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「この時代に動きもしない人形屋に依頼をくれるってだけでも、ありがたいことだわよ」
姉はそう言いながら、深々とため息を吐いていた。言外に、この依頼をふいにするんじゃねぇぞという圧力のこもったため息だ。気持ちも事情もわかるが、ため息を吐きたくなるのはこちらの方だ。
「はぁ…だからといって、こんな怪しい場所に見習いの弟一人でやるって…」
虚しくも彼のつぶやきは、梢が揺れて葉が擦れる音と、鳥の声に消えていく。周りを見渡せば、どれも同じような背の高い青々とした木々が空を覆い、足元に深い影を作っている。どこまで行っても、この景色が延々と続きそうで、心にも影を落とす。
「…ふ、不安がっても仕方ないよね!」
背負った道具箱の態勢をたてなおすと、がらりと音が鳴った。彼は首だけを向けて、道具箱を確認した。道具箱の上には、彼の心強い味方がひとりいるのだ。
生まれたばかりの赤ん坊ほどの大きさの、愛らしい少女の姿をした彼女。糸よりも細いきらきら輝く波打つ銀の髪に、光を返す青い硝子玉の瞳、薔薇の蕾のような可憐な唇は固く閉ざされている。左右非対称のドレスは彼と揃いの柄だった。
「だいじょうぶ、ちゃんと行けるよメイベル」
彼…ティノは、言いながら大きく一歩を踏み出した。頼りになるのは胸から下げた方位磁針のみだ。後ろの小さな彼女は何も言わない。硝子の瞳が閉ざされることも、薔薇の唇が開かれることもない。
彼女…メイベルは傑作と名高い少女人形なのだ。
少年と人形の奇妙な二人組は、森の奥へと進んでいった。
その依頼がアトリエに舞い込んだのは、ティノが旅立つ一週間ほど前のことだった。いい匂いのする封筒に、丁寧な文字と文面で書かれた手紙からは、気品が感じられた。おまけに金にいとめはつけない、とまで書いてあったのだから、間違いなく富豪からの依頼だろうと姉たちは色めき立った。
アトリエ・コルティは街はずれにある小さな人形工房だ。二百年前からある由緒正しいアトリエだが、由緒だけでは食べていくことはできないぐらいに切迫していた。
アトリエ・コルティで扱うのは「古式人形」…アンティークドールと呼ばれる類の人形だった。形式や形は様々だったが、その特徴は自動では無いことにある。
その昔、「自動人形」が生み出されてから、それらの人形は広く常用されるようになった。
「自動人形」…オートマタは動力を有し、複雑な絡繰りで動いているのだという。その名の通り、人形たちは人間の手によらず、自身の動力で以て動くのだ。等身大の人間の大きさのものがほとんどで、それぞれ組まれた“創作意識”に拠った働きをする。街燈の点灯から、物の販売、食堂の調理…町中のあちこちで見かけることができた。まだ一般家庭が持つには高価な代物だったが、それでも珍しいものではない。人形といえば、今はどちらかと言うとこちらが主流だった。
観賞用の古式人形はどんどんとその数を減らし、今では所有者も少なくなってしまったのだ。新しい人形を作っても売れず、古式人形の修理か、もしくは自動人形に使われる部品の下請けがほとんどだった。下請けにしても、古式人形と同等部分しか作れない人形師などにまわってくる仕事は少ない。古式人形は芸術作品なのに対して、自動人形は量産品。骨董品に対する日用品。その違いは大きく、アトリエ・コルティは年中金欠と言っても過言ではなかった。
アトリエを運営するのは六人のコルティ姉弟。五人の女人形師と、末弟である人形師見習いのティノだった。見習いといっても、仕事がないのでやらされるのは主に使い走りと家事である。ティノが十四歳の末っ子で、長女のルーチェとは十歳年が離れている。二十四歳にもなって、嫁にもいかず、一家の大黒柱として、稼ぎ頭として、人形師として活躍しているのだ。実際アトリエの収入のほとんどは彼女が作る人形によるものだ。それなりに名が知れていて、収集家や富豪にも人気が高い繊細な人形を作るのだ。ほかの姉妹たちはそれを売りに行ったり、修理をしたりが主な仕事である。姉弟たちは誰も彼女には頭が上がらず、逆らうことができないのだった。…末子であるティノは、姉たちに誰一人逆らえないのだが。
そんな長女ルーチェが、猫なで声で作業中のティノに話しかけてきたのが五日前のことである。
「ティノ?あなた暇?暇よね?」
暇じゃないなんて言わせねぇぞ、という圧のこもった笑みでルーチェが言った。この後頼まれるであろうことが絶対に厄介ごとだとわかりつつも、ティノは作業の手を止めて振り返らざるを得なかった。
「なに、ルーチェ姉さん」
「封筒の君からの依頼覚えてるわよね?」
封筒の君、とは件の富豪だと思われる依頼人のことである。依頼人はその富豪の家に仕える使用人から、ということだったので、アトリエ内ではそう呼ばれていた。できるだけ内密に、との依頼人の希望もあった。
「覚えてるけど…」
「あのね、お姉ちゃん達話し合ったんだけど、とりあえずティノに行ってもらうことにしたの」
「えっ」
まさかの姉の発言に、本気かと問う視線をルーチェに向けた。ルーチェの表情は変わらずにこにこしたままである。本気だ、ということか。
「でででも僕見習いだし、見習いっていってもただのパシリだし…」
「失礼ね。誰もパシってないわよ。それに今回の依頼は、とりあえずお人形の様子を見てほしいってことだったから、それならあなたにも出来るかと思って…むしろ貴方が適任だと思ってね」
何を言ってるんだ、と食いつこうと思ったが、妙に優し気な口調と笑顔が逆に反論を受け付けない。
「…いつもは重要な顧客は姉さんが行くくせに」
「何か言った?うれしいでしょう?人形師のお仕事ができて」
「…はい…」
結局、逆らうことなんてできないのだと、ティノは深いため息を吐いた。
見習い以下の見習いを寄越しておいて、顧客を逃すなとは随分なことである。森の中を歩きながらティノは姉の顔を思い出していた。
依頼はアトリエにとって願ってもないことだ。内容は、古い古式人形の調子を診てほしいとのことだった。破損や老朽化した箇所があれば、治してほしい、と。ただ人形が大きく、貴重なものであるから持ち出すことができないので、直接屋敷まで来てほしい、とあった。そして、金ならいくらでも支払う、と。
大切な顧客になりそうな依頼は、普段ならば長女ルーチェが受けるところである。喜び勇んで屋敷へ向かうことだろう。
ただ、依頼主の居住がその屋敷でなければ。
依頼主が指定した“屋敷”は、森の奥人目を憚るように建っている。アトリエと同じくらい、長い間そこにある由緒あるお屋敷らしく、街に住む人々もその存在を知っていた。
ただし、そこに住む主は「不死身」の化け物屋敷として。
長年そこから人が出てくるのも、人が住んでいるのも誰も見かけたことがない。たまに森で迷子になったものがその屋敷に遭遇するのだという。人の気配はしないのに、屋敷は朽ちることなく何年も美しい姿のままそこにあるらしい。誰が住んでいるかももうわからないのに、不気味に噂だけが残るその屋敷。…まさかそんなところから依頼が来ようとは。
もちろん噂はただの噂でしかない、そう言われているだけだと姉たちに説得された。しかし見習いのティノを一人で寄越すことから、姉たちが一番怯えているのだろう。姉弟の中で唯一の男だからと言われれば、ティノも重い腰を上げるしかなかった。
「う、噂…ただの噂だから…」
とは言っても、怖いものは怖い。実際噂の正体なんて大したことがないものが多いのだろうが、それは確かめてみないとわからない事だ。未知なるものが一番怖い…人の性には抗うことはできない。
しかし、森の中を歩き続けてそろそろ半日。普段家の中にこもっているティノにとってはきつい道程だ。化け物屋敷だろうがなんだろうが、とにかく早く出てきてほしいというのが本音だった。疲れが恐怖を和らげてくれるなんてちょっと皮肉っぽい。
「うう…疲れたよぉ、メイベル…」
背後の人形の彼女に話かけても、口が開くことは決してない。とにかく今は前に進んで歩くしかないのだ。
空が赤くなってきた。ティノの足はもう感覚がなくなりそうだった。休み休み進んできたが、もし辿り着く前に日が落ちれば野宿せざるを得なくなるだろう。もちろん野宿なんてしたことは無い。絶望的な気持ちになりながら足を引きずっていると、それは唐突に現れた。
「…あ」
短い声だけが漏れた。ひときわ大きな木の向こう側に、唐突にきれいに整えられた草叢が現われたのだ。背の低い草垣の真ん中を、少し綻びた石畳の道が伸びている。その石畳の向こう側に、大きな屋敷があった。
「お、大きい…」
アトリエよりはずいぶんと。こんな森の中に唐突にあるせいもあって、その存在感は際立っていた。街中にあるような屋敷よりも質素な造りで、派手さはなかったが、立派な屋敷である事には違いなかった。石畳の途中には、淡い赤色の花で覆われた流線型の門がある。建物は赤い屋根の煉瓦造り、立派な庭まである。二階建てだろうか、一階の大きな窓にはきれいなカーテンがかかっているし、二階部分の整然と並んだ窓はひとつを除いて、すべてカーテンが閉まっている。屋根や壁に破損は見当たらず、庭の草木も季節の花がきれいに咲いている。確かに、人の手が加えられている証拠だった。とりあえず幽霊屋敷ではなかったことに安心しながら、ティノはため息を吐いた。
「ここ…だよね?」
森にはそれ以外に、屋敷どころか人すらいなかったのだ。それに此処でなかったらもう、野宿決定である。その想いが恐怖を上回り、ティノの足を進ませ、あっさり門をくぐらせた。石畳は今まで歩いてきた道よりよっぽど歩きやすい。
大きな二枚扉の目の前まできて、ようやく緊張を思い出した。…どんな人がでてくるのだろうか。そもそも此処で本当にあっているのだろうか。人は住んでいるのだろうか。様々な不安が頭をよぎって、扉を叩く手が宙に浮いたまま止まってしまった。もう一度落ち着こうと周りを見渡した。
「あ…」
その時、庭にあるきれいな花の咲いた木の陰から、麦わら帽子が覗いているのが見えた。人がいたことに安心して、ティノはまずあの人に話しかけてみようかと扉に背を向けた。
「あの、」
「いらっしゃいませ」
背後から唐突に響いた声に、ティノは飛び上がって驚いた。心臓がドコドコ鼓動を打ち鳴らし、全身に血を巡らせていく。ぎこちない動きで振り返ると、いつの間にか扉が開かれていて、そこには男性が一人立っていた。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありません」
ティノの様子を見てか、男性も軽く驚いたように目を見開き、丁寧に詫びた。男性は動きも、言葉も、何の違和感もないただの人間のように見えた。そのことに安心すればいいのか、拍子抜けすればいいのか、とにかくティノの心音は治まっていった。
「あ、い、いえ、こちらこそすみません…」
慌ててティノも頭を下げると、男性は柔らかく微笑んでくれた。
「アトリエ・コルティの方ですね?」
「は、はい…あの」
「遠いところまでご足労いただきありがとうございます。お疲れでしょう。どうぞ屋敷へ」
男性に誘われるまま、ティノは緊張しながら屋敷に足を踏み入れた。