前編
今作は新田葉月さま主催の『君に捧ぐ愛の檻企画』に、参加させていただいております。稚拙な作品にはなりますが、よろしければお付き合いください。
犯罪は、ダメ絶対。
きっと鈍感な貴方ならば、この広くて不自由な檻の中でも窒息することなく生きられるだろう。
俺の前に、見覚えのある女の子が立っている。
確か、普段よくいくコーヒーショップで働いている女子大生で、今年三年生に進学したばかりだったか。専攻は日本文学で、本を読むのが趣味だと聞いた覚えがある。まぁ、どこにでもいる普通の娘だ。積極的なタイプの子ではなくて、数年通っている常連客の俺でも、話をしたのは数えるほどしかない。そんな俺に、何の用かと首をかしげる。いつものように、仕事帰りの珈琲を買って出てきた瞬間に声を掛けられたのだ。
「あれ。今日はバイトの予定じゃないのに、どうかした?」
思わず口にした通り、いつもカウンターではにかんだ笑みを返してくる彼女はいなかった。
俺が買いにやってくると大抵出迎えてくれる姿が見当たらず、少しさびしく感じていた所に声を掛けられたのだ。真面目な彼女が突然バイトを休んだみたいなので、てっきり大学関係の事かと思えば違ったようだ。少し立ち止まった間にも、店から出てくる人がいて道をあける。ここはチェーン店であるが故に取り立てて美味い訳ではないが、安心して飲むことができる。そんな利点と周囲に同じようなカフェがないことで、この店はなかなか需要があるのだ。
少し窓から覗いただけで、机もカウンター席も埋まっているのがわかる。
「あっ、ああぁ、あの!突然すみませんっ」
「うん。だいじょうぶだから、ゆっくり喋って?」
出来るだけ、優しく見えるように声をかける。
店員としては優秀にみえるのに、一歩店を出れば話は違うようで。あからさまに緊張した様子の彼女は、心配になる。バイト中でも、彼女より後に入った後輩の奴に私的な事を話しかけられるたび、おどおどしていた印象がある。客側としては、いいかげんな接客をしてくるそんな奴らより、丁寧な接客をしてくれる彼女の方がよっぽどありがたいのだが。若い店長はそれがわからないのか、彼女に対し「愛想がない」などといって叱っていたのを覚えている。
俺の声のかけ方が悪かったのか、彼女はさらに顔を赤く染めて落ち着きをなくしてしまった。あまりにうろたえた姿に心配になり、店へ入りなおして「ゆっくり話すか」と聞けば、同僚に聞かれるのは気まずいのか首を振る。
「えっと……とりあえず、場所を移さない?」
いくら近くに知人は住んでいないとはいえ、こんな所で女の子と変な雰囲気のまま立ち話しているのは気まずい物がある。今後もこのコーヒーショップには通いたいし、彼女の方も同僚に見られたくないというのなら此処にいるのは本意ではないだろう。
しかし俺の近所は住宅街で、ここを除けば数十分は歩かなければならない。
夏も近づいてきたこの季節に、いくら日は沈みかけとはいえ涼を取りたくなる。今までで会社と電車で涼しい環境にならされた体は、早々に悲鳴を上げ始めている。この時点で、頭も暑さにやられていたのだろう。つぅーとひと筋汗が流れ落ちた瞬間に、日ごろでは考えられない言葉を発した。
「―――じゃあ、俺の家くる?」
言った瞬間に、後悔が押し寄せてくる。
見ず知らずとは言わないが、顔見知り程度の男にそんな事を言われればよくて冗談。悪ければ犯罪者だ。今はスーツ姿で特別だらしない格好という訳ではないが、もう少し崩れた服装なら確実に通報されそうなセリフだ。さすがにこれはなかったかと訂正しかけた所で、自分の発言以上にありえないものを見た。
彼女がゆっくり頷いたのだ。
「えっ?」
「お、ねがいします」
自分で言っといてなんだが、無言でうなずく彼女に心底驚いた。
彼女の方は、とても冗談を言っている雰囲気ではない。額から流れた汗をぬぐう姿を見た所で、嗚呼、彼女も暑いのだと場違いな感想を抱く。
「い…、いいの?」
まるで初めて援助交際をしようとしているおっさんみたいだと思いながらも、再度確認する。わざわざ確認したにもかかわらず、彼女の答えは同じで。俺は初めて、彼女でもない女子大生を自分の家へ連れ込むことになった。
俺はなぜか、せっかく買った珈琲もそのままに紅茶を二杯淹れていた。
「はい、おまたせ」
彼女が好きだというダージリンの茶葉を買い替えたばかりでよかった。
まさかこんな形で家へ招くことになるとは思わなかったから、相当動揺してしまっている。そもそも、冗談交じりで口にした戯言に、彼女が乗ってくるとは思わなかった。一人暮らしの男の部屋に軽々しくは言ってもいいのか聞きたかったが、それはそれでやましい気持ちがあると宣言しているようで極まりが悪く。結局、部屋まで連れてきてしまった。
「美味しいです」
「珈琲より紅茶派なのに、よくあそこで働いているね」
何を話せばいいのか分からず、とりとめのないことを口にしてみる。
情報通り、家に入り「何が飲みたい」かと聞いた問いに返ってきたのは、「紅茶で……」という答えだった。こんな訳のわからない状況だというのに、どこかよそよそしいバイト中とは異なる姿を見られて頬が緩む。なにか緊張しているのか表情は硬いが、陰ながら頑張っている彼女を応援してきた常連としては、嬉しいものがある。ただでさえ、年下の女の子に頼られるなんて経験得られない。疑問は多々あるものの、この状況を迷惑だとは感じていない自分がいる。
「?いざ、バイトしようと思ったときに、コーヒーショップの方が見つかりやすかったんです」
でも、珈琲も好きです。そんな風に視線を下げた彼女に、それもそうかと頷く。
確かに考えてみれば、チェーン店も圧倒的に珈琲の方が多い。こんなファミレスも少ないようなところで、望みどおりのバイト先を探す方が難しいというものだろう。駅まで少し歩かないといけないこの場所だが、そのお蔭でなかなかいい部屋を借りることができたから不満を言えはしないのだが。
「この紅茶、私がよく買うのと同じメーカーかも」
美味しいと、微笑んだ顔に目を奪われる。
うつむき加減だから、よく見えないのが残念だ。営業スマイル以外の笑顔を、こんなにも近くで見たのは初めてだった。俺も積極的な方ではないから声をかけることはほとんどなかったが、前から色素の薄い髪や、飾らないメガネの奥に見える綺麗な瞳へ目を奪われることが多かった。有り体に言えば特別美人という訳ではないが、もっと彼女のことを知りたいとずっと想っていた。
「口に合ったのならよかった。珈琲派の俺も、これは気に入っているんだ」
独特の香りとさわやかな味わいが口へ広がり、己の口も綻んだ。
この不可解な状況を招いた原因の一端を担っているとはいえ、俺もだいぶ混乱していたのだ。だが、何時までもこんなことを続けている訳にはいかないだろうと、重い口を開くことにした。
「―――ところで、話って何かな?」
普段はさほど広く思えないのに、彼女とこうして黙っているとやけに広く感じる。
俺の部屋はマンションでも上層階に入り、外の音も聞こえてこない。何を言われるのか、ドキドキしながら彼女を見つめる。
斜め横のソファへ座る彼女は常にない近さで、妙に緊張してしまう。
「私、翔さんのことずっと見てました」
思わぬ言葉に驚き、注視していた口元から目をそらす。
何を言われるのか気にするあまり、唇を見つめていることに気付かなかった。少し薄めの唇はためらうように、言葉を紡ぐ。
「始めはお仕事大変そうだなって心配で、お家の前で見守っていました」
思わぬ告白に、ぞわりと背筋に走るものがあった。
セキュリティーはそれなりにしっかりしているはずなので、よもや勝手に部屋へあがっていないかと問いかけ、「そんな事はしていませんっ」という言葉にほっと肩をなでおろす。
「……でも、俺が珈琲買いに寄ると受付していることが多かったよね?」
「はい。だからバイトがない時とか、朝の通勤時間に見つめていたんです」
見つめていたと言えば聞こえはいいが、それは世間一般的に見てあまり褒められた行為ではないだろう。そもそも彼女は大学に通っているはずなのに単位は大丈夫なのかと聞けば、そこはうまくやっているらしい。できるだけ冷静に聞こえるように話を進めていた俺だが、彼女は突然興奮したように声を荒げた。
「で、でも…最近は忙しくて、全然顔見れないし!こんな……こんな状態、耐えられないんですっ」
「う……うん。分かったから、とりあえず落ち着こう?」
「お願いします!わたし…本当に、あなたのことが好きでっ。これ以上離れているなんて、無理なんです!」
本来であれば、気にかけていた女の子に言い寄られるなど嬉しい状況のはずなのに。こんなにも興奮して、正気を失っている様子に不安になる。そもそも相手が何を望んでいるのか分からないし、どう応えるのが正解なのかも不明だ。
「―――それで。未羽ちゃんは、俺にどうしてほしい訳?」
考えて分からないことは、聞いてしまった方が早い。
これまで名前は知っていても、直接呼びかけたことはあまりない。答えを聞くより先に、口にした名前に緊張してしまい唇を舐める。普通なら此処で何らかの反応を返すところなのかもしれないが、不思議と彼女が大人しくなると恐怖は鳴りを潜めていく。
そんなこちらの反応に影響されたのか、未羽ちゃんはゆっくり口を開いた。