ありがとう ──母→息子──
【letter-10 wish your next world】
三年前、七歳だった一人息子・陽太を喪ってしまった、中河原聡子。
今年もまた陽太の命日を迎えた彼女は、生きる希望を見失い、どん底に沈んだままだったこの三年間を振り返ります。
陽太は、幸せだったのだろうか。
聡子はまだ、答えを出せません。
だからこそ、手紙で聞いてみようと思ったのです。
中河原 陽太くん。
君にこの手紙は、届いていますか。
私たちのことは、覚えていますか。
聡子です。
あなたのお母さんだった、中河原聡子です。
今日、あなたに手紙をしたためたのには、理由があります。
覚えていますか。
今日は、陽太の誕生日。
そして、陽太の亡くなった日だという事を。
もう、三年も経つんだよ。
喘息の悪化で、陽太が入院先の病院で亡くなった、あの日から。
私たち──お母さんとお父さんの時は、あれ以来ずうっと止まったまんまです。悲しくて悲しくて、仕事も何もかも手につかなくて。それでも何とか、惰性だけで生きてきました。
知ってた?
あなたの存在はそのくらい、私たち家族にとって無くてはならないモノだったんだよ。
今でも時々、思い出します。
一緒に過ごした、七年間のあの日々を。
お母さんとお父さんにとって、あなたは初めての子供でした。そして恐らく、最後の子供だったでしょう。今はもう、私たちに子供を育てられる力は残っていません。
身長も体重も健康状態も、何もかも異常なんてなかった。ちっちゃな手を代わりばんこに握りながらお父さんと二人、いつかこの子が大きくなって、私たちと同じ背丈になるのかなって笑いあっていたのを、今でも覚えています。あなたは、知らなかっただろうけれど。
新たな仲間を迎えた日々は、本当に楽しかった。手を離すとすぐに泣き出す寂しがり屋のあなたを育てるのは、正直に言うと手がかかって大変だったけれど、可愛らしいあなたの笑顔はその全てを慈しみに変えてくれた。
本当に本当に、幸せな日々だったなあ。
覚えていますか。
三歳になってすぐの、あの少し暑かった夜のことを。
つらそうに顔を歪めながら苦しそうな息を吐くあなたに気づいて、慌てて近くの病院に駆け込んだ、星の綺麗だったあの夜のことを。
その時初めて、あなたは喘息だって言われたの。
健康そのものだったはずなのに、どうして。納得がいかなくて幾つも病院を巡ったけれど、返ってくる答えはいつも同じだった。進行が早いようだ、薬を飲まないと大変なことになる……って。
育て方が悪かったのかな。環境選びを間違えたのかな。突きつけられた現実が素直に頭に入ってきてからは、お母さんとお父さんは後悔しきりでした。私たちのせいだ、私たちのせいで陽太は苦しい思いをしてるんだ。薬を飲んで落ち着いて、ぐっすり眠っているあなたの横顔を覗くたび、涙が溢れました。
そうして、四年間の闘病生活が幕を開けたの。
覚えていますか。
あなたが大好きだった、あの多摩川の河原の景色を。
喘息の発症以来、あなたの身体は加速度的に悪くなっていった。あんなに好きだった遠出も出来なくなって、幼稚園にも通えなくなった。自転車にさえも、乗れなかったよね。いつも閉じ籠もって、することと言えば折り紙とかお絵描きばっかりで……。
少しでも空気がよくなるようにって引越しをしたのも、その頃だった。都心のマンションから緑に囲まれた府中市の戸建てに移ったあの日、あなたは珍しく歓声を上げていたよね。ここなら大きな病院も近いし、多少は無理が出来るかと思ったの。
でも、数日経つとそこでもあなたは発作を起こし始めた。どうしても、ダメなんだ。そう絶望を覚えたのも、昨日のことみたいな気がするんだ。
そんな陽太が辛うじて出かけられたのが、家から歩いて少しの多摩川の河川敷だった。
お散歩してるワンちゃんもいれば頑張って野球の練習をしてるお兄さんたちもいて、あなたはいつも目を細めて眺めていたっけ。
そうしていつも、家で作った紙飛行機を飛ばして遊んでいたものだった。
その小さな後ろ姿がいじらしくて哀れでならなくて、だから余計に頑張ろうって思えたんだ。私も、お父さんも。
いつもどんな時も、あなたは私たち家族の希望であり、原動力だった。
本当だよ。
もっと、色んなことをさせてあげたかった。
もっともっと、楽しい人生を送らせてあげたかった。
もっともっともっと、陽太に笑っていてほしかった…………。
六歳になって、あなたは毎日のように発作を起こすようになった。
市内の小児成育医療センターに入ることになって、治療をすることになって。小学校に行けないと分かったあの夜、あなたは声を上げて泣いたよね。
仕方ないのと繰り返すしかない私たちも、あなたと同じくらいつらかった。無理にでも、少しの間だけでもいいから、通わせてあげたかった。
あの日から陽太の容態はどんどん悪くなって、顔はどんどん窶れて細くなって。
あんなに綺麗だった目の輝きは、失われてしまって……。
忘れられないんだ。
体調が急変したって聞いて駆けつけたベッドの上で、青白い顔で私たちを見上げてくるあなたの顔が。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫だから。
何度そう呼びかけても、あなたは曖昧に頷くばかりだった。
それでも、最期まで意識を保っていた。
苦しさに顔が歪んで、歯を食いしばって耐えていても、目だけは絶対に私とお父さんを捉えて離さなかったわ。
そしてそのままあなたは、
逝ってしまった…………。
ごめんね。
本当に、ごめんね。
あの時少しでも、明るい未来を見せてあげられたなら…………。
あれから、三年。
生きていれば、陽太は小学四年生。二十歳までの半分を生きたことになるの。隣の家の子はすっかり大人びてきて、ちっちゃい子のお世話もちゃんと出来るようになってた。陽太はどんな十歳になってたんだろうって、時々空想してしまうんだ。
きっと、人の心の痛みの分かる優しい子になってたんだろうね。
今も時々ふっと、広くなった家の中をあなたの影が通り過ぎるような気がします。あの日よりも少し大きくなって、楽しそうに走り回る陽太の姿が。
そんな時、お母さんもお父さんもちょっとだけ嬉しくなるんだよ。
大丈夫。
私たちは、生きています。
あなたと言う原動力を失った今でも、頑張って生きています。
頑張って頑張って、陽太の寿命の分まで長生きしようと思います。
それが、私たちにできる唯一の事だと思うから。
ううん。そう、信じているから。
生まれてきてくれて、ありがとう。
一緒にいてくれて、ありがとう。
そして、お疲れさま。
よく頑張ったね。
いつか私たちがそこに追いつくまで、天国で待っていてね。
この現世では作ることの叶わなかった友達もたくさん持って、色んなことに出会って、楽しく暮らしながら待っていてね。
約束だよ。
いつかまた、三人で笑いあえる日が来ますように。
中河原聡子
「…………懐かしいね、ここ」
「ああ……」
彼方まで晴れ渡った、青空の下。
聡子とその夫・哲也は、連れ立って多摩川の河川敷に立っていた。
足元の砂利の角が、靴の裏に感じられる。そこはかつてよく、陽太と共に訪れていた場所だった。あの別れの日以来、何となく来るのが怖くて、来られずにいたのだ。
「私、やっと陽太の死を受け容れられるようになったような気がするんだ」
砂利を蹴りながら、聡子は静かに呟いた。風の音が肌をくすぐって、足元をすり抜けてゆく。
「この三年間、下を向かないようにするのが精一杯だった。前を向く余裕が出てきたのって、つい最近みたいな気がするの」
「僕もだなぁ。覚悟はしてたつもりだったけど、子供を失うショックがあんなに大きいものだなんて、知らなかった。魂が抜けたみたいだって、何度も上司に怒られたよ」
哲也も苦笑いした。その目が上を向き、またすぐ川面に戻される。
思えば本当に、長い三年間だった。全てが暗く見え、全てが上手く行っていないようだった。ふとした瞬間にあふれる涙を、何度拭ったことか。
「……僕は、陽太はきっと幸せだったと思うんだ」
哲也が唐突にそう言う。
「なぜ?」
「僕たちが、そばにいてあげられたからさ」
疲れたように丸くなった聡子の肩に、答えた哲也の腕がぽんと乗った。聡子は、くすん、と鼻を鳴らした。
「未来に希望が見えなくても、どんなに怖くても、そこに仲間がいれば人って安心できるんだと思うんだ。だから、あの子はきっと、寂しくなんかなかったよ」
「……そうだね。そうかもしれない」
「だからさ、聡子。もうめそめそするのは止めないか。そんなの止めて、一緒に前向きに生きていこうよ。現世で情けなく、泣きながら後悔しながら生きていく僕たちを、どこかで陽太はきっと見ている。これ以上、親らしくないところを見せないでいるわけにはいかないだろ?」
聡子と哲也は、互いの少しこけた顔を見合わせた。
陽太は生きている。二人が覚えている限り、陽太はその心の中で永遠に生き続ける。
普通の人には嘘くさく感じられるかもしれないそんな言葉が、今は身に染みて感じられた。
根拠はない。けれど人には時々、根拠のないものを信じ、すがり、支えにしたくなる時がある。
きっと今がそうなのだ。新たな日々へと、旅立つために。
「うん!」
かつて三人家族で仲良く作った時のようにして、二人が折り、遥かな天空へ向けて投げ放った紙飛行機は。
上昇気流に乗って、高く高く舞い上がっていった。
今は何もかもが、美しい記憶になろうとしていた。
--------------------
letter-10 wish your next world
公開日 2014/06/19 07:00
舞台 東京都府中市
第一部。伝われ、この気持ち。
あなたの心に、十人の書き手の気持ちが一つでも伝わっていれば、嬉しいです。




