助けがほしい ──父→家族──
【letter-19 salvation】
営んでいた自動車部品工場が不況の煽りを受けて倒産し、困窮の生活を強いられている高幡家。
ため息の出る暮らしにも慣れたある日の夜中、ふと目を覚ました家族は気が付きます。小さな食卓の上に置かれた、一枚の手紙に。
それは、社長だった父――毅が、書いたものでした。
恵美。
芽衣。
そして雅人。
父さんです。
高幡毅です。
何から書き出せばいいのか、まるで分からない。
いや。まずは、謝らなければならないな……。
今まで、本当にごめん。
お金も時間も何もかも、みんなにはこれまで多くの負担を強いてしまった。
させるべきではない心配まで、させてしまったね。
何とお詫びをしたらいいのか……。父さんが無力だった、知恵が足りなかった。そうとしか、今は思えないんだ。
もう、今日までだから。
あとほんの数時間、だから。
父さんの会社──自動車部品製造の工場が倒産したことは、みんなもう分かっていることと思う。
不景気と海外移転の機運の高まりを受けて、ここ日野市内の大手の自動車メーカーが撤退してしまったのが、そもそものきっかけだった。あそこに消えられたら、我々の生きる道は他の受注先を死ぬ気で見つけることしかなくなる。
元々、この日野市自体だってあのメーカーの企業城下町みたいなものだった。父さんの工場はその一角に居座って、脇からちょっとずつ下請け部品を提供しているだけだったんだ。営業の腕もそんなになかったし、こんな事態を経験したことだってない。それでも頑張ったけれど、羽村工場には断られ、武蔵村山のN社は既に撤退済みとくれば……。
自動車部品製造から離れ、従業員も減らし、それでも何とか必死にやってきた。でももう、手遅れだった。銀行からの融資を受けられなくなって、とどめを刺されて、一気に閉鎖に追い込まれたんだ……。
社長だった父さんの所には、催促や怒りのメールがいくつも届いたよ。
そりゃ、そうさ。漫然と工場経営をしていた、父さんが悪いんだ……。
芽衣、ごめん。
行きたかった私立の高校、パスしてもらわなければならなくなって。
本当は、あそこに通いたかったんだろう? 同じ豊田の団地からの通学者が多いしな。
お金があれば、通わせてあげられたのに……。
雅人、ごめん。
結局、最後まで服もあまり買ってあげられなかったし、欲しがってた携帯電話もあげられないままだった。
文句を聞いたことはほとんどなかったけれど、心の奥に押し込めていたんだろうなってことは痛いほど分かったよ……。
恵美、すまなかった。
僕が忙しかったせいで、子供のこと、家のこと、何もかも任せっきりだったね。
結婚した時、何でも一緒にやろうって約束したのに。反故にしてしまったのは、僕だった……。
みんな、父さんのせいなんだ。
父さんが、ぐずで、ヘタレで、無能で、その上バカで……。
こんなことになってしまった。
もう、楽しかった昔の日々みたいな生活は、戻ってこない。
前は多少貧しくても、みんなで笑えてた。それが今は、この安い貸家の中にはため息がこもるばかりだ……。
今からどれだけ頑張ったって、絶対に返っては来ない。もう、自信がないんだ。いや、それに限らない。信頼もお金も自分の家さえも、父さんは全てを失ったんだ……。
図々しいって、思うかもしれない。
だけど、言わせて欲しいんだ。
ありがとう。
僕と、父さんと家族でいてくれて。
恵美のことを愛していられた、この十八年間。
芽衣の父親でいられた、この十六年間。雅人の父親でいられた、この十四年間。
父さんは、すっごく、幸せでした。
どんなに疲れても苛立っても、みんなの柔らかな笑顔さえあれば、それだけあれば充分、頑張れたんだ。
だけど。
父さんは駄目な人間だ。
ここに父さんがいることは、みんなの生活を破綻させる。みんなを苦しい目に、遭わせてしまう……。
身勝手な父さんを、許してくれ…………。
父さんが死んだら、書斎にある小さな金庫を開けてほしい。
きっと、銀行の通帳が入っているはずだ。恐らく数百万円の貯金がまだ残っているだろう。社員全員分の退職金と借金の全てを支払って余ったお金に、僕のへそくりを足した分だ。
それがあれば、当分の生活は何とかなる。懐かしいあの家を抵当に入れて借りたこの家にも、まだ住んでいられるだろう。大家さんに、何となくの話は通しておいたから。
恵美は前に、時間が出来たらパートの仕事もしてみたいって言っていたよね。実はこの前、知り合いがいい仕事を探してくれたんだ。もしよかったら、紹介してもらってくれないか。
ここは──日野は、いい町だ。
父さんがいなくても、いやいない方が、君たちは楽しくやっていけるよ。きっと、ね。
この手紙が読まれている頃、僕はもう死んでいるだろう。
もう一度。
ありがとう、恵美、芽衣、雅人。
ああ。
どうして、
どうして、こんなことになってしまったんだろう…………。
精一杯、やってきたのに。
遊びにも手を出さないで、堅実に生きてきたのに。
冷たい床に突くために、この手を温めてきた訳じゃなかったのに。
涙を流すために、この目を保ってきた訳じゃ、ないのに。
何をしても、失敗ばかり。
一生懸命になればなるほど、空回りばっかりで。
諦めようと、楽になろうとするそのたびに、この地獄に引き止められて。
家にも、仕事場にも、居場所がなくなって……。
助けてくれ。
誰でもいい。何でもいい。
僕のことは構わない。
この命を捧げるから。
お願いだから。
家族を、みんなを、助けてやってください…………。
さようなら。
高幡毅
「どういうことだよ……!」
沈黙の中、最初に口を開けたのは息子の雅人だった。
その声で我に返ったように、三人は父の姿を狂ったように探し回った。だが、この狭い家の中のどこにも、毅は見当たらない。
ならばいったい、どこにいるというのだろう。
途方に暮れかけたその時、叫んだのは芽衣であった。
「お父さん、もしかしたら外に出て行っちゃったのかも……! だとしたら急いで探しに行かなくちゃ!」
でなければ。でなければ……。
そこから先は怖くてとても、口に出来そうになかった。だがそれは残りの二人も同じだ。恵美と芽衣、雅人はお互いの首をしっかりと振り、その意志を確かめ合った。
手遅れに、なる前に。
リー、リー、リー。
鈴虫の音が草むらの中に聞こえる。
荒れ果て、廃墟のような建物の入り口に佇んだ毅は、ぼろぼろに腐食したその壁を見上げた。錆びついた赤茶色が、天井を行き交う鉄骨にまで及んでいる。
少し手を入れない間に、こんなにも酷い有様になってしまうなんて。何だか自分の境涯を目の当たりにしているような気がして、毅には可笑しかった。
今はもう、笑う力さえも残っていないのだけれど。
この身体も、この心も。
もはや回復など出来ないほどに窶れてしまった。
あるのはただ、死にたいという漠然とした欲望だけ。
毅は手に持った長いロープを、目の前にかざした。これだけの長さがあれば、あれだけの高さがあれば、自分は無事に地獄へと堕ちることが出来るだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、天井から吊った機器を調整するためのプラットフォームへと足を踏み入れる。
かつん、かつん。静かな音が、今は廃屋となったかつての工場に鳴り響いた。
やっと。
これで、やっと。
楽になれるのだ。
この生き地獄から、抜けてゆけるのだ。
首にかけたロープが、痛かった。
こんなものなど、向こうでは味わうことはない。破れたトタン屋根から差し込む月光が、泣きながらもなお死の淵へと歩み続ける毅を優しく、冷たく、照らしてくれている。
だが月光はそうでも、現実はそう甘い夢ばかりを見させてはくれなかった。
「お父さんっ!!」
階下から突如、絶叫にも等しい大声が聞こえてきたのだ。
びっくりして思わず毅はロープを離してしまう。ぐらりと宙を舞ったロープの輪っかは下の階へと落ちてゆき、誰かがそれをキャッチしたのが見えた。
雅人だ。
芽衣だ。
恵美だ。
確かに置いていったはずの"元”家族が、そこにいた。
「どう……して……?」
こぼす毅のもとへと、三人は駆けあがってくる。かつて会社が上手く回っていた頃、毅は自らの積み重ねの象徴だったこの工場を何度も案内して回った。今さら工場内での勝手の分からない"元”家族ではないのだ。
同じ高さまでたどり着くと、息を荒げながら雅人は詰問した。
「何してんだよ、父さん! 自殺する気だったのか!?」
その目を見て、うんと素直に頷くことは毅には出来なかった。下を向いて黙っていると、雅人はその怒りの表情のまま毅の胸倉を掴み上げる。
「雅人……!」
「母さんは黙っててよ!」
激しい口調で恵美を制すると、雅人は毅を突き飛ばした。無抵抗で柱に叩き付けられ、後頭部から血が滲み出した。
「心の奥に押し込めてたことは痛いほど分かった──だって?」
それでも無言を貫く毅に、雅人は低い声で言った。
「何が分かってたのか言ってみろよ。絶対に言えるわけがない。あんなこと書いてる時点で、父さんは何にも分かってないんだよ」
雅人なりに示唆を含めての言い方だったのだろう。だが、今の毅にその遠回しな訴えは逆効果だ。
ああ、やっぱり、そうだったのか……。僕は、何もわかっていなかったのか。
最後まで徹底した自分の駄目さに、項垂れたまま毅は思わず自嘲した。
家族が見ている前では死ぬこともできない。でも自分は家族の足手まといになる。……ならばいったい、どうしろというのだ。どうすればこれ以上、自分のせいで不幸な人を生まずに済むというのか……?
その時。
自問する毅の視界に映った雅人が──不意に、ぐらりと揺れた。
雅人はそのまま崩れ落ちるように、毅に抱きついたのである。
「……違うんだよ」
震える声で雅人は続ける。
何が違うのかさえ、毅には読み取れなかった。けれど問題にはならなかった。雅人は元から、自分の口ですべてを言ってしまうつもりだったのだ。
「俺、好きだったんだよ。頑張ってる父さんの背中を見るのが。どんなにくたびれてたって、どんなに不機嫌だって、それでも頑張ってるところが好きだったんだよ! それさえあれば、欲しいものなんて後回しでいいんだよ……!」
後を追うように、芽衣が縋り付く。
「私も……私もだよ、お父さん……!」
さっきからずっと泣いていたのだろう。服も髪もわずかに濡れて、月光が輝いていた。
「頑張ってなんて酷なことは、私たちには言えないよ……。今の私たちは、お父さんの背中を押してあげる事しか出来ないから……。だけど、せめて“頑張って”って言わせてよ! 死んじゃったら、全てが終わりなんだよ!?」
「それでいいんだよ! 死なせてくれ……!」
ついに毅は叫んだ。
雅人の声も芽衣の声も、毅の心にはしっかりと届いている。だが届きすぎて、貫いてしまっていた。毅にとって今までの人生は、仕事は、働くという行為は、何もかも毅を苦しめるためにしか存在しないのだ。
「今更もう、遅いんだ……。父さんはもう生きれない。生きていては、みんなに申し訳ないんだよ……」
「どうしてそんなこと言うの!?」
恵美の声もすっかり湿っていたが、自暴自棄になりかけていた毅には最早、そんなものなどどうでもよかった。
「僕は君たちの人生を狂わせた! それ以外に理由なんて要らない……! これ以上君たちに迷惑をかけてまで、生きたくないんだよ……ッ!!」
ぐしゃっ。
だらりと垂れ下がった毅の腕に、何かが握らされた。
毅は霞んだ視界でそれを捉える。さっき手紙に書いたはずの、あの預金通帳ではないか。
どうしてここに。──そう尋ねようとした寸前で、ここに預金通帳が持ってこられたことの意味に毅はようやく思い当たった。
まさか、と思った。
「チャンスなんて、何度でもあげるわ。何度だって、失敗していいの。何度だって、取り返しがつかなくなっていいの」
恵美の瞳は、毅を真っ直ぐ見つめていた。ただひたすらに、真剣な眼差しだった。
「だけど、諦めてほしくはないの! 逃げないで、私たちのことを見ていてくれれば……」
もう、声にならない。泣き崩れながら最後に恵美は叫ぶ。
「……それで、いいのよ……!」
家族って、こういうものだっただろうか。
こんなに温かいものだっただろうか。
“ぐしゃっ”というあの音が潰したのは、預金通帳だけではなかった。毅の周囲を取り巻いていた負のバリアを、恵美はその力を振り絞って破壊していたのである。
与えられたわずかな間に、毅は今の今まで気付かなかった子供たちの言動の意味を知った。妻の覚悟を知った。そして、これまでの冗長な人生をかけても気付くことのできなかった事実に、気が付いた。
家族が自分を見捨てたのではなく、自分が家族に目を向けていなかったのだ。
もしちゃんと見えていたら、見つけていたのに違いなかった。毅が和めるようにと家の中に飾られた、たくさんの花や絵に。少しでも気が晴れるようにと積極的に話しかけていた、芽衣や雅人の声に。
手遅れだなんて、思わなくてもいいのか。
本当に、そうなのか。
「戻っても……」
毅は掠れた声で、尋ねた。
「いいのか……っ?」
もう、そこに答えなど、必要なかった。
◆
数年後。
高幡毅はわずかな資本で精密機械製造メーカーを立ち上げ、IT産業界では一定の知名度を誇る企業へと成長させることに成功する。その卓越した製造技術に、業界人の中には舌を巻くものも多かったという。
二人の子供はともに国立大学へと進学。安定的に家庭を支え続けた恵美の成果か、あれから家族の中で病気に罹患した者は誰もいない。
以前に住んでいた家にはまた、夜になると明かりが灯るようになった。表札に浮かび上がる苗字は無論、『高幡』──。
それはまた、別の話である。
--------------------
letter-19 salvation
公開日 2014/10/12 07:00
舞台 東京都日野市




