◆第二十二話『ナハキド大賞②』
勢いよくゲートが開けられた。沸きあがった大歓声の中、木肌でふさがれていた視界にノスヴェリア大渓谷の岩肌が映り込む。
ほぼ間を置かずにレグナスはクゥの首を足で小突いた。ぐいと体が前へと運ばれる感覚。クゥが勇ましく翼をはためかせ、飛翔する。
『翠竜クゥ! これは文句のつけようがないスタート! ほかの竜たちを置いて1頭飛び出しました!』
これ以上ない最高の出だしだ。しかし、油断はできない。ノスヴェリア大渓谷は基本的に曲線コースだが、北側だけは少し直線がある。純粋な飛行速度では劣る翠竜には分が悪い。
ただ、ここには強い風が吹いている。
レグナスは前傾姿勢になった。手綱は左手だけで持ち、クゥの首筋に右手の平を当てる。そこは竜心と呼ばれ、竜にとっては第二の脳とも言われている敏感な箇所だ。
手の平で竜心を強めに叩く。翼を動かすタイミングをこちらに任せろ、という合図だ。それから五本の指を立てた手の平でクゥの首を叩いていく。
基本的に翼を動かすタイミングは竜任せだ。しかし、翠竜の場合はその特性を最大限に活かすため、騎手が指示する必要がある。それはかなり高度で、翠竜を使う人間が少ない理由でもある。
ただでさえ翠竜は軽い。無駄に翼を広げれば強い風に体を持っていかれてしまう。最小限のはばたきで、いかに前へと進めるか。そこが勝負の鍵となる。
下方から突き上げるように吹いてくる風も均一ではない。場所によって強弱がある。その中でも強い風を見つけては飛び込んではばたき、脱出。弱い風の中で滑空する。丁寧に繰り返し、加速していく。
『スタート開始から飛び出した翠竜クゥ! 謎の蛇行を始めたかと思いきや、さらにリードを広げていきます! 直線に弱い翠竜が先頭を飛んでいる! その予想だにしない光景に会場では大きなどよめきが起こっています!』
――いくら翠竜とはいえ、お前の飛ばし方は特殊すぎる。
マルクにそう言われたことがあった。たしかに同じような飛び方の騎手は見たことがない。そもそも翠竜自体レースに出るのが稀だ。観客が驚くのも無理はなかった。
その後も大胆に強い風を掴まえながら先頭を翔けつづける。すでに直線は終わり、左回りのコースへと移行していた。
直線とは違い、強い風は外側に集まっている。大回りをすることになるが、クゥの気分を乗らせるためにも強い風を掴まえることを優先した。
前方左側の岩肌に大きな穴が見えてきた。ナハキド大空洞への入口だ。レグナスはクゥの首を小突いて進路の変更を指示する。
『2番手は青竜デスベランド! ですが、先頭との差はすでに10竜身以上も離れています! なんという独走状態! この始まりを誰が予想できたでしょうか!? そして後方との差を大きく開けたまま――ここで先頭の翠竜クゥ、ナハキド大空洞へと入ります!』
大空洞内に飛び込んだ瞬間、ひんやりとして湿った空気が顔を叩いた。大渓谷とはまるで違う空気感に、思わず別世界に迷い込んだかのような錯覚を抱いてしまう。
中には等間隔に松明が置かれており、暗がりでも視界確保に不自由することはなかった。揺らめいた火によってあちこちで反射した水が姿をあらわにしている。下方に目を向ければ、ちろちろと弱々しく流れる水も見ることができた。
レグナスは竜心を二度叩いて、翼をはばたかせる指示権を一旦手放した。
大空洞内にも風は流れているが、利用できるほど強くはない。ゆえに大渓谷でどれだけ差を広げられるかが重要だった。結果は思ったよりも上手くいった。いや、上手くいきすぎたぐらいだ。
肩越しに振り向いて後方を確認する。遠くのほうに青色のなにかが見える。はっきりとは姿を確認できないが、おそらく鞍上ムンバックの青竜デスベランドだろう。
大空洞内において翠竜は圧倒的に不利だ。広げた差を縮められるのはしかたない。重要なのはいかに距離を詰められないように飛行するかだ。
レグナスは視線を前方に戻した。大空洞内はかなりうねっているが、東西の出入口は直線状にある。つまり曲がり道だからといって内側に寄るのではなく、出口を目指して最短ルートを辿らなければならない。
進むたびに視界に飛び込んでくる大空洞内の新たな光景。それらを瞬時に読み取り、クゥの首を小突いて指示を出す。まだレースに出て間もないとは思えないほどクゥは愚直に指示に従ってくれていた。おかげでほぼ無駄なく飛べている。
「いいぞ、クゥ。その調子だ」
心配なのは体力ぐらいか。翠竜の持久力はあまり高いほうではない。それでも先行したのはコースの構造上しかたなくだ。とにかく大渓谷に出れば風に乗れるので体力を温存できる。そこまでなんとか乗り切るかない。
それから幾度目かの角を曲がったとき、前方に松明のものとは違う白い光が見えてきた。出口だ。ほぼ同時、後方からべつの竜の気配を感じた。おそらくデスベランドだろう。大空洞内で抜かされることも想定していたのでいい流れだ。
レグナスは大空洞内から飛び出ると同時、思い切り左側へと体を倒し、左足でクゥの首を叩いた。クゥが両翼で空気を力強く叩いて急角度で左側へと曲がる。カットターンだ。
暗かった視界が陽光によって一気に明るくなる。さらに飛び込んできた歓声も相まって世界の広がりを大いに感じられた。
『大空洞内から1番に出てきたのは――翠竜クゥ、翠竜クゥです! いかにリードしていたとはいえ、翠竜がここまで先頭を維持していたことはあったでしょうか!? 2番手は青竜デスベランド! ぴたりとついていますが――』
大渓谷に出ればこちらのものだ。レグナスは再び竜心を二度手の平で叩いて、翼をはばたかせるタイミングを指示しはじめる。
『またまた出ました! 翠竜クゥのとんでも飛行! はばたくたびにグイグイと前へ進んでいきます! 見る見るうちに開いていく差! これにはデスベランド鞍上のムンバックも苦しい顔をするしかありません!』
後方がどうなっているかは司会者の声でしかわからない。ただ、順調に離していることはたしかなようだ。レグナスは風の流れを把握することだけに意識を集中し、クゥとともにノスヴェリア大渓谷を翔け抜けていく。
やがて北橋が前方に見えてきた。ほかの区画よりも縁に沿って立つ観客の数が圧倒的に多い。というより隙間がないほどだ。周囲の注目を浴びながら北橋の下を通過する。
『そしてここで翠竜クゥ、鞍上レグナス・ソングオルがトップで2週目に入りました! 驚きの展開に会場にはいまだどよめきが起こっています! ですが、アズールの新星デスベランド、ムンバック組への熱い声援も負けていません。このまま翠竜クゥの独走を許すのか!?』
さすがに人が多いだけあってエドラ大森林杯とは比べ物にならない歓声だ。ピナやペトラの声は聞こえない。ただ、もっとも人の多い北橋から離れると、少しばかり歓声は落ちついていた。
「この飛び方……どっかで見たような……」
「思い出したぞ! あいつ〝風を呼ぶ男〟だ!」
「それってリダムの英雄か? 引退したって聞いたぞ」
「知らねぇよ。いるってことは戻ってきたんだろ」
観客の声ははっきりとは聞き取れない。だが、あちこちから「風を呼ぶ男」という単語が口に出されているようだった。ウズールではあまり飛んだことがないので知名度はほとんどないと思ったが、予想以上に知られていたらしい。
とはいえ、嬉しさはない。むしろ後ろめたい気持ちで一杯だ。レグナスは聞こえてくるそれらの声を思考の外へと追いやり、目の前に集中する。
吹きつける強い風がある限り、大渓谷で抜かされることはない。絶対の自信を持ちながらクゥに指示を出していく。
以降も速度を落とさずに飛びつづけ、再び大空洞内へと侵入する。入ってから間もなく後方から大歓声が聞こえてきた。おそらくタイミング的に自分たちに向けられたものだろう。
大空洞内をクゥとともに進んでいく。とても静かだった。松明で照らされているとはいえ、多くが黒色で染められた中とあってか。クゥと自分だけしかいないような、そんな感覚に見舞われる。
順調だ。無理にペースを上げる必要はない。この調子で飛びつづければ必ず優勝できるはずだ。そう自身に言い聞かせ、レグナスはおごらず丁寧に指示を出していく。
ふと違和感を覚えた。ずっとクゥしかいないと思っていた空間に異物が紛れ込んだかのような感じだ。ただ、それはとても微細な変化で鮮明に認識することはできなかった。
後続とはかなり離れていたはずだ。追いつかれるとしても大空洞の出口付近だ。こんな中間地点で追いつかれるとは思えない。しかし、この感覚は……。
後ろを確認するかいなかの判断に迫られた、そのとき。
背後から飛竜の呻く声が聞こえてきた。
間違いない。
後ろにいる。
青竜デスベランド、騎手ムンバックか。
――いや、違う。
突如として、そばを一頭の飛竜が翔け抜けていった。
飛竜の肌は青ではなく黄。
騎手は美しい銀の髪をなびかせていた。
黄竜ノイン。
そして騎手――。
ククシエル・ルーファ……!




