異世界が生まれるに至る物語
幻想小説っぽく。
とあるワームホールの先だか微細構造定数が異なる宇宙だか、常春の国だか須弥山の向こうだか、タンスの奥だか電柱の影だか、まあとにかくだ。世界から途絶した世界の片隅の一角の僻地、宇宙から断絶した宇宙の果ての先の裏の脇で、宇宙スケールで言えばごく最近サブカルチャークラスタに属し始めたところの、所謂母なる集合的無意識が、宇宙の喧騒から隠れ、無数の異世界の卵を生んでは割り、転がして投げては遊んでいた。隠れている理由は、神ならぬ身に分かるわけもない。
サブカル好きの母なる集合的無意識に唆され、「『異世界に行こう』と神様が言った」と人が読み書き描くごとにドクリと脈打ち生まれる新たな卵。その無数の異世界の卵のそれまた各所で、世界を支えるキャラクターのこれまた卵達が、母なる力に自分を合わせるべく、また自分に合わない概念、母の忌み子を卵から排除するべく戦っていた。
★★★
真っ赤に染まるいずれ大河になる卵のほとりで、ともに瀕死の傷を負いつつ、立ち上がる女性騎士団長の卵と、仰向けに倒れたまま起き上がれない魔法旅団長の卵があった。魔法旅団長の卵が口から血を吐きつつ怒りの声をあげる。
「クソが、異世界派め」
「現代日本で魔法旅団長とか、管理社会の犬か貴様」
「シケた旅団長よりゃ、イケメンスーツのダンディ魔法局長、似合うだろうが」
最後にもう一度、クソがと呻いてから魔法旅団長の卵は死んだ。騎士団長の卵はそんな魔法旅団長の卵を見下ろすと、よろめきつつも何とか大河の卵に彼の死体の卵を蹴り落とした。魔法旅団長の卵が沈んで姿を消した頃、ようやく駆け寄った他の騎士団員の卵が騎士団長の卵の傷を確かめようとするが、騎士団長の卵はそれを手で制する。急所をやられたのだ、もう長くない。
それでも。彼女の卵は空を見上げ、マイクの卵を受け取ってラッパースタイルで構え。
「先の見えない未来、思い出したくない過去、否定しかない現在!愛情と恐怖と軽蔑と嫉妬の危ういバランス!負のスパイラルで睨み睨まれ見下され見下す!そんな、そんなそんな!溢れる性衝動とかなんかそんな感じの!世界を変えたい出来ればモテたいとかそんな感じの!世界はいいから死ぬほどモテたいって感じの三大欲求を!若者の魂と肉体にこゆく溢れ!零れ食みでて食い込んでる!そんな妄想を!私は求める!そいつを私が!アイツがアタシで!お前が俺と何とか五郎が!異世界を求める!我は求め訴えり!金を求めて売ったエリー!そうだこの世は諸行無情!つうか分かれよこの野郎!異世界来い!私の欲する異世界来い!」
どおん、じゃあん、がしゃあん。彼女の卵が叫び終わると同時に、騎士団員の卵達が三人、銅鑼の卵を叩き、シンバルの卵を鳴らし、ハープの卵を血で濡れた足下に叩きつけてぶっ壊す。
それは母なる集団的無意識に捧げる祝詞。それは母なる力を自らの力として呼び込む儀式。
騎士団長の卵はマイクの卵ごと両手を高くあげ動かない。彼女を後ろからスポットライトの卵が照らす。顔はライトの影で良く見えず、脇腹からドクドクと血が流れている。騎士団員の卵達は楽器の卵達やその破片を片付けつつ、ヒソヒソと言葉をかわした。
「シャウト詩人て古くね?」
「三日くらい悩んでアレ?」
「売ったエリーさんて誰?」
「韻さえ踏んどきゃ許される素人スタイル」
「踏んでもいねえよ」
「若受け狙いのBPМ200とか無理しやがって」
ヒソヒソ声が聞こえて顔が赤い騎士団長の卵は、三人の卵達をきっと睨むとマイクパフォーマンスを開始。脇腹からはドクドク血が流れ続ける。
「うるさい!わかってんならお前らも声をあげろ!そら、異世界転生ここだぞ〜!」
「この際転移でもいいぞ〜ここだぞ〜」
騎士団員の卵の一人が普通の声で続けるのだが。
「声ちっちぇえ!」
騎士団長の卵はマイクの卵を投げつけ、明後日の方向に飛んだマイクの卵は片付けられていたシンバルの卵に当たった。スポットライトの卵の脇に置いてあったスピーカーの卵からひび割れた轟音が流れ、慌てた残り二人の卵も声をあげ始めた。
「正当派異世界転生いいいいいい!ここだぞおおお!ここだああああ!」
「ここだぞおおお!ここだぞおおおお!こっちの水も苦いぞおおおおお!」
「甘いって言わんかああああ!」
瀕死の騎士団長の卵は苦い水発言の団員の卵を蹴飛ばし、やっと限界を迎えたか、いや体がビクリと跳ねてから崩れ落ち死んだ。たあん、と銃声が後から響く。蹴り飛ばされた卵も大河の卵に頭を突っ込んだまま動かない。残った二人の卵は慌てて騎士団長の卵の死体に背を向け逃げだした。
「うわわ!辺獄なんか落ちたくねえわ!」
「まだだ!まだだ!こんな所で!」
叫ぶ二人の卵ではあったが、すぐに騎士団長の卵と同じくビクリ、ビクリと跳ねて倒れる。遅れて銃声も二発。
正統派異世界転生の残党を滅殺した狙撃手の卵は木の卵の上から振り返る。変則異世界転生の卵連合軍が、ゆっくりと大河の卵を見下ろす丘の卵の上にその姿を現しつつあり、隠れていた狙撃手は木の卵から降りて、手を上げながら、悠々と本隊に戻っていく。
★★★
さて、終わらない戦いに加わるキャラクターの卵達は、あるいは目的が異なる卵との一騎打ちで、あるいは目的を同じくする卵の連合による無差別殺戮で命を落とし、弱き概念や卵達は母なる集合的無意識に喰われ消えるか、全てから忘れられた辺獄に落ちて、復讐の機会をじっと窺うことになる。
日本の誰かが何かを読み書き描くごと、各勢力の均衡は崩れ新たな概念が母により生み出され、生まれ落ちたばかりの概念が泥まみれの闘争に加わり、気づけば死んだ筈の卵も辺獄を脱して再び戦いに身を投じる。
次々に生まれ倒れては復活するキャラクターの卵達が混沌を生み、卵同士の細やかな認識の違いが更なる分裂を生み、分裂からの創発が虐殺につぐ虐殺を生んでも、戦いの決着をもたらす希望は現在過去未来の何処にも一切見えず、戦場の混乱だけが加速する。
異世界の趨勢を決する重要で、終わりの無い戦いがそこにあった。
★★★
異世界の卵の片隅で、声が響く。
「悪役令嬢軍が追ってきます!」
「くそ!あんなん来たら滅びるぞ!」
「離反する貴族が他国に取り込まれて滅ぶ的な」
「わかってんじゃねえか!やつらを止めろ!滅ぼせ!」
「ざまあくらいは残しときましょうよお」
「ざまあで俺が死ぬわ!」
「じゃあ活躍しつつ最後に死ぬで!」
「やめろ!せめてギャグで来い!ギャグで来い!うげ!」
「王子!」
悪役令嬢の卵に追いやられた真面目宮廷派の王子の卵が倒れ。またどこかでは。
「ダメだ!城門を突破された!」
「オーク女騎士連合め!性と破壊の申し子め!」
「リビドーあふれてんな日本男児は!」
「いや!くっ殺は嫌!イケメンじゃなきゃいやあああ!」
「え?いいじゃないですか、ガチムチ」
「お、お前か!お前のせいかあ!裏切ったなあ!」
「消せ!そいつを殺せ!誰だこんなん連れてきた奴は!本部は何をしてるんだ!」
「女騎士攻めオーク受けで盛り上がってます」
「そいつが、いやそいつもルパンだあ!」
「おっさん率高くね?」
オークは美味しい豚肉派とオークくっ殺女騎士軍団の戦いはクライマックスを迎える。
「皆、頑張って!巻き込まれ聖女召喚、あと一息です!」
「姫様!」
「暇様!」
「誰が暇な不細工様だ!ぶう殺すぞ!」
「うわ豚般若!」
「姫様が豚!姫様が豚な般若に!」
「暇様とかぶう殺すとか、タイポから遊びすぎ」
「くそ!私だって早く女子校生に卑劣な王族めって罵られたいんだよ!」
「女子『校』生とか狙ってくね」
「どエムな本性、さらしたい!はい!」
「止めて古いから!変なの来たらどうすんの!姫を止めろ!止めろ!止めて!」
「ワシもワシもおおおお!」
「陛下もかよ!おい誰か陛下を止めろ!殴れ!」
「いやここで殺っとけば後々楽じゃ」
「よし、殺せ!」
「酷ぐふ」
ぐさぐさ。王の卵が倒れ伏す中、巻き込まれ異世界転移と王家の陰謀を欲する豚みたいな般若もとい、王女の卵は泣きながら大河の卵に身を投じ、泳いで逃げる。
所変わって陰鬱な森の卵の奥では、黒いフードの卵に顔を隠した男の卵達が睨み合っている。
「ハーレム!巨乳だらけ!最高!」
「純愛!貧乳!それこそ至高!」
「ヤンデレ!ハサミ包丁シュレッダー!素晴らしい!」
「シュレッダーは止めとけ」
「うるせえ!どうせどれも経験ないだろ手前!」
「なんやと!そんならやさぐれワンコはここに来んなや!」
「何だコラ!」
「はっきり言うたるわ!異世界ボッチ趣味なんて誰得じゃ!」
「なんだぁ?異世界だからってはっちゃけコミュ過剰?」
暗い森の卵は凄惨な終末に向かい邁進し、離れた砂浜の卵のビーチパラソルの下、
「おっぱいは話題になるけどさあ、なんで男のアレは話題ならんの?」
「アレはでかけりゃいいってもんじゃないから。デカいと痛いじゃん」
「乳だってデカけりゃすぐ垂れるけどなあ」
「おっぱいもお尻も目立つようにできてるって、デズモンド・モリスが言ってた」
「どっちも目立たない私はどうすれば」
「進化の極み?」
「アタシは要らんわこれ〜邪魔だ〜」
女子会で盛り上がる若い女性の卵達が、ビールを飲みつつグダグダトークで日が暮れる。
「クラス異世界転移の勢いがさっぱり回復しません」
「キャラの多さに躊躇ってんのかなあ」
「我々もあんな人数処理しきれんし」
「よせ!クラスで俺が一番に、とか妄想捗るだろ!もっと声を上げろ!」
「はいはい。こっちだよお!クラス異世界転移はここだよおお!」
深夜、世界の果てでクラス異世界転移を求める声が響けば、別の街の卵では、
「いたぞ!ロリだ!」
「やった、のじゃロリだ!のじゃロリだ!わあい!」
「殺せ!ロリは万遍なく殺せ!のじゃは殺せ!のじゃ言わないのも殺せ!」
「なにい!ロリ殺して喜ぶあいつらペドだ!ペドは殺せ!ジジイもババアもガキも大人も全員殺せ!」
「なんか怖いなあ」
「どっちにしろ腐ってやがる」
「よーし皆〜、ここら辺一帯、やきはらえ〜」
ひねくれた男の卵が呟き、手を振る全身鎧のユルい女性の卵に応じて、ロリに関わる全ては高温の炎で塵一つ残らず焼失し。
「まずい!現代チートだ!」
「逃げろ!逃げろ!」
「サラリーマンなんて嫌だ!」
「ここまで来て元ニートなんて嫌ああああああ!」
「いかん!心を折るな!現代なんて飾りだ!チートがあるなんて現代じゃねえ!」
「そうだ!ありゃ似てるだけで別だ!別だ!殺せ!」
「殺せ!殺せ!全員殺せ!ロリ以外は殺せ!」
「まだ残ってたか〜。おーいこっちも〜」
現代チート派が異世界派とロリ残党を次々銃殺爆殺している大河の卵のほとり。その向こう岸では、逆に全滅して倒れ伏す現代チート派の卵の頭をメイスの卵で潰していく、自分より弱い奴は皆餌だと思い知った豚般若の卵と、それに連れ添う虹の毛並みを持ち未亡人を量産し続けてきた、巨大なニジイロオオアリクイの卵の姿があった。
戦いは延々と続く。
★★★
さてさてさて、延々と続く戦いから目を離して見ればだ。とある同人誌だかネット個人出版だか、どっかのネット小説サイトだか、個人サイトの跡地だか掲示板だかあるいは中二の時のノートの余ったページだか、まあとにかく。ネットの片隅の一角の僻地、日本の果ての先の裏の脇に、世界が知りたくもなければ興味もない、どっかのサブカルクラスタに属する、女性にモテたくてモテたくて仕方が無い夢想家の男が一人、一般世間の喧騒から隠れ、自分の考えた最強設定、異世界アイデアを思いついては書き、挫折しては放置しまた書き直していた。隠れている理由は特に言う必要もないだろう。
「『異世界に行こう』と神様が言った」と男が書いたり、下手な絵を描いたり、またつぶやくごとに変わりつつ、基本ありきたりな異世界。その設定に加わるテンプレ達は過激に改変され、男が気に入らない設定は次々と排除される。結果生まれた矛盾を解消する矛盾は輪廻の輪の中、ある意味戦いにも似た様相を示していた。
男がが何かを読んだり書いたり呟くごとに、テンプレは更に捻じ曲げられ、最新の人気作品が無惨に改悪され取り込まれ、古き良きテンプレや設定は飽きられ放置され、あるいは「辺獄」と名づけられたフォルダに移動され放置、流行の復活を待つ。
そんな日本の片隅で悶える男の行動は、当然ながら宇宙の片隅で蠢く母なる集合的無意識を模倣している。男が書き連ね、描き出し、思い起こし修正するアイデア、それこそが母なる集合的無意識が男に預けた異世界の卵の一つなのだ。卵はいまだ孵らず、歪な成長しか見せず、業を煮やした母なる集合的無意識に喰われてしまうこともある。しかし男は諦めない。
四十行ほどの小説が書かれたノートは間違えてゴミとして火に焼べられ、ハードディスクは間違ってフォーマットされ、ネット小説サイトのアカウントは盗作疑いで削除され、二次創作同人は印刷屋のミスでデータは消失、納品すらされずに支払だけが残っても。やはり男は諦めきれない。
気づけば、男は新しいノートを文房具屋で買い求め、ハードディスクを復旧し、ネット小説サイトのサポートに頼み込み、印刷屋に入稿する前のデータからもう一度入稿データを完成させる。母なる集合的無意識は咀嚼吸収した卵を生みなおすが、諦めの悪い男に辟易し、結局卵を預け直す。二度三度と続くうち、母なる集合的無意識は面倒臭くなって放置するようになった。男は卵を抱え離さない。
異端と弾劾されるファンタジー世界の女性騎士団長、現代管理社会の一角を担う総務省魔法局長。どちらのキャラ造型に失敗する。卵から女騎士の祝詞が聞こえれば正統派異世界転生に立ち直り、悪役令嬢のざまあが聞こえれば王子の屑度を上げつつ、くっ殺で豚肉なオークを考えては矛盾に戸惑い、結局生姜焼定食を頼んで忘れてしまう。不器用な男には恋愛などテンプレ以外知らず、気になる女性を見つけてもヒロインの胸の大きさをそれっぽく変更するのが関の山。飲み会の隣席で聞くえげつない女子会トークに戦慄しては女性キャラはどんどん変化する。クラス異世界転移勢の呼び声を聞けど同級生の名前も思い出せなければ、三十人の名前を考えるだけで挫折。女性キャラで聖女転生を夢想するも、ありきたりなエロ展開を外そうと頑張った結果王女が筋肉力士になって意味がわからない。現実のロリ犯罪者の記事を読んで恐怖に震え、ロリ臭をなるべく排除しようと頑張り、好きなアニメ映画を見直してはキャラがどんどん似ていく。異世界は無理でも現代なら、と書き出してもそれほど現代社会に詳しく無い自分に絶望し、肉体派な豚般若の声に引きずられて始めた筋トレは三日と続かなかった。これでは筋肉話も書けやしない。変なスパムばかりのメールボックスを見て、また選考に落ちたかと落胆する。
男の人生を決するわけでもない、どうでもいい苦悩は、延々と続いていた。
★★★
いつか、疲れた男はある日、モテを諦める。あるいは男に告白してきた女が当然の様に隕石に当たって死ぬか、ブラック企業に就職して女を追う暇も、異世界の卵を温める暇もなくなる。実家の事情だか、ペットの癒しに触れただか。いずれにせよ、男は夢想から現実に立ち戻り、自分の筆の進捗を待っている異世界の卵と決別する。
「そんな!せっかくギャグで和解したのに!」
「あんまりですわ!ヒロインすらまだ決まってないのに!」
乾燥して崩れていく世界で王子や令嬢や女子会ガールやオークやどっかの警部やどっかの未来の代王や筋肉女や巨大なニジイロオオアリクイが叫び、崩れる世界で逃げ惑う人々の悲しみと怨嗟の声が溢れて零れても、耳を塞いで逃れていれば、そのうち異世界の卵の声は止んでしまい、男は全てを忘れることができるだろう。
男は脱皮し成長し、疲れた大人と呼ばれるようになり、日本人サブカルチャークラスタと距離を置き始める。慣れないスーツを着るか普段着が許容される仕事場を探し、飲み会の頻度は週に一度に増える。仕事にも段々と慣れ、男の外見を好む趣味の悪い相手、もしくは内面を誤解し勘違いした相手と渋々愛を育むこともあるかもしれない。ただ寂しさに沈む日常を生きる事を決めるかもしれない。ある程度の年齢になり先行きも見えず、徹夜に疲れて転職するかもしれない。二馬力で頑張り愛する子供ができるかもしれない。疲れてカップラーメンをすする孤独な一人寝の夜に耐える事を覚えるかもしれない。高級マンションの高層階を手に入れるかもしれない。
そんな長い日常の中である日、徹夜疲れの明け方か、一人でテレビを眺める週末の昼か、仕事で怒鳴られ酒で慰める夜か、ふと大人動画を見る深夜か、幼稚園の歓声が聞こえたか、花火大会に向かうカップルを電車で見たか、エンドロール後の映画館か、ライブ終わりの会場前か、似合わない若受けするコーヒー屋か、人気のない古本屋の閉店の案内を見たか、行列で待つ駅のホームか、病院のベンチか、花束を貰って退出するオフィスか、誰かを試着室で待っている時か、ネットで流行りの小説を書店で見かけたか、はたまた誰かに手を引かれてゆっくり歩く公園か、訪れるもののない病室か。海か樹海か繁華街のビルの屋上か、病院のベッドの上か、自宅の布団に横たわり。どこかのいつかに、男は幻影を見る。
「ブヒヒ!ブヒブヒ!ブヒブヒヒ!(てめ!なにやってんだ!いい加減にしろよ!)」
「あなた!そんなに怒らなくても」
「ブヒヒヒヒイ!(いいんだ!こんな身勝手な奴!)」
かつて自分が想像したオークが怒り、女騎士がそれを宥める、そんな白昼夢。捨てたはずの荒廃した世界で汗水垂らして強く生きる自分のキャラ達。そんな異世界の光景、自分が育み消えた筈の男の世界。それは次の瞬間には消え失せてしまい、記憶にも残らない。
それでも幻影を見た後、男は鍵を忘れたと笑って会社に戻る。番組がCMに替っていても気にしない。閉店ですよとマスターに言われればお礼を言い帰り、大人なサイトがアクセス不能でもそれならそれで、と寝るばかり。幼稚園児に手を振り駅まで走り、花火大会の会場近くは避けるだけだ。映画館では余韻に浸り、次のライブ会場に向かい、温かいコーヒーさえあればいい。新しく開拓した古本屋で長年探した本を見付けて喜び、列車に毎日ぎゅと押し込まれ目をつむってもだ。病名を聞いて焦って家族に電話しても、再就職先を探し奔走しつつ、どの服も似合うよと本気で思い始めた自分に苦笑し、手にした小説を本屋のレジに運ぶ。その何時でも、何かが彼の心でドクリと脈打つ。手を引かれながら聞く公園の子供の騒ぐ声に微笑み、ネットの無い一人の病室ではラジオを聞けばいい。波か木々か人の喧騒に引き返し、誰かに看取られるベッドの上、あるいはたった一人布団に横たわり、男はやっと、心臓にあわせて脈打ち続ける何かが、そのドクリと脈打つそれが、心臓ではないと気づく。
男が卵を忘れていても、夢想家の夢、異世界の卵はいつまでも彼の心でドクリと脈打つ。死ぬときも。
「つうかお前結局くっ殺かよ!イケメンどうしたよ!」
そして一人の夢想家の男が、笑って叫んでから死んだ。自分の人生と共に生きた卵を抱えて。
さてさてさてと。とある宇宙の果ての先、世界の片隅の脇で、母なる集合的無意識は長年待ち望んだ挙句に孵らず萎れた異世界の卵を仕方なしに喰らうことにする。異世界の卵と癒着しきった男の魂も一緒に喰うことになるが、母なる集合的無意識は気にもとめない。そうして、男は輪廻に戻ること無く卵ごと母なる集合的無意識に吸収され消滅する。
★★★
さてさてさてと続いて、さてである。とある11次元宇宙の畳み込まれた部分だか、印刷屋倉庫から出荷を待つ同人が積み上がったパレットと床の隙間だか、黒いフード下の髑髏だけが真相を知る陰鬱な森の奥だか、砂浜に打ち捨てられたビール瓶の底に残る酒精の抜けた麦汁の泡だか、クラス異世界転生で全員消えて無人の教室の使われていないロッカーだか、まあとにかくどこかだと納得して欲しい。母なる集合的無意識から新たに生まれ落ち、珍しく直ぐに孵ってすくすくと育つ異世界があった。その異世界の辺境、ある王国に、最近よく王宮警備隊から追いかけられたり、殴られたり隠れたりと、逃げまわる男がいる。事情があるんだと女騎士に全力で殴られて吹っ飛んだり、女騎士の旦那オークに抱きしめられて窒息したり、Bボタンキャンセルに失敗し続けて結局山と見紛うばかりに成長したニジイロオオベヒモスクライ(最終進化形)と単身で死闘を繰り広げたりと、何かと都でも話題の男だ。あなたも聞いたことがあるかもしれない。何と国の王女、美しい顔に豚みたいな体格の殆どが筋肉、まるで力士だと評判の豚般若こと聖王女様ですら、夜な夜な王宮の暗い地下室で、彼を想って鍛錬あるいは悶えているとか。というか彼が隠れている理由はまさにその聖王女のせいではないか、と万人が思っているのだが、所詮神ならぬ常人である我ら。皆命は惜しいと見える。王女にぎゅっと握り潰されたら死んでしまいます。
あの下町外れの酒場であれば、常連のビール好きな毎日女子会ガールやら、シャウト騎士団の毎日楽器を壊さずに居られない狂える女性騎士団長やら、ざまあなるものをされて落ち延びてきた残念王子やら、左遷された魔法旅団長やら、他にも軽くイカレたおっさん達が屯している。もっと詳しい話を聞かせてくれるかもしれない。
「異世界来た!私の欲する異世界キター!」
あの酒場、最後に全員で肩組んでアレ歌わなくちゃいけないから、それに我慢できればの話だけれども。
徹夜明けのハイテンションで降りてきた駄ラップより、二連タイポで偶然生まれた豚般若のがインパクト強くて呆然。