2 見た目詐欺没落令息は、放課後を利用無料の図書館で過ごします。
没落貴族と呼ばれる貴族家はいくらでもあるが、ここまで見事に没落しているのはさすがに珍しいのではないだろうかとブライアンは思う。平民だって、咳止めくらいは給料日を待たずに買えるだろうに。
学園に向かって歩きながらブライアンは、入学時に作ってもらった制服のズボンを見下ろした。たっぷりあった折り返しを母がギリギリまで伸ばしてくれたのだけれど、それでもこの一年半でぐんぐんと背が伸びたのでちょっとみっともないくらいに短くなってしまっている。
上着はかなり大きく作ってもらっていたのでまだ何とか着られるものの、それでも丈が短いし、袖も足りていない。だけど、薬も買えないのにこんな高級制服を買い替えられるはずがないのだ。
諦めの息を短く吐いて、ブライアンは足を速めた。見渡す限り絡んできそうな奴は見当たらない、今のうちに大通りまで行ってしまおう。
大通りまで行けば、学園はすぐそこだ。学園へ向かう馬車が渋滞している横をほとんど駆けるような速さで歩いていると、少し先に停まっていた馬車の戸が開いた。
顔を出したのは、親友と呼んでいいだろう仲の同級生だ。赤い癖毛がよく目立つから、遠くからでもすぐわかる。
「ブライアン、乗れよ!」
学園は目と鼻の先であり、渋滞でのろのろとしか進めない馬車よりも歩いた方が断然早い。それでも友の好意に甘えて乗り込むのは、歩いて通う生徒などブライアンの他にはいないからだ。
王立学園は、貴族のみが通う学校なのだ。貴族というものは基本的に、徒歩での移動はしない。街で買い物や食事を楽しむことはあるが、それだって近くまで馬車で乗り付けるのだ。
ブライアンが徒歩で校門をくぐる度に、門番に変な目で見られる。学生のほとんどは地方出身者で敷地内にある寮で生活していているし、実家から通っている少数派はみんな馬車での通学なのだから仕方のないことではあるのだけれど、それでもじろじろと見られて気分のいいものではない。
そのことを知っているからこの気のいい友人は、ブライアンが歩いているのを見つけると毎朝のように馬車に乗れと誘ってくれるのだ。
「おはよう、ロン。いつも乗せてもらって悪いな」
「いいってことよ。それより経済学の課題、やったか?」
「やったよ」
「俺も一応やったんだけど自信なくてさ、ちょっと見てくれよ」
「ああ、いいよ」
ロンこと、ロナルド・リードは、リード伯爵家の長男だ。もっとも当主が結婚前に平民の恋人との間に作った子供であるため、家は正妻が産んだ弟が継ぐそうだが。
飲み屋の女給だったらしいロナルドの母は、生まれたばかりのロナルドを父に押し付けて姿を消したのだそうだ。伯爵夫人の座を狙わなかったのは賢明であるのだろうけれど、いらない物のようにあっさり子供を捨てた時点で母親としての資質には欠けていると言わざるを得ない。おかげでロナルドは、卑しい尻軽女が産んだ息子というレッテルを生まれながらに貼られたのだから。
そんな事情もあって家ではあまりいい扱いを受けていないらしいロナルドだが、その人格を歪ませることなく実に気持ちのいい気質の男で、いずれは実家を出て独り立ちしなければならないからと文官を目指し、勉強の面での努力を続けている。
それは、どんなに貧しくとも愛息子を学園に通わせてくれている両親のためにも卒業後はいい職に就きたいブライアンも同じで、自習室と図書館の常連である二人が仲良くなったのは入学してすぐのことだった。
「どうだ?」
「よく書けていると思うよ、特にここの考察は秀逸だね」
「優を取れそうか?」
「大丈夫だろう」
「そうか、ブライアンがそう言うなら間違いないな」
一緒に努力を続けている二人だが、ロナルドはどちらかと言えば語学や政治学が得意で、ブライアンはどちらかと言えば数学や経済学が得意であった。お互いの得意科目を教え合い、切磋琢磨する二人は実にいい友人同士なのだ。
やがて馬車は、ゆっくりと校門をくぐった。余裕をもって家を出ているので、渋滞にあっても授業開始まではまだ時間がある。
没落伯爵家の息子と、実家は裕福だが非嫡出子。
学園における二人への風当たりは冷たい。
馬車を降りたブライアンとロナルドをあからさまに見下した目で見る者も少なくないが、そんなことはもう今更なので気にすることなく二人は、他愛ない雑談をしながら教室に向かった。
ファーニヴァル王立学園には、敷地の南端の一角を占める付属図書館がある。それは王立図書館に次ぐ蔵書数を誇る大きな図書館で、王立学園の学生以外でも利用することが出来る。
もっとも学生は無料であるのに対して、一般の利用は入場料を取られる上に本の貸し出しも有料だった。建物に入ってすぐのところに受付があって、学園の制服を着ていれば素通りできるが、そうでなければ結構な額の入場料を請求されるのだ。
王立図書館は貴族、それも許可を得た者しか入れないので平民が利用できる図書館は王都ではこの付属図書館だけなのだが、料金がそれなりに高いために利用者はそんなに多くはない。本が高価な物である以上は仕方のないことなのだけれど、学園を卒業してしまえば図書館を無料で利用できなくなるというのは、ブライアンにとってかなり大きな悩みだった。
二年次は、あと数か月で終了になる。次の春からは、ブライアンは三年生だ。両親のためにも早く卒業して働きたい気持ちは山々なのだが、この図書館にだけは未練があるのだった。
本日の授業を終えると、自習室に行くというロンと別れてブライアンは、図書館を訪れた。卒業するまでに、一冊でも多く読みたいと思っていた。
天井まで届く書架の間をすり抜けて、ブライアンは両手に抱えられるだけの本を抱えて閲覧用の机に向かった。一度に借りられるのは二冊までだから、この中から今日借りて帰る物を選ぶのだ。
片側に八脚の椅子が並ぶ長い机の端に本を置いてブライアンは、椅子を引いた。そして、腰を下ろしながら向かいの席に座っている女の子をちらりと見る。
年の頃はブライアンと同じか、一つか二つ下くらいだろうか。亜麻色の柔らかそうな巻き毛に金茶色の瞳の小柄な少女は、この学園の生徒ではない。制服ではなく、今日は淡いクリーム色のワンピースを着ているからそれは確かだ。
一目見ただけで仕立てがいいのがわかる服を着て、決して安くない入場料を取る図書館を毎日のように利用する。おまけに少し離れた所に立っている黒髪の女性は多分、彼女のお付きの者だろう。
少なくとも彼女は使用人を雇えるだけの余裕のある、裕福な平民の娘なのだろう。まだ入学年齢に達していない貴族令嬢である可能性もなくはないが、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれる貴族の娘はなんとなくわかるものだ。静かに本を読む彼女の所作が粗雑なわけではないが、家庭教師について習う貴族のそれとはやはりどこかが違う。
ブライアンが彼女と向き合って本を読むようになって、すでに季節を二つほど見送っている。図書館は広く、席は他にいくらでも空いているのに彼女は必ずブライアンの向かいの席に座るのだ。
もっともブライアンは好んで端の席に着くことが多いので、彼女も端がいいのだろうと最初の頃は思っていた。だけどたまに端が空いてなくて他の席に着いた時でも、彼女はブライアンの向かいに座る。向かいが空いてない時には、その隣に。とにかくブライアンの近くに必ず座るのだ。
そして、本を読みながらチラリ、チラリと向かいに座るブライアンを盗み見るのだからさすがにこれは気づく、彼女はブライアンに気があるのだろう。
ブライアンは艶やかな明るい金髪に、サファイアのような青い瞳を持っている。顔立ちは自分ではわからないが、母に似ていると言われるのだからそれなりに整っているのだと思う。貧乏生活ゆえに太っているわけもなく、背ばかりがひょろりと高い。これに学園の高級制服を着ればそれなりに貴族令息に見える……というか、本当に貴族令息なのだけれど、街を歩いていると女の子たちが振り返るくらいには見目がいいらしい。
見た目だけなら絵本にでも出てきそうな王子様だなと、いつだったかロンに言われたことがある。とんだ貧乏王子もあったものだが、見ただけなら財布の中身はわからないのだ。
そしてこの亜麻色の髪の少女は、そんな見た目詐欺の貧乏王子にまんまと引っかかっているわけだ。もっともブライアンには彼女にちょっかいを出す気はないので、引っかかっていても無害なのだが。
そう、無害だ。
彼女の好意が自分で向いているという推測が勘違いでなければ嬉しいとは思っているものの、今のブライアンには恋愛するだけの余裕がない。とにかく出来る限りのいい成績で学園を卒業して、給料のいい仕事に就くまでは恋人を作ることなんて考えられないのが実情だった。
ロンのように王城の文官を目指す道も考えてみたが、文官は出世すればそれなりに高給取りになるが、出世するまでが長い。ロンは自分の口さえ養えればいいだろうけれど、ブライアンはそうではないのだ。
父を医者に診せたい、母に少しでも楽をしてもらいたい。
文官の稼ぎでは、今の生活から抜け出すのに時間がかかる。ブライアンは少しでも早く、少しでも多く稼がなければならないのだ。
だけど、最初からいい稼ぎが期待できる仕事など多くない。
騎士なら命の危険がある代わりに新人でもなかなかいい給料がもらえるらしいが、騎士団に入るためには王立学園を卒業したのちに更に二年、騎士学校に通う必要がある。
三年の学園生活だってじりじりとした思いでいるのに、さらに二年なんて冗談じゃない。それにファラー家が今のように没落する前はブライアンも家庭教師から剣を習っていたが、そんなものは遥か記憶の彼方だ。基本の型くらいなら今でもなんとか出来るだろうが、その程度の実力で騎士になろうなんて冗談でも言えない。
学園の教師という道も考えてはみたが、跡取りではない貴族の二男、三男に大人気な職業は実力よりもコネが物を言う世界だ。紹介状を書いてくれる知り合いに心当たりのないブライアンは、最初から諦めた方がいいだろう。
どこかの貴族家に家庭教師として雇ってもらうという手もあるだろうが、それにも紹介状がいる。それにファラー家は腐っても伯爵家なので、ブライアンが雇ってもらえるとしたら伯爵家より上の侯爵家か公爵家しかない。そんな高位貴族が学園を出たての何の実績もない家庭教師を雇う筈もなく、この道も却下だ。
文官も駄目、騎士も駄目、教師も駄目となると市井に下るしかないだろう、例えば大きな商会に雇ってもらうのというが一番ありそうだ。ブライアンの持つ伯爵令息の肩書は商売に役立つだろうし、王立学園を優秀な成績で卒業したという経歴があればそれなりにいい条件で就職できる可能性は高い。
どうやって自分を売り込めばいいのか今のところ見当もついていないが、とにかくブライアンはのんびりとなんてしていられないのだ。ましてや恋なんて。
しかし、それでもブライアンだって男なのだ。おそらく自分に好意を寄せてくれているだろう女の子の存在を気にするなと言うのは、さすがに無理な話で。
亜麻色の髪に金茶色の瞳は派手さはないが、おとなしそうな彼女の雰囲気に合っている。ちょっと小動物を思わせる可愛らしさは実を言うとブライアンの好みど真ん中で、あのふわふわと巻いている柔らかそうな髪に触れてみたいとか思ったり思わなかったり……ああ、思っていますとも。
以前は自習室に行くことも多かった放課後だが、彼女の視線に気づいてからは当たり前に図書館通いだ。自分は本を読みたいだけだ、タダで使える今の内に一冊でも多く読んでやるなんて言い訳しながら最近では、ブライアンの方から彼女の向かいに座るようになった。
名前はなんというのだろう、どこに住んでいるのだろう。
訊きたい、でも訊かない。
勇気がないから訊かないのではなくて、訊いても仕方ないから訊かないのだ。名前で呼び合うようになって、今よりも仲良くなってどうすると言うのか。
ブライアンには本当に、恋愛をする余裕なんてないのだから。
そう思っていたのに。
「あ、あの……」
小さな小さな、囁き声よりも小さな声。だけど、ブライアンの耳は確実に拾った。
いつもお互いに黙って本を読むばかりだったから、季節二つ分も毎日のように顔を合わせていたのに彼女の声を聞いたのはこれが初めてのことだった。
なんて可愛い声なんだ、と思ったことは許して欲しい。だって本当に可愛い声だったから。天使の声のようだなんて恥ずかしいことは言わないが、妖精の声ぐらいならいいんじゃなかろうか。
いや、妖精が喋るのかどうか知らないけど。
ブライアンが顔を上げると、亜麻色の髪の少女はびくっと体を一度震わせた。小動物っぽいと前から思っていたけれど、その様子はなんだか栗鼠っぽい。
いや、栗鼠のこともよく知らないけれど。
多分、ブライアンが何の反応も返さなければ彼女の呟きより小さい声はこのままなかったことになるのだろう。だけど、季節二つ分の時間を経てやっと訪れたこの糸口を逃してしまうのは、ブライアンには出来なかった。
ブライアンには女の子にかまける余裕なんてない、ないのだけれど、それでもちょっと話をするくらいなら許されると思うし。
「今、何か言わなかった?」
「あ、はい、あの……」
栗鼠っぽい彼女はブライアンが声をかけると顔を真っ赤にしたけれど、それで黙り込むようなことはなかった。平民の女の子が貴族令息に声をかけるのはなかなかに高い壁があるだろうに、それでも口を開くのだから、ブライアンが思っていたほど大人しいというわけではないのかもしれない。
「お、お名前を伺ってもいいですか?」
顔は真っ赤、大きな目は緊張のためかうるうるしている。開いた本で口元を隠して、上目遣いでブライアンを見るそのあざといばかりの可愛さは何なんだ。
知っていたけれど、これで確定だ。彼女はブライアンが好きだ、絶対にそうだ。
「ブライアン、ブライアン・ファラー」
名前を訊かれて簡単に教えるのは、貴族としてはあまり褒められたものではない。どうして名前を知りたいのか、何か魂胆があるのではないかとまず疑うのが貴族だ。
だけど、ブライアンは考えるより先に答えていた。
貴族の常識とか、この場では本気でどうでもいい。こんなにはっきりと好きですと書かれている顔を前にして、名前くらい教えて何が悪いと言うのか。
ちなみに男爵家や子爵家あたりまでなら、平民の女性を妻に迎えるのはごく普通にあることだ。もちろん誰でもいいわけではなく、教養のあるそれなりに上流の家の娘に限られるが。
伯爵家以上であっても、平民の娘を他の貴族家の養女にしてから貴族の娘として娶るという方法がある。もっともファラー家は伯爵家ではあるけれど、ここまで没落してしまっては相手の身分なんてどうこう言えるわけがなかったりするのだが。
だから何を言いたいかと言うと、毎日のように図書館の入場料を払えるような裕福な家の娘である彼女は十分にブライアンの未来の妻になりえるという……いやだから、ブライアンには恋愛をしている余裕はない。ないったらない、本当にないのだけれど。
「ブライアン・ファラー様……」
噛みしめるようにしみじみと名前を呼ぶのは止めて欲しい、母がつけたというブライアンというありきたりな名前が何か特別なものに思えてくるではないか。
「君は?」
「え?」
「名前」
「あ、はい」
栗鼠っぽい彼女は開いていた本を閉じて机に置くと、何故か背中を伸ばして姿勢を正してからブライアンがずっと訊きたくて訊けなかったその名前を教えてくれた。
「フェリシア・オズバーンと申します」
「フェリシア……オズバーン?」
「はい」
フェリシアという名前には、幸せという意味がある。ブライアン同様によくある名前ではあるが、彼女によく似合っているきれいな名前だ。
貴族男子たるもの、女性を前にすればまず褒めなくてはならない。反射的に褒められなければ貴族失格と言ってもいいほどで、名前を教えてもらったならいい名前ですね、きれいな名前ですねと言わなければならないのに、だけどブライアンはフェリシアという彼女に似合いの名前よりもその姓の方に驚いてしまった。
「オズバーンってまさか、オズバーン商会のオズバーン?」
「はい、そのオズバーンです」
オズバーン商会といえば、王都の一番繁華な通りに大きな店舗を構える大商会で、オズバーン百貨店で手に入らないものはないと言われるほどだ。支店も多く、外国にも商売の手を広げているとか。多分、このファーニヴァル王国で最大規模の商会で、それはつまりそこらの貴族などとても敵わない大金持ちでもあるということだ。
実のところ卒業後の就職先としてオズバーン商会なら申し分がないとブライアンは、かねてから思っていた。出来れば総務部や経理部などではなく、商会長つきの秘書あたりを狙いたい。それなら最初から高給を期待できそうだ。
そのオズバーン商会のお嬢様を前に、はしたなくも喉がゴクリと鳴った。さっきまで栗鼠っぽくて可愛いと思っていた彼女……フェリシアが、女神のごとく急にキラキラと輝きだした気がするのは何故なのか。
「フェリシアと呼んでいただけたら嬉しいです、ファラー様」
「あ、いや、僕もブライアンで構わないけど」
「失礼では?」
「大丈夫」
失礼もなにも、どう考えても一応は貴族のブライアンより平民のフェリシアの方がいい暮らしをしている。もっとも一般的な平民家庭であっても、今のファラー家よりはどこも裕福だろうが。
「では、ブライアン様とお呼びいたしますね」
「あ、はい、それで」
まだ赤い顔で嬉しそうに微笑むフィリシアは可愛い、かなり可愛い。本当の本気で可愛いと思うのだけれど。
だけどそれよりもブライアンの頭の中では、オズバーン商会の文字がぐるぐると回っていた。




