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青い瞳の黒猫

作者: 森 彗子

主人公 戸田 雪(15歳)不思議な体験を通して自分とは、幸せとは、生きるとはなにかに目覚めていく。ハードな出だしですが、ラストはほっこりハッピーエンドです。


自分らしさがぎゅっと凝縮した短編小説。最後に感じたことを短くてもコメント下さると、とても嬉しいです。よろしくお願いします。




 挿絵(By みてみん)



     序


 私が想う強さで、彼女は私のことを想うことなんて、きっとない。そうと知っていても、私は立ち尽くす。この願いがどうか、彼女に届きますようにと祈らずにはいられない。


 夕闇が濃くなりかけた公園の入り口に、いつの間にか影法師が立っていた。心臓が跳ねた。


「なにしてるの?!」と、明らかに怒った声で彼女から近付いてくる。思いのほか早く願いが叶い、私はブルリと震えた。


     第1章


 割れたグラスの破片を拾いながら、途方に暮れた。興奮醒めやらぬ荒々しい呼吸をしている父親から、今すぐ逃げ出せば良いのに。どうしても動けない。逃げ出せない。

 ここを出て行っても、私の居場所なんてない。路地裏でくたばって、人知れず腐っていく死体しか想像できない。


「っちくしょう!!」


 吐き捨てる言葉にまた全身を怒らせ、私は亀のように手足と首を引っ込めた。ズカズカと大きな足音が迫り、横腹に鋭い一撃を喰らう。一瞬、痛みは感じなかったのはなぜだろう?

 父親が立ち去った後で、やっと痛みがジンジンと自己主張を始める。そろりとシャツを捲り上げると、痣にはなっていなかった。手加減したのだろう。

 最近の父は、私の身体に痕跡が残らないように気を付けている節がある。昔みたいに、火のついたタバコで手のひらを焼かれることもなくなったし、これでもDVは改善傾向に向かっているのだと信じている。


 お母さんが逃げ出して、私までもが居なくなったら、父親あのひとはきっと犯罪者になるかもしれない。そんな危機感があるから、私はどんなに怖くても憎くても、あの人から離れないのだ。きっと、そうだ。そうに違いない。だって、そうなんだ。そう、そういう生き方しか私には選べないんだ。


 寝る前はいつも、そんな風に自分に確認する。明日が来るなんて、当たり前なことじゃない。私が死体になれば、結局あのひとは犯罪者になってしまうだろう。それも仕方のないことなのだ。でも、やっぱりそれはあってはならないことだ、と思う。


 朝。荒れた部屋の隅っこで掛布団に包まって眠りから覚めると、昨日の割れたグラスの破片が朝日に煌めいた。それを拾い、新聞紙とごみ袋ですっかり包み込んでから、掃除機をかけた。収納棚がない我が家に、物が溜まるのは仕方がないこと。片付けようと思っても、勝手に捨てたとまたきついおしおきが待っている。掃除しとけ、と言いながら理不尽この上ないが、それでも仕事には行って生活費を稼いでくる父親には逆らえない。彼がいなければ、私は生きられないことを叩き込まれている。


 母が私を捨てたことも、理解しているつもりだ。彼女が母親になったのは十六歳で、今の私とそう変わらない年齢の時に父と出会ってしまった。高校中退で、親にも勘当されて、私を生むと決めた。でも、彼女には生活力がない。生きる術を身に付ける前に乳飲み子を抱えてしまったのだから、どうしようもない。だから、彼女が家を出ると決心したときの目には、相当の覚悟があった。引き留めることも、着いて行くと泣き縋ることもできなかったのは、彼女から散々人生の後悔を愚痴られてきたせいだと思う。だから、自由をあげた。そう思えば、別離の痛みは消えていく気がして……。


 とりあえずビニール袋にごみらしきものを纏め、悪臭を放つものは必ずゴミの日に捨てる。冷蔵庫もいつからあるのかわからない真っ黒くなったタッパが積まれたエリアが存在するが、怖くて手がつけられなかった。父親は、母親の痕跡が消えるのを嫌がっている節があるからだ。そんなに大事な女なら、大事にしてやればいいものを、と思う。なぜ、父は妻子に暴力を振るわなければならないのか、彼自信もきっとわかっていない。


 家を出て鍵をかける。自分の服装がおかしくないか、エレベーターの細い鏡でチェックした。髪が伸びすぎているから、今夜は散髪しなくちゃいけない、と心のメモに書き留める。


 学校は良い。規律の中にある穏やかな時間が、荒んだ私を癒してくれる。同級生とは殆ど会話しないのは、気難しい本を手に持っていれば誰も気安く話しかけて来ないから。そっちの方が気はらくだ。

 平和な世界で生きている連中と、異端児の私が交じり合うことなんてない。早く大人になって、早く理不尽な地獄から抜け出すことだけを考え、余計なしがらみは要らない。


 でも、私がいくらそう思っていても、たまに空気読まないで近付いてくる子がいる。


「戸田さん、宿題終わってる?」


 私の席の前に座る彼女は、私のバリアをものともせずに話しかけた。この距離でさすがに無視は出来ない。しょうがなく、「……終わってるけど」と応えると、彼女はニコリと笑った。


「さっすがぁ。ちょっと見せてくれない? 答え合わせしておきたいんだ」


 彼女は両手を差し出した。断れる余地がない。それに、この笑顔を曇らせたくはないと思わせてしまうのだから、笑顔が似合う女の子は最強だと思う。


「……しょうがないなぁ」


 根負けしてノートを渡すと、噛り付くように私の取り組みに目を通した。


「いつ見ても、鮮やかね」と関心される。褒められるのは悪くない。


「ふむふむ……。なるほど、この順番だったんだね! やばい! 私、いっつもここでミスるんだよねぇ」


 そんな暑苦しい独り言を言いながら、彼女は自分のノートに戻って行った。青いインクのボールペンで、私の「解」を書き写す。私よりも丸くふくよかな文字がその色合いとはうらはらに、楽し気に踊っているように見えた。


 青いインクが喜んでいる。言い得て妙だが、その表現がしっくりする。私の書いた文字はどの色を使っていても、なぜか暗くくすんで見えた。陽が落ちた後の、夕闇のような暗さがある気がして、同じ数式が並んでいるのにこうも違うのかと感じた。


「ありがとう! 助かったよ。今度のテストで、数学は80点欲しいから、頑張って勉強してるの」


 すらすらと自分の話をする彼女が、どこか羨ましい気もしないでもない。そんなに無防備で大丈夫なの? と不安になることもしょっちゅうある。でも、彼女はどんな時も笑顔で乗り越える力があるように見える。私にはない明るさ。それがとても、眩しい。


「前回は73点だったの。戸田さんは?」


 キラキラした瞳に見つめられて、私はガラにもなく素直に答えた。


「95点」

「すっごぉぉぉぉい!!」


 大袈裟過ぎるほどの大声で驚かれて、私まで驚いた。クラスの注目を浴びて、居心地悪いったらこの上ない。だけど、皆すぐに自分の関心事に戻って行った。


「坂本さんて声、大きいよね」と、抗議するつもりで言うと、「いやぁ、それほどでもぉ」と、なぜか彼女は照れ笑いをしている。まったく、どこまでもポジティブで尊敬するよ。


 中学三年生と言えば受験なのに、三者懇談に私の親はやって来ない。父親の仕事は、トラックで遠くまで荷物を運搬するから、途中抜け出せない。先生も家庭の事情を察してくれて、一対一で相手をしてくれる。もうすぐ期末テストがあって、それが終わればすぐに夏休みが来る。中二の頃から継続して担任になった石渡先生は、「お前なら奨学金の返済免除も夢じゃない。勉強頑張って、人生を変えられる」と発破をかけてくれた。


 先生は私の家庭事情をさっくりと知っている。とは言え、父に踏んだり蹴ったりされていることは伏せておいた。大袈裟な騒ぎになれば、父を刺激して殺人鬼に変えてしまうかもしれないからだ。私が生きている間に、父が犯罪者になんかなってみろ。最悪も良いところだ。世間は大罪を犯した者とその家族には厳しい。それは、父の生き様が証明している。祖父は犯罪者で、叔父も刑務所にいて、限り無く黒に近い父の危なっかしさは、一緒に暮らしている私が一番解っている。


 石渡先生との約束のおかげで、私の学力は学年上位に食い込んでいる。とんびが鷹を生んだ、と父親はそこだけは喜んでくれた。将来、俺をラクさせてくれよとも言われたけれど、あいつは信用ならない。母を何度も騙し傷つけてきた前科持ちだ。それに、競馬依存症がある。どんなに借金しても、賭け事から足を洗えないクズ野郎、それが私の父だ。


 学校帰りに安売りのスーパーで今夜のおかずと五キロの米を買った。重たい鞄に、重たい米。両腕に抱えて市営住宅に辿り着く。いつも以上にしょっぱい臭いが立ち込める廊下を歩いて、薄汚れた鉄製のドアに鍵を差し込んだら、違和感があった。


 荷物を廊下の隅に置いて、そっとドアを開ける。案の定、施錠は解かれている。玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた見知らぬ靴があった。父親以外に三人いる。全員、男らしい。嫌な予感がした。


「おう! 娘が帰ってきた!」


 パンチパーマらしき奇妙なヘアスタイルの小太りのおっさんが、私を発見した。ドアを閉めて、全速力で逃げ出す。エレベーターの前を通り過ぎて、階段で地上まで一気に下って行った。途中、踊り場で人にぶつかりそうになりながらも、本能が「立ち止まるな!」と叫んでいた。


 荷物を全部放り出して、逃げた先は学校の目の前の公園だった。ここは治安が良い。他の公園だと、憂さ晴らしを探す野良犬みたいな高校生がとぐろを巻いている。逃げるなら、ここが最適だ。職員室は明かりが点いていた。だけど、私は先生に頼ろうとは思わなかった。


 一時間半潰して、再びそろりそろりと自宅の様子を見に行くと、まだ連中は家の中にいる気配がした。放置した荷物は回収され、なけなしのお金しか入っていない財布さえも、ない。絶望的な気分になる。


 大昔、とはいえ四年ほど前のことだ。父親が借金した相手が、取り立てにやって来た。その時、私を舐めるような目で品定めして言った言葉がある。「いざという時は、この娘を売れば良いんだからな」と。あの時の視線に、私は犯された。それぐらい、気味が悪く恐ろしい感覚が鮮明に焼き付いていた。


 生きるために身を売る女はいる。もしかしたら、出て行った母親もそんな風にしか生きられないかもしれない。だけど、私は出来るなら最後の最後まで、売春なんて生き方を選びたくはない。殺伐とした人生がもっと悲劇に陥っていくだなんて、そんな人生はくそくらえだ。


 昨夜の父親の荒れようからして、恐らく借金の返済がまた停滞しているのだろう。そんなことのために、私の人生を荒らされたくはない。あと何年耐えれば、この地獄から抜け出せるのか、それだけを考えてやってきたのに全部水の泡になる。それだけは、避けたい。


「あいつ! 恩知らずめ!」


 分厚いドアの隙間から、父親の怒鳴り散らす声が聞こえた。ああ、やっぱりだ。


 恩知らずだなんて、あんたに言われる筋合いはない、と心の中でつぶやきながら、音を立てないように自宅を離れた。いよいよ帰る場所がない。路地裏で死体になる道が、鮮明に脳裏に浮かぶ。まったく、自分のネガティブ思考には困ったものだ。再び、安全な公園に戻るとそこには野良猫が集会を開いていた。


 野良猫でさえコミュニティがあるのだ。あちこちでにゃーにゃ―言っている彼らを眺めながら、公園の入り口で佇んでいると、「あれ? 戸田さん! どうしたの? こんな時間に」と、聞き覚えのある声がした。


 坂本満里奈が白いスエット姿で立っていた。


「……あ。えっと……」


 どう言えば良いのかわからずにいると、彼女は「家来る?」と言った。


     第2章


 今、私は完全に行き止まりにいる。いつか、こうなることは薄々わかっていたけど、まさかまだ中学生の娘に、そんな酷な運命を押し付けてくるとは、見通しが甘かったとしか言いようがない。ゲスの下にも階級があるなら、その言葉であの腐れ野郎を罵りたくて、しょうがなく腕に口を押し付けながら唸った。


 交番に駆け込もうか。石渡先生を頼ろうか。それとも……。


「何があったの? おっかなぁい顔して」


 一時的に坂本満里奈の誘いに甘え、今、私は初めてクラスメートの自宅に居る。まだ制服を着た私を連れて、学校から目と鼻の先にある古いアパートの二階に案内され、買ってきたばかりのコーヒー牛乳をプラスチックコップに入れてもてなされた。

 満里奈の部屋は、簡素な家具と動物のぬいぐるみがずらりと並んでいる。生活感がないおかしな雰囲気があった。冷蔵庫の中も、ほぼ空っぽで食器類も見当たらない。


「基本、私しかいないから安心して寛いで」と、彼女はいつもの明るい顔を向けて言った。


 悩みなんてなさそうな笑顔。目眩がするぐらい眩しくて、思わず目を細めた。


「何かから逃げてきたみたいな顔だね」


 笑顔の美少女から思いがけない指摘が飛び出して、私は心臓がズキンと縮み上がった。


「どんな顔だよ」と、苦笑いで受け流す。


「隠さないで。私にはわかるんだよ」


 思わず生唾を飲んだ。


「私と同じ匂いがする」


「同じ匂い?」


 満里奈はまだ人たらしの笑顔で私を見つめながら、言った。


「死臭がする」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。唖然として、満里奈の笑顔を見詰めた。


「ちょっと違うかな。血生臭いとも違う、そうね。犯罪の匂いって言うのかな?」


 言葉を無くす、とはこのことだ。私は自分でも珍しい程に混乱し、戦慄する。立ち上がり部屋を出て行こうとしたが、ドアノブが回らない。鍵のつまみを回しても、ドアは開かない。ヒヤリとした汗が額を伝っていく。


「逃げないでよ。っていうか、逃がさないけど」


 満里奈はくつくつと渇いた笑いをして、立ち上がった。


「理不尽な暴力に堪えながら勤勉。大した生命力よね」


「なんなんだよ?!あんた!」


 思わず怒鳴ったら、満里奈はすぅっと真顔になった。見たことのない彼女の本当の顔。切れ長の眼は鋭く光り、キツネを連想させる顔立ち。そして不思議な青いオーラ。


「殺っておしまいなさいよ。そんな父親」


 また、耳を疑った。


「私はね、自分のヘマを子供で弁償するような男は、許せないの。私が殺してあげましょうか?」


 な、に? なんて?


「あなたの大事なものをくれたら、私があなたの父親を上手に始末してあげる」


 両手で頭を抱えた。目眩がする。


「お金じゃないのよ。そうね、何が良いかしら」


 満里奈はまたニィッと笑った。


「あなたが今、特に大事にしているもの。それは……」


 ゆらりと揺れながら一歩、また一歩と迫ってくる彼女が、異形の者に見えてしまう。錯覚だ、これは幻だ、と頭の中でもう一人の私が必死に叫んでいた。目と目が合うと、もう反らせない。なぜだかわからないが、自分の意思で瞬きさえもできない。


 満里奈の細い指先が伸びてきて、私の頬に触れたと思ったら、親指で下唇を押された。真近に迫った美しい少女の顔を凝視しながら、髪の毛一本さえも動けないまま、私は口づけされた。柔らかい感触がして、それが予想以上に冷たくて、息が止まる。


「……あら、あなたって意外と優しい子なのね」


 そっと離れたところで、満里奈ががっかりしたようにつぶやいた。私は玄関でへたり込んでしまった。冷たい水が体内を駆け巡るような不思議な感覚に支配されて、まだ動けない。


「父親を殺すのは嫌なのね。じゃあ、一緒に暮らせなくする方法を見つけるっていうのは、どう?」


 しびれているとは違う。でも、一番近い感覚。金縛りなのだろうか……。視線も動かせなくなる。


「例えば、罪を犯して刑務所に」


「それだけは、ダメだ!!」


 声が、出た。自分で驚きながら、満里奈を見上げて睨みつけると、彼女は笑顔で私を見つめ返してきた。何を考えているのかわからない笑顔に、ゾクゾクと悪寒が走る。


「……ああ、そういうこと。あなたは既に罪人の子孫なのね。可哀そうに……」


 可哀想ね、としつこいぐらい連呼しながら、満里奈は私の前にしゃがみこんで、動けない私の髪を撫でたり、涙を拭いたりしていた。触れられる度に死人のように冷たい感触に、痛いほどの悪寒が走る。


「……じゃあ、縁を切るっていうのはどう?」


 益々、混乱する。


「あなたは完全に犯罪者と無縁になるの。駄目な両親は始めから居ない子になるのよ。だから、そうね。時間を戻してあげる。あなたの母親が子供を産んだら、その子を私が攫ってあげるわ。どお? 人生が変わるわよ?」


 脳が拒絶していた。不可能なことばかりを並べる怪しいクラスメートの正体が何なのか、わからないと。この異様な状況で考えを纏めることができない。


「そして、石渡先生の子になるの。先生ね、学生時代に高熱出したせいで無精子病になったの。だから、奥さんとどんなに愛し合っても子供が授からないんですってよ。可哀想でしょう?」


 一体、なにを言ってるんだろう? この子は誰だ? どうしてこうなった?


 見開いたまま瞬き出来ない瞳に涙の膜ができて、視界がぼやける。目に入る全てが滲んで、満里奈の顔がわからなくなる。霞んで青色に染まり、暗い幕が下りるように私は目を閉じていた。


「安心して。全部夢だから」


 やけにはっきりと聞こえてきた声に、私は否応なく頷いて意識を手放した。


***


 ノイズが聞こえている。複数の人達のしゃべり声と、時々名前を呼ばれている気がして、心がざわついた。遠い場所で、私を眠りから呼び覚まそうとする声に耳を澄ませると、細かった青い光の帯が急速に太っていって、次第に眩しいぐらいの明かりが降り注ぎ、思わず目を眩ました。


 白い天井。沢山の覗き込む顔。そして、「あき」と私の名を呼ばれ、その人を見る。


「目を開けた!」「大丈夫?」「頭、痛くない?」「これが何本かわかるか?」


「石渡先生」


「え?」という顔をした先生が、驚いていた。


「あなた。やっぱり病院に連れて行った方が良いわ」


「そうだな。じゃ、電話かけないと」


 石渡先生と見知らぬ女の人が、私から離れてそれぞれ支度を始めた。寝かされていたソファから起き上がると、肌触りの良い部屋着を着ている自分に気付いた。驚いて立ち上がり、窓に駆け寄って自分の顔を眺めた。知っている顔にホッとする。でも、違和感が半端なかった。そうだ、痩せ過ぎだった身体は程よく肥えているのだ。膨らみ切らない胸が立体化していて、それに髪の毛も肩の高さで上手に切られていて、爪もピカピカに磨かれている。容姿が違い過ぎる。


「……うそ、なにこれ」


 私は混乱した。皮膚を抓るとしっかり痛む。髪を引っ張っても、頬を叩いても、痛い。夢じゃない。


「なにこれ?」


「なにが?」と、背後から声をかけられた。


 綺麗な女の人が心配そうに私を見ながら、額に手をあててきて、仕舞には額同志をくっつけてきた。良い匂いがした。


「熱は、なさそうね」


「あの! 私、どうなってるのかわからなくて」


「なにがわからないの? 自分の名前は覚えてる?」


 聞かれるがままに思い出そうとして、思いついた名前を口に出した。


「石渡あき、だよ」


「じゃあ、問題ない」と、石渡先生が傍に来て言った。


「生年月日は?」


 それも思いつくまま答えたら「何も問題ないじゃないか」と二人は安堵していた。


「あなた、廊下でばったり倒れてたのよ。仕事から帰ってきたら、そんなことになってるから驚いたわ」


「変なところで寝るなよ。身体がおかしくなるぞ」


 石渡先生は心配そうにそう言うと、私の背中に手を回して頭をよしよしと撫でてきた。驚きの距離感に、私は固まって動けない。


「あ~あ、驚いてすっかり忘れてたけど、腹が減ったな。もうこんな時間だし、ラーメンでも食べに行こうか」


 そう言って、あれよあれよと上着を着せられ先生の車に乗せられて、私は町で一番美味しいと評判のラーメン屋に連れて来られた。


「みそチャーシューで良いわよね?」と、女性が言うと「たまには旨塩も食べてみれば良いのに。いっつもおんなじもの食べるなんて、勿体ない」と先生が言った。


「どうする? 今日はお父さんと同じもの食べようよ。なぁ、あき」


 吃驚した。先生が自分で、お父さんと言ったのだ。その時、暗い場所に立っていた見知らぬ男が後ろに下がって背を向けて、向こう側に歩いていく姿が脳裏に浮かんだ。


「……えっと、……えっと……」


 なんだろう。酷く不安になる。その後ろ姿が暗闇に消えてしまう前に、呼び止めた方が良いんじゃないのか、と迷っている自分がいる。


 もう顔も識別できない程の距離になると、居ても立ってもいられなくなって、私はラーメン屋を飛び出して、夢中で走っていた。


 確かめたかった。目覚める前まで自分が住んでいた部屋が、今もあるのか。あそこにくそ野郎と罵った父親が実際に存在するのか、確かめずにはいられない。


 広い歩道を走り、いくつかの曲がり角を曲がってやってきた市営住宅は、夜九時を過ぎて半分眠りの中に入ろうとしていた。薄汚れた塗料が日焼けで劣化して、はがれそうになっている棟の入り口まで来ると、一階部分に並ぶステンレス製のポストの名札を確認した。708号室に住んでいる人の名前が、「高橋」になっている。何度見ても、そこにある名前は「高橋」で、「戸田」じゃない。


 駐車場まで駆けていくと、駐車場ふたつスペースを占拠していたギラギラした怪しい装飾の悪趣味トラックはどこにもなかった。通りすがりの男性に「戸田さんは、この辺りに戸田俊一はいますか?」と聞いても、「知らない」と言われて通り過ぎた。


 なんだろうか。この喪失感は。


 なんで、こんなことに?


 納得いかなくて、再び古ぼけた棟のエレベーターを使って七階まで上がり、708号室の前にやってきた。そこに掛けっぱなしていたはずの、母親が置いて行った壊れた傘がない。散々蹴られて凹んでいたはずのドアもきれいなものだ。


 チャイムを鳴らして出てきた初老の女性が、私を見て不思議そうな顔をする。


「あの、戸田さんはご存知ないですか?」


「……知らないけど」と、言われ。「すいません、夜分にお邪魔しました」と謝るのが精いっぱい。


 茫然としながら、私はあの不思議なクラスメートの住む部屋に向かった。どっちが夢で、どっちが現実かわからない。


 学校の前の公園はにゃーにゃーと野良猫が集まって鳴いていた。それを横目に見ながら、小走りになって記憶を辿る。見覚えのあるアパートの錆びた階段を上り、小さなチャイムを押したが反応がない。ドアには空き家を意味する書類が入ったビニールがぶら下がっていた。よく見れば、そのアパートのどこにも入居者がいなかった。


「……うそ、うそだ。こんなの、嘘だ。全部、夢だ」


 しゃがみ込んでつぶやいた。目を閉じる度に、記憶が消えていく。まるで指の隙間からこぼれおちる砂のように、サラサラと音のない音をたてて夢の中身も忘れてしまう。


 不安と、戸田 ゆきという名前だけはっきりと残って、あとは全部忘却の海に沈んで行った。


「全部、夢。あれは、全部夢だったってこと?」


 私は自分の身体に手を伸ばし、触れてみた。感触も温もりもある。これは現実。確かに私はいま、ここにいる。石渡あきとして実在しているのだ。


 戸田雪って、誰だっけ?


 なんで私、こんなところに来たんだ?


 不思議な気分で、見知らぬアパートの階段を降りた。公園の隅っこに公衆電話があったから、私はポケットに入っていた小銭入れからコインを取り、電話をかけた。指が自然と動いて、七回目のコールで応答があった。


「あきちゃん? いま、どこ?」


 お母さんの声に私は安堵した。


     第3章


 居場所を伝えると両親は車で私を迎えに来てくれた。


「なんだって、こんなところに」と、お父さんは訝しんでいる。だって、すぐそこにお父さんの職場があるからだ。私はここではない学区に住んでいる。この中学校に来たことなんて、一度もない。


 猫ばかりがいたはずの公園は、静かだった。車に乗って自宅に帰る。その途中で、間もなく深夜になろうというのに、白いスエットを着た女の子が歩道を歩いているのが見えた。走る車の窓にへばりついたけれど、あっという間に通り過ぎてしまう。自分がなぜ、その人影に反応したのかさえわからないまま、ため息を吐いた。


 自宅に帰るとお母さんがインスタントラーメンを作ってくれて、三人で食べた。結局、私が突然どこかに走り去ったせいで、両親とも夕飯を食べ損ねていた。悪いことをした、と反省しながら謝ると、お父さんもお母さんも優しかった。「思春期は、突発的に走り出すものよね」「そうそう。俺にもあったよ。唐突に歌いたくなってな。夜中なのに公園行って、下手なギター弾きながら歌ったらお巡りさんに怒られて、補導されたこともあったなぁ」「えぇ、うっそ!」と、両親は楽しそうに会話している。微笑ましいぐらい仲がいい二人。私の冷えた身体は、熱いラーメンと共に心の奥までポカポカと温かさに包まれていった。


 自分の部屋。ベッドカバーに本棚、学習机に可愛らしい洋服ダンス。足元には大きなクローバーのマットまで敷かれていて、整然としていた。どこからか薔薇の香りがする。鞄からノートを引っ張り出すと、自分の字が並ぶノートを捲って行った。特に変わった様子なんてないのに、なぜか私は違和感の正体を探している。パジャマのボタン程もない小さない違和感。すごく気になったけど、どっと疲れが押し寄せてきて、私はベッドに入って目を閉じた。


 翌朝、制服を着た私はやっぱりほんの少しの違和感を覚えて、鏡の中の自分と見つめ合っていた。目覚めた時、少しだけ混乱していたけれど、部屋の眺めているうちに落ち着いた。長い夢を見て、疲れているのだと思った。顔を洗い、お母さんが作ってくれた朝ご飯を食べて、なぜか涙がひとつぶ零れ落ちた。美味しくて、嬉しくて、そして寂しくて。よくわからない感情が交じり合う。


「じゃ、先に出るから」

「いってらっしゃい」


 お父さんは急いで家を出て行った。中学の教師をしているお父さんは、生徒の信頼を得るのが上手いのだと、お母さんは繰り返す。「悩んでいる子を放っておけないのよ」と。そんなお父さんを誇らしく思いながら、私とお母さんは同じ時間に家を出た。


「あきちゃん。鍵を忘れてないわね?」


 確か、制鞄のポケットに入れてある。確かめるためるために玄関脇に鞄を置いて、中身を確認すると、四葉のクローバーのキーホルダーが付いた家鍵がちゃんとあった。


「ちゃんと持ってるよ」と言うと、「じゃ、行きましょうか」と。並ぶと殆ど身長差のないお母さんは、ほっそりとした美人だった。ベージュのスーツを着て、お父さんとは別の中学校の職場に向かう。駐車場から車を出して、窓越しに手を振って走り去るのを見送った。


 見慣れているはずの通学路の景色は、なぜか初めて見る風景にも見える。道行く学生の中で、誰かよくわからない人達から積極的な挨拶をされ、私も条件反射的に挨拶を返した。青い空、白い雲、優しい風、平和な風景。安らかな気持ちになる。


 下駄箱も階段も教室の机も、馴染みあるはずなのにどこか違和感があった。安らかさの中に一点のシミが浮かび上がるように、私を不安にさせてくる。


 きちんとした服装のクラスメート達。先生の話を遮るような生徒は一人もいない。休み時間の廊下で、友達同士じゃれ合いながら、やり過ぎる男子もいない。廊下を走るなと怒鳴る先生もいない。一角に女子ばかりが集まって、悪意の視線を誰かに流しながらヒソヒソ話をする光景もない。皆、満たされた顔をしていた。


 これが平和なんだ。なんて穏やかなんだろう。家に帰っても、私を悩ます親もいない、夕飯のおかずについて思いを馳せる心配もいらない。折れた消しゴムしか持っていなかったペン入れひとつ取り上げても、汚れも最小限の可愛らしいペン入れを撫でながら、この平和が夢でありませんようにと必死で願う自分がいた。


 悪い夢から覚めて、こっちが本当の人生なのだと思ったら、急に嬉しくなってきた。


「どうしたの? 思い出し笑いなんかしちゃって」


 話しかけてきた女子に顔を向ける。渡辺紗里奈が笑顔で言った。


「なんか良いことでもあった?」


「うん。でも、具体的なことは何もないんだけどね。なんか、平和だなぁって感動してて」


「そうね。平和よね。退屈なぐらい」


 紗里奈は不服そうにつぶやいた。


「平和が退屈?」


「そうよ。退屈に殺されないようにしなきゃね」


 紗里奈はさらりと物騒なことを言った。途端に心が刺激されて、小さなシミが広がり始める。


「ねぇ。ところで、この前のテストで数学何点だった? せっかく教えて貰ったのに、私なんて73点だったの。何がいけなかったのかわからないんだけど」


 言われて鞄の中を探ると、クリアファイルに答案用紙がまとめて挟んであるものを引っ張り出した。広げると、赤い丸が目に飛び込んでくる。数学は95点。


「さすがね。頭が良いのは環境に左右されないのね」


 あ、なんだろう。この感じ。デジャブ?

 それにしてもはっきりと思い出せない。ただ、何となくこんなやり取りを前にもした覚えがあるようでないような、そんな奇妙な感覚に陥った。


「ところでさ。殺人事件の犯人も遺体で発見されたって今朝ニュースでやってたよね。死体は死後一年以上も経っていて、一部は白骨化してたんだって。容疑者が白骨化遺体で発見されるなんて、真犯人がいるってことだよね?」


 平和な空間にいて、紗里奈は物騒なことばかりを口にする。そのたびに私は自分が居る場所を故意に揺さぶられている気がして、ハラハラした。


「こんな小さな町で、物騒な事件が起きて未解決だなんて怖いわ。私」


 紗里奈は言葉とは裏腹に、ニコニコと綺麗な笑顔のまま一方的に喋っていた。


「白骨化遺体って、誰なの?」

「四十代前半の男の人だよ。確か名前は、戸田俊一って言ったかな」


 え?!


 心臓がギュウっと苦しくなった。


「最初の事件の被害者は、そのおっさんの奥さんと娘だったんだよ。結婚した相手や自分の子供を殺すって、どうしたらそんなことになるんだろうね? 人間って怖いわ」


 急に胃が縮み上がった。猛烈な吐き気が来て、それを止めることができずに私は嘔吐した。


 教室中の生徒の視線が集まっているとわかるのに。溢れ出る吐しゃ物は私の脚元に溜まっていく。何度吐き出しても、痙攣が止まらない。突き上げてくる強い嘔吐感のせいで意識が朦朧とする。そして、何度目かの痙攣の後そのまま意識を失ってしまった。


 混濁する風景。ドカッと強い衝撃を脇腹に受けて、私は精一杯身を丸めて防御する。それでも鳴りやまない音。荒々しい吐息、「ちくしょう!!」と怒鳴る男の声。顔や首に青あざを作っても、病院に行こうとしない無気力な女の横顔。手のひらに押し付けられた赤く燃えた火種。焼き付く匂いと、激しい痛み。


 こんな人生、変えてやるんだ!!


 そう叫ぶ誰かの、声。心の叫びが、ずっとずっと耳元で繰り返されていた。


 気色悪いおっさん達の舐め回すような視線に身の危険を感じて、全身に鳥肌が立ったこともある。無気力で半分死人みたいだったお母さんが、急に何かを覚悟して最小限の荷物だけを持って出て行った背中も。その時、私の存在を無視して去っていく彼女を呼び止めようか、それともこのまま行かせてあげようか、と激しく葛藤した苦悩も。どれもこれも、辛いけれど、悔しいけれど、大嫌いだけれど、私の人生だった。


 私の人生だ!


「あなたの大事なものを貰う」という冷たいセリフが蘇る。


 目を開けると、狐のお面が暗闇に浮かんでいた。


「狐じゃないのよ、猫なのよ!」と、お面は叫んだ。


「え?!」


 吃驚して飛び起きたら、私は公園のベンチにいた。制服もボロボロの靴も、元通り。公園の鉄柱の天辺に設置された大きな時計は深夜0時を指していた。


 公園には何匹かの猫たちが点在していて、そのうちの一匹が私の膝の上に乗って眠っていたのか、私の声に驚いて地面に着地すると、素早い動きで離れて行った。


「あれ? なんでこんなところで……、私」


 自分の声が耳に入ると、妙に落ち着いた。違和感のかけらもない。間違いなく、これこそが現実だ、と強く確信した。


 何気なくポケットに手を突っ込むと、何かが手に当たった。握り絞めて取り出すと、クローバーのキーホルダーが付いた自宅の鍵だった。新品のようにピカピカしていて、夢と現実がまた混乱する。


 落ち着こうとして空を仰ぐと、雲一つない夜空には見た事がないほど荘厳な宇宙が広がっていた。天の川を肉眼で見るなんて、初めての体験に思わず目をこじあけて見入ってしまう。


 宇宙そらが近くに感じた。手を伸ばせば触れられそうな気がして、ゆっくりと空に向かって手を伸ばした。すると、突然声がした。


「戸田雪ちゃん」


 吃驚して、飛び上がった。咄嗟に周囲を見渡したけれど、誰もいない。猫だけがいる。


「え? 気のせい? 空耳?」


 私はまだ半分夢を見ているのかもしれない。この夜空が作り物みたいで、落ち着かない。でも、あまりの美しさに見惚れてしまう。吸い込まれるように再び見上げると、またどこかで私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 我に返ったように、急に思い出した。白いスエットを来た笑顔の可愛い少女のことを。人を信じることが苦手な筈の私を、部屋に招き入れた彼女が口にした言葉をひとつずつ思い出す。いきなりのことだったけど、彼女は私の人生を知っていた。そのことにまず驚いて、大抵のことなら受け流す自信しかなかった私が狼狽えたんだ。


 「お父さんを殺してあげる」とも言われた。そして、赤ん坊の私を攫って石渡先生のうちの子になるようにしてあげるって……。良くよく考えたら、そんなことをするのはどうして? 彼女は一体何なの?


「友達だからだよ」と、また小さな子供のような声が聞こえた。猫たちが私を見ている。キラキラと光る彼らの目が、まるで夜空の星々のように瞬いた。


「いつも一人で頑張っていたもんね」

「僕たちはずっと雪ちゃんを見てたんだよ」

「本当によく耐えていたよね」

「せっかく、欲しがっていた別の人生をプレゼントしたのに、やっぱり自分の人生が一番大事だったんだね。すごいね、雪ちゃん」


「猫が、喋った!!」


 私は立ちあがって、叫んだ。


 じゃあ、あの子は? あの子も猫なの? 


「マリナは、雪ちゃんが飼ってた黒猫じゃないの」

「忘れちゃったら、可哀想だよ」

「可哀想」「可哀想だよ」「可哀想」


 猫たちの声が重なる。マリナという名前を、記憶を辿って、思い出そうとする。


 小学生の時。手に火傷を負った私は、包帯がわりに穴の開いた靴下を手につけて夜の公園をぶらぶらしていた。お母さんが私を逃がしてくれたから、しばらく家には戻れない。今頃、お父さんに暴力を振るわれているお母さんのことを想うと、涙が止まらない。でも、小さな自分ではお母さんを守れない。生意気だと怒ったお父さんに、タバコをおしつけられた傷が痛んで、怯えて泣くことしかできない……。


 すすり泣きに誘われるように、一匹の黒猫が傍に寄ってきた。綺麗な青い目が、私を見上げ、傷だらけの膝小僧を舐めてくる。ザラザラとした舌の感触、そして耳慣れないゴロゴロという不思議な音をさせて、黒猫は私の身体に身を摺り寄せてきた。クンクンと鼻をひくつかせ、小さな声で何度も鳴いて、まるで慰めてくれているみたいだった。


「……どうしたの? お前もおうちに帰れないの?」


 黒猫はにゃあと鳴いて、そして私の膝の上に入り込んできた。ゴロゴロという音が一層強くなる。家を出る時、ポケットに菓子パンひとつお母さんが押し込んでくれていたことを思い出して、それを取り出すと黒猫は興味津々で袋を嗅いだ。柔らかい優しい温もりにすっかり癒された気分の私は、パンをその猫と半分こして食べた。


 それから、学校帰りにかならず黒猫に給食でくすねたなにかしらの食べ物を届けた。彼女にマリナという名前を付けて、私は初めての友達が出来た気分で毎日が幸せになった。人には言えないことを、猫のマリナにならなんでも話せた。マリナは私のおしゃべりに付き合ってくれて、相槌を打つようににゃ、にゃ、と鳴いてくれた。辛くて悲しい日は、ゴロゴロと喉を鳴らして全身ですり寄ってきて、慰めてくれた。


 野良猫との逢引きは半年しか続かなかった。ある日、公園に行ってもマリナは現れなかった。突然の別れに、私はショックを受けてしばらく近くの公園を彷徨ってマリナを探した。でも、彼女と再会することは二度となかった。


 ―――― まさか、あのマリナなの?


     第4章


 私は茫然とした。意味がわからない出来事が、意味を持った途端にちゃんとしたストーリーとなって頭の中で整然と並び始める。


 嘘みたいな本当の話。だけど、満里奈や紗里奈が黒猫のマリナだというなら、何となく腑に落ちる。私がお父さんを殺したがっていたことを知っているのは、黒猫のマリナだけ。でも、殺した後の人生が真っ暗闇にしか見えなくて、私は何度も打ち消した。殺される前に殺さなきゃ。そう思っても、私が殺せば一生殺人者としての人生を歩くことになる。そんなのは絶対にイヤ。


 早く大人になって遠く離れて暮らしたかった。お母さんみたいにはなりたくなかった。お父さんみたいな乱暴者とは無縁の、ちゃんとした成熟した大人になって、恋愛して、結婚したいと思った。いつか子供を産んだら、さっき夢で見た石渡先生夫婦のように、円満で温かくて、家の中もきちんとしていて、出てくる料理も愛情が詰まってて……。それを、与えられるんじゃなくて、自分の手でつかみ取りたい。それが、私の一番大事なこと。


「マリナは、もしかして、大事なことを教えてくれたの?」


「それは、違うよ」と、声が聞こえた。振り向くと、公園の入り口に影法師が立っている。何故か彼女はそこから動かずに、静かに喋った。


「雪ちゃんが、私の魔法を拒絶したんだよ。せっかく長い月日をかけて溜めた魔法の力を、雪ちゃんが跳ね返しちゃったんだよ。幸せになって欲しかったのに、がっかりした」


 マリナの声は沈んでいた。


「こんな人生、ヤダって泣いてたじゃない。お父さんなんか死んじゃえって、言ってたじゃない」


 微かに震える声で、彼女は嘆くようにしゃべり続ける。


「だから、願望をかなえてあげようと思ったのに。どうして跳ね返したの?」


 私は答えられない。答えなんて用意されていない。

 確かに、自分の人生をはかなんでいた。辛くて苦しくて、お父さんが憎くて悔しくて、無抵抗のお母さんが殴られ蹴られるたびに殺してしまいたい、という誘惑に何度も襲われた。でも、殺人者にだけはなりたくなかった。だから踏みとどまった。


「……あ、わかんないよ……、わかんないよ……」


 小さな子供染みた、甘ったれた泣き声で私は言い訳していた。


「平和だったよ……、幸せだったよ……、でも、どこかでこれは現実じゃないって、どうしても信じられなくて……、どうしても忘れられなくて……」


 にゃーにゃーと周辺の猫たちが一斉に鳴き始めた。皆、私にすり寄ってきて、ゴロゴロと言いながら全身で慰めてくれる。


「地獄みたいな人生でも、大事だとわかったんだよ……。だって、酷い出来事を乗り越える度に、私は自分の人生を切り開く道を見つけようと頑張ってたんだよ……。平和な人生にすり替わったら、頑張ってきた自分が消えてしまう……、私が私じゃなくなってしまう……、って。そう思ったら、どうしても、帰ってきたくなったんだもん」


 言いながら、泣きながら、私ははっきりと意識した。


 私が一番大事にしているものは、強さだ。


 強くなっていく事が、何よりも大切だった。


 それを全部なかったことになんて、出来なかった。


 自分の力で、自分を幸せにしてやる!って、そういう自分が好きだから……。


「マリナの気持ちは嬉しいけど、私は自分で成し遂げたいんだよ!自分の力を信じたいんだよ!」


 そう叫んだ途端、影法師は消えて猫たちも一斉に散って行った。


***


 夜が明けてから、家に帰った。室内のものが殆ど消えている。お父さんの姿はなく、玄関の鍵は開けっ放しで、まるで泥棒に入られたように乱れていた。床にも壁にも新しい傷がついていた。洗面台には水で流れきらない血が残っている。


 もしも、お父さんが殺されていたとしても、それは自業自得だ。そう思って、私は玄関に鍵をかけてチェーンロックもして、シャワーを浴びた。


 学校にいくと坂本満里奈というクラスメートは居なくなっていた。どういう仕組みかわからないけど、マリナは私にだけ見えるクラスメートだったのかもしれない。


 石渡先生が心配するから、生徒指導室で話をした。私が夢に出てきて、自分の娘になっていたのだと先生は照れながら話した。だから、私は昨日の夕方物騒なことが起きたことを素直に打ち明けて、先生を初めて頼った。


 保護施設に収容されて、私はそこから学校に通うことになると、先生は送り迎えをしてくれるようになった。お父さんもお母さんも行方不明者リストに加えられ、孤児になった私は手続きをされて子供のいない石渡先生の養子になったのは、それから一年後のことだった。


 自分の力で? 違う。マリナが道を標してくれたから、今こうして平和な人生を手にすることが出来たんだと思う。


 高校生になって、新しい生活にも慣れたある日。私の良き先々に黒猫が横切ることが増えて行った。マリナに会ってお礼を伝えたい。やっぱり、マリナの魔法のおかげで今の自分がいる。そう思って、私は夜そっと家を抜け出して、中学校前の公園に通った。おなかをすかせた野良猫たちに、わずかなパンをあげる。黒猫がいても、マリナほど大きく毛艶の良い美しい猫はいなかった。あれから猫の言葉もわからない。全てが夢だったのかもしれない。時が経つほどに、そんな気持ちになっていく。忘れていく。それが不安だった。


 学校帰りに本屋に寄った。新作の棚に並ぶ絵本が目に飛び込んできて、私は立ち止まる。銀色の月と、黒い猫、その周りに浮かぶ星々の綺麗な本。でも一番驚いたのは、タイトルだ。


『黒猫のマリナの魔法』


 私はひったくるように絵本を手に取った。そして、物語を読むと、自分のみに起きたことがつたない文章で書かれていた。登場する人間の女の子の名前は「スノウ」と言った。ゾクゾクッと悪寒が走った。作者は『SARINA』と書いてある。どこまでも私を驚かせてくれる。


 有り金全部で絵本を買って、あの公園に走った。なぜかわからないけど、今日は会える気がしたんだ。黒猫のマリナに。


 夕闇が降りてくる頃、辿り着いたら沢山の野良猫がまた集会を始めていた。にゃーにゃ―と可愛い声が響く公園にそっと忍び込んで、あのベンチに座った。そこで買ったばかりの絵本を開いて、もう一度ゆっくりと確かめるように不思議な物語を読む。「スノウ」は頑固で黒猫の魔法を弾き返してしまった……。


 そこで涙が込み上げてきた。色んな想いが胸を締め付けてくる。あの夜が、私を変えたのは間違いない。頼って良い人を教えてくれた、マリナの魔法に感謝せずにはいられない。


「神様、どうかお願いします! マリナにもう一度会わせて下さい!

 どうしても自分でお礼が言いたいの!!


 お願いします!!」


 神様なんて信じていなかったかつての私が見たら、どう感じただろう?


 きっと、何があったのかと気になって仕方がなくなるんだろうな。なんでも自分の力でやりたい私は、マリナの親切を突き放した。でも、ただ時間が掛かっただけで、ちゃんとその優しさを受け取ったことを、どうしてもマリナに直接伝えたい。


 私が想う強さで、彼女は私のことを想うことなんて、きっとない。そうと知っていても、私は立ち尽くす。この願いがどうか、彼女に届きますようにと祈らずにはいられない。


 夕闇が濃くなりかけた公園の入り口に、いつの間にか影法師が立っていた。


 心臓が跳ねた。


「なにしてるの?!」と、明らかに怒った声で彼女から近付いてくる。


 思いのほか早く願いが叶い、私はブルリと震えた。


 紗里奈がいた。不思議な格好をしているけれど、間違いなく夢で出会った紗里奈であり、満里奈であり、黒猫のマリナだ。不思議な青い光に包まれて、そこに居た。


「なんで、まだこんなところにいるの? 早く家に帰りなさいよ!」


「……どうして怒ってるの?」


 私の問いかけに、彼女は悲し気に顔を歪ませた。


「だって、あなたは私を拒絶したじゃない」


 私は駆け寄って、その勢いのまま彼女に抱き着いた。


「ごめんね。遅くなったけど、お礼を言いたくて探してたんだよ。ずっと、会いたかった。ずっと……」


 絞り出す声に涙が交じると、腕の中の細い少女はみるみるうちに黒猫に変身した。


「ちゃんと受け取ったよ。マリナの想い。今、幸せなんだ、私。ありがとう!」


 そう言えたら、マリナはにゃあと鳴いた。そして、透明になり徐々に消えてしまった。


 見上げると、また天の川が真近に迫る夜空があった。

 そこには青色に輝く三日月が輝き、優しく私を照らしていた。





 終わり

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[良い点] 背景が具体的にイメージしやすいです。 [気になる点] 良い点が気になる点にもなるのですが、緩急がわかりにくくなってるような。 [一言] わかりにくいですが「原色だけで描かれた絵」みたいな印…
[良い点] あらすじや冒頭でハッピーエンドと記載されていますが、それでも途中でハラハラドキドキとさせられるようなとても衝撃的な作品でした。 雪の人生は想像以上に過酷なもので、それでも逃げる母親を解放し…
[良い点] 読み応えのある作品でした。 主人公の心が成長してゆく様が丁寧に描かれ、 とても好感が持てました。 青のキーワードが端々に出て来ますが、 青春の青も含まれていたのかなぁ、なんて。 ともあ…
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