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わたくしが、持って生まれた病により長くは生きられない身体だということは、物心ついた頃から理解っていたことのように思います。わたくしはそれだけ長い間、病と時間を共にして参りました。
わたくしの父は研究者でした。研究者として名だたる名家であったそうですが、わたくしは父が何をしているかは詳しくは知りませんでした。なぜなら、わたくしが十歳になる年頃には、すでにこの屋敷にいたからです。母も身体が弱かったそうで、私を生んですぐに亡くなったと聞いています。兄弟はなく、唯一の肉親である父と離れて、養生のためにこの屋敷を与えられました。本家に比べれば小さくて、そして街からは離れた素っ気ない場所でしたが、自然の中にただ佇むこの家が、わたしくしは好きでした。
わたくしは数人の優しい使用人たちと、この屋敷で長い時間を過ごしました。いえ、その時間は本当はそんなに長い時間ではなかったのかもしれません。それでもわたくしが人として在った頃、その大部分をこの屋敷で過ごしました。
わたくしと同じ年頃の娘たちはすでに嫁いでいてもおかしくないようになった頃、周囲の優しい人々も、私に結婚を勧めました。けれどもわたくしは結婚する事はできませんでした。だって、わたくしに残された時間はもう残り少なく、子供を産めるような体力ももうなかったんですもの。ついには足も満足に動かせぬようになり、不意に襲う眩暈や発作の頻度も多くなり、わたくしはこの部屋のベッドの上でしか生きられぬようになりました。わたくしも使用人たちも、わたくしが此処からいなくなる時が迫っているのを強く感じていましたわ。
そんな折、父がわたくしを見舞いにやってきて言ったのです。「お前を死なせない方法を見つけた」と。病に効く薬でも見つかったのかと思っていましたが、父はそれだけ言うとすぐに帰って行きました。わたくしがヒトの目で父を見たのはそれが最後でした。
わたくしはベッドから起き上がる事もできず、食べ物を食べる事もできず、身体中の痛みや空腹、吐き気に見舞われながら、ただベッドの上でぐるぐると襲いくる様々な思考を巡らせるだけの存在になっていました。夢か、現か。わたくしはゆらりゆらりと揺れる森の中にいました。それは窓辺から見えた景色だったのか、夢の世界の幻想だったのか。あの時わたくしは死んでいたのか、生きていたのか。
気が付けば、一切の苦しみから解放されておりました。目の前に広がるのは見慣れた部屋の景色。それは昔からそうであったように、生まれた時からそうであったように。それでも唐突に自覚しました。わたくしは、人形に成っている、と。
※
「…だいたいこんなお話しです。どうです?信じてくださいますでしょうか…?」
信じられない。正直なところティノはそう思っていただろう。それでもそんな事は、と葛藤する自分の心の声も聞こえていた。
コルネリアの涼やかな声音と、滑らかな語り口調も相俟って、お伽噺を聞いている気分だった。それは心のどこかで彼女の話を信じていない、という事でもあるのだろう。
「に、人間が…人形に…?そんな事ってありえるの?」
思わずメイベルに視線を向ける。腕に抱かれるメイベルの表情は、当然ながら少しも動かない。
「さあ、私も聞いた事がないわ。でも、そうね。確かに人形に成れば死なない存在になれるかもしれないわよね。少なくとも病死と老いはなくなったわけだもの」
メイベルの口調はいつもと変わらない。軽薄にさえ感じる。彼女はこの話を信じたのだろうか。
「え、と僕…」
「信じて頂けないのも無理はないですわ。わたくしだって、これが本当の話なのかどうか…」
「どういう意味です?」
「メイベルさんが先ほど言われたように、人形はは自分が人間だと勘違いする事があるのでしょう?わたくしも、実はそうだと勘違いしているだの人形なのかもしれないって思いますの」
意外なセリフに少し驚いた。勘違いしている人形は、自覚なんてないのだ。
「でも、記憶が…あるんでしょう?」
「ええ…。この記憶が本物かどうかもわかりません。ただ、優しかった使用人たち、ひとりひとりの顔を今でも思い出す事ができます。…遠い昔の記憶として。それが果たして本当にあった事なのか、わたくしにはわからないのです。あれは夢の出来事だったのではないかと、今でも思うことも…ですがこの屋敷は確かに存在し、今も生きています。それだけがわたくしの心を支えてくれるのです。わたくしは今、とても満たされていますのよ」
優しいコルネリアの声音は、ティノの心を揺らがせた。そうだ、確かにこの屋敷は存在している。これがただの人形遊びのために作られたものだなんて、それもまた信じがたい。やはりコルネリアの話は本当なのだろうか。
「僕にはよくわかりません…だけど、僕が人形の言葉がわかるように、そういうよくわからない不思議なこともあるのかなって、今は思います」
「うふふ、ありがとう。優しい人形師さん」
「見習いですけど…あと、まあ、信じたくない理由が実はひとつありまして」
「あら、何かしら」
ティノは顔に熱が集中するのを感じて、思わず視線を足元を向けた。
「もし、元人間だったら、これから…その、お身体の様子を拝見させてもらい辛いなぁ、と…」
「まあ」
ころころと楽しそうに笑うコルネリアの声と、深いため息を吐くメイベルの声が耳に届いた。
「いいのですよ、今は人形ですもの。人間だったころの感覚など、もうありませんわ」
「そうよ、ティノ。人間だとしても、医者みたいなものだと思えばいいのよ」
「僕は人形師だもん…」
それでも仕事はしなくてはならないのだろうな、とティノはため息を吐いた。
話は後で聞いた方がよかっただろうかと後悔しつつ、ティノはコルネリアの様子をざっと見て紙に書きつけていった。結論から言うと、修繕の必要はほとんど見受けられなかった。普段からこの屋敷と同じように、丁寧に手入れされているのだろう。関節部分や足の先などにやや老朽が見られたが、すぐ治すほどのものでもない。
「そういえばコルネリア様…人間だったのは…人形になったのはずいぶん昔っておっしゃられてましたけど、それってどれくらい前の事なんですか?」
「正確な数はわからないのですが…百年といったところではないかしら」
「百年!」
それはずいぶん立派な古式人形だ。此処まで精度が高く、そして美しい状態で保存された人形であれば、相当な高値で売れるだろう。そう考えて、彼女はもともと人間だという話を思い出して自己嫌悪した。ついつい人形の値踏みをしてしまうのは人形師の性なのかもしれないが。
「そういえば、このお屋敷もそれぐらい前から建ってるって聞いた事があるな…。だったら、コルネリア様が百年ものっていうのは本当なのかな」
「それは間違いないと思うわ」
ティノと一緒に人形を視察していたメイベルが言った。
「コルネリアの目に使われている青い石…とても綺麗でしょう?」
「そうだね。僕見たことないよ」
「そうでしょうね。加工しやすいのに傷つきにくい、特殊な石よ。あの石はね、希少な鉱石なのだけれど、今ではもう採掘できない代物なのよ。掘っても出てこなくなったのがおよそ七十年前、宝飾加工が禁じられたのが八十年前ですもの。たとえ作られた人形だとしても、それ以前のものだという事は確かね。使われている塗料、素材からいっても、およそ百年前の流行のものだわ」
メイベルはずっと人形工房にいたせいで、ティノなんかよりもよっぽど人形の歴史に詳しい。だからこそメイベルを相棒に連れてきたのだが。
しかしそれだけ希少な鉱石が使われているとなると、ますます人形の価値は高い…と考えてまた反省した。
「さすがメイベル、年の功ってやつだね」
「人形に年年齢はないわ」
ティノの軽口に、メイベルぱとげのある口調でそう返した。
「ないなら良いじゃん、別に…」
一応褒めてるのに、と思いながらもティノはそれ以上口答えはしなかった。メイベルを怒らせたらいろいろと怖い。
粗方検診を終えたティノは、コルネリアをもとの状態にきれいに戻した。もともと人間だった件もあるが、ただでさえ貴重な人形だとわかったのだ。壊しでもしたらアトリエ・コルティはたぶん、終わる。気が付けば窓の外の森は、すっかり夜闇に覆われていた。
「さて、検診はこんなものかな」
「有難うございます。ティノさん、メイベルさん」
「アトリエに帰って検討しないとまだ決められないんですけど、たぶんすぐに修繕は必要ないと思います」
「もう来てくださらないのかしら」
さみしそうなコルネリアの声音に、少しどきりと心が動かされる。
「あ、あの、できれば定期的に来させてもらえると、こちらとしてもうれしいと言うか…」
「うちのアトリエは仕事がなくて困窮してるの。人助けだと思って贔屓にしてくれると助かるわ」
メイベルの率直な言い方に、コルネリアは面白そうに笑ってくれた。
「わたくしとしても、人間とお話できるなんてこんなにうれしい事はないですわ。だからぜひお願いしたいところなのですが、わたくしにはそんな権限もありませんの」
そうだ、彼女はここの主人といっても、ただの人形なのだ。人形の話がわかるティノと違って、ふつうの人には彼女の声は届かない。
「使用人のリベリオと交渉してみてくださいな。もしかすると、わたくしが言っていたと言えば聞いてもらえるかもしれませんわよ」
「で、でも信じてもらえますかね…」
「リベリオは使用人たちの中でも、特に優しい人ですから」
確かに彼はいつも、暖かい笑顔を向けてくれる。真っ向から否定される事はたぶん、無いのだろう。それも交渉次第だ、とティノは思った大口の顧客ができたとなれば姉たちも喜ぶし、多少いい顔ができる。腕の見せ所だ、とティノは密かに気合いをいれた。
「では、今日は有難うございました。またお会いできる事を祈りますね」
「ええ、こちらこそ有難う。ぜひまたお会いしましょう」
その言葉を聞いてから、ティノはメイベルを再び抱きかかえて部屋を後にした。
リベリオに言われていた通り、部屋の明かりを消して、外側から預かっていた鍵で施錠した。扉は結構重くて、簡単に開きそうにはない。泥棒対策のために、屋敷中の扉は内側も外側も、鍵を使ってでしか開ける事はできないそうだ。
「よし、と」
しっかり扉が施錠されたのを確認して、ティノはメイベルを伴って一階へと降りて行った。丁度リベリオがロビーの掃き掃除をしているところだった。
「リベリオさん、検診終わりました」
「ありがとうございます。具合は如何でしたか?」
「ええ、特に早急に修繕が必要だという箇所は見当たらなく…」
事務的にコルネリアの様子を伝えながら、ティノは考えていた。先ほどのコルネリアの話をリベリオに確認してみようか、それだと自分が人形と会話できる事も話す事になるが。だが、彼がなぜ此処に勤めているのかも気になった。
「あ、あの…リベリオさん?」
「はい、なんでしょう」
「え…と、どうしてこのお屋敷で働いているのか、聞いてもいいですか…?」
表情を探りながらティノが恐る恐る言うと、リベリオは少し首を傾けながら、それでも優しい視線を返してくれた。
「私はずっと昔から…お嬢様がこの屋敷に来られた頃からずっとお仕えしております。お嬢様に仕える事が、私の使命なのです」
「え?」
確かコルネリアがこの屋敷に来たのは、彼女がまだ小さい時…つまり人間のころだ。人形は百年もの、つまりリベリオがコルネリアに仕えて百年は経っているという。リベリオはどう控えめに見てもそんな老人には見えないし、二十代ぐらいにしか見えない。
「で、でも…コルネリア様、はえーと…たぶん、百年ぐらいのお人形だと思うんですが…」
「よくおわかりになりましたね。…ああ、そうですね、それで悩んでおられるんですね」
にこりと柔和に微笑むリベリオ。どういう意味だろうか。
「言い忘れておりました。私は、お嬢様…コルネリア様に仕える“自動人形”なんです」
「…え」
自動人形。コルネリアやメイベルと違って、自らの足で歩き、手を動かし、時には話す事もできる人形である。
「自動人形…だったんですか」
素直に驚いた。何せここまで人間に近い、自動人形を見たのは初めてなのだ。自動人形はそれこそ動きまで人間にそっくりなものも多いが、ここまで間近で見てもそれと気づかないぐらいのものは初めてだ。
しかし彼が人間ではく自動人形であると知って、得心するものがあった。自動人形は人間が作った“創作意思”によって動いているのだという。それならばその意思に従い、疑問もなくコルネリアに仕える事ができるのだろう。それに自動人形ならば、半永久的に…少なくとも人間よりは長くコルネリアのそばにいることができるのだ。しかしだとしたらこの屋敷は。
「そうだったんですか…あ、立ち入った事を聞いてしまってすみません」
「いえ、いいのですよ。お仕事が終わられてお疲れでしょう。ささやかなもので申し訳ないのですが、お食事を用意しましたので召し上がってください。それからゆっくりお休みになってくださいませ」
「有難うございます」
顧客の件は明日でいいかと、ティノは考えた。あまりがっつきすぎても印象はよくないだろう。リベリオが掃き掃除を終えると、すぐに使用人が扉の前に立った。門番だろうか。こんな森の中の屋敷でも、金持ちの屋敷には変わりないのだから、やはり警戒は必要なのだろうかと思った。
「あ、そうだ、鍵返しておきます。しっかり施錠しておきました」
「有難うございます」
リベリオに鍵を渡すと、仕事から解放されたからか、すぐにどしりと肩に何かが圧し掛かるような疲れを感じた。そして胃の中身がからっぽだという警報も、すぐにロビー中に響き渡ったのだった。




