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「じゃあ今日はここまでー」
最近少し白髪が混じってきた教授の講義を終えて、人数の少ない教室が控えめに騒がしくなる。今日は三時限目までだったので、適当に荷物をまとめる。ふと彼の姿が目に入ったが、何度も話しかけるのはさすがに勇気が足りなかったし、早くも隣の講義室から帰ってきた彼の友達が後ろの席につき話し始めてしまったので、今日のところは諦めて帰ることにした。せめて連絡先くらいは、とも思ったけれど、それほど親しいと言えるまでの仲になった気はしないし、メールアドレスをもらったところで何を話せばいいかもわからない。やはりこのまま帰ってしまおうと席を立つと、足早に教室を出た。
外の空気はまだ冷たいが、桜のつぼみは日に日に膨らんでいる。去年この道を通った時、あまりの美しさに思わず立ち止まって見入ってしまった程、この大学の桜は雄大だった。散る頃には桃色の道が出来ていて、歩くのを躊躇わせた。ほんの少しだけわくわくし出した心を押さえつけながら、自転車の鍵を開ける。
春は、とてもいい。大学に出てさみしさに溺れる気持ちを春の暖かさと桜の美しさはゆっくりと溶かしてくれた。桜の花が散る頃に今の友達ができた。もう大丈夫、そんな風に言われた気がして勇気が出て、もっともっと桜が好きになった。余裕がなかった私にも、桜は強引に心の中に入ってきて孤独でどうしていいかわからない心を抱きしめてくれた。今ならば、夜桜を見ながら星を眺めるのもいいかもしれない。それくらい気持ちは緩やかになった。去年よりずっとおしゃれも好きになったし、好きなアーティストも増えた。もし桜が咲いたなら、去年のお礼を言おう。目一杯おめかしして、もう大丈夫だよって、言いに行こう。
自転車を漕げば、春の風に吹かれる。いろんなものが浮足立って忙しない。慌ただしく命達が一生懸命生きようと必死になっている。散り落ちた花びら達が優美に舞い、意図的にではないにしろ私たちを魅了してゆく。
綺麗で、美しくて、なんとなく手が届きそうな最大の美。それが桜だった。こんな美しさはこの国を出てしまえばもう味わえない。ここだけの美しさ。それが、それだけが誇りだった。その桜の木に、少しでも近づけたらいいのにと思って、何度も何度も努力しようと決心してきた。それでも、私の脚は、腕は、脳は動くことをしなかった。ただ楽な方へ、楽な方へ下方の方へ流れて行った。のちに大海へ、個性のなにも関係ない場所へ行って交じり合ってしまった。私の夢など蹴飛ばされる石の価値もなかったのだ。ただ普通の人間として交じり合っていく。夢見ながら普通の人間として生きていく。そんな私がその海でありありと浮かんでいた。
そこまで考えてふと思考を止める。結局は諦めた夢だ。夢を掴めるものなど一握りなのだから仕方ない。金を持ち得るもの、美貌を持ち得るもの、地位を持ち得るもの。それそれ社会に貢献するために生まれてきていて、私などはその中にふくまれていないのだから。諦めよう、一度思考をリセットする。考えていても仕方ないことはゴミ箱に捨てて燃やしてしまおう。
やめよう、やめよう、やめよう。
半ば暗示にも似ていた。私が夢に向かえなかったのは金のせいだ、家庭のせいだ、そう責任転換して。ふと思い出した星の本のせいで視界が緩んでも他人のせいにした。全部、全部、全部。道行く人々の眼も、すべて八つ当たりした。最低な人間だと理解しながら、それでも止められなかった。そうでなければ、今の自分を受け入れる術が見つからなかった。
自転車を止めれば、それらの最悪な思考が不思議なことにすべて止まった。いつもそうだった。私の後について回って、ふとした瞬間に心に入り込む。ずっと見当違いな八つ当たりをした後に去っていく不思議な悪魔。それは、私自身だと自然と気が付いていたし、別の世界の異星人の仕業だと喚くほど幼くはなかった。押し殺した代償に、それは代わって現れたのだから、私は黙って受け入れることにした。結局は私のせいなのだから。
家についたとき、ようやく私は私の中の私との戦争を終えたのだった。