◆第二十九話『色づいた空は、そこに』
ピナ・オルバーンは自室の扉を必死に叩いていた。
向こう側にいるであろう父に向かって叫ぶ。
「お願いします、お父様! 行かせてください!」
「だめだ。今日一日はそこで大人しくしていなさい」
「今回だけでもいいんです。だから、お願いします……っ」
「……レースを観れば、またお前は戻りたいと言うだろう」
否定することはできなかった。いや、否定したところで父には見透かされている。だから、このような半ば軟禁のようなことをされたのだ。ピナは扉に額をくっつけながら震える唇で気持ちを吐き出す。
「どうして……どうしてなんですか。お父様……っ」
「……わかるだろう、ピナ。わたしにとってお前はたったひとりの家族なんだ。もう、わたしを困らせないでくれ」
苛立ち混じりに放たれた父の言葉には深い悲しみが含まれていた。なぜこんなにも父が心配するのか。その理由を誰よりも知っているからこそ、言い返すことができなかった。
「ピナがここから出ないように見張っておいてくれ」
「かしこまりました」
父がメイドに声をかけたのち、遠ざかっていくのが扉の向こう側から伝わってきた。
「お父様のわからずや……っ」
ピナは扉に拳を押しつけたままずるずると下がり、膝をついた。そのまま扉に背を向けて座り込み、膝の間に顔を埋める。
こうしていると昔のことを思い出す。
愛しい母が亡くなってからのことを。
ちょうど5年前だったろうか。
母の名前はソフィアという。とてもとても優しい人だった。けれど頑固な一面もあって、父と言い合うことも厭わないほどだった。
父が忙しい身とあって、いつも構ってくれていたのは母だった。他大陸の話や生まれながらの貴族である父では知らないような人々の話をしてくれた。
母から出てくることは屋敷での裕福な生活とはまったく違って、まるで別世界に訪れたかのような感覚にしてくれた。
誰もが羨むほどの愛を注いでもらっていたと思う。だからか、母が亡くなったとき、すべてを失ったように感じてしまった。生きることに意味を見出せなくなってしまったのだ。
それから父は色々な手を尽くしてくれた。美味しいものを食べさせてくれたり、演奏楽団や劇団の公演に連れていってくれたり、有名な画家の絵を見せてくれたりもした。
それでも生きる気力が戻ることはなかった。
世界のどこを見渡しても母はもういない。
そう思うと顔を上げる気すらも起きなかった。
そんなときだった。
ドラゴンレースと出会ったのは。
父の親族として招かれたレース――国王誕生祭。これまでに聞いたことのない大歓声に釣られて思わず顔を上げると、空を翔ける少年が映り込んだ。実際は飛竜に乗って飛んでいたのだが、そう見えたのだ。
そしてその姿にどうしようもなく目を奪われてしまった。壮大な青空を背景に、悠々と風に乗って飛ぶ様はまさに鳥のようで、世界が無限に広がっているような、そんな感覚にさせてくれた。
母が亡くなってからというもの、色あせていた世界が再び色づいた瞬間だった。
それからはもうドラゴンレースの虜となり、王都で行われるドラゴンレースはすべて観戦するようになった。どのレースも興奮したし、はらはらもした。ただ、あのとき――少年の飛行を見たときほど心動かされることはなかった。
そのときにはもう彼のことについては調べがついていた。というよりドラゴンレースファンの間では有名な人で自ずと耳に入ってきたのだ。
名はレグナス・ソングオル。最年少でありながら無敗を貫き、翠竜乗りでその独特の飛行から〝風を呼ぶ男〟と言われていることを知った。
いつか彼の飛行をまた見たい。
その願いは、まもなく行われるギルトア大祭典が叶えてくれた。
初めて見たからあれほど心動かされたのかもしれない。次に見たとき、以前ほど心が動かなかったらどうしようと思っていたが、そんな心配は無用だった。
記憶どおりの飛行で彼は空を翔けた。猛者ばかりが集まったレースの中でも他の追随を許さず独走し、観客席のある会場近くまで戻ってきたのだ。
だが、悲劇は起こった。突如として吹いた――ギルトア特有の突風にあおられ、彼は飛竜ともども墜落してしまったのだ。幸い怪我なかったようだが、彼のギルトア大祭典は終わりを告げた。
それから数ヵ月後、彼が引退したことを知った。あんなにも気持ち良さそうに空を飛んでいたのだ。またいつか復帰してくれると信じて待ちつづけた。けれど、一向に彼が復帰したという話は聞かなかった。
だから出向いたのだ。
彼が働いているというルグリン竜舎に。
ピナは両手でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
いまも外からは祭りの喧騒が聞こえていた。窓が閉まっているのでくぐもっているが、それでも賑やかな空気は伝わってくる。すべては本日行われるギルトア大祭典に際した祭りだ。
いまは入場しているところだろうか。
演奏楽団によるファンファーレ中だろうか。
それとも……もうスタートしてしまっただろうか。
観たい。
初めてドラゴンレースを観たときのように――。
また彼がギルトアの空を飛んでいるところを観たい。
けれど、そんなことより心配なことがあった。
彼は優しい人だ。先日の墜落に責任を感じてしまっているに違いなかった。
そのせいでまた翼をなくしてしまったかもしれない。
飛べたとしてもそこに枷をかけてしまっているかもしれない。
彼は飛ぶために生まれてきたのだ。
なにものにも縛られずに、ただ自由に空を翔けてほしかった。
……レグナスさんっ。
記憶の中にある彼の飛ぶ姿を思い浮かべながら、ピナは心の中で叫んだ。
直後、窓ががたがたと音をたてはじめた。釣られて顔を上げたとき、窓からかすかに射し込んでいた陽光がちょうど途切れた。
向こう側に映っていたのは黄色の大きな鱗だ。ずしんと重い音が鳴り、床が揺れる。見覚えのある黄竜が部屋の中を覗きこんできたあと、入れ替わるように見知った人物――ペトラが映り込んだ。彼女はなにやら楽しそうに手を振っている。
「ペ、ペトラさんっ!?」
ピナは慌てて立ち上がり、窓を開けにいった。黄竜は庭に下り立っていた。この体はきっとウェンディだ。ピナはウェンディからペトラへと視線を戻す。
「な、なにをしているんですか……!?」
「なにってピナちゃんを迎えにきたんだよ」
「迎えにって……貴族街を許可なしに飛行したら怒られますよっ」
「だろうね。で、行くの? 行かないの?」
あっけらかんと応えたのち、ペトラがにっと笑いながら手を差し出してくる。いまさら悩むことはなかった。もうすでに心は決まっている。
「行きます!」
「そうこなくっちゃ!」
ウェンディがぎりぎりまで窓につけてくれた。ペトラの手を借りて彼女の前に座り、すでに装着されていた2人乗り用のベルトを急いで腹に巻きはじめる。
と、部屋の扉が開けられた。
飛び込んできたのは父だった。
「なんて無茶なことを……」
信じられないとばかりに首を振っている。
「ピナちゃん急いで!」
「もういけます!」
ピナはベルトを巻き終えるなり、ペトラにそう返事をした。ウェンディが窓から離れ、離陸の体勢に入る中、父が窓のほうへと駆け寄ってくる。
「待ちなさいピナ!」
「ごめんなさい、お父様! わたし行きます! いいえ、行かないとダメなんです!」
「ピナッ!」
父が窓から手を伸ばす直前、ウェンディが翼をはばたかせた。ぐんと体に圧がかかったのも一瞬、すぐに空高くへと舞い上がった。風にあおられて踊り狂う髪をかきわけながら、ピナは辺りを見下ろす。
さすが大陸一の祭りとあってか、通りはぎっしり人で埋め尽くされていた。この中をもし歩こうものなら到着する頃には日が暮れていたかもしれない。
「やっぱり空からきて正解だったね。って、うわやばっ」
ペトラが背後を見ながら切羽詰った声をあげた。
ピナは釣られて振り向くと、王城側から追ってくる3頭の飛竜が映り込んだ。
「王国の竜騎士……!」
「これはのんびり飛んでたら追いつかれるね……ピナちゃん、速度あげるよ! しっかり掴まってて!」
ウェンディが加速し、王都の空を駆け抜けていく。いつもクゥに乗せてもらっていたときはゆったりとした飛行だったため、こんなにも速い飛行ははじめてだった。強い風が顔面に吹きつけ、目が乾いてしかたなかった。
商業区を過ぎたところでとてつもない歓声が聞こえてきた。音の出所は前方――目的地のレース場からだ。初めに映り込んだ飛竜に続いて、次々に飛竜が空へと飛び立っていく。
「あちゃー、もうスタートしちゃったか!」
「……でも、おかしいです。クゥの姿が見えません!」
見落としたのだろうか。いや、そんなことはない。出走数の多い黄竜ならまだしも、ほとんどいない翠竜を見逃すはずがない。もしかして――。
「エドラのときみたいに飛び立ってないのかも……!」
「だったら、なおさらピナちゃんが行かないとね!」
クゥは初めてのレースでも上手く飛びたてなかった。その後、なんとか飛び立つことに成功し、事なきを得たが……あのあと、レグナスが言っていたのだ。ピナの声が聞こえたからクゥは飛べた、と。
あの話が本当ならいますぐに会場に行って声をかけなければならない。でなければクゥは――レグナスは空に飛び立てない。
レース場近くの待機区画の空に辿りついた。下ではマルクが両手を振りながら待っていた。彼のそばにウェンディが急降下する。急ぎなのでしかたないが、荒々しい着地に思わず頭がくらくらしてしまう。
「お父さん!」
「よくやったペトラ!」
ピナはがちゃがちゃと急いでベルト外したのち、マルクの手を借りて飛び下りた。続いて、ペトラも転がるようにして着地する。
「あとは俺に任せろ! お前たちは急いでレグナスのところに行ってやれ!」
マルクが待機区画に下り立とうとする竜騎士たちを見ながら叫んだ。マルクに迷惑をかけることに申し訳なく感じたが、ここで行かなければ厚意がすべて無駄になってしまう。
「行こうっ、ピナちゃん」
「は、はい!」
ペトラに手を引かれてレース場へとひた走る。
『先頭は代わって黒竜アステリオ! 後続との差をさらに広げ、ミドナ川へと差し掛かったようです! やはり強い、強すぎます! 今年もやはりこの飛竜で決まりか! 翠竜クゥのほうはいまだ飛び立てていません。これはもう棄権の可能性も見えてきました!』
会場がどよめく中、裏手の階段を上がって観客席へ。そこからはペトラ先導のもと立ち見の観客をかきわけながら進み、ついにレース場にもっとも近いところまで辿りついた。
開けた視界の中、目の前にレグナスたちの姿はなかった。視線を巡らせると、右手側のほうに彼らの後ろ姿を見つけることができた。ただ、遠すぎた。体の大きなクゥはまだしも、レグナスの姿はかなり小さく見える。
これほど多くの観客の中、声をあげても彼らに届く可能性は低いかもしれない。けれど、きっと届く。そう信じて、ピナは手すりから上半身を乗り出し、腹の奥底から声を張り上げた。
「レグナスさ~~~~~んっ! クゥ~~~~~っ! わたしはここにいます! ここで見ています! だからっ! 飛んでください! 自由に! そして――」
すでに先頭から大きく離されている。その言葉を口にすれば周りから笑われるかもしれない。けれど、そんなのは関係ない。クゥという最高の翼を得たいまの彼ならきっと誰にも負けはしない。
だって彼は、レグナス・ソングオルは――。
――わたしにとって最高の騎手だから。
◆◇◆◇◆
「……聞こえたか、クゥ」
レグナスは思わず口元を緩めてしまった。本当によく通る声だ。こんなにも多くの観客がいる中でもはっきりと聞こえてきた。
「大丈夫だ、ピナはいる。お前を見てくれてる」
そう声をかけながら、クゥの首を優しく撫でた。先ほどまで俯いてばかりだったクゥがようやく頭を持ちあげる。荒かった鼻息も落ちつき、いつでも飛びたてるとばかりに翼を動かしはじめた。
「本当に変わらないな、お前は」
ピナの声を聞くまでは飛び立とうとしなかった、初めて出走した大森林杯と同じだ。しかたないな、とレグナスはため息を吐いたのち、気持ちを引き締める。
先に飛び立った飛竜たちの多くがすでに見えなくなっていた。2、3頭の後ろ姿が見えるが、それもかなり小さい。出走しているのは難しいレースを勝ってきた飛竜たちばかりだ。難しい展開どころではない。
だが、諦める気はなかった。
――勝ってください!
最後に放たれたピナの言葉を思い出しながら、レグナスは手綱をぐっと握る。
「行くぞ、クゥ……!」
名前の由来となった甘えるような鳴き声ではない。
クゥは勇ましい咆哮をあげながら、その大きな翼を広げて飛び立った。




