15
「あなたは本当にわかったかしら」
メイベルの問いかけに、ティノは現実を思い出す。メイベルがティノに語って聞かせた内容は、淡い灰煙の向こう側の世界に感じられた。ジラルドと共に在った幸せな記憶、アルセニーと辿った悲しい結末。その閉ざされた世界の中で、メイベルはずっと一人ぼっちで心も閉ざしていた。アトリエの扉と共に。彼女の心に降り積もった灰は、簡単には振り落せない。メイベルの悲しさと、寂しさ、虚しさがティノにも痛い程に伝わってきた。
そして、彼女にとって自分がどういう存在であるのかも。
「…私がどれだけさみしい想いをしてきたのか、あなたにはわからないでしょう。あなたが私の声が聞こえると知って、どれだけ嬉しかったかわからないでしょう」
「うん…うん、そうだね、メイベル…僕にはわからないよ」
長い間ずっとコルネリアに寄り添ったリベリオの想いも、ひとりぼっちだったメイベルの想いも。ティノはまだ若すぎて、そのすべてを理解することはできない。いや、どれだけ歳をとっても真に理解することはできないのだろう。けれど。
「でもね、もうメイベルを一人にはさせない。僕がずっと一緒にいるから」
「…あなたもどうせ私を置いて死んでしまうのだわ。それなのに私は涙を流すこともできない。会いたくても足を動かすこともできない。伝えたくても口を動かすこともできない」
メイベルの声は泣いているように聞こえた。ティノが初めて聞いた彼女の声は、確かこんな声だったような気がした。
「…だけど僕には聞こえるよ、メイベルの声。けれど僕はきっと君を残して死んでしまう」
ティノはメイベルの小さな身体を、そっと抱きしめた。
「だから今は一緒にいよう。少しでも長く一生にいよう。君がさみしくないように」
ティノの言葉に、メイベルは何も答えなかった。人形の彼女は腕を動かすことも、眉を寄せることもない。動きを見せるような皺はなにひとつない、滑らかな肌。それでもティノは、彼女が言いたいことがわかった気がした。彼女の気持ちが、わかったような気がした。
メイベルの調子が戻ったころ合いで、ティノは再びメイベルを机の上に戻し、自らも椅子に腰かけた。
「ごめんね、メイベル…」
「…私も言い方が悪かったわ」
「僕さっきまでリベリオさんと話してたんだけど、やっぱりあの人がコルネリア様を破壊するなんて考えられないんだよね…」
リベリオは本当にコルネリアを大事に想っているようだった。あれが全て演技で、全て嘘だなんて事があるだろうか。そしてあんな優しい嘘を、ティノに吐く必要があるのだろうか。ティノが思っている事を伝えると、メイベルは短く、そう、と言った。
「ティノが思った事は本当なのかもしれないわ。けれど…私は何か違和感があると思っているわ」
「違和感…」
それならばいくつか、ティノも感じたかもしれない。この違和感がただの気のせいなのか、何か答えがあるのか。それは、今もわからない。
「でも、大きな発見もあったわよ。関係しているかはわからないけど、コルネリアの事なら何かわかるかもしれないわ」
「どういう事?」
メイベルが得意げに言うので、ティノは首を傾げた。動けない人形の彼女に、発見とはどういう意味だろう。
「そこのすぐ目の前の本棚」
メイベルに言われて後ろを振り返ると、確かにすぐ近くに本棚がある。この本棚にもきっちりと本が詰まっている。
「その本棚にあるのは、どうやらこの屋敷の者たちが書いたもののようよ」
「ええっ」
「そこの本だけ、紐で閉じられていたり、体裁が本というより手帳のようなものが多いでしょう?おそらくそういう事だと思うわ」
言われるがままに、ティノは紐綴じの本を一冊取ってみた。埃を被るその表紙には、日誌、と書かれていた。
「本当だ。これはこの屋敷の使用人が書いてた報告書…みたいなものなのかな?」
「そのようね」
机に置いてメイベルにも見えるように、ティノは内容をぱらぱらと読み始めた。掃除した場所、作った料理に余っている素材、コルネリアが家庭教師から学んだ内容などが記されている。
「コルネリア様が人間だった頃のものなのかな。料理も使用人みんな食べてたみたいだし、それぞれサインがいくつかあるから、使用人たちもみんな人間だった頃みたいだ…」
当時、今よりも賑わっていたであろう屋敷の様子が、その日誌からは見てとれた。
「じゃあ大昔の日記なんだ…あ、これ見て、メイベル」
ティノが日誌のある個所を指で示す。そこには、コルネリアの部屋の掃除担当者の署名が書かれていた。
「リベリオさんだよね、このサイン」
「そう、書いてあるわね」
ぺらぺらと貢をめくっていくと、いくつかリベリオの署名が見受けられた。他の署名も筆跡は違うようで、違う人間が書いたものだという事がわかる。つまりやはり、リベリオは使用人たちが人間であった頃…コルネリアが人間だった頃からここで働いているという事だ。
「やっぱりリベリオさんは自動人形なんだ…」
「そう…いう事になるのかしらね」
他の人間たちは、もう死んでしまったか、辞めてしまったのだろう。今でも生きているとしたら、相当な高齢のはずだ。メイベルも今度は、納得したようだった。
「でも…じゃあ、この違和感はなんなのかしら?」
「違和感の正体…か…」
そもそも一体なぜ、違和感を覚えるのだろうか。それは主が人形であったり、働く使用人が全て人形であるという、異様さからくるものなのか。違和感だらけで、何がおかしいのかティノには判別がつかない。
ティノは振り返り、再び本棚を見返した。ずっと日誌が並んでいたが、一番上の段の端には、日誌とき違う装丁の本がいくつか置かれていた。
「あれ、なんだろう」
手に取ってみてみると、それは手帳のようだった。開いてみると、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「うわぁ…読むの気が引けるなあ…」
「でも何が書いてあるかわからないでしょう」
渋々文字を読みだすが、言葉遣いは難しく、内容もティノにはさっぱり理解できなかった。
「ちょっと私に読ませて頂戴」
言われるがままティノはメイベルに見えるように貢をめくっていった。しばらくしてから、メイベルはふう、とため息を吐いた。
「何が書いてあるかわかるの?」
「それは錬金術師が書いたものね」
「錬金術師…⁉どうしてわかるの?」
「昔アルセニーが私にいろんな本を読んで聞かせたり、話したりしてくれてたからある程度はね」
どういう話を人形にしてるんだと思ったが、今は助かった。また錬金術師か、ティノは思った。
「で、何が書いてあるの?」
「おそらくこれは、コルネリアの父親が書いたものだわ。彼女の名前が娘としてちらほら出てくるもの」
「錬金術師だったんだ…」
彼女の父親は研究をしていた、と言っていたが、錬金術師の研究だったのか。それなら、コルネリアが言っていた“彼女の病を治す研究”についても何書いてないだろうかと、ティノはメイベルに聞いてみた。
「関係ありそうなところを、要約して読んでみるわね」
ティノは頷き、メイベルが読むのに合わせて貢をめくり始めた。
……私は、娘の命を救うための手段をついに得る事ができなかった。こうしている間にも、娘の、コルネリアの命は今にも燃え尽きようとしている。自分の力では、もうどうする事もできない。私は、深淵の魔女に娘の事を頼む事にした。
……深淵の魔女は確かに娘を助けてくれた。その病と、死と、そして生を喪失させる事で。娘は一生老いる事もなく、死ぬこともない。
「深淵の魔女って…」
コルネリアが人形になったのは、その深淵の魔女の仕業だったのか。
「深淵の魔女…喪失の錬金術師の事かしら」
「それって、伝承にあった…」
“死”を喪失させたという伝説の錬金術師。まさか彼女も実在したのか。しかし、アルセニー…生命の錬金術師が存在したたのだから、喪失の錬金術師が実在していてもおかしくはないのかしもれない。
「それで、他には何か書いてないの?」
「ちょっと待って。気になる事がいくつかあったわ。コルネリアが人形化した後のことよ。彼はまだ何かの研究を続けていたみたい」
……娘は死ぬことも老いる事もなくなったが、そんな娘を一人残していく事が憐れに思えた。私は、私自身、あるいは周りのもの達も娘の傍に永遠に寄り添え続ける方法を探した。私自身も人形になる事を考えたが、それではいつ他者の手によって引き離されるかわからない。娘を永遠に守る存在が必要だ。
……不死の錬金術師の謎をついに知った。彼は正確には不死ではない。死を繰り返し、何度もよみがえっていたのだ。いや、この言い方も恐らくは正しくない。彼は霊体…命素に自らの記憶を残したままで、別の人間として再び世に生まれる事ができるのだという。そんな事が可能ならば、何度死んでも永遠とよみがえり続ける事ができる。私はそう確信した。
「…命素…霊体?」
「どらも錬金術に重要なものよ。つまり…そのモノの一番、大元になるもの…根源、とでも言うべきものかしら霊体は命素の集合体の事よ」
「全然わからないなぁ」
「まあいいわ」
メイベルはため息を吐いた。ついには不死の錬金術師の名前まで出てきたが、ティノはもうそれが虚構の話なのか、現実の話なのかわからなくなっていた。あまりに壮大で、現実感がない。それはどちらでも良いことなのかもしれないが。
……不死の錬金術師の秘術を知っても、彼の存在を証明するには至らなかった。彼の居場所はわからず、本当に存在するのかも不明だ。そして不死の方法も知る事はできない。
私は自らで、記憶を霊体に留める研究を始める事にした。もうあまり時間はない。しかしこれが成功すれば、霊体に記憶をとどめ、自動人形に移す事ができれば…そうすれば娘の傍にずっといられる。
「どうして錬金術師ってこうなのかしら」
「こうって?」
「新しい身体に記憶を挿げ替えても、それは同じモノじゃないのにって事」
メイベルは過去を思い出しているのだろうか、不機嫌そうにそう言った。確かにそうだと、ティノは思った。彼は娘を救うために必死だったのかもしれないが、そのあいだ…彼女が人間である間に傍にいてあげる事はできなかったのだろうか。
……実験は失敗だ。人形は当初は記憶を有しているが、しばらくすると無くなってしまう。その記憶が自らの記憶でないと認識してしまう。どうやら、体内の霊水が無くなると効力が切れてしまうようだ。自動人形が永遠に生きられるだけの霊水を作りだす事は不可能だ。私はせめてもの思い出を残したかっただけなのに。
手記はそこで終わっていた。結局、彼は思いを遂げる事も出来ずに絶命したのだろうか。
「なんだか悲しいね…」
「そうね。本当に錬金術師って馬鹿ばっかりね」
メイベルのその言葉に、ティノは苦笑いをした。確かに今まで聞いた錬金術師たちはティノにはまったく理解できない世界で生きていて、数々の発明をしている。それでも、話に聞く彼らは、幸せだったようには思えなかった。
「錬金術師の話はいいわ。それより、ここに書かれている内容ね」
「記憶を残す…って話?なんだかよくわからないけど、失敗したんでしょう?」
「そのようね」
「自動人形って一瞬、リベリオさんの事かなあ、と思ったんだけど、でもリベリオさんだったら元々コルネリア様の傍にずっといられるし、昔からいるみたいだし違うよね…」
「父親が、自分として入れ替わりたいと願っていたのなら別だけどね」
しかしリベリオは、使用人のままだ。やはり実験は失敗したのだろう。
なんだか気が滅入りそうな話ばかりだと、ティノは気落ちした。しかもわからない事ばかりが増えて行っているような気がする。ティノは再び日誌をぱらぱらとめくった。
「昔は賑やかだったんだね。人の名前がたくさん書いてあって、サインが書かれているだけでなんだか活発に感じるよ」
「あなたも相当重症ね…早く此処から出ないと」
本当にそうだな、と思いながらティノは日誌の文字を無意識を頭に投げていく。
「…ん?」
唐突に引っかかるものを感じて、ティノは日誌をめくる手を早めた。
「どうしたの?」
「いや…これ…此処に書かれてる人の名前…どこかで…」
最近聞いた事のあるような名前ばかりな気がした。何処でだっただろう、ティノは記憶を巡らせる。
「そ、そうだ…この名前って、リベリオさんが壊れた自動人形だって言ってた人たちの名前だ!」
「そういえば…そうかもしれないわね」
「それにほら、役職も…家庭教師だったり、メイドだったり…ぴったり合うよ」
しかし記述を見てみれば、彼らが自動人形であったとは書かれてはいない。普通に人間として生活していたように書かれているし、怪我をして血を流した事まで書かれている。病気になった事も、休んだ事も。こんなこと自動人形ではありえない。
「…?じゃあ、なんで今此処にあるのは壊れた自動人形なんだろう?」
「かつていた人間を模して作ったんじゃないの?」
「そう…なのかな?だったら他の人形も自動人形でいいはずなのに…」
もしそうなら、なぜそうと言ってくれなかったのだろうか。もしかして自動人形と人間を混同しているのだろうか。しかし、昔は人間も働いていたとリベリオは言っていた。ぐるぐると考えを巡らせているうちに、唐突にティノの胸がざわりと泡立った。
「も、もしかして…僕、勘違いしてたのかもしれない…」
「どういう事?」
いてもたってもいられなくなったティノは、立ち上がってメイベルを抱えた。
「わからないけど、リベリオさんに話を聞いてみよう」
「それが早そうね」
「それに…」
ティノはちらり、と手記に目をやった。
「お嬢様を生き返らせる事っ本当にできないのかな…」
「ティノ」
メイベルがため息と共に、ティノの名前を呟く。
「わかっていると思うけど一応言うわ。命を創る事なんてできないの。生命の錬金術師にだってね」
「…そうだね」
「でも」
ティノはメイベルの青い目を見つめ返した。その瞳には自分の顔が映るばかりだ。
「あなたは人形師よ、ティノ。人形をつくる事ならできるはずだわ」