◆第三十一話『風を呼ぶ男』
「ほんとひやひやさせてくれるよね、レグは」
「は、はい……心臓が飛び出るかと思いました」
ピナは東の空を見つめながら、ペトラとともに安堵の息をもらした。
いましがたレグナスとクゥが大風壁に突っ込み、無事に抜けたところだった。大風壁に阻まれていることや、あまりに遠いことからその姿を見ることはもうできない。
会場は騒然としていた。大きく出遅れたレグナスたちが見せたルーモン荒野での独特の飛行もあるだろう。だが、それ以上に先ほどの大風壁を通り抜けたことに関心が向いているようだった。
そばの席から話し声が聞こえてくる。
「さっきの反則じゃないのか? みんな、迂回してるのに……」
「チェックポイントの下をくぐってるから反則にはならねぇよ」
「じゃあどうしてほかの飛竜は大風壁に飛び込まないんだ。そのほうが近道だろ」
「以前、同じように飛び込んだ奴がそのまま打ち上げられて脱落したことがあったんだよ。あのときのことを知らない騎手はいないからな。普通はいかねえよ、普通はな」
ドラゴンレースの流れは早い。レースの状況はチェックポイントごとに待機している飛竜から本部へと伝達され、司会者から観客席に伝えられることになる。
ただ、伝達されるのは5位まで。グアド渓谷の出口――第4チェックポイントではクゥの名前が挙げられることはなかった。
いくら大風壁で距離を縮めたとはいえ、あれほど大きく出遅れていたのだ。さすがにグアド渓谷で追いつくのは難しいかもしれない。
だが、先頭を飛んでいるのはあのククシエルだ。そろそろ5位以内に入らなければ追いつくのは厳しくなってくる。
お願いします。お願いします……!
ピナはあわせた両手を握りしめながら次の報告を待ちつづける。やがて伝達の飛竜が司会席のそばへと下り立った。
『現在、折り返し地点を過ぎたのは黒竜アステリオのみ。2位との差が開いているようで、いまだ後続の情報は入ってきません。やはり今年度もククシエル・ルーファで決まりでしょうか!』
絶対王者の独走報告に観客席が再び沸きはじめた。この大歓声からも、どれだけ多くの人がククシエルの2連覇に期待しているかがわかる。
『っと、ここでようやく後続の情報が入ってきました! 2位に青竜ロラン。3位に黒竜カイザードラゴン。そして4位は……しょ、少々お待ち下さい――』
司会者が混乱したように伝達係に確認したあと、再び音鳴草に向かって声をあげる。
『翠竜クゥ! 翠竜クゥです! なんということでしょうか! あれほど大幅に遅れていながらここまで上がってきました! まさに奇跡! 奇跡としか言いようがありません!』
ピナは思わず顔を綻ばせてしまった。
ペトラと顔を見合わせ、両手を合わせて跳びはねる。
そんな中、多くの者にとって予想だにしない展開だったからか、会場に大きなどよめきが起こっていた。そばの男2人の話し声が聞こえてくる。
「たまげたな……まさかあそこから4位まで上がってくるなんて」
「けど、さすがにここまでだろ。ククシエルとはかなり距離もあるみたいだしな」
「だろうな。でもま、よくやったよ」
ピナは思わずむっとしてしまい、気づけば彼らの前に立っていた。
「そんなことはありません! レグナスさんとクゥは絶対に追いつきます!」
「……そ、そうだな。ゴールするまで勝負はまだわからない、よな」
彼らは目をぱちくりとさせたのち、困惑しながら頷いた。
ピナは同意を得られたことに満足感を覚えたものの、直後に己のしたことを顧みて羞恥心が湧き上がった。顔が熱くなる中、ぐわしっと後ろからペトラに掴まれる。
「ちょ、ちょっとピナちゃんっ。あはは……ご、ごめんなさい~っ」
そのままペトラに引っ張られて男の人たちから離れた。ふぅ、と安堵するペトラにピナはぺこぺこと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。つい熱くなってしまって……」
「大丈夫だよ」
ペトラが眉尻を下げながら笑みをこぼしたのち、頭を撫でてきた。後ろから優しく抱きしめ、安心させるように声をかけてくれる。
「レグとクゥはきっと追いつく。だから戻ってきたとき、一緒にいっぱい応援しよう」
「……はいっ!」
ピナは元気よく頷くと、ペトラとともにルーモン荒野の空へと目を向けた。そして、いまも必死に空を翔けているであろう彼らに届くように、と。
――頑張ってください……レグナスさん、クゥ……っ。
そう心の中で叫んだ。
◆◇◆◇◆
レグナスは細かに右へ左へと上半身を倒し、グアド渓谷の険しい道を翔けていた。往路で大体の感覚を掴めたこともあるが、やはり体や感覚の調子がいいらしい。いまはどれだけ速く翔けてもぶつかる気がなかった。
前方に黒竜が見えた。一瞬、ククシエルが乗る黒竜アステリオかと思ったが、違った。カイザードラゴン――ダルダンの黒竜だ。かなり制限して飛んでいるようで瞬く間に追いついた。
「レグナス!」
どうやらダルダンもこちらに気づいたらしい。あからさまに焦った様子で加速しはじめる。黒竜の能力の高さもあってか、凄まじい伸び方だ。
「くそ、くそっ……お前にだけは……お前にだけは絶対に負け――」
黒竜アステリオが曲がった直後、前方にコース側に突き出した岩が待っていた。とっさにダルダンが体を倒して曲がらせようとするが、あまりに加速してしまっていたため、思い切り激突する。
レグナスはクゥに指示を出して軽く上昇、ひらりと躱して衝突を避けた。視界の下、ダルダンと黒竜が崩した岩肌とともに転がるようにして墜落していく。
なんとなくこうなるのではと予測していたが、案の定だった。後ろからダルダンの悔しそうな叫び声が聞こえてくる。どうやら命に別状はないようだ。
ダルダンたちから意識を前方に戻し、その後も全力でグアド渓谷を翔け抜ける。すでに中間を越えているが、まったく2位の飛竜が見えてこなかった。
ベスティビア大樹の辺りではダルダンとそう離れていなかったはずだ。このグアド渓谷で差を広げたということか。持久力のある青竜とあって後半に向けて体力を温存していたのかもしれない。
どどど、と律動的ながら力強い音が聞こえてきた。まもなくグアド渓谷が終わり、清涼感あふれる空気によって肌が包まれる。
広がる視界の中、巨大な滝と滝つぼが映り込んだ。さらに視線を上げれば、そこには滝を昇るかのように飛ぶ1頭の飛竜。
2位の青竜だ。
チェックポイントをくぐったのち、青竜に続いて滝を昇りきった。ミドナ川上空を飛行する直線コースへと差しかかる。
往路のときといまだ風向きは変わっていないため、向かい風となる水面から離れた。レグナスは細かくクゥに指示を出し、追い風の中でもっとも強いところに位置どらせる。
前方の青竜との距離は少なくとも10竜身以上。と思っていたら、一気に青竜が加速しはじめた。まだまだ体力を残していたようだ。先頭との距離を考え、ここからしかけるつもりなのだろう。
追いかけるか。いや、ミドナの微風で追いつくのは難しい。そもそも相手はあの青竜ではない。さらに先を飛んでいるククシエルと黒竜アステリオだ。
ならば選択肢はひとつしかない。
青竜の背中が小さくなっていくが、焦らずにクゥの体力を温存するため、速度を維持しつづける。やがてミドナ川のコースが残り少なくなった頃、前方にそれは姿を現した。
いかなる者をも通さないとばかりに鎮座する、ルーモン荒野東端に発生した巨大な気流の壁――大風壁だ。
突然、クゥが咆えはじめた。まるで大風壁を威嚇するかのようだ。レグナスは思わずふっと笑みをこぼしてしまう。
「……お前もわかってるんだな、クゥ。そうだ、あいつに勝つにはこれしかない」
周囲に流れる風を余すことなく受け、ミドナ川の上空を離脱。レグナスはクゥとともに一気に加速。2位の青竜が右方への迂回コースを翔けていく中、大風壁へと突撃した。
暴れる髪、騎手服。凄まじい風圧に体すべてが天上へと持っていかれるような感覚に襲われる。2度目とあっても慣れるものではない。むしろ疲労もあいまって今回のほうが圧倒的に負担が大きかった。
だが、意識だけは保てていた。
しかと前を見ていられた。
視界に満ちた白い気流の中に一筋の青が射し込む。気流を押しのけるように広がったそれが、はっきりと青空だと認識できたとき、レグナスはクゥの竜心を叩いた。
「クゥッ!」
呼応するようにクゥの翼がはばたかれ、一気に大風壁を抜け出した。1度目の大風壁突破時に緩んでしまっていたのか、ゴーグルが外れて吹き飛んでしまう。
間髪容れずに吹きつけた風のせいで目を閉じそうになったが、意地でもまぶたを下げるつもりはなかった。なにしろ、ずっと追いかけてきた姿が目の前にあったのだ。
……やっとだ……やっと捉えたぞ。
「ククシエル・ルーファッ!」
◆◆◆◆◆
互いの視線が交差したのは一瞬。迂回を終えたククシエルがその美しい銀髪をなびかせながら、黒竜アステリオとともに前方を翔け抜け、最終チェックポイントを通過。ルーモン荒野の空へと飛び込んでいった。
『こ、これは本当に現実なのでしょうか! 1度ならず2度までも大風壁を突破! 翠竜クゥ、スタート時に大きく出遅れながらもここまで這い上がってきました! まさに不屈の飛行です!』
追いつくのが目的ではない。レグナスはすぐさまクゥに指示を出し、ククシエルに続いてチェックポイントを通過する。ここから先は観客席からも状況を確認できるからか、かなり距離があるというのに凄まじい歓声が聞こえてきた。
『残っているのは翠竜、そしてレグナス選手が得意とするルーモン荒野! これはもしかするともしかするかもしれません! ――っと、出ました! レグナス・ソングオルが手綱を握る翠竜クゥ! またも独特な飛行で〝気まぐれ空〟を翔け抜けます!』
レグナスは選別した風を掴み、前へと翔けていく。ゴーグルがとれたせいで目をすぼめる形での飛行となっているが、ほかに不自由はなにもない。
往路のときもかなり集中できていたが、いまはそれ以上かもしれない。クゥの反応も最高だ。いまならどんな風でさえも掴もうとすれば逃す気がしなかった。
黒竜アステリオは的確に風を避けて飛んでいる。さすがの速さだが、風に乗ったクゥのほうが速かった。5竜身以上あった差がどんどん縮まっていく。
『かつて《風を呼ぶ男》と言われたレグナス・ソングオルが、その名をギルトアの空に再び刻もうとしています! 翔ける! 翔ける! 翔ける! そして翠竜クゥ、ついについに黒竜アステリオに並びました!』
ククシエルの横顔が窺えるところまできた。ただ、追いつかれたというのに彼女の顔に焦りはいっさいなかった。違和感を覚えたとき、黒竜アステリオが翼を力強くはばたかせた。これまでとは比べ物にならない加速で一気に前へと出る。
『ここにきて黒竜アステリオが凄まじい加速! 王者の意地でしょうか! 翠竜クゥを突き放しました!』
あの加速は底力なんかではない。間違いなく体力を温存していた。ギルトア大祭典という大一番でククシエルは余裕をもって飛行していたのだ。もはや笑うしかない。
だが、負けるわけにはいかなかった。
再び空へと戻るきっかけを作ってくれたピナ。
ずっと近くで支えてくれていたペトラ。
本当の親のように見守ってくれたルグリン夫妻。
そして遠いリダムの地から応援にかけつけてくれた、みんなのためにも――。
――いや、それだけではない。
自分のためにも負けたくなかった。
ただただ風が吹く空では負けたくなかった。
レグナスは近場の風に乗ると、再び黒竜アステリオに並んだ。
『アステリオが抜く! クゥが抜く! またまたアステリオが抜く! これほどまでに熱い展開をいったい誰が予想できたでしょうか!? まさに大陸一を決めるに相応しい激闘! これはどちらが勝ってもおかしくはありません!』
ほぼ互角だが、最高速度はこちらのほうが勝っていた。ルーモン荒野を抜ければゴールは目前。ルーモン荒野での勢いをそのまま持っていければきっと勝てる。
視界の中にはすでにレース場のゴールラインが映っていた。その左脇には手前から奥まで延びた巨大な観客席。もう間近とあって大風壁周辺を飛んでいたときとは比べ物にならない大歓声が耳をついてきていた。
レグナスはククシエルと互いに譲らぬ展開を続けていた。目まぐるしく順位を入れ替えながら、ついにルーモン荒野の終盤に差しかかる。
「クゥ、最後だ! 一気に翔け抜けるぞ!」
レグナスは竜心を小突いてクゥの翼をはばたかせた。ぐいと伸び、黒竜アステリオを置き去りにする。が、すぐさま視界の右端に黒竜アステリオの頭部が映り込んだ。
『翠竜クゥ、思ったよりも伸びません! そして差し返した黒竜アステリオ! もうゴールまで残りわずか。このまま黒竜アステリオで決まりか!?』
黒竜アステリオが意地をみせたのか。いや、先ほどの風ならもっと離せていたはずだ。ならば考えられる理由はひとつ――。
クゥの疲労だ。たび重なる無茶な飛行で限界にきていたのだ。
こちらを抜き去っていく黒竜アステリオ。
その背を見ながらレグナスは奥歯を強く噛みしめる。
ここで終わってしまうのか。やっと空の舞台に戻って来られたというのに、またギルトア大祭典をとれずに終わってしまうのか。そうして湧きあがった悔しさがあふれ出すほどにふくれ上がった、瞬間。
ぞくりと悪寒がした。
もう3度目とあってすぐにその正体を理解した。
これは……ギルトアの空に吹く突風の予兆だ。
まさかこれまで何度も邪魔をしてきた風が、ここにきてまた吹いてくるとは思わなかった。トドメを刺そうというのか。また翼をもぎとって地に落とそうというのか。墜落の記憶が蘇り、諦めの感情が胸中に満ちはじめる中、レグナスははっとなった。
――いや違う。
本当は邪魔をしにきたわけではないのかもしれない。
初めてのギルトア大祭典でも。
ラギア記念の日の帰り道でも。
この風はずっと……ずっと俺を……。
応援してくれていたんだ――。
レグナスは半ば反射的に竜心を叩いていた。広げられたクゥの翼が突風をすべて掴んだ、その直後。とても大きな手に背中を押されたような、そんな感覚に見舞われた。
左側に映っていた観客席や、右側に映っていた黒竜アステリオとククシエルが後方へと一気に流れていく。あまりの速さに周囲が止まっているように見えた。
あまりにも短い時間だったが――。
もし自分の翼で飛べたなら。
そんな夢想を実現したかのような、最高の瞬間だった。
『ゴォオオオオオオルッ! なんという劇的な大逆転! 最後の最後で差しきりました! 絶対王者ククシエル・ルーファに打ち勝ち、ギルトア大祭典を制したのは――』
割れんばかりの歓声の中、レグナスはクゥとともに空高くへと舞い上がる。
そして――。
天へと向かって拳を突き上げた。
『翠竜クゥ! 騎手レグナス・ソングオルですッ!』




