4 裕福な平民お嬢様は、生まれて初めて好きな人ができました。
窓際に置いた椅子に腰かけて、フェリシアは先ほどからずっと外を眺めていた。いくら見てもそこに彼の後ろ姿はもうないのだけれど、それでも見るのを止められない。
ゆっくりと暗くなっていく窓外の景色は、少し前から白い物がちらついている。やけに冷え込むと思ったら、雪が降り始めたようだ。
彼はもう家に着いただろうか?
こんな寒い中をもしまだ歩いているのだとしたら、風邪を引いてしまうかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えたところでフェリシアは、自分の心配が的外れなことに気づいて苦笑いしてしまった。貴族の令息が歩いて帰るわけがない。きっとどこかに……多分、オズバーン百貨店の近くに馬車を待たせていただろう。
ファーニヴァル王国の王都であるこの街では毎年、雪下ろしが必要なほどの降雪はないものの、それでも冬の間に何度か薄っすらと積もることがある。明日の朝には積もっているかもしれないと思いながらフェリシアは、白く曇った窓ガラスに人差し指の先で触れた。
右上がりの文字で『B』と『R』を書いたところで、急に恥ずかしくなってぐちゃぐちゃと消す。冷えた手を頬に当てれば、寒いはずなのに何故かやたらと熱かった。
ブライアン・ファラー。
ずっと素敵だと思っていた人に決死の覚悟で声をかけて名前を教えてもらったのは、僅か二日前のことだ。まるで絵本から飛び出して来た王子様のような人なのに、名前まで格好いいなんて反則過ぎる。おまけに声まで素敵なのだから、もうどうしたらいいのか。
「ファラー……小伯爵様」
小さく声に出すと、熱い頬が少しだけ冷める。
フェリシアはこつんと、額を窓ガラスに軽くぶつけた。冷たくて気持ちいい、こんなことですっかりのぼせてしまった頭が冷えてくれたなら楽なのだけれど。
図書館で名前を教えてもらった日の夜に父の書斎にこっそりと忍び込んだフェリシアは、貴族名鑑でファラー家を探した。王立学園の生徒なのだから、彼が貴族であることはわかっている。だけど、同じ貴族でも上位貴族なのか下位貴族なのかが大きな違いなのだった。
男爵家なら平民の娘を娶ることは珍しくないし、子爵家でもあまり裕福でない家なら持参金つきの嫁を迎えることもある。
自分で言うのも何だが、フェリシアは平民の中ではかなり上級階級の裕福な商家の娘だ。父はこの国でも有数の商人であり、父が経営するオズバーン百貨店は王都で一番大きな店なのだ。
父は根っからの商売人だから、貴族と縁づけるとなれば喜んで持参金を用意してくれるだろう。平民ではあるけれどフェリシアならば、貴族との結婚は夢ではないのだ。
だけど、震える指でページをめくってようやく見つけたファラー家は、伯爵家だった。男爵家か、せめて子爵家であって欲しいというフェリシアの願いは叶わなかったのだ。もしくは、彼が家督を継がない二男や三男であったならば伯爵家でももしかしたらと思ったが、その一縷の望みも儚く砕け散った。
貴族とも付き合いがある父が毎年買っている最新版の貴族名鑑によれば、ファラー伯爵家の子供はブライアンが一人だけ。つまり彼は、嫡男なのだ。
次代のファラー伯爵に平民の妻は、ありえない。
名前を知ったばかりなのに結婚できる可能性があるかどうかなんて、考えるだけでもおかしいのかもしれない。だけどフェリシアは、次の春には十六歳になる。十八歳まで学園に通う義務がある貴族とは違って、平民の娘ならそろそろ結婚が決まってもおかしくない年齢なのだ。
「ブライアン様……」
初めて会ったのは、半年ほど前のことだった。
家の図書室で何となく手に取った冒険小説が思いのほか面白くて、続きが読みたかったけれど家にはなくて、それでオズバーン百貨店はもちろん、知っている限りの書店に問い合わせてみたけれど、随分と前に発行された本だからなのか、それともたまたまタイミングが悪かったのかどうかはわからないが、とにかくどこも在庫がなくて、古書店も何軒か回ってみたけれどやっぱり見つからなくて、時間をかけて探せば見つかるだろうことはわかっていたけれど、それでも早く読みたくて。
それで、もしかしたらと思って行ってみた王立学園の付属図書館でフェリシアは、彼に出会ってしまったのだ。
ようやく見つけた本を胸に抱えて、借りる前に少しだけここで読んで行こうと軽い足取りで席を探していたフェリシアは、両側に八脚ずつの椅子が並ぶ十六人掛けの長い机の一番端に座っていた彼を見た途端、そのまま息を止めて釘付けになった。
窓から差し込む午後の光に明るい金髪がキラキラと光っていた。伏せた睫毛は長く、その下に少しだけ見えている瞳の色は、サファイアのような鮮やかな青。本を持つ腕がすらりと長いのだから、机の下に隠れて見えないがきっと足も長いのだろう。王立学園の制服に身を包み、背筋をきれいに伸ばして本を読むその姿がフェリシアの思い描く王子様そのもので。
ファーニヴァル王国の本物の王子は銀髪であるらしいけれど、そんな現実とは関係なく女の子というものは自分の理想の王子を心の中に住まわせているものなのだ。フェリシアの中の王子は子供の頃に好きだった絵本に描かれていた王子そのもので、金髪で青い目で背が高い人、というのが基本だった。
そんなフェリシアの理想そのままの王子様が今、奇跡のように目の前にいたのだった。
お嬢様どうかされましたかと、ついて来てもらっていたフェリシア付きのメイドであるエイダに声をかけられてハッと我に返ったフェリシアは、何故かどうしようもなくじっとしていられなくなって、気づくと走り出していた。もしもエイダが図書館で走ってはいけませんと止めてくれなかったら、貸出手続きをしていない本を抱えたまま外に出ようとして捕まっていたかもしれない。エイダのおかげで捕まることはなく、貸出料金をきちんと支払ってからフェリシアは図書館を出た……ところまでは覚えている。
どうやって家まで帰ったのか覚えていない、きっとエイダのおかげで無事に帰れたのだろう。気分が悪いからと夕食を断って、自室の寝台の上で枕を抱えてジタバタしたのは覚えている。
心臓が自分のものではないかのようにドキドキと暴れていた、鏡を見なくても顔が赤くなっているのがわかった。いや、顔どころか全身が熱い。
恋愛小説を読んでいたらちょくちょくと出て来る、一目惚れなるものをフェリシアはあまり好きではなかった。人を好きになるなら見た目ではなく、その人の内面を好きになるべきだと思っていたからだ。一目で惚れるということは、その判断基準は外見だけだ。そんなのは本物の恋じゃないなんて、初恋さえまだなフェリシアは思っていたのだ。
だけどフェリシアはその日、これ以上はないというくらいの見事な一目惚れをしてしまった。しかも、初恋である。それまで異性に対して特別な感情なんて持ったことのない少女では、とても受け止められない衝撃であった。
恰好よかった格好よかった格好よかったと、同じ言葉ばかりがぐるぐる回る。どうして帰って来てしまったのだろう、もっと見ていたかったのに。だけど恥ずかしくてどうしようもなくて、あの場では逃げる以外の選択肢はなかった。
そう、逃げてしまった。
もう二度と会えないかもしれないのに。
その事実に気づいて、寝台の上でジタバタしていたフェリシアはいきなり動きを止めた。
彼は王立学園の制服を着ていたのだから、生徒であることはわかっている。だけど、わかっているのはそれだけなのだ。
もしも彼がもう図書館に来なければ、フェリシアはその姿を見ることは二度とないだろう。平民であるフェリシアが入れるのは、入館料を払えば誰でも利用できる図書館だけなのだ。学園に乗り込んで探すなんてことは、考えるまでもなく出来るわけがない。
あの格好いい人にもう二度と会えないかもしれない、そう思い至るとさっきまでとは違う理由で心臓がドキドキと暴れた。その夜は一睡もできず、見事に腫れた瞼をエイダに心配されながら前日と同じくらいの時間に再び図書館を訪れたフェリシアは、前日と同じ席に座る彼を見つけて全身の酸素がなくなるくらいに盛大に息を吐き出したのだった。
幸いなことに彼は読書が好きらしく、放課後をよく図書館で過ごすようだった。毎日ではないけれど、結構な高確率で彼は図書館に来ていた。
友人と連れ立って来ていることもあったが、一人でいることも多い。友人と一緒の時は、宿題なのか勉強をしていることが多く、一人の時は本を読んでいることが多い。大抵は、いつも同じ端の席に座っている。だけど他の席に座っていることもあるので、もしいつもの席にいなくてもすぐには諦めずに探さなければならない。
急に図書館通いを始めたフェリシアだが、その目的が本ではないことにメイドのエイダはすぐに気づいた。フェリシアが五歳の頃から専属のメイドとして世話をしてくれたエイダは、フェリシアにとって使用人というよりも最も身近な、年の離れた姉のような存在なのだ。エイダ自身もフェリシアを実の妹のように思ってくれているようで、その姉にフェリシアの恋は隠すまでもなく筒抜けだったのだ。
向かいの席が空いているじゃないですかと、背中を押されたのは図書館通いを始めて半月ほど経った頃だ。意中の彼からは少し離れた、だけど彼がよく見える席にいつも座っていたフェリシアは、あの席に座ればもっとよく見れますよなんて唆されて、恐る恐る椅子の背を引いた。
結果から言うと、近すぎると恥ずかしくて顔を上げられず、つまりは見れない。だから彼の本を持つ長い指ばかりをちらり、ちらりと盗み見ていたのだけれど、それが意外と幸せだったりした。
時折、彼がページを繰る音が聞こえる。彼の向かいに座るのに段々と慣れて来たフェリシアは、自分も本を読みながらいつもその音を聞いていた。
季節を二つ見送るほどの間、そんな状態が続いた。
名前ぐらい訊いてみたらいいじゃないですか、せめて挨拶してみたらどうですか。こんにちは、よくお会いしますねと言ってみましょうよ。今日はいいお天気ですね、でもいいです。
いつも図書館について来てくれて、フェリシアが彼の前の席に座っている間は少し離れた場所で見守ってくれるエイダは、そんな風に言ってフェリシアをけしかけた。
エイダだってフェリシアの憧れの人が貴族であることはわかっていただろうし、その恋が実を結ぶ可能性が低いことも知っていただろう。だけど、何もせずに諦めてしまうことはないと言うのだ。
男爵家なら平民の妻を迎えることはよくある、子爵家でもたまにあるとフェリシアに言ったのは、エイダだった。それまでただ格好いい彼にドキドキするばかりで具体的な恋のあれこれや、ましてや結婚なんてところまで至ってなかったフェリシアの脳内でいきなりウエディングベルが鳴りだして、その時はそのまま熱を出して寝込んでしまったのだが、その発熱の理由がとんでもない想像をしてしまったせいだなんて恥ずかしい事実はエイダにも言っていない。
まあ、そんな先走った想像は置いておいて。
フェリシアだって、彼の名前が知りたかった。せめて一言だけでも言葉を交わしたいと、本当はずっと思っていた。
そして、ようやく勇気を振り絞れたのが二日前だ。お名前をお伺いしてもいいですかと、決死の覚悟で声をかければ彼は、拍子抜けするほどあっさりと教えてくれた。
「ブライアン様……」
ついつい、何度も声に出してしまう。
これまで季節二つ分の間、ずっと憧れてきた人の名前だ。
彼が伯爵家の跡取りだと知って、その翌日は寝台の上でふて寝して過ごした。そしてその次の日、つまりは今日だけれど、今日もまた何もする気になれずに昼近くまでゴロゴロと寝ていたら、この屋敷の中でただ一人だけ事情を知っているために一日は見逃してくれたエイダがさすが怒りだした。
「失恋したわけでもないのに、なんと情けないお姿ですか。お嬢様の王子様はきっと、そんな寝てばかりいるご令嬢を好きになってくださいませんよ」
目を三角に吊り上げて、腰に手をあてふんぞり返るメイドに怒鳴られ仕方なくフェリシアは起き上がった。しっかりなさいませと急き立てられて、服を着替えて髪を整えたら少し気分が上向きになる。
そうだ、まだ失恋したわけではなかった。
というか、何もはじまってさえいなかった。
結婚できないとか悩む前に、まずはもっと親しくならなければどうしようもない。今現在のフェリシアは、ようやく彼の名前を教えてもらっただけの、図書館でよく会う顔見知り程度の立場に過ぎないのだから。
もっと親しくなりたい。
せめて顔見知りは卒業して、友達くらいには思ってもらいたい。
恋人にして欲しいかどうかは、正直なところよくわからなかった。爵位まで調べておいて何を言ってるのかと自分でも思うけれど、あの素敵な王子様の恋人なんて何だか恐れ多くて。
ただ、もう少しだけ近くに行きたかった。
近づいて、お喋りしたい。
声が聞きたい、出来たらフェリシアと名前を呼んで欲しい。
「……そうよね、寝ている場合じゃないわよね」
「そうですよ、お嬢様」
自分の両の頬をピシッと叩いてからフェリシアは、エイダに出かける用意を頼んだ。服飾担当のマリーが何日か前に、新しい布がたくさん入荷したと言っていたのを思い出したのだ。
布を見せてもらって、いいのがあれば父に強請ろうと思った。可愛い服が欲しい、彼に可愛いと思ってもらいたい。
そう思って出掛けたオズバーン百貨店で、フェリシアは偶然にもブライアンと会ったのだ。よりによって蜂蜜飴を持っているところを見られて本当はかなり恥ずかしかったのだけれど、彼は蜂蜜飴はいくつになってもおいしいと言ってくれた。
たったそれだけで、フェリシアの心は再び舞い上がった。
咳止め薬を買いに来たと言う彼を案内して薬売り場に行き、その咳止め薬が品切れというとんでもない事態にどうしようかと思ったけれど、幸いなことにというべきかどうかはわからないけれど、使用期限が残り少ない廃棄予定の品が残っていたためにどうにか事なきを得た。
そして……そして!
今になっても信じられないことに彼は、フェリシアをポロック広場の屋台で蜂蜜ワッフルを食べようと誘ってくれた。駄目でも元々な気持ちで百貨店の最上階にあるティールームでお茶を飲みませんかと言ってみたフェリシアに彼は、だったら外に出ようよと言ってくれたのだ。
本当に、本当に夢だったのではないかと思う。大丈夫だろうか、少し離れてずっとついて来てくれていたエイダに本当にあったことだと確認した方がいいだろうか。
百貨店に入っているティールームより外の方がいいに決まっている、その方が断然デートっぽい。ポロック広場まで並んで歩くのも幸せだった、もっとずっと遠ければいいのにと思った。
焼きたてのワッフルを紙に包んでもらって、ミルク入りの熱いコーヒーを買ってからベンチに並んで腰かけた。お金を払いますと言ったけれど、これくらいはご馳走させてと言って彼は受け取らなかった。
せっかくだから温かいうちに食べようと言われて一口かじったワッフルは美味しかった、多分。本当は、味なんてわからなかったのだけれど。
だって、味なんてわかるはずがない。これはデートだ、まごうことなきデートだ!
ちなみに彼にこれがデートであることを確認したので、恋愛超初心者のフェリシアがのぼせて勘違いしたということはない。
フェリシアが何を言っても彼は笑顔で、気さくに話をしてくれた。図書館でこの半年、ずっと想像していた通りの、いや想像していた以上に優しい人だ。
貴族なのに、伯爵様になる人なのに、平民のフェリシアに笑いかけてくれるなんて。
しかも彼は、フェリシアを家まで送ってくれたのだ。エイダがいるから大丈夫ですと言うべきだとわかっていたけれど、言わなかった。
狡かっただろうか、だけど少しでも長く一緒にいたくて。
実際のところ、フェリシアがブライアンと一緒に過ごした時間は一時間を少し超えた程度のものだった。出勤に時間をかけるなんてナンセンスだという父の主張によりフェリシアの家はオズバーン百貨店の近くで、つまりはポロック広場からもそう遠くないということで、ゆっくりと歩いてもたいした時間はかからない。
彼はフェリシアをオズバーン家の門の前まで送ると、それじゃあと言ってあっさりと踵を返した。その背中が見えなくなるまで見送ったけれど、彼は振り返ることなく足早に去ってしまった。
自分の部屋の戻ってからフェリシアは、着換えもせずに窓際に椅子を置いて座り込み、今に至る。
今頃の季節は、日が落ちるのが早い。
ゆっくりと暮れて行く街を見ながらフェリシアは、ふうっと長く息を吐き出した。そろそろ夕飯だとエイダが呼びに来るだろうけれど、それまではここを動きたくないと思った。
更新、遅くてすみません!
次は、ブライアン目線に戻ります。




