◆第十話『共に……』
翌日。
朝食を終え、放し飼いの時間となった。
黄竜たちのことをマルクに任せたあと、レグナスはペトラとともにクゥを連れ、ピナと約束した場所――草原に転がった大岩のところへと向かう。
「ピナちゃん、なにする気なのかな。大岩に来てください~、なんて」
「さぁな。踊りでも披露するんじゃないか」
大岩は大人の身長二人分に近い高さがある。
まさにお立ち台として持ってこいの場所だ。
ペトラがむっとした顔で覗き込んでくる。
「ねえ、レグ。わかってる? ちゃんと仲直りするんだよ」
「俺はとっくにそのつもりだ」
「ピナちゃんにもその気になってもらわないと」
「それができたら、こんなことにはなってない」
少し投げやりに返事をしたからか。
ペトラが呆れたように「もうっ」とこぼした。
そうして会話をしているうちに大岩の近くまで辿りついた。
大岩の陰に隠れて待っていたのか。
ピナの小さな右手が見えている。
クゥを撫でてからレグナスは声を張り上げる。
「クゥを連れてきたぞ!」
ピナが素早く立ち上がり、顔半分を覗かせる。
「ありがとうございます。少し待っていてください」
言って、彼女は大岩を裏手側からよじ登りはじめた。
そちらには子供でも簡単に登れるくぼみがある。
そのおかげか、ピナも無事に大岩の上に辿りついていた。
「それで、俺はなにをすればいい?」
「これからわたしがすることを、そこでクゥと一緒に見ていてください」
あらかじめ大岩の上になにかを置いていたのか。
ピナはしゃがんだあと、がさごそと音をたてはじめた。
やがて再び立ち上がると、ピナの腕に帆のようなものがくっついていた。
いや、腕についているのだから帆より翼と言うべきか。
木の棒と継ぎはぎの布で作られている。
「昨夜、お母さんとなんかやり取りしてると思ったけど、あれのためだったのね……」
ペトラが得心がいったようにぼそりと言う。
どうやら約束をしたときから頑張って製作していたようだ。
しかし、一夜漬けの作品とあって、その質はお世辞にも高いとは言えない。
これで作品発表だけならいいのだが……。
ピナの決意に満ちた目を見ていると、いやな予感がしてならない。
「おい、ちょっと待て。まさかそれで飛ぶ気じゃないよな?」
「そのつもりです」
「そんなんで飛べるはずないだろ」
「やってみないとわかりません」
「やらなくてもわかる」
ここまで頭ごなしに否定するには理由がある。
それは大岩の高さだ。
大人ならまだしも子供が飛び下りて無事でいるにはあまりに高い。
「ピナちゃん、さすがにそれはあたしもどうかと思うよ。危ないから、ね?」
ペトラの説得をもってしてもピナの決意は変わらないようだ。
彼女は手作りの翼がついた腕を広げながら高らかに宣言する。
「クゥ、見ていてください。いまからわたし、飛びます!」
そこからほぼ間がなかった。
ピナは腕を上下にばたつかせながら、大岩から勢いよく跳んだ。
しかし、当然ながら空を飛べるわけもなく――。
空中で制止したかのように見えたのも一瞬。
ピナは髪を逆立てながら落下。
鈍い音を慣らして地面に激突した。
うぅ、と呻きながら顔を歪めている。
「あんのバカッ」
「ピナちゃんっ!」
レグナスはペトラとともに慌ててピナのもとへと駆け寄った。
「大丈夫か? どこか痛むところは?」
「す、少しだけ足首がジンとしてますけど、大丈夫です」
強がりを言っているわけではなさそうだ。
一応、足首を触って状態をたしかめてみたが、折れている様子はなかった。
悪くても捻挫程度だろう。
レグナスはペトラと一緒になってほっと息をついた。
そんな中、ピナは俯きながら悔しそうに唇を噛んでいた。
「……わたしが飛んだらクゥも飛べると思ったんです」
「飛べてないだろ! ただ落ちただけだ! いや、そんなことは問題じゃない……下手したら怪我どころじゃ済まなかったんだぞ!」
レグナスは感情任せに声を荒げた。
そうしなければピナがまた〝飛ぼうとする〟と思ったのだ。
ピナは目を開きながら瞳を揺らしたかと思うや、大粒の涙を流しはじめた。
ごしごしと目を手で拭いながら、しゃくりあげるように泣きはじめる。
ペトラがピナを庇うように抱きしめる。
「レグ、無事だったんだから」
「運良くな」
レグナスは大きく息を吐いて無駄な怒気を抜いた。
ピナの目をしっかりと見据えながら言う。
「俺にいくら怒ろうが構わない。口を利かなくたっていい。けど、心配させるようなことだけはするな」
「ごめん……なさい……っ!」
嗚咽交じりの声が返ってくる。
ピナは賢い。
あんな高いところから飛び下りればどうなるか、わかっていなかったとは思えない。
だが、それでも〝飛ぶこと〟に挑戦した。
「なあ、どうしてここまでするんだ」
初めて出会った野生の竜であり、クゥという名前もつけた。思い入れが強くなるのもわかる。だが、ピナのそれはあまりに異常だ。
「だって……っ! あの子は飛ぶために生まれてきたんです……なのに飛べなくなるなんて、そんなの可哀相です……っ!」
ピナは目を赤く腫らしながら震える唇で訥々と語った。
なんて単純な理由だ。
しかも、それはクゥに限ったことではない。
すべての竜に言えることだ。
いや、竜だけではない。
すべてのものに対して言える。
だからこそ胸に響いた。
どうしようもなく苛立った。
「あ~、くそっ!」
レグナスは勢いよく立ち上がり、振り向いた。
一連の様子を静かに見守っていたクゥのもとへと向かう。
「いまの見たか!? あんな幼稚な翼で空を飛ぼうとした! あんな高いところから飛び下りるなんて無茶なことした、ピナの姿を!」
後ろでピナの泣き声が強まったような気がしたが、構わずに続ける。
「全部、お前に飛んで欲しいって思ったからしたことだ!」
いったい自分はなにをしようとしているのか。
そう自問しながらも、レグナスは込み上げる感情を抑えられなかった。
「俺も昔、空から落ちた。……相棒はお前と同じ翠竜だった。あいつとなら誰よりも速く、誰よりも高く飛べると思ってた。けど、あのとき落ちたんだ。全部、俺の驕りせいで……ッ!」
クゥは黙って話を聴きながら、じっとこちらを見つめている。
その大きな瞳の前では、すべてを見透かされているような気がしてならなかった。
墜落時、この身体に深く染み込んだ怯えすらも――。
「ああ、そうだよ。俺もお前と同じで怖いんだ。また空に上がろうとすれば、それだけで足が竦む。息もできなくなる……!」
過去を思い出したからか。
いまも倒れそうなほど気分が悪かった。
全身から汗が滲んでいた。
そんな姿を心配してか、クゥが寄り添うように口先を擦りつけてきた。
鱗を通じて伝わってくるかすかな温もり。
そのおかげで過去に対峙しながら、なんとか立っていられた。
「でも、お前は知ってるだろ。空の色を、広さを……風の心地良さを。お前は、俺なんかよりもずっとずっと知ってるだろ……」
クゥの頬から長い首を撫で、やがて翼へと辿りつく。
翠竜は小柄ながら飛竜の中でもっとも翼が大きい。
クゥもまた例に漏れず立派な翼を持っていた。
この翼で自由に空を飛べたらどんなに気持ち良いだろうか。
自然と浮かんだ夢想を胸にレグナスは語りかける。
「空は怖くなんてない。お前の帰るべき場所だ。お前が、このでっかい翼を広げて飛べば優しく迎えてくれる」
クゥは甘え鳴きをするだけで空を見ようともしなかった。
翼を動かそうともしない。
言葉が充分ではなかったのか。
気持ちが伝わらなかったのか。
だったら――。
レグナスはピナのところに戻った。
彼女の手作りの翼を目にしながら、手を差し出す。
「それを貸してくれ」
「でも、これは失敗作で……」
「それが必要なんだ」
ピナは戸惑いながらも手作りの翼を渡してくれた。
実際に近くでみると、その粗さがよく見えた。
それに落下の衝撃のせいか、所々が破損している。
ピナは腕に紐を巻きつける形で固定していたようだが、長さが足りない。
仕方ないので根元を掴んで持った。
そしてクゥに見せつけるよう手作りの翼を上下に振る。
「見ろ! こうだ! こうやって、その翼をはためかせろ! そうすればお前なら簡単に空に上がれるッ!」
こんなことは普段なら絶対にしない。
だが、少しでもクゥが空に戻る気持ちになれるなら安いものだと思った。
「レグナスさん……」
「レグ……」
ピナとペトラが見守る中、レグナスは何度もクゥに声をかけながら手作りの翼を振り続ける。
だが、クゥは一向に飛ぶ素振りをみせなかった。
こちらの動きをただ目で追っているだけだ。
無駄だったのだろうか。
疲れとともに諦めの感情が心を侵食しはじめた。
レグナスはだらりと腕を下ろし、手作りの翼を落としてしまう。
「頼む……頼むから……っ」
いつしかクゥに空を飛べなくなった自身の姿を重ねてしまっていた。
だからピナの言葉に腹が立った。
悔しくて仕方なかった。
そして、その感情を受け入れたとき、痛いほどよくわかった。
まだ空に上がることを諦めていない自分がいることを――。
ただ、理解したところで現実は現実だ。
もう空には上がれない。
だから、クゥを通じて伝えるしかなかった。
レグナスはクゥの頬に額をくっつけながら、溢れた感情を思いのままに吐露する。
「俺には無理だから……代わりに、あの子に夢を見せてやってくれ……ッ!」
――自分が楽になりたいから。
都合が良いことはわかっている。
それでもピナとクゥに、空を見続けて欲しいという願いは真実だった。
「頼む……っ」
ひねり出すように言葉を零した、その直後。
クゥが甲高い声で咆哮をあげた。
威嚇するようなものではなく、遠くまで届かせることを目的としたような、そんな声だ。
「……どうした?」
あまりに急なことでレグナスは思わず動揺してしまう。
クゥがぴたりと咆哮を止めた。
かと思うや、こちらの背面側に頭部を回してきた。
いったいなにをする気なのか。
そう思った瞬間――。
ぐいっと体が持ち上がった。
クゥが口で服を摘み上げたのだ。
「ちょ、ちょっと待て! おい、うそだろっ!?」
なんとかして下りられないかと暴れるが、手足を空中で踊らせることしかできない。
やがて、そっと置くようにしてクゥの首根っこに乗せられる。
すぐに飛び降りようとしたが、クゥが勢いよく両翼を上下に振り出したので留まった。
凄まじい風が体に吹きつける。
飛ばされないようにと反射的にクゥの首にしがみついた。
四つんばいのみっともない格好だが、文句を言っている場合ではない。
「レグっ!」
「レグナスさん!」
ピナとペトラが駆けつけようとするが、クゥの起こす風によって近づくことすらできないようだった。
それから浮遊感を覚えたのはすぐだった。
地面がどんどん離れていく。
ピナとペトラの姿も気づけば小粒程度にまでなっていた。
ルグリン竜舎の草原が一面に映り込んでいたが、景色を楽しむ暇なんてなかった。
しがみついていなければ落ちる。
死ぬ。
バシンバシンと右手でクゥの首を必死に叩く。
「下りてくれ! 頼むから!」
思いが通じたのか。
それとも満足したのか。
クゥはまたも甲高い咆哮をあげたのち、渦を描くようにゆっくりと高度を下げはじめた。
着陸するなりレグナスはクゥの首から転げ落ちた。
背中を打ったが、いまはどうでも良かった。
ただただ生きていたことに感謝した。
ピナとペトラが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですかっ!?」
「あ、ああ……」
まだ空を飛んでいるような気がして頭の中がふわふわしていた。
呼吸を整えながら、ピナの手を借りてゆっくりと立ち上がる。
と、なにやらきょとんとしたペトラを目が合った。
「ねえ、レグ。いま、空を飛んでたよ……」
ついさっきのことだから言われなくともわかる。
ペトラはいったいなにを言って――。
「俺が空を飛んだ……?」
こくりとペトラが頷く。
冗談だろう。
そう思いながらピナにも視線で確認すると、同じく首肯が返ってきた。
「はい、クゥと一緒に」
クゥが応えるように咆えた。
落とされないようにと必死だったこともあり、飛んだという実感がいまだにない。
墜落の記憶が蘇らなかったのも、それが理由かもしれない。
「体の調子は? 気分悪くない?」
「……大丈夫だ」
いやな汗もかいていない。
それどころか気分がすっきりしているぐらいだ。
明らかにこれまでとは違う。
たまたま今回だけ乗れたのだろうか。
……試してみたい。
「あたし、急いで鞍を取ってくるよ」
ペトラが言った。
どうやら顔に考えが出ていたらしい。
「いや、いい」
「でもっ」
「このまま乗る」
いますぐにたしかめなければ、掴みかけた希望が消え失せてしまう気がした。
レグナスはクゥの目を見ながら声をかける。
「もう一度、いいか……?」
クゥは空に向かって短く咆えると、乗りやすいように体を下げてくれた。
これから騎乗しようとしている。
にも関わらず動悸は平時のままだ。
やはりこれまでとは違う。
地面を蹴って、またぐ格好で騎乗した。
クゥの太い首根っこを両脚で挟み、体をしっかりと固定する。
しがみついていた先ほどとは違い、上半身を起こして真っ直ぐに前を見た。
振り返って様子を窺っているクゥと目が合う。
「ゆっくり……ゆっくり飛んでくれ」
応じるようにクゥは鳴くと、ゆるやかに翼をはばたかせた。
波打つように上下する翼によって優しい風が起こりはじめる。
かすかに視界が揺れた。
離陸したのだ。
クゥが螺旋を描くように空へと上がっていく。
やがて視界の揺れがほぼなくなり、滑らかな移動がはじまる。
レグナスは恐る恐る両手を放し、さらに上体を起こした。
瞬間、視界に映り込んだ光景を前に思わず呆けてしまった。
左右の端から端まで目一杯に広がる紺碧。
綿のようにふわふわと浮かぶ白い雲たち。
遠くにそびえる高い山々。
目の前の景色が色あせた過去の映像と合致し、より鮮やかになって脳裏に焼きついていく。
手を伸ばしても決して届くことはない。
この圧倒的な解放感……。
空だ。
見上げる必要のない空だ。
まだ夢見心地な気分だったが、朝の冷たさが残る風が現実であることを思い知らせてくれた。
――俺はまた空を飛んでいる。
そう心の中で言葉にした途端、胸中に溜まっていた靄がすべて吹き飛んだ。
そして、待っていたかのように無限の昂揚感がなだれ込んできた。
レグナスは溢れ出る感情に身を任せ、歓喜の声をあげた。
まるで無邪気な子供のように、ただただ叫んだ。
どうしてまた空に上がることができたのか。
そんなのはわかりきっていた。
「お前のおかげだ、クゥ!」
応じてクゥも咆えた。
祝福ではなく共に喜んでいると確信があった。
レグナスは両手を翼のように広げながら叫ぶ。
「そうだ! 俺たちはまた――」
「空に戻ってきたッ!」




