ」

「それは、フレディにオムレツにしてもらったらいいですよ」

「エイダ、甘いものが食べたいのね?」

「違います、ミートパイに飽きたんです」


 林檎のかごを胸の前に抱えたままでエイダがあからさまに、もうミートパイはうんざりですという顔をする。その顔がなんだかおかしくてフェリシアは、まとまってきた生地を今度は手で捏ねながらクスクスと笑った。


「お嬢様、もうミートパイはお店で売れるくらいの出来ですよ」

「そう?」

「ええ、これ以上練習して更においしくなったら、ブライアン様のほっぺたが落ちちゃいます」

「ふふふ、そうだといいんだけど」

「ですから、次はアップルパイですよ。ブライアン様だってきっとアップルパイがお好きですって」

「でも、男の人は甘いお菓子よりもお肉が好きだってフレディが言っていたわよ」

「それは、フレディが肉好きなだけですってば」


 フレディとは、オズバーン家で雇っている料理人だ。料理はもちろん、お菓子作りも上手くて何でも美味しく作るので、最近ではフェリシアの師匠になってもらっている。

 そのフレディが言っていたのだ、男は肉だと。肉が嫌いな男なんていない。若い男ならなおさら肉、とにかく肉。肉さえ与えておけば間違いないと、拳を握って力説していた。


「でもブライアン様も、野菜を挟んだサンドイッチよりもローストビーフサンドの方がお好きみたいだったわ」

「そりゃあ、ブライアン様は育ち盛りですから」

「だったら、やっぱりミートパイじゃない?」

「だから、もうミートパイは練習する必要ないですってば」


 喋りながらもフェリシアの手は、どんどんと生地をまとめていく。パイ作りを始めたばかりの頃は、この生地をまとめる作業に手間取ったものだけれど、今では手慣れたもので見る見るうちにまとまっていく。一塊にまとまったら、次は表面が乾かないように布に包む。布に包んだ状態で、涼しいところでしばらく休ませるのだ。


「だったらこの生地は、アップルパイにしましょうか」

「そうですそうです、それがいいです」

「それじゃあエイダ、ミートパイがそろそろ焼きあがるからオーブンを見て来てもらえる?」

「え?」

「これは、夕食後のデザートの分。午後のお茶の分は、とっくにオーブンの中よ」

「お嬢様ぁー」


 いつもならパイの練習は一日に一皿なのだけれど、今日は久しぶりに兄のカイルが帰って来ると聞いているので、食べてもらおうと思ってもう一皿準備していたのだ。帰りは夕方頃になるらしいから、夕食後のデザートなら確かにミートパイよりアップルパイの方がいいかもしれない。用意していたミートフィリングは、エイダが言う通りにフレディに渡してオムレツにしてもらおう。


「お嬢様、エイダを騙しましたね」

「別に騙してないわよ、休ませている生地は本当にアップルパイにするもの」

「夕食のデザートでは、エイダは食べられないじゃないですか」

「残った分をエイダにあげるように、フレディに頼んでおくわよ」

「残りません、きっとカイル様が全部食べてしまいます。お嬢様がお作りになったパイをカイル様がお残しになる筈ありません」

「お父様と私が一切れずつ食べても、残りはかなりあるわよ?」

「カイル様が絶対に全部召し上がります、賭けてもいいです」


 場所を移してフェリシアの部屋で、文句を言いながらもエイダは、お茶を淹れて焼きたてのミートパイを切り分けてくれる。フェリシアが味見もかねて午後のお茶で一切れ食べて、残りは使用人の誰かに食べてもらうのだけれど、エイダはそれを必ず毎日食べているらしい。


「飽きたのなら、食べなければいいのに」

「そういう訳にはまいりません、エイダはフェリシアお嬢様の専属メイドですから」

「専属メイドだからって、私が作った物を必ず食べなければならないなんてことはないのよ」

「義務ではありません、特権です。エイダには、お嬢様がお作りになったお菓子を食べる権利があるのです」

「食べたくないのでしょう?」

「そんなことは、言っておりません」


 オズバーン家の使用人は、それなりの人数がいる。もちろん貴族の屋敷に勤める使用人の数とは比べるべくもないが、平民の家にしたらかなり多いだろう。ここのところ毎日フェリシアがミートパイを焼いているが、オズバーン家であればパイの一皿ぐらいは食べる口に困ることはないのだ。


「だったら、ここで一緒に食べましょうよ」


 フェリシアが向かいの席を手で示すと、エイダの口の端がピクピクと動いた。お茶に誘ってもらって嬉しいのだけれど、その嬉しさを必死で隠している顔だ。


 それこそ貴族では考えられないことだろうけれど、平民であるオズバーン家ではそこまで主従の垣根は高くないので、フェリシアはよくこんな風にエイダを一緒にお茶を飲もうと誘う。本当なら毎日でもフェリシアはいいのだけれど、エイダには他にも仕事があるし、さぼっていると叱られてしまったらエイダが可哀そうなので、毎日誘うのは控えているのだ。

 フェリシア付きのメイドになって長いエイダは、フェリシアにとって使用人というよりも頼りになる姉のような存在だ。しっかり者のエイダはいつも冷静な態度でフェリシアを支えてくれるのだけれど、実はエイダはかなりの食いしん坊で、特にお菓子のことになると途端に子供っぽくなってしまうところがある。


 テーブルの上には、ミートパイの他にフレディが作ったショートブレッドと、真ん中に赤いジャムを飾ったクッキーも用意されている。いそいそと自分用のお茶を淹れるエイダにフェリシアは、口の端をピクピクさせながらも吹き出すのは何とかこらえた。


「やっぱりもう練習しなくていいですよ、お店で売ってるのより美味しいです」


 飽きたと言いながらも美味しい物はやはり美味しいらしく、ミートパイを口に入れたエイダが幸せそうな顔をした。


「美味しく出来てる?」

「完璧です」


 フェリシアも一口食べてみると、我ながら美味しく出来たと思う。今日のは黒胡椒を利かせてみたのだけれど、それもいい感じだ。これならば、気に入ってもらえそうな気がする。


「早く、ブライアン様に召し上がっていただけたらいいですね」


 一口食べただけでフォークを止めてしまったフェリシアに、エイダが優しい声をかけた。何も言わなくてもエイダには、フェリシアが誰のことを考えているかなんてお見通しなのだった。

 悪質な風邪の流行により王立学園が休校になってしまってから、もう半月が過ぎた。学園が休みになれば付属図書館も休みになってしまって、つまりフェリシアはブライアンに会えなくなってしまったのだ。

 最近では放課後だけでなく昼休みにも会えていたので、それが突然、全く会えなくなってしまったのは辛い。少しずつ仲良くなってきていただけに、会えない日を一日、また一日と積み上げていくのは不安でしかない。

 ブライアンがフェリシアを忘れてしまうことなどないだろうけれど、存在は確実に薄れていくだろう。これがもしも心を通じ合わせた恋人であれば、半月ぐらい会えなくとも不安になったりしないのだけれど、フェリシアはブライアンにとって、よくて友人、もしかしたら単なる知人程度にしか思われてないかもしれないのだ。

 以前オズバーン百貨店で偶然会えたように、街を歩けばもしかして会えるかもしれないと思うけれど、フェリシアは父から外出禁止を言い渡されている。オズバーン商会でさえ薬を入荷できないでいる今は、もしフェリシアがうかつにも街に出かけて風邪を貰って来てしまったら家中の迷惑になる。フェリシアが苦しむだけならまだしも、きっと看病してくれるだろうエイダにもしうつってしまうかもしれない。エイダだけではない、他の使用人たちや、家族にだってうつってしまうかもしれない。

 風邪で命を落とす人が増えて来ていると、数日前に父が夕食の席で言っていた。半月前からずっと家に閉じこもっているフェリシアにはわからないが、いつもは賑やかな街が閑散としているとも。店の仕入れも滞りがちで、商品が並んでいない棚も出始めているとか。売り子たちも風邪で休みを取る者が増えていて、このままでは店を一時的に休業にせざるおえなくなるかもしれないと父が珍しくため息をついていた。


 こんな時だからこそ百貨店は開いていなくてはならないのに、商品が足りない、売り子も足りないではどうしようもない、本当に情けないことだ。


 そんな風にぼやきながら、家族以外には絶対に見せない弱り顔を愛娘に見せてた数日前の父にフェリシアは、無理をしないで、体にだけは気を付けてと、ありきたりなことしか言えなかった。仕入れを担当している母と兄は年中、ほとんど家にはいないけれど、店を取り仕切っている父だけは家にいて、毎日店に出勤しているのだ。


 悪質な風邪が大流行している街中に建っている百貨店に、毎日。

 使用人たちだって、住み込みの数人以外は街にある自宅から通って来ている。

 本当に、誰がいつ倒れてもおかしくないのだ。


 こんな時なのに、いやこんな時だからこそ、安全な家の中で一人守られているフェリシアが街に行きたいなんて言える筈がない。それに彼だってきっと家に閉じこもっているだろう、貴族の令息が感染の危険をおかす筈がない。


「はちみつワッフル……」


 ポロック広場のベンチで彼と並んで食べた、あのワッフル。とても美味しかった……ううん、実は舞い上がっていたので正直なところ味なんてよくわからなかったのだけれど、ものすごく美味しかった気がする。もう一度食べたい、この流行が終われば食べられるだろうか。


「ワッフルですか?いいですね、今度はワッフルの練習をしますか」


 とっくにミートパイは食べ終えてしまったエイダがショートブレッドをかじりながら、満面の笑顔を見せる。ぺろりと平らげたけれど、どうやら本当にミートパイには飽きているようだ。

 だけど確かに、ワッフルの練習をするのはいいかもしれない。エイダが言う通りミートパイは、自分でもなかなか上手く焼けるようになったと思うし、外に出られない今のうちにレパートリーを増やしておくのは悪くない。

 それにあの店のはちみつワッフルは、彼の好物なのだろうと思う。寒い日だったのに外に食べに行こうと誘われたのだから、きっと彼のお気に入りの筈だ。


「ワッフルの焼き型って、うちにあったかしら?」

「どうでしょう、フレディに訊いておきますね」


 あの独特なハチの巣型のお菓子は、専用の焼き型がなければ焼けないだろう。フレディがおやつにワッフルを焼いてくれた記憶はないから、ないのかもしれない。


「何、ワッフルの焼き型が欲しいの?」


 突然、後ろから声がして、フェリシアは振り向いた。ベージュのロングコートを着た、亜麻色の髪の背の高い男が立っている。


「カイル兄さま!」


 フェリシアは立ち上がると、勢いよくカイルに抱き着いた。いつものことだからかカイルは余裕で受け止めて、フェリシアの髪を愛おしそうに撫でる。


「おかえりなさい」

「ただいま」

「早かったのね、もっと遅くなるって聞いていたわ」

「フェリシアに早く会いたくて、急いで帰って来たんだよ」


 仲のいい兄妹をエイダは、遠慮なくべりっと音がしそうな勢いで剥がした。外から帰って来たままの、コートさえまだ脱いでいないカイルをじろっと睨む。


「僭越ながらカイル様、お着換えをなさって、手洗いうがいを済ませてからいらしてください」


 お茶の用意をしておきますからと言われて、カイルはすまないと素直に謝った。巷でたちの悪い風邪が流行っているのだから、エイダが言うことはもっともなのだ。


「着替えて来るよ」

「あ、兄さま」


 着替えのため自室に向かおうと背を向けたカイルをフェリシアが呼び止めた。足をとめて振り向いたカイルにフェリシアは今、一番気になっていたことを聞いた。


「兄さま、お薬は仕入れられましたか?」

「いや、ゴドリッチ王国まで足をのばしたけど駄目だった。ゴドリッチもファーニヴァルと同じで、風邪が大流行している。すでに薬の在庫は底をついているそうだよ」

「そうなの……」

「ああ、クライネフ薬はおろか、普通の風邪薬も手に入らなかった」


 街では、人がバタバタと死んでいるらしい。普通の風邪ならば、ここまで死者はでない。やはり今、流行っているのはクライネフ風邪なのだ。いつもは国内の仕入れを担当している兄が隣国まで行ったけれど、薬は手に入らなかったらしい。


「少しだけど、咳止めと熱さましは仕入れて来たよ。焼け石に水かもしれないけど」

「お疲れ様でした、カイル兄さま」

「フェリシアの顔を見たら、疲れなんて吹っ飛んだよ」


 ゴドリッチ王国まで行ったのなら兄は、十日以上を馬車に揺られ帰って来たところなのだ。いくら旅慣れているとはいえ、疲れていない筈がない。

 テーブルの上を指さしてフェリシアは、にっこりと笑って見せた。


「このミートパイ、私が焼いたのよ」

「それは絶対に食べなきゃ、すぐに着替えて来るから置いておいて」


 今度こそ部屋を出て行った兄の背を見送ってから、フェリシアは苦い息を吐き出した。

 わかっている、自分の考えがいかに身勝手かということを。

 クライネフ風邪の大流行のせいで、街の人々は苦しんでいる。兄だって、人々を何とか助けたいとゴドリッチ王国まで行ったのだ。

 それに対してフェリシアは、安全な屋敷の中でぬくぬくと過ごしていただけだ。優しい父と、優しい使用人たちに囲まれて、それに兄だって無事に帰って来てくれた。

 こんなに恵まれているのに、溜息なんてついている。


 だけど、この流行が治まらなければ王立学園が再開しない。

 ということはつまり、彼に会えない。


 今は大変な時期なのだからそんな自分勝手なことを考えてはいけないと思うのに、フェリシアが作ったサンドイッチを食べておいしいよと言ってくれたブライアンの顔が頭に浮かんでしまって。


「お茶を淹れてまいりますね」


 エイダがフェリシアの背中をあやすようにポンポンっと二回たたいてから、ポットをのせたトレイを持って出て行った。お嬢様は何も悪くありませんよと、言われたような気がした。


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