はるか ──妻→夫──
【letter-12 far from me】
七月を過ぎて、夏も真っ盛り。
とある事情を抱え独り暮らしをしている宮塚紗綾には、離れて暮らす夫に仕掛けたいサプライズ計画がありました。
この暑中見舞いは、その前準備。
紗綾は細くなった指で、ペンを握ります。
宮塚 誠士様
暑中お見舞い申し上げます。
七月もあっという間に過ぎて、もう八月。蝉の声もいっそう賑やかになり、夏も本番だなあと感じます。
いかがお過ごしでしょうか?
なんてね。
本式の暑中見舞いみたいに、ちょっと堅苦しく書き出してみました。
紗綾です。あなたの妻の、宮塚紗綾です。
突然、暑中見舞いなんか来てびっくりしたかな? たまにはメールじゃなくて、手紙でも書いてみようと思って、ペンを取ってみました。
警視庁の警官のあなたが、新島にある警察署に異動になってから、もう一年だね。
もう、長いこと顔を見てないや。
きっとあなたはすごく仕事が忙しいんだろうね。昇進して肩書きがよくなって、お仕事も増えたのかな。まだまだ暑い日が続くから、どうか体調を崩さないで。
私のいる小金井も、最近はすごく暑いです。この前、小金井公園のフリーマーケットに行ってきたけど、救急車がいてびっくりしたよ。熱中症、多いもんね。
ここに限らないの。江戸東京たてもの園も東京農工大も、この前阿波踊りをやっていた武蔵小金井の駅前も。どこも耐えきれないくらい暑くって、つらいです。
なんか、懐かしい暑さだなあって思うけどね。
私とあなた。
二人とも新島で生まれて、新島で育ったんだよね。
絶海の孤島……って言うには周りには意外と島はあるけど、それでも小さい頃の私たちには大きすぎた、あの海。
冷たい水をどこまでも湛えた、長い長い羽伏浦の海岸線。
海の碧色とは対照的に、真っ白な崖がどこまでも続く白ママ断崖。
あの頃、みんなで遊び回った景色。今もちゃんと、覚えてるよ。
年上でリーダー格だったあなたは、年下の私にもすごく優しく接してくれた。遊ぼうって声をかけてくれたのはいつも、内気な私じゃなくてあなただった。コーガ石の採掘場で転んで怪我をして、痛みに耐えられなくてわんわん泣いた私を慰めてくれたのさえも、あなただった。
実はね。あの頃からずっと、私はあなたのことが好きだったんだよ。結婚して本土に渡る事になるなんて、想像もしてなかったけれど。
あなたとの生活は、本当に夢みたいだった。
幸せだった。
異動になるって聞いても、どこへだってついていきたいって思えたんだ。あなたと一緒なら、不安なんてない。そう思えたんだ。
本当だよ?
私が、身体を悪くしなければ。
今も一緒に、新島で暮らせていたのに……。
小金井に限らず、本土はどこも暑いけど。
どうしても、寒いなぁって思ってしまうんだ。
それはきっと、あなたっていう温もりがないからなの。あなたの腕の、あの優しい温かさは、この地球上のどこでも感じられないの。
ねえ。離ればなれなんて、嫌だよ。
叶うなら、あなたに抱きつきたい。あなたの優しさを、身体中に感じたい。
暑苦しいって言われても、いつまでも隣にいたい。
会いたいよ。声が聞きたいよ。触れたいよ。
同じ新島で育った二人が、お互いを好いて夫婦になって、都会に憧れて本土に渡って、緑の豊かな小金井に居を構えて。でも、あなたは都会の都合で新島に異動になった。
これって、何かの運命を感じない?
ここに戻ってきて。新島が、そう言って私たちを呼んでいるような気がしない?
あのね。
私、最近は少し調子が良いの。普通に出歩けるし、走れるようにだってなったの。
だから今度、新島に渡ってみようと思うんだ。
実は、もう切符は手に入ってるの。この手紙が届いた次の日に本村の港に到着する船のね。小金井だから、ちょっと歩けば新島行きの飛行機が出てる調布飛行場はあるけれど、飛行機はまだちょっと怖いかなって。
広い海を眺めながら、あなたに会いに行くんだ。なんだか、素敵じゃない?
会ったら一緒に、村を回ろうよ。今だったらガラスアートセンターもエビネ公園も新島村博物館も式根島も、村の全てが少し違った景色に見えるんじゃないかな。
そしたら、もうずうっと昔になってしまった記憶も、少し戻ってきそうな気がするよ。
懐かしいあの暑さも、海の匂いも。いつも一緒にいられた、儚いあの日々の思い出も。
あなたの事が、大好き。
私の気持ちはあの頃からずっと、変わっていないから。
この想い、あなたは受け止めてくれると信じてる。
受け止めてくれなかったら、私からあなたにぶつけてみせるからね。
だって今は、夫婦なんだもん。
夏はまだまだ、これから。
私も頑張るから。頑張って、そっち行くから。
だから誠士も、元気で暮らしていてね。
はるか海の向こうから、祈っています。
宮塚紗綾
「──ちくしょう! 酷い雨だ!!」
叫びながら、同僚は必死に腕を前にかざして雨風を避けようとしていた。もはや傘など、そこには何の存在意義もなかった。
宮塚誠士はしかし、それほどの猛威を振るう雨を前にしても、瞬き一つもしなかった。岸壁にかけた足はふらふらとしていたが、それでもその濡れた目は然りと前方を向いていた。
大きく傾斜し、時折爆炎を吹き上げながら沈みゆく巨大な船のシルエットが、視界を焦がしていた。
それは、午前十時のことであった。
折から島に接近していた台風が急速に勢力を増し、当初は確認されていなかった暴風域が出現。竹芝桟橋から伊豆の島へと進んでいたフェリーは新島近海で凄まじい高波の直撃を受け、あろうことか転覆したのである。
すぐさま救難信号が発せられ、幸いにもそれは付近の島に届いていた。天と海がひっくり返ったような荒天にも関わらず、多くの漁船が海に繰り出され、今も懸命の救助活動が続いている。出動要請を受けた海上保安庁の艦船やヘリコプターも、最大速力で救援に向かっているとのことだった。
いま、はるかな海に沈みゆこうとしているその船体。
そこには、宮塚紗綾が乗船しているはずなのである……。
「刑事さん! けが人五人、救助してきましたぜ!」
港に横付けされた漁船の船長が駆け寄ってくる。誠士は頷くと、メガホンを取った。轟音の中、緊迫した叫び声が、他にもあちらこちらで飛び交っている。
「引き揚げた乗客乗員は速やかに勤労福祉会館に収容してくれ! 既に診療所はいっぱいだ!」
と、脇で部下が怒鳴った。「連絡ありました! 自衛隊の垂直離着陸機4機、残り2分で到着とのことです! 重傷者を収容、本土の病院まで搬送するとのこと!」
「よし、それまで救助を続けるぞ!」
次々と担架を見送りながら、誠士はそう叫んだ。
一刻も早く、一人でも多く。海難事故ではほんのわずかな「一」が、人の生死を左右する。
この心臓を高ぶらせているのは、緊張か、恐怖か、使命感か、それとも──。
そう、思った時だった。
誠士は前方の担架に、見知った顔があるのを見つけたのである。
「──紗綾!!」
懐かしい妻の名前を、誠士は呼んだ。
紛れもない、そこに横たわっているのは確かに紗綾だった。だが、名前を呼ばれてもぴくりともしない。
病弱で少し白かった彼女の腕は今や蒼になり、静かな脈を打っている。
「この人……力を失ったみたいに、海面を……!」
担架を握る漁師の声は、雨にかき消されてもうぐちゃぐちゃだった。誠士は担架の脇を掴み。紗綾に尚も叫び続ける。
「紗綾っ!! しっかりしろ、俺だぞ!」
──頼む、目を覚ましてくれ。俺に笑いかけてくれ……!
誠士は手をぎゅっと握った。ポケットの中の紗綾からの手紙が、ぐしゃっと鈍い音を立てた。
ああ。こんなことになるなどと、この手紙を受け取った時にはつゆほども想像してはいなかったのに。
きゅっ。
紗綾は辛うじて、握り返してきた。
「まこ……と……?」
か細い声だった。それでもその声は、はっきりと誠士の耳に届いていた。
誠士はしっかりと頷いて見せる。よかった、本当に良かった……。
「紗綾、しっかりしろ! 俺はここにいるぞ! ここは新島だ!」
そう告げると、紗綾は穏やかな笑みを浮かべた。積年の願いが、やっと叶った。そんな、儚い笑みだった。
「もう少しで、救難のヘリが来るからな。もうちょっとだからな!」
誰よりも、自分がしっかりしていなければならない。背後を飛び交う連絡にも耳を傾けながら、誠士は手に力を込めた。
その時、紗綾の目を滴が伝うのが見えた。
「ありがとう……。もう、いいよ……」
どういう意味か、すぐには理解できなかった。
眉をひそめる誠士に、紗綾は続ける。
「あなたはまだ……、仕事が、あるんでしょ……? 私、あなたの気持ちが確かめたかった……。ほんの、少しだけでいいの。あなたに……会いたかっただけなの……」
泣きながら、紗綾は誠士の顔に手を伸ばす。叩き付けるような激しい雷雨の中では分からなかったが、誠士ももうずっと前から、泣いていた。
「私、寂しかっただけなの……。ここに帰ってこられただけで、誠士の顔を見られただけで、もう十分だから……。あなたは、仕事に戻って、いいんだよ……?」
誠士は、言葉が出なかった。
“気持ちを確かめたかった”。
あの手紙は、そんな気持ちで書かれたものだったのか。ただ、そんな思いが胸の中で明滅した。
離れて暮らす紗綾のことだ。きっと少し寂しくなって、気持ちの昂ぶりに乗って書いただけのものだったのだろう。受け取った時、誠士はそのくらいにしか捉えることができていなかったのだ。
気づけなかった自分の愚かさに顔を歪める誠士に、紗綾は確認するように尋ねる。
「ここは、新島なんだね……? 私の望んだ、はるかな故郷なんだよ……ね……?」
そうでないのなら、あの海に戻る。そう続けたいかのような言葉に、誠士は……。
違う。
ゆっくりと、首を横に振った。
「ここは間違いなく新島だ。でも、──故郷じゃない」
えっ、とでも言いたげに口を窄める紗綾の顔が、少し崩れた。
自分でもどうしてそう言ったのか、誠士は一瞬分からなくなった。けれどすぐに思い出した。
「本当に故郷なら、こんな酷い歓迎はしてくれないだろ」
誠士は静かに、しかし力強く担架の淵を握る。
「あの綺麗な海も美しい空も、今日は何も見えない。今の紗綾は、歓迎されてないんだよ」
「そん……なぁ…………」
よほどショックだったようだった。紗綾は、ひく、と嗚咽を漏らした。
細くなり、弱くなった妻を、誠士はそっと抱き締める。そして、諭すように続けた。
「……元気になって、またここへ来てくれよ、紗綾。きっとみんな、紗綾の元気な姿が見たいんだよ」
こくり。細い首が、微かに縦に振られた。
今、力強く抱き締めてしまえば、それだけで簡単に折れてしまいそうなその身体。誰でもない、俺が守るんだ。一段と強くなった自覚を、誠士は雨水と一緒に噛みしめた。
「そしたら、何だってしてやる。紗綾の感じてきた寂しさなんて、すぐに消し飛ばしてやるから……。約束する。どんなに離れてたって、忘れないから」
ありがとう。
嬉しいよ。
ぐしゃぐしゃになった顔で、紗綾はようやく微笑んだ。
誠士も部下たちも、担架を持つ漁師たちも。
その時誰もが、きっと心で微笑んだ。
暴風雨の荒れ狂う、本土沖合の一つの島。
新島署の署員の鳴らす笛の音に合わせて空から舞い降りてきた垂直離着陸機が今、その口を大きく開き、遭難した人々へ救いの手を差し伸べていた。
悲劇の終末が、激しい風の向こうに垣間見え始めていた。
--------------------
letter-12 far from me
公開日 2014/08/05 19:00
舞台 東京都新島村




