◆第十五話『エドラ大森林②』
開始合図の音に驚いたか、あるいは一斉に飛び立った竜たちに驚いたか。クゥが荒げた声で吼えながら、じたばたと暴れはじめた。
「落ち着くんだ、クゥ!」
レグナスは手綱を引きながら制御を試みるが、狂騒状態に陥っているのか、クゥに声が届いた様子はない。
『やはりいきなりのB級はさすがに無理があったのでしょうか。翠竜クゥ、一向に飛び立ちません!』
初めてのレースで上手く飛び立たない竜は少なくない。だが、それにしてもクゥの怯え方は異常だ。
長く野生で暮らしたこともあり、クゥはまだ人に慣れていない。そんな中、これほど大勢の人間の前に出たことで知らずうちに強いストレスを感じ、現状に繋がったのかもしれない。
もっと気を遣ってあげるべきだった。
ただ、後悔したところでもう遅い。
このままでは飛ばずして棄権になってしまう。
いったいどうすれば。
「クゥー! 大丈夫だよー! わたしたちがここで見てるからー! だから、安心して飛んできてーっ!」
どよめく観衆の中にあっても、その幼い声はよく通った。ピナだ。見れば、彼女は周囲の目も気にせず、必死に両手を振っている。
クゥが暴れるのをやめ、まるでピナに応じるよう「クゥ」と鳴いた。
騎手を差し置いて、なんて想いもあったが、レグナスはそれ以上に嬉しかった。ピナとクゥがそれだけ互いに信頼し合っている証だからだ。
「そうだ、ピナが見てるぞ。良い格好、見せてやらないとな」
クゥは完全に落ち着きを取り戻したようだ。
手綱の誘導に従って真っ直ぐに森のほうを向いてくれる。
それを機にレグナスは足で軽く首元を小突く。と、クゥが軽い助走ののち、翼をはばたかせた。視界がぐいと持ち上がり、一気に前方へ進みはじめる。
『翠竜クゥがようやく飛び立ちました! ですが、すでにほかの竜は森の中! この遅れを取り返すのはちょっと厳しいかー!?』
たしかにスタートから大きく出遅れてしまった。
ほかの竜の姿も森の中へと消え、どこにも見えない。
こんな状況だ。おそらく観客の多くが、クゥの優勝はないものと思っているだろう。だが、レグナスは諦めるつもりなどなかった。
「いいか、クゥ。俺を信じて全力で翔け抜けてくれ!」
その声が通じたのか、ぐんと速度が増した。
切りつけるような風を感じながらエドラ大森林へと突入する。
中は樹冠から射し込んだ陽光によって優しく照らされていた。そのさまは神秘的で美しいとしか言いようがない。叶うならずっと見ていたいところだが、いまはレース中。レグナスは、ただひたすらに前方に集中する。
エドラ大森林の樹々は一定の間隔を空けて、その根を張っている。それを頭に入れておけば、次がどの位置に生えているかはある程度予測がつく。
手綱と体の上半身だけを動かして、クゥの進路を制御。速度の落ちるカットターンをなるべく使わずに樹々の間を翔け抜けていく。
森の中に入ったこともあり、司会者の声はもう聞こえない。
おかげでびゅうびゅうと流れる風の音がよく聞こえた。
ただ、それは竜に乗っていれば当然のこと。
だからか、とても静かに感じた。
視界に現れた樹から順に左右へと流れては消えていく。
まだほかの竜の姿は見えない。
思った以上に離されているようだ。
焦りが手綱に乗りそうになるが、なんとか堪えた。
決して悪くない速度で飛んでいる。
いまできる最善は、いまの飛行を続けることだ。
と、右前方にこれまでには見られなかった異物が映り込んだ。黄竜だ。
――ようやく追いついた。
その安堵から緩みそうになった気を引き締め、これまで通りの飛行を続ける。と、自然と相手の黄竜に並び、ついには追い抜いた。
だが、最後尾になるという焦りからか、相手が速度を上げてまた並んできた。それが良くなかったのだろう。相手の黄竜が片翼を樹に衝突。痛ましい音を鳴らして墜落した。
残念だが、これは勝負だ。
同情の念を捨て、レグナスは前へと意識を向け続ける。
間もなくして3頭の竜を視界に捉えた。
青竜が1に黄竜が2。
一瞬、ダルダンの青竜かと思ったが、違った。
3頭は互いに牽制し合い、白熱した勝負を見せている。ただ、それがこちらの道を塞ぐ形になっていた。なかなか追い抜くための空間を見つけられない。
そろそろ折り返し地点のはずだ。
そこなら広い空間がある。
抜くには最適だが……。
果たしてそれで間に合うのか。
たしかに悪くないペースだが、まだ11位。
前方の3頭を抜いたところで8位だ。
このままでは優勝なんて夢のまた夢。
どうする。
無理矢理にでも追い抜くか。
と、視界の左端。
はるか先で青い竜が翔け抜けていくのが見えた。
勝ち誇ったような笑みを浮かべている騎手――ダルダンの姿も。
奇しくも、その憎たらしい顔が悩みを取っ払ってくれた。
「クゥ、突っ切るぞ!」
レグナスは指示を出し、前のめりになった。
クゥが咆え、一気に加速する。
前方に隙間はほぼないと言っていい。
だが、それは同じ高さでの話だ。
レグナスはクゥの高度を上げると、3頭の竜の上へと滑り込んだ。
森から姿を出せば、その時点で失格となる。
かといって竜たちに近づけば接触して墜落は必至。
限界ぎりぎりの高度を維持しながら一気に追い抜いた。だが、喜ぶ暇もなく、枝葉の群れが前方を塞いでいるのを捉えた。
とっさにレグナスは体がねじれるほど右方向に倒し、クゥの首を足で小突いた。瞬間、クゥが枝葉ごと叩くように翼を振った。
視界を視界として認識できないほどブレたのち、もとの高度へと戻った。いまだ脳が揺れる中、追い抜いた3頭にぶつからないよう、クゥの首を小突いて発破をかける。
かなり無茶なことをした。
これで8位となったが、まだだ。
さらに前方に4頭の竜を捉えた。
勢いに乗って、このまま抜いてしまおう。
そう決めたとき。
樹冠によって制限されていた陽光が一気に降り注いできた。
開けた場所――折り返し地点へと出たのだ。
『さぁ続々と竜たちがループターンを決め、来た道へと戻っていきます! ……ん、な、なんと大きく出遅れていた翠竜クゥ、鞍上レグナス・ソングオルがここにいました! なんという怒涛の追い上げでしょうか!』
もっと順位を上げてから折り返し地点に入りたかったが、好都合と言えなくもない。ここなら4頭が相手でも余裕を持って飛べるほどの空間がある。
前を飛ぶ4頭がかすかに速度を落とし、空高く舞いあがっていく。最高速度でループターンに入れば尋常ではない負荷が騎手にかかる。それを危惧してのことだ。
こちらも当初は減速して向かうつもりだった。
だが、それでは勝利はない。
レグナスは素早く手綱を二回打ちつけ、ループターンの指示を出した。クゥが翼を力強くはばたかせ、速度を維持しながら一気に天へと向かう。
手綱を強く握らなければ上半身が、首に力を入れなければ頭が地上へと持っていかれそうな感覚に見舞われた。レグナスは歯を食いしばり、なんとか意識を保ち続ける。
速度を上げた分、回り切るまで一瞬だった。
通常飛行へと復帰し、逆さまになっていた地上がもとへと戻る。
体にかかっていた負荷が解けた。
解放感からか、汗がどばっと出る。
通常飛行に戻るのがあと少しでも遅れていれば意識が飛んでいたかもしれない。それほど危険な飛行だったが、その甲斐あって先行する4頭を抜き去れた。
『まさかの減速なしのループターンを決めてみせました。レグナス・ソングオル! 一気に4位へと躍り出ました!』
高度を下げ、再び森の中へと突入する。
勢いを殺さずに突っ込んだこともあり、クゥの腹が地面につきそうになるが、なんとか持ち上げることに成功した。
速度は充分。羽ばたく回数を抑え、充分に風をたくわえながら翔けつづける。
減速なしでループターンを決めたのは相当に大きかったらしい。先頭集団が見えてきた。手前に2頭の黄竜。奥に1頭の青竜。
どうやらダルダンはまだ先頭を維持していたようだ。
ただ、ぴたりと黄竜たちがついている。
青竜は体力があるので先行して逃げ切ることが多い。
ダルダンもそれを狙ったようだが、エドラ大森林内の乱立する木々を前に上手く最高速度を出せず後続に捕まったようだ。あれでは振り切るのは難しいだろう
背後の2頭を確認するために振り返ったダルダンが、こちらを見てはっとする。
「な、なんでキミがそこにいるんだ!? さっきすれ違ったばかりじゃないか!」
答えてやる義理はない。
レグナスは手綱を細やかに動かし、淡々と指示を出しつづける。クゥが最小限の動きで大樹を躱し、さらに先頭との距離を詰めていく。
「くそっ!」
ダルダンが見るからに焦ったように青竜の首を蹴った。ぐいっと青竜の速度が上がり、先頭集団から抜け出す。が、逃がすまいと後続の黄竜1頭があとを追いかけた。
上手く振り切れなかったからか、ダルダンがさらに青竜の首を蹴った。応じて青竜がその大きな翼をはばたかせた、そのとき。
青竜の左翼が大樹に触れた。がんっ、と鈍い音が鳴り、青竜が体勢を崩す。それでもなんとか持ちこたえようと立て直すが、急に速度を落としたうえに進路が歪んだからか、後続の黄竜1体と衝突した。
距離は離れていたが、竜の速度もあいまってすぐにそれは眼前まで迫ってきた。このままでは墜落に巻き込まれてしまう。
レグナスは慌てて左足でクゥの小突き、思い切り体を左方へ倒した。クゥが両翼で空気を叩き、ぐんっと急角度の方向転換を見せた。レグナスはすぐに体をもとに戻し、クゥの進路を制御する。
こんなことでカットターンを使うとは思いもしなかった。
充分に訓練した甲斐があったというものだ。
飛竜の墜落を見るのは痛ましいことこのうえないが、これも勝負だ。いまはレースに集中しなければならない。
前方を見やる。
1頭の黄竜がいまも翔けつづけている。
どうやらあちらも先ほどの墜落劇を上手くやり過ごしたらしい。
じりじりと距離を縮めてはいる。
おそらく森を抜ける頃に並ぶかどうかといったところだろう。
だが、それでは遅い。
いまもこちらが速度で勝っているのは相手が木々に衝突しないよう意図的に速度を落としているからだ。森を抜ければ障害物もなにもない直線コースが待っている。純粋なスピード勝負になれば勝ち目はない。
――勝負をしかけるならいましかない。
「いくぞ、クゥ!」
レグナスは体を前に倒し、クゥの首を小突く。呼応するように鳴いたクゥが虚空を叩くように翼を動かし、一気に速度を上げた。
瞬く間に黄竜に並び、さらに突き放そうとする。だが、相手もここが勝負だと悟ったようで離されまいとついてくる。ダルダンの墜落劇をとっさに避けた判断のよさから見ても、どうやら甘くない相手のようだ。
速度はこちらのほうがわずかに速いようで徐々に差は開いていくが、決して楽ではなかった。周囲の大樹の配置を瞬時に把握。次に眼前に現れる大樹を予測し、クゥへと的確に指示を出さなければならない。
わずかな失敗も許されない。
レース序盤の比ではない速度で景色が左右へと散っては消えていく。
神経を尖らせ続けているからか、息が荒くなっていた。
まだか。
まだ外に出ないのか。
変わり映えのない木々の景色に時間の感覚が狂いはじめた、瞬間。眼前に小さな光が映り込んだ。それは一瞬にして大きくなり、やがて視界すべてを覆い尽くす。
抜けるような青い空。
開けた大地。
ついに森の外へと出たのだ。
『な、なんと先頭で森を抜けたのは翠竜クゥ! いったい森の中でなにがあったのでしょうか!? 気になるところですが、勝負はまだ終わっていません! 最後の直線が待っています! 後続の猛追を凌げるのでしょうか!?』
どよめきと同時に歓声が沸き起こる。
背後を窺う余裕はない。
だが、わかる。盛り上がりからして黄竜との距離はあまりないのだろう。むしろどんどん詰まっているに違いない。
こうなればあとはできることはほとんどない。
ただ、クゥを信じてともに翔けるだけだ。
司会席の前に敷かれたゴールラインまであとわずか。だが、右側から気配を感じ取っていた。おそらくもうかなり近くまで黄竜に迫られている。
クゥは頑張ってくれているが……
――このままでは追いつかれる。
そう思ったときだった。
「頑張って、クゥーッ!」
歓声にまぎれてピナの声援が聞こえてきた。
呼応するようにクゥが翼を羽ばたかせる。最後の力を振り絞ったそのひとかきによって自身を撃ち出すように加速。追随していた黄竜を突き放し、ゴールラインを通過した。
『この展開をいったい誰が予想できたでしょうか! まさかまさかの大逆転劇! 優勝は翠竜クゥ! 鞍上レグナス・ソングオルです!!』
沸いた歓声がさらに大きくなった。
大きな出遅れからの優勝とあってか。
観客の数からは考えられないほどの沸きようだった。
「よくやったな、クゥ」
レグナスは片手でクゥの首を優しくさすったのち、手綱を動かして上昇の指示を出した。上空でゆるやかに旋回しつつ、優勝者として歓声に応えて手を振る。
拍手を送ってくれる観客の中、抱き合うピナとペトラの姿を見つけた。その近くではマルクが興奮したように咆えている。
優勝者にだけ見ることを許された、この景色。
……また見られるなんてな。
レグナスはゴーグルを外したのち、人知れず目を腕でこすった。




