◆第十一話『居るべき場所へ』
レグナスは空の遊覧を終え、地上に戻ってきた。
本当はもっと堪能したかったが、体を支える脚の疲労が限界だったのだ。クゥの首から飛び下りたときも立っているのがやっとだった。
「レグっ!」
ペトラが体当たりをかますように抱きついてきた。
あまりの勢いに後ろへ倒れてしまう。
「お、おいいきなりなにす――」
「良かった……本当に良かった……っ」
ペトラが鼻をすすりながら、かすれた声を漏らす。
長い付き合いだ。その喜びが、また空を飛べたことに対するものであるのはすぐにわかった。
少しおおげさな気もするが、いまは心地良く感じた。
だから、素直な気持ちを言葉にできた。
「心配かけたな」
「ほんとだよ、もう……」
少し落ちついたからか、ペトラがようやく離れてくれた。
先に立ち上がってから彼女も立ち上がらせる。
と、少し離れたところで様子を窺っていたピナと目が合った。彼女は目を泳がせたあと、意を決したように口を開く。
「あ、あのっ」
「ピナ、すまなかった」
なにより先に言うべきだと思った。
肩越しにクゥの姿をちらりと見てから、レグナスは語る。
「飛べなくなったクゥに、俺は無意識のうちに自分を重ねていた。だからどうしようもなく苛立ったんだ。諦めていないピナの言葉に。目に。必要以上に強く当たってしまったのはそれが理由だ。……本当にすまなかった」
もう一度、頭を下げて謝った。
ピナが後ろめたそうに顔をそらす。
「でも、結局わたしはなにもできなくて……」
「いいや、ピナがずっと空を見ていてくれたから飛べたんだ。俺も、クゥも」
同調するようにクゥが鳴いた。
「ありがとう」
今度は謝罪ではなく、礼を口にした。
ピナが感極まったように両手で口を押さえ、目を潤ませる。
「やっと仲直りできたね」
ペトラがやれやれと呆れたように言った。
「何度も言うが、べつに喧嘩してたわけじゃないぞ」
「はい、あれは少し意見がぶつかっただけです」
示し合わせたようにピナと話がかみ合った。
「うわ、あれだけ迷惑かけといてそれはないんじゃないのー?」
ペトラが恨みがましい目を向けてくる。
そんな彼女を見て、レグナスはピナとともにくすくすと笑い合った。
「あ、でもひとつだけ言いたいことがあります」
ピナが気持ちを切り替えるように息を吐くと、きりりとした目を向けてきた。
「鞍もなしに飛んで、もし落ちたらどうするつもりだったんですか? わたし、すごく心配したんですよ?」
「いや、あのときはすぐに行かないとって思って――」
「怪我どころじゃ済みませんよ?」
ピナが大岩から飛び下りたとき、叱った言葉をそっくりそのまま返された。おかげでなにも言い返せなかった。ピナが少し得意気に笑う。
「お返しです」
「レグの負けだね」
にしし、とペトラが笑う。
なんて居心地の悪い場所だ。
こうなればもう一度空に上がろうか。
そんなことを考えたとき――。
「おーい! さっき飛んでたのってレグナスだよな!?」
そう叫びながら、マルクがそばまで走ってきた。
いつの間にやらウェンディやロードンの姿が見当たらない。どうやらすでに竜房へと戻したようだ。
「はい」
「そいつが飛ばしてくれたのか」
マルクは乱れた呼吸を整えたあと、クゥに近づいた。優しい顔つきでクゥの頬を撫ではじめる。ふとマルクの口が動いたように見えたが、声を拾うことはできなかった。
マルクは名残惜しそうに手を離し、振り返る。
「さてと、じゃあこいつも飛べるようになったんなら明日にでも行くか」
「そう……ですね」
クゥはまた空を飛べるようにしてくれた恩人だ。
叶うならもっと一緒にいたかったが、こればかりは仕方ない。
「あの、どうしたのですか?」
ピナが不安そうな顔で会話に割り込んできた。
ぽりぽりとこめかみをかきながら、マルクが躊躇いがちに告げる。
「あ~、その……なんだ。明日、その子を野生に帰しに行こうって話をしてたんだ」
◆◆◆◆◆
翌日。
クゥを見送るため、ピナとペトラとともにラガン山の近くまでやってきた。
ちなみにまた竜運車を手配してもらうわけにもいかないので、レグナスはひとりだけクゥに騎乗してここまでやってきた。すでに頭絡と鞍は外して脇に置いてある。
「ピナはまだふくれてるのか?」
「ふくれてなんていませんっ」
ピナが口を尖らせ、ぷいと明後日のほうを向く。
「ごめんね~、うちが貧乏で」
ペトラが申し訳なさそうに言うと、ピナが恐縮したように首を振った。
「ご、ごめんなさいっ。そんなつもりはなくて……ただ、こんなに早くお別れすることになるとは思わなくて……」
たしかに急だが、理由は金銭面の問題だけではない。
「長引けば長引くほど、余計に辛くなるぞ」
「そうかもしれませんけど、でも……っ」
いまだ納得がいかないようだ。
「クゥは自分の居場所に帰るだけだ。消えるわけじゃない」
「……はい」
渋々ではあるが、ピナは頷いてくれた。
辛いだろうが、我慢してもらうしかない。
レグナスは彼女の背中をそっと押しだした。
別れの挨拶をしてこい、との合図だ。
ピナは重い足取りでクゥのそばに辿りついた。
空気から別れを察したのか、クゥが甘え鳴きをしてみせた。それがまたピナに未練を抱かせたが、なんとか彼女は堪えたようだ。
「元気でね、クゥ……」
そっと声をかけて、クゥの頬を撫でる。
もっと色んなことを語りかけるのかと思っていただけに予想外だった。ピナは名残惜しそうに手を離すと、早足で戻ってきた。
「もういいのか?」
「はい。なんだか上手く言葉が出てこなくて……」
「そうか」
ピナは必死に涙を堪えていた。
いまはそっとしておくほうが良さそうだ。
「次、あたしね」
そう言って、今度はペトラがクゥのもとに向かった。
ピナとは対照的に晴れやかな顔で話しかける。ただ意図的に声を潜めたのか、なにを言ったのかは聞き取れなかった。しばらくして戻ってきたペトラに尋ねる。
「なにを言ったんだ?」
「なーいしょ」
おどけた返事をされた。こういうときは問い詰めたところで絶対に教えてくれない。長い付き合いなのでよく知っている。
「ほら、レグの番だよ」
ペトラに急かされ、レグナスはクゥに別れの挨拶を告げに向かった。
迎えてくれたクゥが少しの間じっと見つめてきた。かと思うや、脚を曲げて体勢を低くした。乗れ、と言っているのだ。あまりにいじらしいその行動に思わず決意が鈍りそうになる。
「違うんだ。もう乗るのはいいんだ」
クゥは頭を近づけてくると、どうしてとばかりに顔を覗き込んできた。おまけに可愛らしい鳴き声まで漏らす。
「いいか、クゥ。お前の怪我はもう治った。もう自由に飛び回れるんだ。こっちの世界で暮らす必要はもうないんだ。今日で……俺たちはお別れだ」
告げる幾つもの言葉。
レグナスはまるで自身に言い聞かせているようだった。いや、ようではなく、実際にそうだった。
「お前のおかげで俺はまた空に上がることができた……感謝しても仕切れない。本当にありがとな」
最後にクゥをひと撫でしたあと、気持ちを振り切るように離れた。
「さあ、帰るんだ」
そう言って、後ろ歩きでさらに距離をとる。
と、クゥが甘え鳴きをしながら追いかけてきた。
「だめだろ、こっちに来ちゃ」
まさしく幼い子供そのものだ。
ウェンディも相当な甘えたがりだが、クゥはそれ以上かもしれない。
「帰るんだ。お前の居場所に。……さぁ」
今度は少し突き放すように言った。
その甲斐あってか、クゥは寂しそうに山のほうへと歩き出した。何度も振り返っては甘え鳴きをしたのち、ようやく余裕をもって羽ばたけるところまで辿りつく。
やがて、ばさばさと翼を上下に振りはじめた。
これが正しいはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、レグナスはクゥの飛び立つさまを見守る。
と、クゥが甲高い声で鳴きはじめた。
甘え鳴きに近い声調だが、人間の子供の癇癪を思わせる激しさだ。
さらに大暴れするように翼を動かしたあと、クゥはどすどすと足音をたててまた戻ってきてしまった。横たわり、頬をすりつけてくる。
「……まいったな」
「これは完全に懐いちゃってるね~」
ペトラが呑気に言う。
その隣ではピナが力強く頷いていた。
「やっぱりクゥはルグリン竜舎にいるべきです。なによりクゥがそれを望んでいます」
「その話は何度もしたろ」
「わかっています。お金のことですよね」
実に生々しい話だが、そのとおりだ。
ピナが真っ直ぐにこちらを見ながら言ってくる。
「わたしから提案があります」
またオルバーン家の金を使うなら断るつもりでいた。
だが、彼女の提案は違った。
「クゥがレースに出て、勝つんです。そうすれば賞金を貰えます」
ピナは両手に拳を作りながら力強く言った。
たしかにその方法ならクゥの世話代を捻出できる。
それどころか余るぐらいだ。
しかし、前提から間違っている。
「知ってるだろ、ルグリン竜舎は馴致専門だ」
「ドラゴンレースは登録さえすれば誰でも出場できるはずです」
「そもそも騎手がいない」
ペトラは乗れるが、騎手ではない。
彼女曰く、「あたしの性分じゃない」とのことだ。
「いるじゃないですか」
ピナが言った。
彼女の瞳は、こちらを捉えている。
「――《風を呼ぶ男》が」
偶然にも風が吹いた。
静寂の中、揺れた芝がさらさらと音をたてる。
レグナスは妙な懐かしさに包まれた。
だが、同時に息が詰まるような感覚に見舞われた。
「知ってたのか」
レグナスは目を細めながら、問い詰めるように言った。
ピナが真剣な表情で頷く。
「はい。ドラゴンレースのファンですから」
「っても、三年以上も前のことだぞ」
「ちょうどわたしがドラゴンレースを見始めたのもその頃でした」
まだ幼いとはいえ、ピナは十二歳程度だ。とっくに物心はついているだろうし、三年前のことをよく覚えていても不思議ではないだろう。
だが、問題はそこではない。
「ドラゴンレースをよく見るなら、翠竜の出場率がどれぐらいかは知ってるだろ」
「……ほとんど見ません。というよりレグナスさん以外、乗っている人を見たことがありません」
「どうしてかは知ってるか?」
翠竜のクゥを前にしながら、この質問は酷かもしれない。
予想通りピナは言いにくそうにしていた。
渋々といった様子で口を開く。
「基本的な能力が、ほかの飛竜より劣っているからと言われています」
「そのとおりだ。体は白竜に次いで小さいが、かといって白竜のように直線が速いわけでもない。体力もないほうだ。旋回はいいほうだが、ドラゴンレースで必要になる場所はそう多くない」
言葉を連ねるたび、ピナの表情が暗くなっていく。
「翠竜はレースには向かない……俺が子供の頃、多くの人がこう言っていたぐらいだ」
トドメとなるだろう事実を伝えた。
だが、ピナは落ち込むどころか瞳に力強い光を宿していた。
「ですが、レグナスさんが証明してみせました。翠竜は風に乗りさえすれば、どの飛竜よりも速く飛べることを」
いまの彼女にとって、《風を呼ぶ男》が希望であることは揺らがないようだ。しかし、そんな男はもうどこにもいない。
「俺は長らく空を飛んでいなかった。年だけ重ねて、手綱さばきは上達するどころか衰えてる。レース勘だってたぶんもう残ってない」
「それでも、わたしはレグナスさんならできると思います。……いえ、レグナスさんとクゥなら」
どうしてこんなにも信じられるのか。
いくら昔の栄光を知っているとはいえ異常だ。
逃げるように視線を巡らせると、ペトラと目が合った。
「レグがやるって言うなら、あたしは全力で応援するよ」
どうやら逃げ場はないようだ。
とはいえ、本当に逃げ出したいわけではなかった。
昨日、クゥと一緒に空を飛んだときに感じた興奮。目に映った景色。どちらも最高で忘れられなかった。それどころか、また味わいたいとすら思っている。
こんな風にまた空を渇望できるようになったのも、クゥという一頭の翠竜のおかげだ。
「……俺だって出来ればクゥとはもっと一緒にいたいと思ってるんだ」
「じゃあ……っ!」
喜びかけたピナに、レグナスは素早く念を押すように言う。
「まずはマルクさんに確認する。話はそれからだ」




