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テガミ ──The short tales of LETTERs──   作者: 蒼原悠
Ⅲ 届いて、この想い。
23/25

もう一度 ──妻→夫──




【letter-21 again】




 些細なことで喧嘩した夫・坂浜(さかはま)幹久(みきひさ)に、完全に遠ざけられてしまったその妻・和葉(かずは)。ただでさえショックを受けていた和葉に、幹久は別居の準備があることまで告げてきました。

 私はどうすればよかった? これからどうすればいい?

 必死に悩む和葉の心は、しかし次第に、ある「結論」へと向かっていきます。







 幹久さん




 和葉です。


 あなたはもうきっと、寝た頃だよね。部屋の電気が消えているし、物音もしないもの。


 そう分かっていても、何かせずにはいられなくて。こうして、拙い鉛筆を執ってみました。



 分かってる。今は痛いほど分かってる。


 あなたが怒っていること。それから呆れていること。


 そして、諦めていること。


 それでいいの。悪かったのは、私だったんだから。


 それでいいけど、最後にちょっとくらい、ちょっとだけ……悪あがきさせてください。


 ううん、悪あがきじゃないや。私なりに考えたこと、聞いてくれたら嬉しいです。







 あなたと私が喧嘩した日から、もう四日も経つんだね。



 あの日以来、あなたは帰ってきても真っ直ぐリビングを横切って、自分の部屋に閉じ籠ってしまうようになったね。夕食も朝食も摂らないし、まるで家庭内別居みたいだった。


 そうかと思っていたら、あなたはいつの間にか本当に別居先を探していたんだね。昨日の夜、唐突に私に紙を突き付けたあなたが見せてくれたのは、私たちの住む町よりもずっと都心にある、小綺麗なワンルームマンションだったっけ。


 俺、明日からこっちに行くから。そう宣言したあなたの背後には、荷造りがほとんど終わっているようにも見えるトランクと、何だかがらんどうに感じられるあなたの部屋が見えたんだ。


 ああ、こんなにも本気なんだ。


 あなたはそこまで本気になれるくらい、私を嫌ってしまったんだ。


 ──改めて、そう思った。





 私、頭が悪いんだ。


 違うの。頭のせいにしちゃいけないのは知ってるけど、そうじゃないの。学歴がないとか判断力が悪いとかじゃなくて。


 あなたの穏やかな表情の裏に隠れていた、静かな波のような心境の変化に、私は気付けなかった。そういう意味なの。


 いつだって私は遅いんだ。気付いた時にはすべて、手遅れなんだ……。



 喧嘩の発端だって、そうだったよね。


 原因は些細なことだった、はずだった。ずっと前から頼まれていたことを私がすっかり忘れていたせいで、あなたが迷惑をかぶった。その事で小言を口にしたあなたに、私はつい、口答えしてしまった。


 怒ったあなたは言ったよね。もう堪忍袋の緒が切れた、少しでもお前が改善されるって期待したのが間違いだった、──って。


 気付けなかった。あなたがどれほど怒っていたのか。私の犯した失敗がどれほど大きかったのか。そしてそれよりも、今までそれを私がどれほど積み重ねてきていて、それをあなたがどれほど我慢してきていたのか……。


 でも、そんなことを言い訳にするのはずるいよね。


 他に何も書くことができない自分が、情けないよ。



 この四日間、あなたの温もりを感じることはおろか、口をきくことすらも叶わない日々の中で、色々と思い返してみたんだ。


 あなたの言った通りだった。私、出逢った時からずっと今に至るまで、同じようなミスとか過ちを繰り返してきてた。何を今更、ってあなたは笑うかな。


 大学三年生の時に私たちが初めて出逢ったのは、キャンパスのある都心の街中だったっけ。あの頃から私、どんくさくて、忘れっぽくて、始終待ち合わせの日に寝坊したり行き先を間違えたりして、あなたを困らせたっけ。


 私はこの町の近くで育って、あなたは地方からの上京組だったね。でもね、地元民のはずの私にとってさえ、東京(ここ)は広いよ。目眩がするほど広いよ。時には人波の中にあなたを見失いそうにもなって、本当に、怖かったんだよ。


 そんな情けないことを口にしてる大学生なんて、きっと私ぐらいしかいなかったろうになぁ……。不相応な位置にいることは分かっているのに、しがみつく手を離せない。だから私、こんなままなのかな。


 あなたはそんな私に怒ることも、呆れることもなく、付き合いを続けてくれたね。


 やがて大学を卒業して、就職した会社のある新宿の町から電車で一本のところに住もうって話し合って、そうして今いるこの町のアパートに、二人して引っ越したんだっけ。


 東京都稲城市、多摩ニュータウンの東端にある向陽台地区。名前の通りに気持ち良く降り注ぐ日差しを浴びながら、休みの日はリビングでまったりくつろぐのが習慣になったよね。


 駅からは少し距離がある代わりに、公民館もスーパーも生活利便施設は何もかも揃ってるんだ。のんびり暮らすには、ここがきっと一番だよ。……そう言って部屋の壁を撫でるあなたは、いつも誇らしそうに笑ってたね。



 私、大好きだった。あなたのその微笑み。


 変だね、私。好きでありながら、あなたがいつもそうしていられるようにはできなかった。





 ねえ。最後になるなら、本音を教えて欲しいな。


 あなたは私に出逢えて、よかった?


 私なんかを妻にして、よかった?





 ごめん。聞くまでもなかったよね、そんなの。





 ちなみに、私はね。


 とっても嬉しかったんだよ。


 私みたいな弱い人が、独りでなんて生きていける訳、ないもん。あなたは頼り甲斐のある人だったし、それ以上に『頼りたい』って素直に思える人だったから。


 今もそれは、変わってはいないんだよ。







 あなたと二人、市境を流れる多摩川まで下りて、土手に寝転んだり紙飛行機を飛ばしたりして遊んだこと。


 丘の上に経つにっさんランドで、紅葉を眺めたり、年末のライトアップを楽しんだりしたこと。


 近所の大きな農園で、すっごく甘くて金色の実をした地元ブランドの梨狩りをしたこと。



 私は楽しかった。この世で一番の幸福者だって思えるくらい、楽しかったんだ。


 だけど私たち、夫婦だもの。あなたが楽しくなかったら、そんなのには何の価値もない。


 あなたが幸せを感じられられないのなら、ここにいるのは私じゃない方が……いい。



 あなたは反対するかな。それとも受け入れてくれるかな。


 分からないけど、言ってみるよ。



 離婚、しても、いいよ。


 別居生活なんて夫婦のすることじゃないよ。私の存在があなたの日々を煩わしくさせるのなら、私に妻としての存在意義なんてない。


 私だってこんなことはしたくないけど、でも、仕方ないの。私みたいなのには、こうするしか、ないの。だからお願い、分かって。誤魔化そうとしてる訳じゃない。何もかもをなかったことにしようとしてるのでもない。



 大丈夫だよ。心配なんて、しないで。


 あなたは嫌がるかもしれないけど、私は覚えてるから。幸せだった時間の記憶をいっぱいに抱えて、これからも生きていけるから。


 ううん、それだけじゃない。あなたとした喧嘩も、あなたに怒られたことも、何もかも全部、ちゃんと覚えてる。そんなことでもいいから、あなたのことを覚えていたいの。綺麗な思い出だけが、あなたとの全てじゃない。


 思えば私、大学生の頃からずっとあなたの彼女で、妻で、自立した生活なんて送ったこともなかった。ほら、支えが無くなって否応なしに自立を迫られた方が、もしかしたらしっかり出来ていたのかもしれないじゃない、私。



 そんな風には、今はまだ、とても思えないけど……。








 ただ、ね。



 判断は全部、あなたに任せるよ。離婚するかどうかも、別居を止めないかどうかも。私は決める立場にはないと思うから。


 でも、もしも私たち、もう一緒ではいられないのなら、その時はほんの一瞬だけ……あなたに甘えさせてくれないかな。


 図々しいって言われるのは、覚悟の内だよ。一瞬、十秒でも五秒でもいいから。



 もう一度だけ、前みたいに…………。









 この手紙は、あなたが起きて必ず気付くように、ドアの下の隙間に差し込んでおきます。


 すぐには返事、しなくてもいいよ。私はいつまでも待つから。


 でも、私なりに頑張って書いた手紙だから、何を感じたとしても返事だけは必ず、してほしいな。






 じゃあ、ね……。








坂浜和葉








 文面通り、ドアの下の隙間に手紙が差し込まれていることに幹久が気付いたのは、部屋の電気を落としにドアの近くまで向かった時のことだった。

 何のつもりか分からず、幹久が困惑したのは言うまでもない。

 ともかく中身を読んでみよう、と思った。よほど怪しいものでない限りは、自分に届いたものには必ず目を通す。学校でも会社でも当たり前の事実を、幹久は実行したまでだった。

 最初の一文字ですぐに書き手が分かってしまったあたり、俺、よほどあいつの文字を見慣れてるんだな……。読み終えて真っ先に抱いたのは、そんな感想だったような気がする。


 ドアにぐったりともたれて、幹久は何度も繰り返し、手紙の文字を追った。

 ドアからそっと伝わる圧力で、和葉が同じことをしているだろうと察しがついていたからでもあった。




 『些細なきっかけ』なんて言葉は便利だけれど、その些細なきっかけが人生を大きく揺るがすことなんて、決して珍しくなどない。

 和葉と幹久が出会ったのは、大学三年生の時。道に迷っていた和葉を幹久が案内してあげたことだ。大迷宮として名高い新宿駅の構内で、京王線の乗り場が分からないと言って和葉は今にもべそをかきそうにしていた。同じ大学の生徒だと知った時の、何とも言えない脱力感。それから胸の奥で膨らんだ安堵を、今でも時々、ふっと思い出すことがある。

 どうして安堵したんだろう。安堵できるほどの頼り甲斐のあるやつじゃないのに……。

 親しくなってからも悩んで、悩み続けたものだ。そしてその答えに導かれた瞬間(とき)、幹久の側から申し込んだのだった。──結婚を。


(俺は、この東京(まち)で育ってきたわけじゃない……。拠り所も何も持ってなかった俺は、あの頃きっと、寂しかったんだろうな)


 荷造りの済んでしまった大荷物を眺め、幹久はそっと息を逃がした。和葉には聞こえないようにしたつもりだった。

 見ず知らずの人々の行き交う大都会の真ん中で、自分と少しでも関わりのある人に、偶然にも出会えたこと。自分は一人ではないと気付けたこと。たとえそれが幻想であったとしても、その一時の幻想が幹久の不安や寂しさを軽くしてくれたのだ。

 頼りないのは知っているし、しっかりした気概や言動など和葉にはそもそも求めていない。寄りかかれる存在を欲していたなら和葉とは結婚していないし、自分で自分も支えられないなら東京にだって出てきていない。

 ──なぁ、俺。そうだったよな。そうだっただろ。

 約束を忘れたりうっかりミスを連発する和葉を前に、そうやって自問することで幹久は怒りの矛を収めてきたはずだった。そのルーティンをどうして外れてしまったのか、幹久には分からない。分からないでいる間に制御を失った怒りが、別居の準備を進め、荷物をまとめ、そして和葉にこんな手紙を書かせたのだろうか。

 出会いのきっかけが些細なら、喧嘩の発端だって些細だ。ちょっとした頼み事を、いつものように和葉が忘れていた。多少なりとも会社での仕事に響く頼み事だったから、そもそも和葉に頼んだ幹久にだって責任がある。

 しかし現実には、会社で説教を受けた幹久の苛立ちはこの家の中で爆発した。

(たまりたまっていた不満を流す捌け口が、いつの間にか詰まっていたのかもしれないよな)

 幹久は手紙に目を落とした。

 結婚した時、思ったものだった。和葉は頼りないけれど、頼ってくれるその姿勢は嬉しいし、愛しい──。その存在が癒しになるから、苛立ちなんて帳消しにできる、と。

(和葉は何も変わってなんかいない。変わったのがいるとしたら俺なんだよな。和葉への愛しさを胸に抱える余裕が、最近、あんまりないような気がする)

 本当は薄々と、勘付いていたことだ。

 最寄りの稲城駅前の不動産屋で、別居用のウィークリーマンションを探している時。いやが上にも思い出した。同じ駅前のこの場所から向陽台のある西の方角を眺めて、あのあたりがいいなって二人で指をさして笑い合いながら、今の家を決めたこと。

 京王線の沿線である稲城市内に家を構えようと決めたのだって、本をただせば和葉のためだった。初めて出会った新宿駅で幹久が乗り換えを教えてやったから、和葉は少なくとも京王線にだけは自在に乗れるのだ。『幹久さんが教えてくれたことだもの、忘れるはずない!』──誇らしげに胸を張っていた和葉の声が、今もあの電車に乗るたび、耳元で鮮烈によみがえる。

 その和葉は今、扉一枚分の境目の向こうで、自ら自分のことを幹久から切り離そうとしている。

 正直に言って、驚いた。和葉がそんな申し出をしてくるなんて思ってもいなかった。幹久が別居を考えたのは、いつまで経っても冷静になれない自分に焦っていたからだ。少し距離を置いて、和葉との関係を見つめなおした方がいい。そうでなければ本当に空中分解する……。表情や言葉を怒りに支配されながら、幹久の内面はそんな恐怖に満たされてもいたのだ。

 そのための言動が、かえって和葉の心にとどめの一撃を振り下ろしていた。

 そういうことに、なるのだろう。


 窓の外が白み始めている。ずいぶん時間が経ってしまったらしい。

 無機質な蛍光灯の光に照らされたカバンは、それとは対照的にひどく黒々しかった。幹久にはそれが、今しがた吐き出した汚物のようにさえ思えた。

 和葉に対する怒り。苛立ち。日々降り積もる疲労のせいで、度を越して肥大化してしまったそれらの塊。……無言で部屋の中を埋め尽くすカバンの中身は、別居用の衣類なんかではない。そういう負の感情なのだ。

(和葉)

 幹久は目を閉じた。そして、胸の中で呟いた。

(俺、止めてほしかったんだよ。出ていかないでって言ってほしかったんだよ)

 今こうやって思っても、和葉には伝わっていないと分かっていながら。

(この町じゃ俺、独りぼっちなんだよ。俺の気持ちの暴走を止めてくれられるのは、家族の和葉ただ一人だけなんだよ。……こんな願い、図々しいに決まってる。だけど俺、そういう関係を和葉と築きたくて、結婚したんだよ)

 止めてくれなくてもいい。ただ、別居するなどと無茶を言い出した幹久を前にして、いつものように気の抜けた笑いを浮かべていてくれればよかった。寂しくなっちゃうな、なんて微笑みながら、きっと数日後には帰ってくる自分のことを普段通りに受け入れてほしかった。別居先が一週間で引き払うことのできるウィークリーマンションであることだって、きちんと和葉には伝えたはずなのに。

 想いが正しく伝わることは、きっと、とても難しい。

 今だって伝わっていないだろう、と思う。

 理由なんて簡単だ。扉の向こうでさっきからずっと、和葉がすすり泣いている声がしているから。




 もう、いいだろう。


 そう思った。立ち上がると幹久は踵を返して、そっとドアを引き開けた。

 体育座りで肩を震わせていた和葉が、膝に埋めていた顔を上げた。あ、とも、え、ともつかない細い声が、その口から漏れ出した。

 振り向いた和葉の背中を、幹久は優しく抱きしめた。

「みき……」

「ごめん、和葉」

 意図せずして、耳元でささやく形になってしまった。和葉が身体を震わせた。どうして幹久さんが謝るの──先んじてそう言われるのを防ぎたくて、幹久は腕に込める力を強くした。

「最近ずっと、仕事が上手くいってなくて……。それで俺、いつもより沸点が下がっていたんだと思う。自分の気持ちの制御ができなかったのも、大事なことを和葉に任せたのも俺だったのに、俺はそんな和葉を怒りの矛先に据えようとしてたんだ……」

 和葉は、黙っている。

 判断は全部、あなたに任せるよ。手紙の中で和葉がそう書いていたのが、思い出された。

 だから幹久は選んだのだ。元通りという道を。

「離婚なんて、しない。出て行かない。あとでウィークリーマンションの契約も破棄してくる。和葉が安心してくれるなら何だってやる。……今まで、悪かった」

 きっぱりと、そう言い切った。

 後悔なんてない。ここで後悔するような幹久なら、そもそも和葉と結婚する資格などない。幸せな家庭を誰かと築く権利など、どこにもない。

 人間同士なのだから、誰だって相手との間に軋轢や敷居を感じることがあるだろう。すれ違うこともあれば、理不尽に感じることだってある。それでもそれを乗り越えながら──或いはやり過ごしながら、手を取り合って人々の波間で生きていく努力をすることが、結婚という契りであり、家族という安寧なのだ。


「……私、独りにならないでもいいの?」

 絞り出すように、和葉が訴えた。

「あなたが甘えさせてくれるのは、これが最後じゃないの……?」

 そういえば手紙の最後に、そんなようなことも書いてあったような気がする。もちろんだよ、と幹久は答えようとした。それから、その答えが和葉に余計な解釈の幅を与えてしまうことに気付いて、代わりにこんな答えを用意した。


「これが、最初だ」




 開け放ったままのドアから、荷物をやすやすと飛び越えて差し込んだ陽の光は。

 二人の背中を暖かく照らし出し続けている。




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letter-21 again

公開日 2016/10/14 07:00

舞台 東京都稲城市


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