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5 見た目詐欺没落令息は、寒風吹き抜ける中庭で美味しい昼食を頂きます。

 ドサッと、自分の体が床に転がった音をブライアンは、どこか他人事のように聞いた。実際に打ちつけた右半身、特に右肘のあたりが痛いのだけれど、それさえも何だか現実のことではないような気がしたのだ。

 学園の廊下でのことだ。前の授業を終え、教室を出て数歩ばかり歩いたところで左の腰のあたりに衝撃を受けて軽く飛んだ。前方不注意の誰かにうっかりぶつかられたとか、そういう感じではない。犯行の瞬間は見てはいなかったが、左後ろから明らかな悪意でもって蹴られたのだろう。


「なんだ、いたのか。気づかなかった、悪いな」


 ニタニタと笑いながらそんなことを言う背の高い赤毛の同級生は、ほんの少しも悪いなんて思っていないことが丸わかりな顔でブライアンを見下ろしている。あまりに幼稚な嫌がらせに怒る気にもなれずにブライアンは、黙って立ち上がった。

 とりあえず気になるのは、制服が破れていないかどうかだ。すばやく確認すると、埃で白く汚れてはいるが破れなどは見当たらない。強かに打ちつけたであろう右肘のあたりも大丈夫そうだ。


「おい、ファラー。何とか言えよ。謝っているのに、黙って行くとかどういう了見だよ」


 そのまま立ち去ろうとしたブライアンの前に回り込んで立ちふさがった赤毛の同級生、セザール・ガードナーが口の端を引き上げた。笑っているように見えなくもないが、その灰色の瞳は少しも笑っていない。


「怪我はない、気にしなくていい」

「誰が気にするかよ、ふざけんな!」


 別にふざけていなければ、ふざけるつもりもない。ただ、面倒くさいだけだ。こういう輩は、相手をすればするだけ面倒なことになるし、だからと言って無視しても面倒になるところが本当に面倒くさい。

 ブライアンは、軽く息を吐いた。

 ファラー家が没落していることは、この学園に通う者なら大抵知っているだろう。馬車を使わず、自分の足で歩いて通っている者などブライアンの他にはいないし、それ以前に貴族というものは噂好きだ。どこそこの家が屋敷を手放すほど困窮しているなんて、茶を飲みながら話すのにうってつけな話題なのだ。

 貧乏人は、虐げていいなんて誰が決めたのだろう。貧乏だろうが金持ちだろうが同じ人間なのだから傷つけていい理由にはならないと思うのだが、そのあたりを説いてもセザールの耳には入りそうにない。


「だったら、どう答えればいいんだ」


 謝っているのに黙って行くとはどういう了見かと言われたから、気にするなと答えた。だが、それではセザールのお気に召さないらしい。品性下劣とまでは言わないが、あまり心根のよろしくないセザールのようなタイプの人間はどこにでも一定数はいるのだろうが、だからと言って自分の周りにいて欲しいものではない。

 ブライアンにしてみれば、どう頑張っても分かり合えそうにないセザールに時間を割くのが惜しいのだけれど、そう正直に言ってみたところで早く解放されるわけではないので、ここは適当に受け流すしかないのだろう。


「お前、目障りなんだよ。早く退学しろよ」

「この学園に通うことは、貴族の義務だ。退学したくてもできないことぐらい、知っているだろう?」


 ブライアンが王立学園に通っていることは、ファラー家の慎ましい財産にとって大きな負担だ。ブライアンだって出来ることならさっさと退学して、働いて金を稼ぎたい。

 だけど、両親には爵位が大切なものであるらしい。

 ブライアンの口から、そんな銅貨一枚にもならないものは王家に返上してしまおうなんて、言いたくても言えないのだ。

 それに、中途退学しても入学時に納めた授業料は戻って来ない。おまけに、王立学園を中途退学したとなれば、まともな就職先があるかどうか不安でもある。卒業さえすればそれなりの職につけることを考えれば、あと一年と少しぐらいは頑張れるというものだ。


「食堂で昼飯を食う金もないやつが貴族とか、笑わせるね。ファラー小伯爵様は、本日はどこで昼食をお取りになるんですかぁ?」

「答える必要を感じないな」

「なんだと……伯爵様は、子爵風情には口もきけないとでも言うのか?」


 本当に答える必要を感じなかったからそう言ったまでなのだが、この返答もセザールは気に入らなかったらしい。もっとも、ブライアンがどう答えようが結局は、セザールは気に入らないのだろうが。


「今、まさに口をきいていると思うけど?」


 ブライアンにしてみれば、ごく普通に受け答えをしているつもりなのだが、どうにもセザールの神経を逆撫でしてしまうらしい。この野郎とか何とか口の中で呟いたセザールが、握った拳を振り上げた。

 飛んで来た拳をブライアンは、半歩だけ下がることで簡単に避けた。剣の腕にはまるで自信がないが、これでも反射神経は悪くないのだ。あんな大振りのパンチなら、避けるだけなら簡単だ。


「おい、セザール!殴るのは、さすがにまずいって」


 ブライアンに避けられて体勢を大きく崩したセザールは、だけどそれで余計に腹が立ったのか、顔を真っ赤にしてまたもや腕を振り上げた。その腕に両手で抱きつくように止めたのは、最初からずっと静観していたセザールとは従弟の関係にあるもう一人の同級生のニコラス・ピンコットだ。

 ここまでセザールが暴言を吐くのを何も言わずに眺めていただけなのに、手を出した途端に止めたのはブライアンが伯爵家の令息であるのに対して、セザールが子爵家の令息だからだろう。

 貴族社会は、階級社会だ。いくら没落していても、伯爵家は子爵家より上の身分なのだ。暴言程度なら何とでも誤魔化せるが、怪我をさせたらさすがにまずい。


「この貧乏人が!いい就職先を紹介してやるよ、娼館に行け。そのおきれいな顔で稼いで来いよ、昼食代くらい簡単に稼げるぞ」

「やめろって!悪い、ファラー。行ってくれ」


 ニコラスに羽交い締めにされても、セザールは大声で暴言を吐き続けた。人が集まりだして焦ったニコラスがもう一度、早く行ってくれと叫ぶ。


「ブライアン」


 名前を呼ばれて振り向くと、ロンが苦笑いを浮かべて立っていた。行こうと言われて、素直に従う。セザールはまだ聞くに堪えない言葉を喚き続けていたが、ブライアンが去ればそのうち静まるだろう。


「セザールの婚約者、ブライアンのファンなんだってさ」

「何だよ、それ。ファン?」

「ブライアンは、少しは自分が格好いいってことを自覚した方がいい」

「貧乏だけど?」

「だからこの程度で済んでるんだよ。もしファラー家が裕福な伯爵家だったら、婚約の申し込みが殺到してるって」

「あー……」


 ブライアンだって、自分の見た目がそれなりにいいということぐらいは自覚している。しかし、それが何だと言うのか。顔がいくら良くても貧乏に変わりはないわけで。


「あ、いや、顔で稼げるのか」

「え、何?」

「いや、何でもない」


 並んで歩く人のいい親友にブライアンは、誤魔化すように笑って見せた。さっきセザールに言われた娼館に行けという言葉に、なるほどその手があったかと思ったのは内緒だ。

 手っ取り早く大金を稼ぐのは、正攻法では無理だろうと思っていた。さすがに法を犯すわけにはいかないのでそこが悩みどころだったわけだが、娼館で男娼として働くなら合法かつ、手っ取り早い。

 幸いなことにと言っていいのかどうかわからないけれどブライアンは男であるので、貴族令嬢たちのようなガチガチの貞操観念などは持ち合わせていないし、見た目はいいらしいから結構稼げるのではないかと、そう思ってしまったのだ。

 もっともそれは最後の手段であって、今のところ使う予定はない。ブライアンだって出来れば男娼にはなりたくないし、親を悲しませるのも辛い。

 それに親以外にもう一人、ブライアンがそんなことをしたら確実に悲しむであろう顔が思い浮かぶ。

 いや、軽蔑されるだけだろうか。

 いやいや、やはり泣かれそうな気がする。


「ブライアン、今日もランチは図書館か?」

「ああ、そのつもりだ」

「たまになら奢ってやれるぞ、それくらいの小遣いはもらっているからさ」

「いいよ、小遣いは貯めておいた方がいい。何かあった時に、金があるかないかは大きな差だ」

「まあなぁ、確かにその通りなんだよな。俺の場合はいつ家を追い出されるか、わかんねぇしなぁ」


 長男でありながらも正妻の子ではないロンは、家で肩身の狭い思いをしているのだ。伯爵家の令息としての面子を保てるだけの扱いは受けているようだが、それは必要最低限のものであるらしい。誰の子供に生まれるかを選べるわけではないのだからロンに罪はないだろうに、それでも人というものはより見下しやすい者を見下す。

 非嫡出子とか、貧乏人とか。

 理不尽極まりないことではあるが、これも人間という生物の生態の一つなのだろうからどうしようもない。


「じゃあ、行くよ」

「わかった、また後でな」


 食堂に向かうロンと別れて、ブライアンは校舎を出るべく足を速めた。図書館は、王立学園の広い敷地の端にある。昼休みはそれなりに長く時間が取られているが、それでも急がなければゆっくりと昼食を楽しめなくなるのだ。

 少し前までブライアンは母が焼いたパンを家から持参して、校舎裏などのあまり人の来ない場所で食べていた。拳ほどの大きさの丸パンが一つだけの、質素な昼食だ。

 しかし最近では、そんなブライアンの昼食事情が大きく変わっている。

 王立学園付属図書館は、正面にいつもブライアンが利用している開架図書館があり、その奥に開架図書館の建物にすっぽり隠れるような感じで司書たちしか出入りできない閉架図書館が建っている。そして、その二館の間に小さな中庭があるのだ。

 図書館内は飲食厳禁なのだが、入場料を払う以上は開館時から閉館ギリギリまで粘る者も多く、飲まず食わずで粘りに粘って気分が悪くなる者さえいて、そのためにいつからかその中庭でのみ飲食が許可されるようになった。

 その建物の影になって日が射さない寒い中庭のベンチで、膝にバスケットをのせたフェリシアがブライアンを待ってくれている。開架書庫の前を素通りして裏口から中庭に出ると、ブライアンはわざと落ちている枝などを踏んで音を立てる。フェリシアが振り向いてくれるのが嬉しくて、ブライアンを見て嬉しそうな顔をしてくれるのが嬉しくて、わざと音を立てるのだ。


「ブライアン様」

「ごめん、少し遅くなった」

「そんなに遅くないですよ」

「でも、ここは寒いだろう?」


 二棟の建物に挟まれているために吹き下ろしの風がなかなかに勢いよくぶつかって来るのだ、寒くないわけがない。現に温かそうなコートにニット帽で防寒しているフェリシアの肩が小刻みに震えていた。だけど、寒いおかげで他に利用する者もなく二人きりだったりする。いや、フェリシア付きのメイドが少し離れたところに立っているので、三人きりか。


「そうですね、早く食べて中に入りましょうか。今日は、ローストビーフのサンドイッチとポテトサラダを挟んだサンドイッチです」

「手が込んでいるね、作るの大変だったんじゃない?」

「そんなことないです」


 フェリシアの隣に座るとすぐに手渡されたサンドイッチには、レタスと一緒に薄切りのローストビーフが何枚も重なって挟まれている。一口かじると、肉の旨味が口いっぱいに広がった。


「どうですか?」

「美味しいよ」

「よかった」


 ローストビーフなんて、いつ以来だろか。子供の頃ならちょくちょく食卓に上っていた覚えがあるが、それはすでに遠い記憶だ。それに、レタスだって今の季節では高い。

 ファーニヴァルは農業が盛んなので野菜は安く手に入るが、それは暖かい季節の話だ。冬になると大根や人参などの根菜類は安いが、葉野菜はもう滅茶苦茶に高くなるのだ。

 このサンドイッチ一つにいくらかかっているのだろうかとつい考えてしまいそうになるけれど、そんな世知辛い計算をするよりもただこの美味しいサンドイッチを味わうべきだろう。せっかく彼女が手づから作ってくれたのだから。

 こんな風に図書館の中庭で彼女のお手製のランチを頂くようになったのは、ここ二週間ほどのことだ。お互いの名前を教え合ってからも変わらず向かい合って本を読む放課後を重ねていたのだけれど、ある時、彼女が料理の本を読んでいたので何気なく料理するの?と、訊いたのが切欠だった。

 貴族令嬢なら料理なんてすることはないだろうが、フェリシアは平民だ。もっともかなりの金持ち令嬢なので家にお抱えのシェフくらい居ても不思議はないが、それでも貴族に比べたら料理への垣根は低いだろう。そう思って訊いてみたら案の定、最近ちょっと凝ってるんですと言ってフェリシアは笑って答えた。

 どんなものを作るの、まだ簡単なものしか作れないんです、へえ食べてみたいな、本当ですか。

 そんな会話の流れから、昼休みにこの中庭で待ち合わせることになった。フェリシアは毎日、ブライアンのために昼食を作って持って来てくれるようになったのだ。

 それ以来、校舎裏で味気ないパンをもそもそとかじっていたブライアンの昼食が劇的に変わった。外で食べるためにフェリシアが作って来るものは食べやすさ重視のサンドイッチが多いのだが、その挟んである中身がなんとも豪華なのだ。卵サンドにしてみてもブライアンが見慣れたものとは厚さが全く違っていたし、きつね色のカツレツがドンっと挟まっているのを見た時には信じられずに上から下から眺めまわしてしまった。


「今、ミートパイを練習しているんです。上手に焼けたら持ってきますね」

「いいね、楽しみにしてる」

「お菓子も作りたいと思っているんです。ブライアン様は、クッキーとか好きですか?」

「好きだよ、ナッツが入っているのが好きかな」

「了解です、ナッツクッキーですね」


 彼女の手料理を食べさせてもらえることだけを喜びたいのに、ついつい食費が助かるなどと考えてしまう自分が嫌だとブライアンは思う。それでも、ミートパイなんて随分と食べていない。バターと砂糖を大量に使うクッキーもだ。

 出来ることなら、両親にも食べさせてやりたい。今、食べているローストビーフのサンドイッチだって食べさせてやりたいと思う。お腹いっぱいだから後で食べるねと言えば持って帰れるだろうけれど、だけど真心を込めて作ってくれた彼女にそんな嘘はつきたくない。


「いつもご馳走になって、ありがとう」

「こちらこそ、食べてくださってありがとうございます」


 そう言って微笑むフェリシアの頬がほんのりと赤いのは、寒いからだけの理由ではないだろう。

 可愛い、どうしてこんなに可愛いのか。本当に彼女は、言うことなすこと全部が可愛い。頭のてっぺんから足の先まで可愛い、完全無欠に可愛い。

 もしも少し離れたところで無言で立ち続けているメイドの視線がなければ、抱きしめてしまいたいほどに。


「ブライアン様?」

「ああ、ごめん」


 食べかけのサンドイッチを持ったままで見つめていたことに気づいて、慌てて食事を再開する。ローストビーフのサンドイッチの次に渡されたのは、ポテトサラダがたっぷりと挟まったサンドイッチ。こちらもなかなかに分厚い。


「これも美味しいね」

「よかった」


 冷たい風が吹き抜ける中庭で、だけどブライアンは少しも寒さを感じていなかった。フェリシアが隣にいてくれるなら、もうそれだけで他に何もいらないような気がした。



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