◆第一話『堕ちた翼』
ナーグアルク大陸。
ラギア王国の首都ギルトアにて。
その日、大陸一を決めるドラゴンレースが行われていた。
――ギルトア大祭典。
幾つものレースを勝ち抜かなければ出場できない最高の舞台だ。そんな選りすぐられた参加者ばかりの中、他の追随を許さない飛竜と騎手がいた。
『翠竜アルテ! 鞍上レグナス・ソングオル! 速い! 速すぎる! 中間を過ぎてなお独走! デビュー1年目、加えて14歳とは思えない圧巻の飛行で、さらに後続を突き放します!』
レグナス・ソングオルは吹きつける風を全身で感じながら空を飛んでいた。
レース中であるにも関わらず近くにはほかの飛竜が飛んでいない。それほどまでに2番手に大差をつけて先頭を翔けていた。
翠竜アルテの首を足で小突き、曲がりたい方向へと思い切り体を倒す。と、アルテがほぼズレなく反応してくれる。
本当に最高の飛竜だ。
この独走はアルテが作ってくれたと言っても過言ではない。
『さぁ大風壁を迂回し、復路の終盤に差し掛かりました! トップは依然として翠竜アルテ! この先に待つのは王都を囲むルーモン荒野! ここの荒れ狂う空を抜ければ、ついに王都への――勝利への道が開けます!』
ルーモン荒野はあちこちに散在する割れ目から断続的に風を噴出。空に特異な気流を生み出している。
そのせいもあってルーモン荒野の空は〝気まぐれ空〟と呼ばれている。熟練の騎手でも読むのは難しいと言われる風だが……。
それらすべてをレグナスは読み、愛竜アルテの翼で掴まえた。あらゆる方面から突きつける風を前へ進む力とし、さらに加速していく。
『加速! 加速! 加速! いったいどうなっているのでしょうか! まるで彼を後押しするかのごとく風が吹いているようです! まさに風を呼ぶ男! もう誰にも彼を止められません!』
華やかな王都の姿が見えてくる。
山のごとくでかでかと鎮座するラギア王城。
そこから視線をわずかに手前へ向ければ広々とした平坦な区画が映り込む。
王都ギルトアが誇る最大規模のレース場だ。
脇には木の幹を縦に割り、横に倒したような巨大な観客席が添えられている。
凄まじい歓声が沸き起こっているようだ。
まだかなりの距離があるのにはっきりと聞こえてくる。
――あと少しだ。あそこに辿りつきさえすれば大陸最速の称号が手に入る。あの歓声もさらに大きなものとなる。
レグナスは高揚感に包まれる中、右足でアルテの首を叩いた。最後のひと翔けで一気に〝気まぐれ空〟を抜けようとする。
そのときだった。
予想だにしない突風に吹かれたのは。
左方からの風だった。
アルテの左翼が掴まり、ぐわんと視界が歪んだ。
完全に油断していた。
即座に手綱を引いて復帰を試みるが、反応がない。
――アルテが気絶している。
そこからは一瞬だった。
真っ逆さまに落下。
地面に叩きつけられた。
鞍上から投げ出され、地面の上を転がる。
視界は鮮明だ。
体も重いが動く。
苦しいが息はできる。
ただ、生きていたことに感謝する気持ちは湧かなかった。
仰向けになって見上げた先。
青く澄んだ空を翔け抜けていく幾頭もの飛竜。
その光景を、レグナスはただ呆然と見つめることしかできなかった。
◆◆◆◆◆
厳しい冬の寒さはすっかりなりを潜めた。
萌えた草葉は温かな風に吹かれ、ゆらゆらと踊ってはささやかな音を残していく。
ナーグアルク大陸のリダム地方。
ダジリア村からほど近い牧草地の一画。
「どうだ、気持ちいいか?」
レグナス・ソングオルは今日も今日とて竜舎で竜の世話をしていた。
優しく声をかけながら、黄竜の皮膚をブラシでこする。竜の鱗は硬いので多少のことで傷つくことはない。
ただ、こする強さは固体ごとに好みが違う。
この黄竜は強めが好みなので体全体で押すようにこすらなければならない。
黄竜が心地良さそうに目を細める。
とぐろを巻くように丸まった姿はなんとも愛らしいが、大きさが大きさだ。
黄竜の全長は二階建て家屋の高さに相当する。
ただ、これは黄竜に限ったわけではない。
白、黒、赤、青、翠のいずれの飛竜も同じだ。
当然、竜房も飛竜が収まるほどの大きさを持っている。
ただ、木造とあって飛竜が暴れて壊れることも少なくない。
「次は角を磨くからな」
水に濡らした布で丁寧に磨いていく。
それが終われば今度は艶が出るまで乾拭きをする。
ほかの竜舎ではここまで丁寧にするところは少ない。
だが、ここルグリン竜舎では当然のことだった。
ルグリン竜舎は馴致を主な生業にしている。
馴致とはレースに出るため、飛竜を人に慣らしたり、騎手が思い通りに動かせるよう合図を仕込んだりすることだ。
馴致が終わればレース出場を生業とする竜舎へと売る。そうして生計を立てている。
ふと風が吹きつけてきた。
とても自然に起こる強さではない。
黄竜も異変に気づいたようだ。
少しばかり不機嫌な様子でまぶたを上げた。
レグナスは黄竜をなだめるようにひと撫でしたあと、慌てて竜舎の外へと出る。
芝地に落ちた影。
その上を辿ると、海のように深い青色の飛竜が飛んでいた。
青竜だ。
大きな翼がはためくたび、芝たちが大きく倒れる。
どしりと重い音をたてて飛竜が下り立つと、騎乗者の姿が見えた。
「今日も竜の世話とは、まったくもってつまらない人生を送っているな」
ダルダン・ズノーデ。
ひとつ山を越えた先の屋敷に住む商人の長男だ。
「……なにしにきた? 散歩なら俺の視界に入らないところでやってくれ」
ダルダンはひょろりとした体を前に倒し、見下ろしてきた。あわせて彼の特徴とも言うべきちりちりの髪が揺れる。
「随分な挨拶じゃないか。このダルダン様がわざわざ様子を見に来てやったんだぞ。茶のひとつぐらい出せないのか」
「さっき竜の体を拭くときに使った水ならあるぞ」
「……相変わらず無作法な奴だな、キミは」
「お前に言われたくないな」
竜舎の仕事で忙しい中、突然やってきては高慢な態度で絡んでくるのだ。鬱陶しいことこのうえない。
「フンッ、まあいいさ。今日は世間話をしにきたわけではないしな」
「じゃあさっさと帰ってくれ」
「待て待て。キミもずっと気になってるんだろう。僕のこの青竜――ダルダンスペシャルをね。パパが買ってくれたんだ。どうだ?」
「名前はさておき……良い竜だな」
もともと青竜は大人しいほうだが、ダルダンほどの傲慢な男を乗せても暴れずにいるのだ。よほど賢いに違いない。
それに鱗の艶もかなり状態がいい。
翼の前縁の太さもなかなかだ。
おそらくダルダンの仕事ではないが、最高の環境で暮らしているのは間違いないだろう。
「そうだろうそうだろう。……って、名前はさておきとはどういうことだ」
「レグー! なにかあったのー!?」
竜舎のほうから女性の声が聞こえてきた。
その瞬間、ダルダンの顔が強張った。
慌てて手綱を引き、こちらに竜の尻を向けてくる。
「ぼ、僕はこれで失礼させてもらうよ」
「なんだ、ペトラに会ってかないのか?」
「急用を思い出したんだ!」
そう言い残してダルダンは早々に飛び立った。
あまりに急だったこともあり、レグナスは風圧で倒れそうになる。
目を庇っていた腕をどけると、すでにダルダンと青竜の姿は小さくなっていた。
本当に良い青竜だ。
惜しむべきは騎手の技量か。
「あれってダルダンだよね。また来てたんだ」
聞こえた声に振り向くと、一頭の黄竜が映り込んだ。
もちろん、この黄竜が人語を喋ったわけではない。
騎乗するひとりの少女がいた。
肩にかかる程度の髪をヘアバンドでくくり、あらわになった額。くりんとした瞳が特徴的な彼女はペトラ・ルグリン。
ルグリン竜舎の経営者の一人娘だ。
「よくもまぁ足しげく通うよな」
「昔、レグに大差で負けたの根に持ってるんでしょ」
ペトラは呆れたように息をつくと、「それより」と話を切り替えた。
「これからこの子の散歩に行くんだけど、敷物交換お願いできる?」
「了解だ。もう少しで洗浄が終わるから、そのあとにやっておく」
飛竜の散歩中に竜房の敷物を変えるのが通例だ。
ダルダンのせいで洗浄を中断してしまったので急いで戻らないといけない。
「ねえ、レグ」
黄竜の脇を通り過ぎようとしたとき、ペトラに呼び止められた。
「……どうした?」
「代わりに行く?」
なにを思ってその発言をしたのか。
真意をたしかめようとするが、ペトラはじっとこちらを見つめるだけだった。思わず一瞬目をそらしてしまったが、すぐに見返して答える。
「無理なの知ってるだろ」
「そう、だよね。……うん」
ペトラの瞳が寂しげに揺れる。
だが、それも一瞬。
いつもの元気な彼女に戻っていた。
「それじゃ、あたし行ってくるねっ」
「ああ、気をつけてな」
ペトラによって首元を小突かれた黄竜がのそりのそりと歩き出した。竜舎から少し距離をとったあと、その大きな翼を広げて飛び立っていく。
ペトラが乗る黄竜はまだ若い。にも関わらず空高くへと舞い上がるのは一瞬だった。空に上がってからも力強く翼をはばたかせ、悠々と踊るように飛び続ける。
気づけばレグナスは足を止めていた。
首が痛むほど顔を上げ、黄竜が飛ぶ姿をじっと眺める。
こうしていると脳裏に蘇ってくる。
騎手として出場した、ナーグアルク大陸最高の舞台であるギルトア大祭典。予想外の突風に煽られ、墜落。失格となったときの光景が――。
あのときは14歳とまだ若かった。
再挑戦の時間はたっぷりとある。
そう思っていたのだが……。
墜落の恐怖が身体に染みついたのか。
再び飛竜に乗ろうとすると体が動かなかった。
無理に乗っても呼吸が乱れ、倒れてしまった。
当然、飛竜に乗れない者が騎手を続けられるはずもなく――。
デビューからたった1年で騎手人生を終えることになった。
あれから約3年。
いまは空を翔け回ることはない。
地を歩いて、淡々と飛竜の世話をしている。
飛竜の世話が嫌なわけではない。
ただ、空虚な感情がいつも付きまとっていた。
レグナスは下唇を強く噛んだ。
胸中の感情を断ち切らんと振り返る。
やるべきことがある。
それだけで幸せじゃないか。
そう自分に言い聞かせて竜舎へと足を向ける。
「おい、レグナス! ちょっと来てくれるか?」
竜舎と隣接する家屋――ルグリン家の玄関のほうから男の声が聞こえてきた。
そちらに目を向ければ精悍な顔つきの男が映り込む。いかにも力仕事が得意だと言わんばかりの体をしている彼は、このルグリン竜舎の経営者でありペトラの父。
マルク・ルグリンだ。
それにしても様子がおかしい。
普段はあまり動揺を見せない彼が、その顔に焦りをふんだんに出している。
レグナスは駆け足でマルクのもとへと向かう。
「マルクさん、どうかしたんですか?」
「あ~……紹介したいお方がいてな」
「……お方?」
「ど、どうぞ」
マルクが家屋の角をちらりと見やる。
と、しずしずとひとりの少女が出てきた。
12歳ぐらいだろうか。
絵画にでも描かれていそうなほど可憐な少女だ。
稲穂を思わせる金色の髪を背まで流し、その華奢な体を鮮やかな赤のドレスで包んでいる。欠点らしい欠点がまったく見つからない。
マルクが喉の調子を直すかのように、こほんと咳をする。
「オルバーン侯爵家のご令嬢。ピナ様だ」
「初めまして。ピナ・オルバーンです」
マルクの紹介を受け、少女――ピナが淑やかに挨拶をする。
泥臭い竜舎にはまったくもって不釣合いなしぐさを前に、レグナスは思わずぽかんとしてしまう。
「ど、どうも。レグナス・ソングオルです」
そう返してから数拍後。
ようやく疑問が脳を駆け巡りはじめた。
「……侯爵家? え? どうしてそんな人がここに?」
「あ~、その~……なんだ」
マルクは歯切れ悪く答えながら髪をかく。
それほど言いにくいことなのか。
なかなか切り出さないマルクにしびれを切らしたか、ピナが歩み出てきた。無邪気な子供そのものといった元気な笑みを浮かべながら、小さな口を動かす。
「今日から、ここで働かせていただくことになりましたっ!」