◆第九話『現実は』
翠竜――クゥがルグリン竜舎に来てから二日後。
朝の放し飼いの時間を利用し、レグナスはピナ、ペトラとともにクゥを外に連れ出していた。
怪我が完治したので試しに飛べるかを確認しにきたのだ。
「うーん、飛ぼうとしないね」
ペトラが悩ましげに言った。
クゥは一向に飛び立とうとしなかった。
無理に促そうものなら首を振って嫌がる始末だ。
「もしかしてまだ痛むのでしょうか……」
「いや、そうじゃない」
ピナの考えをレグナスはすぐに否定した。
クゥは頑なに空から目をそらそうとしている。
その点からも答えは明白だ。
「きっと怖いんだ。また空に上がって落ちるのが」
レグナスはクゥの頬を撫でながら続きを口にする。
「自分は飛べる。そう思っていても脳裏に焼きついた恐怖のせいで体が動かないんだ」
クゥの境遇が自分と似通っていたからか。
レグナスは気持ちを吐露しているような感覚に陥った。
せり上がった罪悪感のようなものを振り落とすため、短く息を吐いた。
「こればかりはどうしようもない。あとはこいつの問題だ」
「ピナちゃんが気に病むことはないよ」
続けてペトラが優しく声をかける。
だが、ピナの顔はいまだ曇ったままだ。
「クゥはどうなるのですか?」
「飛べても飛べなくても野生に帰すしかない。竜の維持費は尋常じゃないからな」
ルグリン竜舎では二頭の竜を馴致するだけでも精一杯な状況だ。
タダで餌をやり続ける余裕はない。
「生き残れるのですか……?」
「まず無理だろうな。飛竜の走る速度は人間と同程度かそれ以下だ。そんな足で腹を満たすほど食糧を調達できるとは思えない」
残酷かと思ったが、率直な意見を言った。
ピナは瞳を揺らしながら俯いた。
かと思えば、がばっと顔を上げた。
両手に拳を作りながら決意の色を宿した瞳を向けてくる。
「わたしが面倒を見ます」
「自分がなにを言ってるのか、ちゃんとわかってるのか?」
「お金ならまだありますっ」
「そういう問題じゃない」
たしかにピナなら資金の融通は利くかもしれない。
だが、それでどうにかなるのは目先だけだ。
「もしまた怪我をした竜がいて、飛べないとわかったらピナは死ぬまで面倒を見るのか? 無償で、ただ餌をやり続けるのか? そんなのキリがないぞ」
精霊の秘薬を持ってきたとき、すんなり受け取る気になれなかったのはこれが理由だ。すべてを救うことはできない。無情だが、これが現実だ。
ピナは一瞬怯んだものの、目をそらさずに見つめ返してきた。
「……わかってます」
「いいや、わかってない」
互いに譲らず睨み合いを続ける。
しばらくしてピナがぷくっと頬を膨らませた。
「わたし、諦めません……っ!」
そう言って振り返ると、竜舎のほうへ歩き出した。
踏んだ芝に足跡でも残すつもりだろうか。
とても貴族の娘とは思えない雑な歩き方だ。
そんなピナの後ろ姿を見ながら、レグナスは隣で見守っていたペトラに訊く。
「俺は間違ってるか?」
「ううん。でも、ちょっと言い過ぎ」
それは充分に理解していた。
ぐしゃっと髪をかきながら言う。
「……悪い。ピナを頼む」
「りょーかい」
ペトラもまた竜舎のほうへと走っていった。
ひとり静かに二つの背中を見送っていると、隣から視線を感じた。
クゥが、じっとこちらを見つめていたのだ。
その瞳に湛えられたものがなんなのか、はっきりとはわからなかった。
ただ、まるで自分を見ているような気がしてならなかった。
「……お前、俺と一緒だな」
◆◆◆◆◆
その日の夜。
レグナスはピナとともにルグリン家の食卓を囲んでいた。
山吹色の灯の下、野菜シチューや兎肉のローストを主に色とりどりの品が並んでいる。決して狭いとは言えないテーブルが窮屈に感じるほど空きがない。
「ピナちゃん、どうかしら? お味のほうは」
そう声をかけたのはペトラの母――レイラだ。
ペトラをそっくりそのまま大きくしたような姿だが、性格は似ても似つかないほどおっとりしている。
普段は家事と竜舎の経理を担当しているため、あまり表には出てこない。
そのせいもあって顔を会わせる機会は食事時を除けば少なかった。
ピナが行儀よくスプーンを置いた。
ゆっくり咀嚼を終えてから口を開ける。
「はい、とっても美味しいです! ここに来てから、本当に毎日の食事が楽しみで仕方ありませんっ」
「もう、ピナちゃんってばお世辞が上手なんだから」
レイラが見るからに頬を緩ませた。
彼女はすっかりピナのことが気に入ったようで初日からこのありさまだ。
ピナもピナでレイラに対しては笑顔を向け続けている。
「ピナ。そこの皿、もう少しこっちに寄せてくれるか」
言って、レグナスはチーズの乗った皿を指差した。
向かいに座るピナの近くにあったので手が届かないのだ。
ピナは先ほどまでの笑顔をすっと消してからチーズの皿を無言で寄せてくる。
なんてわかりやすい態度だろうか。
レグナスはため息をついてから、一切れのチーズを自分の皿に取る。
「なあ、いい加減に機嫌をなおしたらどうだ」
昼間、言い合いのようなことをしてからずっとこの調子なのだ。
ピナはほんの少し頬を膨らませると、つんと顔をそらした。
どうやら態度を変えるつもりはないらしい。
「言い過ぎたのは謝る」
間違ったことを言ったとは思っていない。
だが、もっとほかに言いようがあったとは思う。
マルクとレイラが顔を見合わせ、首を傾げる中、事情をよく知るペトラはむしゃむしゃとパンを食べていた。知らぬ存ぜぬといった様子だ。
重くなった空気に耐えかねてか。
ピナがちらちらと横目で様子を窺いだした。
少し悩んだあと、姿勢を正して威嚇するように真っ直ぐ見返してくる。
「あの、ペトラさん。レグナスさんに伝言をお願いできますか。『謝って欲しいわけではありません』と」
「レグ、ピナちゃんから伝言。『謝罪なんかどうでもいい』って」
ペトラを経由してピナの伝言が来た。
なんとも馬鹿げたやり取りだが、構わずに返答する。
「じゃあどうすればいい? ……そうピナに伝えてくれ、ペトラ」
言い終えても反応する様子がなかったので伝言形式に切り替えた。
「『どうすれば許してくれますか?』だって。ピナちゃん、レグからの伝言ね」
大幅に改変された伝言を受け、ピナがむっとする。
「『わたしから言いたくありません』。ペトラさん、伝言を」
「『自分で考えろ、ばーか』ってピナちゃんからレグへ」
伝言の意味はまったくない。
だが、これでしか会話ができないのなら続けるしかない。
「『わからないから訊いてるんだ』。ペトラ、頼む」
「はぁ~……ピナちゃん、レグからです。『大事なことは口に出して言ってくれないと伝わらない』って」
ピナがもどかしいとばかりに下唇を噛んだ。
目を潤ませながら、必死な顔で立ち上がる。
「わたしはただ……っ!」
「ねえ、二人とも。もう普通に話したら?」
ペトラが呆れ気味にそうこぼした。
「あたしもう面倒になってきたよー。続けるなら以降はお父さん経由でお願い」
「おい、どうして俺なんだ?」
「だって暇そうだし」
マルクの食事はほぼ終わりかけている。
自分でもそれを確認したのか、マルクが頷いた。
「……なるほど、たしかにな。じゃあ、俺が引き継ごう」
「では、マルクさん。最後の伝言をお願いします。『明日の朝番が終わったあと、クゥをあの大岩のところに連れてきてください』と」
ピナの伝言を受け取ったあと、マルクが腕を組んで悩む素振りを見せる。
「あ~、レグナス。ピナちゃん、なにか大事な用事があるようだから、明日は俺がウェンディとロードンの面倒を見てやる」
「ありがとうございます、マルクさん。じゃあ……『わかりました』と伝えておいてください」
「だそうだ、ピナちゃん。……なんだ、すぐに終わったな」
もっと続けたかったのか、マルクはなにやら拍子抜けしていた。
それにしてもピナはいったいなにを考えているのか。
表情から読み取ろうとしたものの、食事中、彼女がこちらを向くことは一度もなかった。