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1 見た目詐欺没落令息は、今日も元気に貧乏です。

見切り発車します。

書きながらの連載なので、のんびり投稿になります。

ざまあ要素のない、普通のラブストーリーです。

それでもよろしければ、読んでいただけたら嬉しいです。

 ゴホゴホと、咳き込んでいるのが聞こえる。昼間でもカーテンを引いたままの薄暗い奥の部屋で、父が咳き込んでいるのだ。ヒューヒューという喘鳴混じりの咳が一晩中聞こえていたから、きっとほとんど眠れていないだろう。

 薬は、昨日の昼に飲ませたので最後だった。新しいのを買うには、母の次の給料日を待たなければならない。それも買えるのは、店売りの咳止めだけだ。医者に診てもらう金もなければ、以前飲んでいた医者が処方してくれる高い薬なんてとても買えない。


「父上、行ってまいります」

「ああ、ブライアン。気をつけて行っておいで」


 ファーニヴァル王立学園の制服をきっちりと着込み、明るい金色の髪にしっかり櫛を入れてから教科書が詰まった重い鞄を手にブライアンは、父の部屋を覗いてわざと明るく声をかけた。すると父は、寝台の上で笑顔を見せてくれる。

 頬がこけ、体もげっそりと痩せてしまった今の父には、どちらかといえば太めだった数年前の面影はない。昔の知り合いが今の父を見ても気づかないのではないだろうか、そんなことを考えながらブライアンは建付けの悪い玄関扉を肩で押すようにして開けた。

 家から一歩出ると、そこは四方を建物と塀に囲まれた小さな裏庭だ。通りに面した方に店、その店の裏にはマダムが息子一家と住んでいる母屋。そして裏庭を挟んで敷地の角に建てられている平屋建ての建物が、今ブライアンが出て来た離れなのだ。

 世話をする者がなく雑草が生え放題だったこの裏庭は、せっかく休憩用のベンチが置かれているのに誰も使っていなかったらしいのだが、ブライアンが草を抜いて、マダムに貰った花の種を隅の一角に撒いたら思いのほかきれいに咲いたので、春から夏にかけて針子たちが軽食を取ったりお茶を飲んだりする憩いの場となった。

 ブライアンにしてみれば、庭でお茶を飲むのが好きだった母が一息つけたらいいと思って手を入れただけなのだが、ご苦労様とマダムが小遣いをくれたのは正直なところ嬉しい臨時収入だった。

 今は冬、貧乏人にはいささか厳しい季節だ。

 ブライアンがこまめに世話をしたので随分と長く目を楽しませてくれた花々も全て枯れてしまって、木枯らしが吹き抜けるためにまたもや誰も使わなくなった二基のベンチの向こうに見える店を一瞥してから、ブライアンは歩き出した。

 刺繍の腕を買われて針子として働いている母は、急ぎの仕事が入ったとかで一昨日から帰って来ない。もう若くないのに二晩も徹夜して大丈夫だろうかと心配になるが、プロの仕事場に部外者が入るのは憚れるので様子を見に行くことはしない。

 母が働いている平民向けの仕立て屋の離れが、今のブライアンと両親の住まいであった。以前は紳士服と婦人服の両方を取り扱っていた大きな仕立て屋だったらしいが、紳士服の方を作っていたご主人が亡くなって、夫婦の一人息子は裁縫より料理に適性があったようで料理人となって父の跡は継がなかったので、店は婦人服だけに絞って従業員の数も半分以下に減らしたのだそうだ。それで、新人の針子たちの寮になっていた離れが空いていたために、店の主人であるマダムに頼み込んで格安の家賃で貸してもらっているのだ。

 質素なその佇まいは、家というより小屋といった方が似合いの建物だ。それでも、雨風が凌げるだけありがたいとブライアンは思っている。


「ラディ、おはよ」


 ブライアンはいつも表の店の方からではなく、母屋の影に隠れるようにひっそりとある裏木戸から出入りしている。裏木戸の前に門番よろしく寝そべっている、マダムの一人息子が子供の頃から飼っているらしい大きな茶色い老犬、ラディの頭を軽く撫でてからブライアンは外に出た。

 出た先にあるのは、人が一人なんとか通れるだけの幅しかない細い通用路だ。舗装なんてされていないので雨の日は靴が汚れてしまうのだが、今朝はそういう心配はなさそうだ。鞄は胸に抱き、隣の建物の壁に制服が触れないように体を少し斜めにしてその通路を通り抜ける。

 通用路から表通りに出る時には、一旦足を止めて辺りを見渡さなければならない。王立学園は貴族のみが通う学園であり、その制服を着ているブライアンは一目で貴族の子弟とわかってしまう。こんな下町を供も連れずに貴族令息が歩いていれば、絡んで来る連中はいくらでもいるのだ。


 小屋同然の家に住み、薬も買えない生活をしていてもブライアンは、これでもファラー伯爵家の三男であった。一年ほど前までは伯爵家として恥ずかしくない規模の屋敷に住み、執事とメイド、あとは下働きの老人の三人きりではあったけれど使用人たちに坊ちゃんと呼ばれる身分であったのだ。


 三男ということは当然、兄が二人いるということなのだが、幼い頃から王都のタウンハウスに両親と暮らしていたのはブライアン一人だけで、父に連れられて何度か訪れた領地の本邸にもそれらしき人はいなかった。

 自分に兄弟がいたらしいことは何となくわかっていたが、王立学園の入学書類に三男と書かれているのを見て初めて兄が二人もいたのだと知ったほど、ファラー家に兄たちの痕跡は残っていないのだ。

 長男は体が弱い人だったらしく、ブライアンが物心つく前に亡くなってしまったのだそうだ。次男はどこかの家に婿入りしたそうで、それもブライアンが四歳かそこらのことだったらしくて覚えていない。

 そう、ブライアンは年の離れた兄が二人いたらしいということしか知らないのだ。どうしてかはわからないが、両親は兄たちのことに触れるのを避けているようであったし、使用人たちも主人の意向を汲んでかやはり兄たちのことは話したがらなかった。

 兄が二人いるのだと知って、せめて名前だけでも教えてよと執事に頼み込んだ。それで長男がデインズ、次男がモーリスという名前だということだけは教えてもらえた。

 その時に長年ファラー伯爵家に仕えていた執事が辛そうな顔をして、旦那様も奥様も大変後悔しておられますので兄上様方のことはどうか訊かないでさしあげてくださいと頭をさげたので、それきりブライアンは兄たちのことを探るのはやめてしまった。正直なところ好奇心は疼いていたが、それよりも両親を悲しませることの方が嫌だったからだ。


 ファラー伯爵家が傾き始めたのはもう何年も前、ブライアンがまだ十歳にもならない頃のことだった。

 伯爵家の領地は大きな川を有する水に恵まれた豊かな土地であったため、領民たちの多くは農家で、多種多様な野菜を育ててそれなりに楽な暮らしが出来ていた。

 だけどある年、その川が氾濫した。

 それは、夏の初めのことだったそうだ。何日も何日も強い雨が降り続き、溢れた水は川下にあったいくつかの村を壊滅させて、収穫間際だった畑も根こそぎ流してしまった。

 ブライアンの父、ハリソン・ファラー伯爵は、それまで蓄えていた伯爵家の資産のほとんど全てを放出して立て直しを図った。その素早い行動と思い切りよく放出された資金のおかげで領民たちは何とか元の生活を取り戻すことが出来たが、それにより伯爵家の資金繰りは一気に苦しくなった。

 それでも父は王宮で監察官という要職についており、高給取りでもあったおかげでそれだけでどうこうなるということはなかったのだが、伯爵家の資産を大きく減らしてしまって内心では焦っていたらしい父が古くからの友人が持って来た儲け話に乗り、あっさりと失敗したのだった。

 事業に失敗して莫大な借金を負った時、父は一度だけどこかに援助を求めたようだ。だけど会っても貰えなかったそうで、父が肩を落として帰って来た時のことをブライアンは、何故か鮮明に覚えている。

 今更助けを求めるなんて虫のいいことをすべきではなかったのだと、父は母の手を握ってそんな風に言っていた。父の肩が震えていた、母の肩も震えていた。お互いの手を縋るように握り合う両親がなんだかとても惨めに見えて、ブライアンは何も尋ねることが出来なかった。

 今になって考えてみれば、父が援助を求めたというのはどこかに婿入りしたという次兄だったのではないだろうか。会っても貰えなかったということは、そういうことなのだろう。

 父は結局、領地を手放す道を選んだ。

 それで事業の失敗で出来た借金は返せたらしいのだが、貴族家が領地を失うということは、その収入源を失うということなのだ。

 父の監察官としての稼ぎだけでは大勢の使用人を雇い続けることは無理で、古くから仕えてくれていた執事と、その娘であるメイドが一人、あとは年のために次の働き口が見つけられないであろう下働きの老人の三人だけを残して、他は全て解雇してしまった。

 それなりに大きな屋敷である伯爵家を三人の使用人で維持するのはもちろん不可能で、屋敷の部屋の大半には鍵がかけられて、母は自ら台所に立って慣れない料理を始め、ブライアンは下働きの老人を手伝って屋敷の補修や庭の雑草抜きなど、出来ることは何でもやった。

 笑ってしまうほどありきたりな没落貴族、だけど悪いことばかりではなかった。

 使用人がたくさんいた頃にはどこか遠く感じていた両親を近くに感じるようになり、最初の頃はとても食べられなかった母の手料理が段々と美味しくなっていき、人数が少ないのだからもう構うものかと執事もメイドも下働きの老人も一緒に囲む食卓は賑やかで、ブライアンは前よりもお金がなくなった今の方が幸せなのではないかなどと呑気なことを思っていた。

 そんな暮らしに慣れ、ブライアンが王立学園に入学する頃には授業料を払うくらいの余裕なら出来ていたらしい。何の心配もせずに学園に通っていいと言われてブライアンは、喜んで入学の準備を進めた。

 王宮で仕事中に父が倒れたのは、ブライアンが王立学園に入学する十日ほど前だった。同僚たちの手で医務室に担ぎ込まれた父は、幸いなことに命に別状はなく屋敷に帰って来たものの、そのまま床に伏してしまった。


 当然、父は仕事に行けず、ファラー家の収入は完全に途絶えた。

 その上、寝台から起き上がることもままならなくなってしまった父には治療が必要で、その治療費はかなり高額なものだった。


 ファーニヴァル王立学園の学費は、入学時に卒業までの全額を納める決まりになっている。もしも途中で退学することになっても、一旦納めた授業料が戻って来ることはない。実際の金額をブライアンは知らないが、貴族が通う学校の授業料が安いはずないことぐらいはわかる。

 それに制服は、貴族御用達の仕立て屋が一着ずつ仕立てる高級品であり、学園指定の靴や鞄もまた高価な物であった。教科書や文具など細かい物まで揃えるとかなりの出費になる。その上、通っているうちに追加で必要になる物だってあるのだ。

 何も心配せずに通っていいと言われて、本当に何も心配していなかったブライアンだが、実のところ両親がかなり無理をして学費を工面してくれたことに、医者への支払いが滞るようになってから気づいた。以前はクローゼットにいっぱいあった母のドレスがいつの間にか数枚を残して消えていたことにもまた気づいてブライアンは、極上の生地で仕立てられた自分の制服をぎゅっと握りしめた。


 ファーニヴァル王国では貴族の子供は必ず王立学園に通わなければならない。金がないから通わないというわけにはいかないのだった。

 もしも学費さえ工面できないようでは、それはすでに貴族ではない。その場合は、すみやかに爵位を国に返上すべきということだ。

 もっとも爵位は貴族にとって命より大切なものであったため、ほとんどの貴族家は借金をしてでも子供を学園に通わせたし、どうしても無理な場合は裕福な家に養子に出してしまうことすらあるのだ。

 爵位の売買が出来るならこれらの事情もまた違ったのだろうが、ファーニヴァル王国では爵位を売ることも買うことも禁じられている。爵位とは王から賜るものであったし、それを失う時は返上か剥奪しかない。


 ファラー伯爵家も爵位は手放さなかった、そして愛息子も手放さなかった。

 だけど、それ以外は全てを手放してしまった。


 先代の頃からファラー伯爵家の主治医だった医者は、黙って一年近く支払いを待ってくれた。父が仕事に復帰したら返せるはずだった、だけど父の容態は回復するどころか悪くなるばかりで。

 屋敷を売ることを決めたのは、母だった。すでに領地を手放している以上は、王都のタウンハウスが唯一残された資産だったのだ。

 使用人が足りず、この数年で荒れてしまっていた屋敷は買い叩かれた。そして、屋敷がなくなれば当然、使用人たちにも辞めてもらうことになる。

 溜まっていた医者への支払いを済ませ、三人の使用人たちにこちらも待ってもらっていた給料と退職金を渡し、出入りの商人などへの支払い、他にもあったいくつもの借り入れを全て清算してしまったら、残りは悲しくなるほどのものだった。

 ブライアンが卒業するまでには、まだ金がかかる。だけど、収入は途絶えたままなのだ。

 母が身分を隠して、街で仕事と住む場所を探して来た。お嬢様育ちの母だけれど、長年の貧乏と、ただ一人だけ残った末息子への愛がいつの間にか母をたくましく変えていた。

 伯爵家保有の馬車などはとっくの昔に売ってしまっていたので、辻馬車を頼み、屋敷の引き渡し期限ぎりぎりで親子三人、それぞれ身の回りの僅かな品だけを持って今住んでいる家へと引っ越した。もっとも母は、ここはとりあえずの仮の住まいのつもりであったらしい。すぐにもっとまともな家に引っ越せると思っていたらしいが、そんなに世間は甘くなかったのだ。


 幸いなことに母が働き始めた仕立て屋のマダムはいい人で、ブライアンの制服姿をひと目見るなり貴族であることを察したものの、身分を隠して職を得た母を責めなかったどころか客に顔を見られない方がいいだろうと、母を店には立たせずに奥での仕事だけにしてくれた。その上、作り過ぎたからなんて言い訳しながらよく食べ物を差し入れてくれたりして、これにはとても助けられた。

 それでも母が朝から晩まで働いて得る給料は予想より遥かに安く、僅かに残っていた屋敷を売った金も瞬く間に減っていく。ファラー家の主治医だった医者はあばら家に嫌な顔ひとつせずに往診を続けてくれたが、いつの間にか来なくなったのは多分、その診療費と高額な薬代がどうしても払えなくなったために母が断ったのだろう。

 半年ほど前から、余裕は全くなくなってしまった。母がブライアンが卒業まで学園に通うのに必要最低限の金だけは、宝石が一つも入っていない宝石箱に隠して絶対に出そうとしないけれど、それ以外の家にある金は銅貨が数枚という苦笑いも出ない貧乏っぷりだ。特にこの数か月は、母の給料日から給料日まで何とかギリギリで食いつないでいるといった状態なのだ。

 ブライアンは学園の食堂で昼食を取るのを止めて、弁当を持参するようにした。弁当と言っても固くなったパンが一つだけ、中にハムかチーズが挟めたらご馳走という侘しいものだ。

 二年次の最初にあるクラス単位の研修旅行も、家の事情でと言葉を濁して参加しなかった。母には大丈夫だから行きなさい、そのためのお金なら残してあるからと言われたけれど、興味がないから行かないと言ってそこは譲らなかった。


 執事のクラークとメイドのファルマは、元気でいるだろうか。両側にびっしりと店が立ち並ぶ通りを歩きながらブライアンは、晴れた薄青の空を見上げながら考えた。

 親子揃って同じ貴族家に勤めることが叶ったと聞いているので心配する必要はないのだろうが、それでも幼い頃から当たり前に側にいてくれた二人はブライアンにとって家族も同然な人たちなのだ。


 貧乏暮らしはいい、まだ耐えられる。

 だけど、もう会えない人たちのことを思い出すとどうしても胸が苦しい。


 クラークとファルマだけではない。最後まで残ってくれていた二人よりもっとずっと早くに辞めて行った使用人たちだって陽気な働き者ばかりで、もう二度と会えないとしてもブライアンはその一人一人を大切に思っている。

 ファラー家で下働きをしていたトム爺だけは、この通りを真っすぐ北に向かった所にある教会に手伝いとして置いてもらえることになって、今でも会いに行くことが出来る。たまに顔を出すと皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにして喜んでくれて、ちょっとした菓子などを食べさせてくれるのだ。

 本当ならブライアンが手土産を持って行くべきなのに、その手土産が買えないのだから情けないことではある。それでも坊ちゃん、坊ちゃんと呼ぶトム爺の声があたたかくて、何かの拍子にふと聞きたくなるとつい会いに行ってしまうのだった。


 出来ることならいつか、みんなを呼び戻したい。だけど今のところ、家を復興する目途が立つどころか薬も買えないのが現実だ。伯爵夫人であるはずの母が徹夜で針を動かしてくれて、それで親子三人が何とか生きている状態なのだ。


 贅沢は言わない、普通でいい。

 貴族レベルは求めていない、平民レベルで十分だ。

 住むところに困らず、ひもじい思いをすることなく、寒さに震えるのもちょっとだけで。

 咳止め薬ぐらいはいつでも買える、そんな普通の生活。

 ブライアンが大切に思う人たちがみんな元気で、笑って暮らせるならそれでいい。


 そんな普通の幸せがブライアンは、心の底から欲しかった。

 


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