14
アルセニーが一番初めにジラルドに見せたのは、彼女にそっくりな人形だった。
「…なんだそれは」
「とりあえずメイベルそっくりな人形から作ることから始めてみようと思ってさあ。どう似てる?」
確かにそっくりそのままといって良いほどの出来だった。目の位置や睫の数、わずかに欠けた傷までそっくり同じなのだ。ただ違うのは、彼女がメイベルではないという事実と、ジラルドにしかわからない人形の記憶だけ。
「ボクもこの子を見ても何も思わなくてさぁ…やっぱりメイベルじゃないもんね」
「じゃないもんねって…」
以前、宝石を創ったという話をしていたが、それは本当だったのかと、ジラルドに思わせた。自分しか作ることができない人形だと思っていたのに。こうもあっさり模造されるとは。
「あのなあ…いくら同じ人形こさえたところで、それはメイベルとは…言わば別人だろ」
「それもそうだねぇ。うん、まあこの子は実験段階で生まれたってだけなんだけどさぁ」
その技術がいかなるものか、ジラルドには想像もできなかったが、何か凄まじいものを彼に感じて、少し怖かった。
それからアルセニーは、アトリエにくる頻度が段々と少なくなっていった。しばらくするとアルセニーの足はぱったりと途絶え、それから数年の年月が過ぎた。そのあいだにジラルドは結婚し、子をもうけていた。
「ジル、子供が生まれたんだって?」
そう笑いながら久しぶりに現れたアルセニーは、傍らに女性を連れていた。それはメイベルそっくりの女性だった。
「…その人は…」
「うん、メイベルに似せてボクが創った。ちゃんとしゃべるんだよ」
「はじめまして」
女性はメイベルにそっくりだったが、大きさは人間程もある。ついに人間を創ってしまったのかと、ジラルドは戦慄したが、アルセニーはそうじゃないよ、とため息を吐いた。
「彼女は人形だよ。人間とはまったく違う仕組みで動いてるし、思考もボクが作った。よくできたね。やっぱり失敗かなぁ」
「…メイベルの声ではないな」
そもそもやはり、彼女はメイベルとは別人なのだ。アルセニーは肩を落として、また来るね、とだけ言って去って行った。
それからさらに数十年の時が流れて、ジラルドはもうアルセニーの事をほとんど思い出さなくなっていた頃だった。
「随分老けたね、ジル」
「アルセニー…」
彼は変わらぬ笑顔でまた現れた。最後に会ったのは数十年も前なのに、彼はまるで昨日別れたかのような態度だ。いや、態度だけではない。初めて出会った時のような幼い面差しはもう無く、彼は確かに大人の姿になっていた。しかし、まったく老けないのだ。アルセニーがジラルドと同じ時を生きていたなら、彼はもっと老けていなければならない。それなのに、彼は青年の姿のまま、数十年前が昨日のことのように、目の前に現れるのだ。夢でも見ているのだろうか。本当は自分は頭を殴られた時に、死んでいたのではないだろうか。
「見て、ジル!次の試作を作ったよ」
「試作…?」
アルセニーの傍らには、昔見たような、メイベルそっくりの人間が傍らにいた。
「今度はほとんど人間に近いんだ。自分で考えて動くしね」
「…それは人形ではないということか」
ジラルドの問いに、アルセニーははっとしたように瞠目した。そしてわかりやすく肩を落とすのだった。
「…そうだね。はあ、何やってるんだろう、ボク」
「本当に何をやってるんだ、お前は」
アルセニーが作り出すものは、人間が作れるものの域を超えているような気がした。新しく作られた人形は、本当に人間そっくりで、そうと言われなければ人間が作り出したとは思えないだろう。そしてアルセニー自身も、老いもしないその姿は、もはや人間ではない気がして、ジラルドは背中に嫌な汗を感じた。
「…アルセニー。お前、戻れなくなる前に、こっちに帰ってこい」
「へ?帰る?こっち?何処…?」
不思議そうに首を傾げるアルセニーに、ジラルドは何も言えずにため息を吐いた。
「今はわからなくても良い。ただ、いつでも此処に帰ってきて構わん。お前のためにこのアトリエは開けといてやる。メイベルに会ってやれ」
「…?よくわからないけど、有難う」
アルセニーはいつものように笑顔を浮かべて、去って行った。
それがジラルドが最後に見た、アルセニーの姿だった。
それから…それからどれだけの時が流れたのだろう。メイベルは一人、アトリエにいた。アトリエは今はもう、メイベル以外誰もいなかった。空き家となったアトリエは、使われていた道具類はそのままで、放置されていた。人が住まなくなった家は途端に荒廃し、屋根は崩れて窓は割れ、床もぼろぼろになっていたが、メイベルは運よく雨や風や陽を避ける事ができていた。
どれだけの時を、一人で過ごしてきたのだろう。メイベルはもう、寂しさという言葉すら忘れていた。たぶん、このまま、このアトリエと共に朽ちるのだと。そう思っていた。
そんな時に、彼は再び現れた。
「…あれ?」
メイベルは久しぶりに聞いた人間の声に、意識をゆっくり覚醒させた。ぼやける視界の向こうに見えたのは、きょろきょろとアトリエ内を見回す、変わらぬ姿のアルセニーだった。
「此処…アトリエ・コルティ…だよね…」
そうよ、アルセニー。おかえりなさい。メイベルはそう言ったのに、彼は気づかない。アルセニーが歩くたびに、床がぎしぎしと軋む音がする。
「…メイベル!」
ようやく彼女の姿を見つけたアルセニーが駆け寄ってくる。
「メイベルどうしたんだい?これはどういうこと?ジルはどこにいってしまったんだい?どうしてキミを置いてけぼりに?」
置いてけぼりにしたのはあなたの方じゃない。ジラルドはもういないの。ジラルドはもう死んだのよ。人間だったらとっくに死んでいるわ。ジラルドが死んでどれだけの時間が経ったと思っているの?ジラルドはあなたのために、このアトリエを残して死んだのよ。
メイベルは涙ながらに、そう喚いたつもりだった。しかし無機質な目から涙がこぼれる事もなければ、固い唇が開かれることはない。
「メイベル…ジルは…ジルはどこに…?ジルは…」
メイベルを抱くアルセニーの手は震えていた。何度もジラルドの名を呟く。彼はもう死んだのだと、メイベルも何度も言う。しかしその声は届かない。
「ジル…!ジル…」
もうジルの名前を呼ばないで。そう言っているのに。どうして聞こえないのか、どうして聞いてくれないのか。アルセニーに聞こえないのは、メイベルの声だけではない。ジラルドの声も届いてはいなかったのだ。
「メイベル…ボクは…ボクはいったい何をしていたんだ…?」
もう遅いの。ジラルドはもう、いないの。
それから数日して、アルセニーは再び荒廃したアトリエに戻って来た。ジラルドの家族を探していたらしく、ジラルドの死を彼の孫から聞いたらしい。アトリエはジラルドの遺言によって残されたが、後を継ぐ人形師がいなかったために、放置されていることをメイベルに話してくれた。
「…ボクはどれだけの時間を…何をしていたのだろう…」
メイベルは何も言わなかった。何を言っても彼に声は届かない。何を言ってももう遅い。しばらくアルセニーは壊れたアトリエの中で、黙ってメイベルを胸に抱いていた。何の合図もなく徐に立ち上がったアルセニーは、メイベルを元の場所に置いて何も言わずに去って行った。
それからまた数年の時が流れたのちに、彼は再び現れた。
しかし彼は、一人ではなかった。
「…メイベル…戻って…きたよ」
アルセニーは笑いながらそう言った。けれどもそれは、とても痛みに満ちた笑顔だった。
なんてことなの。メイベルはそう言ったように思う。
アルセニーが連れてきたのは、ジラルドによく似た、何かだった。
「今度は…人形でも、人間でもないんだ…精霊…そう、精霊とでも言うのかな。人間とはまったく違う次元で生きていて、きっと悠久の時を生きられるんだ。どうだい?ジルにそっくりだろう?」
彼は確かにジラルドにそっくりだった。見た目も、声も、性格も。死んだはずの、出会った頃の彼そのものだ。でもそれは、メイベルやアルセニーが愛した彼ではない。時間を共に過ごした、彼ではない。人間ですらない。別の、何かだった。
「…メイベル?泣いているの?」
メイベルを抱くアルセニーの手が震えている。メイベルの頬には、あたたかい涙が伝う。メイベルは確かに泣いていた。しかし、メイベルの硝子の瞳からは、決して涙は出ないのだ。泣いているのは、アルセニーだった。
「どうして…どうして泣くの…?」
アルセニーの涙が、メイベルの頬を濡らす。聞きたいのはこちらの方だと。
「…わかってる…わかってるんだ、メイベル。……あれは、ジルじゃない…ボクたちのジラルドじゃない」
なんだ、わかっていたんじゃない。そうメイベルは言った。アルセニーは子供のように泣きじゃくり、メイベルは届かない声で、彼を慰め続けた。
しばらくの時間のあと、アルセニーはゆらりと立ち上がり、メイベルと目を合わせた。
「………」
アルセニーは何も言わすにただ微笑んだ。けれどもメイベルには、彼が言いたいことが痛いほどよくわかった。
さようなら。
彼は確かに、そう言った。
そのままアルセニーはまっすぐと、迷うことなくしっかりとした足取りでアトリエを出て行った。
違う、そうじゃない。メイベルが何を言っても、彼には伝わらない。ジラルドはこう言ったのだ。
いつでも帰ってこい、と。
しかしアルセニーは、二度とアトリエに…メイベルの前に姿を現すことはなかった。
その後アトリエには新しい人形師がやってきて、営業を再開することになった。メイベルは創始者の作った人形として大切に扱われるようになったし、ほかの人形たちもいて賑やかなアトリエとなった。
それでも、人形の声を聞くことができる者は現れなかった。メイベルがかつて人間と会話していたといっても、人形たちは誰も信じなかった。
メイベルはジラルドが死んでから、ずっと孤独だった。誰にも言葉が通じない。誰にも信じてもらえない。荒廃したアトリエで、メイベルは長い時間を孤独に過ごした。その時の寂しさが、胸を穿つ。決して埋まらない穴に、激しい虚しさを感じた。大切な人は死に、大切な人は去り、それでもメイベルはまだ、アトリエにいた。
「ないた、だめよ」
その声に、メイベルははっと意識を寄せる。小さな小さな、まだ赤ん坊のような男の子がメイベルの頭を乱暴に撫でた。
「ないた、だめよ」
「…あなた、私の声がきこえてるの?」
「?」
男の子は、首を傾げる。
「…おなまえはなんていうの?」
小さな子供にわかるように、メイベルは言葉を選んだ。今まで何度もそうしてきたが、まともな返事がきたことなどなかった。
「てぃの」
男の子は笑顔でそう答えた。もしかして、とメイベルの心がざわりと疼く。
「おなまえは?」
男の子…ティノが言った。
「…メイベル。私は、メイベルよ」
「めいべる」
ああ、この子には伝わっている。
その時胸を満たした想いは、かつてないほどの喜びだった。