三、立ち話
ぐ、と背伸びをする。二時間目の講義を終えた教室はお昼の準備をする学生で賑わっていた。この時間帯に学校のコンビニへ行くと後悔することになると学んだ私は途中のコンビニですでに弁当を買っていた。ぱきょんと割り箸を割って手を合わせる。お米を口に運びながら斜め前を見てみると、彼もそこで弁当を食べていた。次の講義は大半の生徒が移動するせいでこの部屋は少ししか人数が残らない。私以外のメンバーもみんな移動してしまった。穴の開きそうなほど彼の後頭部を凝視していると、早くも弁当を食べ終わった彼が鞄から何か本を取り出して読み始めた。
「(あ、あれ)」
視力2,0の私は一瞬の表紙すら見逃さない。確かにあれは昨日私があきらめた、二冊のうちのもう一冊だった。彼は本当に中山さんの言うとおり星座が好きなのかもしれない。空になった弁当箱を持ち上げ、席を立つ。彼のわきを通るとき、さりげなさを最大限に出しつつ読んでいる本を盗み見た。間違いなく、そこには星座らしきものが載っていた。教室を出、小走りになってゴミ箱にビニール袋を捨てると、またしてもさりげなさを装って彼の近くへ歩み寄る。幸運にも彼の友達は別の講義へ行ったらしく、後ろの席には誰もいない。ここ最近の勇気を振り絞り、一歩、二歩と近寄る。ぴたりと止まって見てみれば、私でも知っているオリオン座が本の中で光っていた。
「あ、あのっ!」
「…え」
いくら同じ研究室で顔を知っているとはいえ、今まで一度も話したことがない人に話しかけるのは私には難易度が高すぎた。少し上ずった声が恥ずかしい。こちらを怪訝そうに見つめる彼の眼はやはり前髪で隠れてしまっていた。
「その本、星座、好きなの?」
ぶつぶつと途切れた声と、ロボットの様に動き、本を指さす腕を見て、それから私の顔を見た。彼の方も私の顔はわかっていたのか、少し警戒を解いたように前髪を弄った。
「うん、星座、好きだよ」
彼の声もぶつぶつと途切れていたが、低く、やわらかい声だった。揺れる黒髪は中山さんのような柔らかさは無かったものの、真っ黒で綺麗だった。相手は危険でないと知って調子に乗った私は、本の中のオリオン座を指さした。
「これ、私よく見てた、家で」
「へえ」
拙いぶつ切りの言葉に、彼は感心したような声を出す。それがどうしてだかわからずに首をかしげると、彼は悲しそうに俯いた。
「俺、こんなきれいなの見たことないんだ、都会育ちだから」
僅かに興奮したのか、彼が少し早口になる。私が一番知っているオリオン座を彼が見たことがないというのはちょっと不思議な気分だった。星が好きなのに見れなくて、星に対して興味もなかったのに見れてしまっていた。
「隣町が星の町、だったって、知ってる?」
「あ、うん、知ってる」
昨日得たばかりの知識を知っている、と表現するのもなんだかおかしい気もしたけれど、かまわず頷く。すると、彼の口元が皮肉気に歪んだ。
「駅近くが開発されて都市化が進んだせいで、星とは無縁になったんだよ、ここ最近で」
彼の言葉に、駅の周りを反復する。確かにここ最近でできたような真新しいビルばかりだった。最近でも駐車場だったところがマンションになったばかりだった。駅前は緑とは程遠く大きな音楽が絶え間なく流れ続いている。前はどんな姿だったのだろう。私がここに来る前の、星の町はどんな空の色をしていたのだろう。その時は、月は孤独じゃなかったのだろうか。過去に飛びかけていた私の思考は、高いチャイムの音でかき消された。あと五分で講義が始まってしまう。名残惜しいが、仕方ない。彼に何か一声掛けようか迷って、結局、小さくじゃあ、と言って足早に自分の席へ戻る。彼もまた小さく返してくれた。席について準備を終え、斜め前を見れば一、二時限の時よりも見やすくなった後頭部が目に入る。おそらくまだ星座の本を読んでいるのだろう。先ほどのやり取りを思い出して気恥ずかしくなりながらも、手元の星座の本を見てみる。そこには変わらずに間抜けなさそりがキラキラ光っていた。