◆第十七話『祝杯の時』
ちぎれ雲をぽつぽつと流し、徐々に赤みを帯びはじめた空の下。
ルグリン竜舎からほど近い芝地の上で多くのカップがかち合わされた。祝杯のエールがあちこちで片付けられたのち、賑やかな声が一斉にあがりはじめる。
「またお前の飛行を見られるなんてなぁ……」
「俺ぁ、お前の飛行を見るのが好きで好きでたまらなかったんだよ!」
「よく帰ってきてくれたなあ、レグナス!」
エドラ大森林杯の祝勝会を催していた。
参加者は50人ほど。
多くはルグリン竜舎と付き合いのある知人とその家族たちだ。
竜舎の経営には餌や敷物といったものだけでなく様々なものが必要となる。周辺に住まう人々の協力がなければ決して成り立たない。だからこそ日頃の礼も兼ね、マルクは大きな収入があった際はこうして食事会を開くのが常だった。
レグナスは詰め寄る男たちを前に深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございます。今日の勝利はみなさんの声援あってこそです」
「なぁに堅苦しいこと言ってんだ。お前がレースに出てた小せぇ頃から知ってたんだぞ」
「よっ、風を呼ぶ男!」
「は、恥ずかしいんでやめてくださいって」
遠慮のない年配が相手では面目もなにもあったものではない。
夕刻の優しい風に乗せられ、こうばしい香りが漂ってくる。幾つかの金網台でレイラを含む女性陣によって肉が焼かれていた。ペトラ付き添いのもと、ピナも手伝いをしている。初めてのことなのか、とても楽しそうだ。
少し離れたところでは干すようにして肉を豪快に焼くマルクの姿もあった。レースで勝利したときのみに焼く肉だ。あれが配られるときはよく歓声が沸いていたのを覚えている。
「しかし、マルクの奴もよく許してくれたな」
「だな。翠竜の登録料だけじゃねぇ。レースの出走費だってあるだろ」
「それが復帰するのを待っててくれたんですよ。なにも言わずにずっと」
いま話している男たちはマルクとの付き合いが長い者ばかりだ。そんな彼らが総じて目を潤ませる。中には涙を隠すように乱暴に目をこする者もいた。
「なんでぇ、マルクの奴。泣かせるじゃねぇか」
「本当に世話になりっぱなしです」
そうして男たちが感動する中、当のマルクは肉を注視している。客人に美味い肉を食わせようという意志がひしひしと伝わってくる。そんな不釣合いな光景を前にレグナスは思わずふっと笑ってしまった。
「しかし、これからレースの出走方針はどうすんだ?」
「とりあえず昇級できたので順当にB級を回ろうと思ってます」
昇級しても格下のレースに出場することはできるが、ハンデとして錘を担がされる。もちろん竜の負担になるのでよほど資金に困っていない限り、その選択がとられることはない。
「ってなるとアブザ記念かナハキド大賞か」
「たぶん、そのあたりじゃないかなと」
「もう少しあとならボナロ豊饒祭もあるな」
「ボナロならリダムの全員がレグナスの応援に回ること間違いなしだなっ」
ボナロ豊饒祭は地元のリダムで行われるレースだ。
優勝賞金のほか、副賞として様々な作物が贈られる。
それはもう大量の大量だ。
「とりあえず餌代稼ぎのためにも出られる中でなんとか勝てるように頑張るつもりです」
そうして無難な返答をしたとき――。
「目指すはギルトア大祭典ですよねっ!」
背後からピナのはつらつとした声が聞こえてきた。振り返ると、肉を乗せた皿を両手に持ちながら、期待に満ちた目を向けてくる彼女が立っていた。
ナーグアルク大陸でもっとも速い飛竜を決めるギルトア大祭典。
飛竜と聞けば誰もが頭に浮かべるレースだ。どんなレースであれ、勝利すれば浮かれてそのレースを目指すと口にする者は少なくない。
だが、ここにいる誰もがその名を口にしなかった。
すべてはかつて墜落した〝風を呼ぶ男〟の存在が理由だ。
空気が凍りついたように静まり返った中、ピナが視線を巡らせて動揺しはじめる。
「あの……わたし、なにか変なことを言いましたか?」
「いいや、なにも言ってないさ」
彼女に悪いことはなにもない。
レグナスは優しくピナに微笑みかける。
「肉、焼けたんだな」
「はいっ。あ、みなさんの分もできてますよっ」
元気な声で応じたピナが体を横に開く。その先では女性陣が肉を取り分けた皿をかかげていた。エールにお熱だった男たちが一斉にこうばしい匂いのもとへと旅立ちはじめる。
「みなさん、お肉が大好きなんですね」
くすくすと笑うピナ。
そんな彼女の横顔を見ながら、レグナスは先ほどの言葉を思い出していた。
――目指すはギルトア大祭典ですよねっ!
あの言葉にすんなりと応えられなかった。
目指すとは言えなかった。
そのせいだろうか。
祝勝会の間、彼女の目を真っ直ぐに見ることができなかった。
◆◆◆◆◆
夜の帳が下り、辺りはすっかり暗く染まっていた。
夕刻には陽気な空気で満ちたルグリン竜舎もいまや静まり返っている。その落差もあっていつもより寂しさを強く感じられた。
だからか、レグナスは誘われるようにして竜舎にきていた。ランプの柔らかな光に照らされた中、クゥは丸まって穏やかに体を上下させている。いつもなら寝ている時間だが、きっとレースの興奮が抜け切っていないのだろう。
レグナスは仕切り棒をまたいでクゥのそばに寄り添う。
「今日はよく頑張ったな」
そう声をかけながらクゥの目元近くを右手の平で優しくさする。クゥがくすぐったそうにまぶたを少し下げ、甘えるように擦り寄ってきた。
レースで優勝したこと。
それはきっとクゥにもわかっている。
ただ、色々なことを今日一日で経験したからだろう。いまのクゥには興奮のほかに少なくない不安が残っているようだった。
安心できるようにとクゥのことを撫でつづける。時折、クゥは目をゆっくりを開けては閉じていた。まだ近くにいることを確認しているのだろうか。本当に心配性な子だ。
ウェンディやロードンはすでに眠りについている。そのせいもあってか、まるで自分とクゥだけしかいないような、そんな気分に見舞われる。
ふと足音が近づいてきた。
この聞き慣れた足音はきっとペトラだ。
予想どおり彼女だったようでひそめた声で話しかけてくる。
「もう寝ちゃった?」
「いや、まだ起きてる。初めてのレースだったからだろうな。まだ興奮が冷め切ってないみたいなんだ」
「今日はすごい頑張ったもんね」
ペトラが仕切り棒を越え、そばまでやってくる。ひと気に警戒して目を開けたクゥだったが、ペトラとわかった途端に閉じた。それを機にペトラが微笑みながら、クゥの鼻先を撫でる。
「ありがとね、レグをまたあの舞台に連れてってくれて」
気恥ずかしかったが、文句なんて言えなかった。また〝空の舞台〟に戻ることを、彼女が誰よりも待望していたことを知っていたからだ。
「そういやピナは?」
「それが気づいたら寝ちゃってて」
「いつもより早いな」
ペトラが名残惜しそうにクゥから手を離した。
なるべく音をたてないように後ろ歩きで下がり、仕切り棒に腰を下ろす。
「誰よりも大きな声で応援してたからね。スタートからゴールするまで、ず~っと」
「そりゃあ騎手よりも疲れそうだ」
冗談でもなんでもなくピナの声援は凄かった。いくら声の通りがよかったとしても子どもの声量とは思えないほどだった。本当に全力を尽くして応援してくれたのだろう。
「ずっと待ってたんだよ」
穏やかな空気の中、ペトラが不意を突くように言ってきた。
待っていた、とは空の舞台に戻ったことに対してだ。
「……ありがとな」
簡素だが、充分に伝わると思った。
彼女との付き合いはそれほどまでに長い。
「でも、あんまり嬉しそうじゃないよね」
「そんなことはない」
そう答えてから、レグナスはクゥの翼を見ながら「ただ」と継ぐ。
「まだ上手く風を掴めてないんだ。……いや、読み切れてないって言い方が正しいかもな。そのせいでクゥの翼を活かしきれてない」
「仕方ないよ。ずっと空に上がってなかったんだもん」
レースに出れば〝復帰してから間もない〟なんてことは順位に影響しない。もちろんペトラもそんなことはわかったうえで励ましてくれている。だが、それでも自身の不甲斐なさにレグナスは納得できなかった。
「飛んでるうちにまた掴めるようになるよ」
「だと、いいんだけどな」
クゥが頬をすり寄せてきた。安心させようと思っていたはずが、逆に心配をかけてしまったようだ。レグナスは反省しつつ、感謝の気持ちを込めてひと撫でする。
「明日、訓練のあとにあそこに行ってみたら?」
ペトラがそう提案してきた。
あそこ、とは子どもの頃に何度も通った思い出の場所だ。そして――。
空に上がることを決意した場所でもあった。




