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瞳に映るプレリュード  2



「姉さん、事件です」

 ヒトミがダッシュで戻った地獄階段こと、“2X+A”の階段。頂上から下を見ているだけで吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われつつ、眼下に広がる惨事にヒトミは先の言葉を零していた。

 不意に風が吹き、髪が流れる。視界を塞ぐように流れた髪を耳にかけても、先ほど事件と述べた現状は変わっていなかった。

 眼下に見えるのは、点々と散った牛乳の跡。そして、階段の一番下にはくっきりと、敷きなおされたばかりの黒いアスファルトに広がる牛乳だまり。

 もし牛乳がトマトジュースであったならば、これは警察が現場を封鎖してしまう程の惨状だと思う。この街始まって以来の殺人事件だ!

 とまあ、そこまで行くかどうかは別にして、大騒ぎになっていたに違いない。

 幸い、今回は牛乳――されど牛乳――落乳、手元に帰らずだ。

 とりあえずヒトミは携帯を取り出し、惨状を激写。データボックスに保存した。そして――

 溜め息。

「新しいの、買いに行かなきゃいけないよね……」

 誰に言う訳でもない。自分に言い聞かせた。この階段を下って、牛乳の後始末をし、コンビニへ行ってまた買う。そして、またこの階段を登る。イヤだけど、仕方ない。そう、手すりに手を添えヒトミは下って行った。

 それでも階段を下る度、あの時魔法少女が助けてくれなかったらと思う。

 もしと例えたトマトジュースが、ヒトミの血であったかもしれない。ちょうど魔法少女に助けられた辺りでヒトミがそういった想像を巡らせると、仮想の牛乳パックがヒトミの体をすり抜けて追い抜き、階段の角にぶつかり跳ね上がった。

 ――と同時、空も、背景も、ブラックアウトし、残った階段と見下ろしたアスファルトの地面が浮かび上がる。

 その中を、コントラストとして浮かび上がった白い牛乳パックが、中身を飛び散らせ落ちて行く。何度か飛び跳ねたあと、それが空中で人型に変わり、ヒトミになった。

 階段に打ちつけられる度、関節があらぬ方向へ曲がり、破れた皮膚から血が飛び散る。それが何度も、何度も――目を覆いたくなる姿になっても転がり続けるヒトミの目が、一瞬、階段を下りながら、自分の行く末を追っていたヒトミの視線と交錯した。

 そして――

 グシャ……。

 位置エネルギーが運動エネルギーに変換され加速、その二乗と体重が掛けあわせられ衝突の衝撃となった。それがいかほどのものかと計算するつもりはない。けれど、アスファルトに広がって行く鮮やかな血だまりの中心に、光を失った瞳で虚空を見上げる糸の切れたマリオネットは、意識を絶たれながらも不気味に笑っているように見えた。

 どうしてこんなに鮮やかな自分の死を見てしまったのだろうか、背筋へ走った寒気よりも先に、歩むべき足の膝が笑った。手すりにすがり、ヒトミは尻もちをつく。

 自分の死体まであと十数段ほど。目を見開き、揺れる瞳がもう離れない。瞬きすら許されない。

 そんな状況がいったいどれほど続いたのだろう。無音の中に脈打つ早鐘の動悸を感じ、周囲の闇がぐにゃりと胎動を見せ始めるまでだっただろうか。

 いや、ヒトミの胃液が瞬間的に込み上げ、喉を焼きかけた時だろう。

 口元に手を添え、涙目になりながらヒトミは、ざわりと頬を撫でる感覚に、目を見開く。

 すると、階段の陰から一匹の真っ白いスマートな犬がぬうと現れ、死体となったヒトミの傍らに――。しばらく眺めて、ふさふさの尻尾を二度振ると、黒い鼻を近づけアスファルトに広がる血を舐め始めた。

 ぴちゃぴちゃ――妙にその音が耳に届く。先程までの耳鳴り含め、全ての音が消えてしまっているかのようだ。そして、口元を赤く染めた犬の青い目がぎろりと、腰を抜かすヒトミに向いた。

 歩み、血だまりに波紋を浮かべる犬の足。トントンと身軽に階段を二段、三段飛ばしで登っていくと、ヒトミの一段下で腰をおろした。そして――

「お初にお目にかかる。私の名はシュバルツ・バルダー。貴殿は名のある魔法少女とお見受けするが、少々魔力が強いようだ。空間剥離が進んでいる。取り急ぎ結界を張るか、展開している魔法を放棄していただきたい」

 丁寧に、落ち着いた抑揚で放たれた言葉。それが白い犬の発した言葉だとヒトミが気付くには若干の時間を要した。

「犬? あたし? 魔法少女?」

 それでも出た言葉は支離滅裂。いや、一応要点は捉えている。それを聞いてシュバルツと名乗った犬は瞑目し、頷いた。

「失礼。まずは気を落ち着けていただきたい。まだ貴殿は魔法少女として覚醒したばかりの様だ。恐怖が魔力を暴走させる。それを理解したうえで、私の言葉に耳を傾けていただけるか」

 すっと心に入り込んでくる言葉――それにヒトミは素早く二度頷くと、大きく息を吸い込み、吐き出した。

「そう。深呼吸。対処法を心得ているようですね。では、なんでもいいです。楽しい事を思い浮かべて下さい。私も補助します。そちらに魔力のベクトルを向けましょう」

 楽しい事、楽しい事、楽しい事――

 目をつむり祈るように思いだそうとする。けれど、楽しい事と言われてもすぐに浮かんでこない。

「落ち着いて、大丈夫。身近な友との語らいでも、家族との思い出でもかまいません。言葉の通り何でもいいのです。さあ、思い浮かべて」

 ショコたん。ショコたん。ショコたん。

「結構。魔力が収束を始めました。これならば私の術式で――」

 そこで、シュバルツの言葉が区切られ「くっ」と短く、苦悶に似た声が漏れた。

 何があったの? 目を開け見ると、シュバルツが牙をむき、階段下を睨んでいる。ヒトミが目を開けた事に気づき、「見ないで!」と犬が叫ぶのが早かったか、それとも犬の見る先をヒトミの視線が辿る方が早かったのか、そのどちらにしろ、ヒトミは見てしまった。

 血だまりに転がっているはずの死体――それがまるで見えない糸に操られているように起き上がり、こちらへ向かう姿。ジャージは破れ、皮膚から骨が突き出し、そのような足では普通、体を支える事も出来ないであろう。それでもマリオネットは体を引きずりながら、支えとして役に立たなくなった首にぶら下がる頭を振り子のように振り、一歩、一歩と近づいて来ていた。

「嘘! 嘘っ! なんで!? なんでっ!?」

 悲鳴とも取れる疑問の嵐。口に出た数倍が脳内をめぐる。

「いけない! 落ち着いて! 大丈夫です。貴殿が展開している魔法を放棄すれば、アレは消えます」

「嫌、イヤ、いやーっ!」

 もうこの少女に言葉は届かない。シュバルツは首を振り、マリオネットに牙をむいた。

「我が言葉は、の言葉。紡がれし魂のまじない――」

 言えば空間に六芒星を描く平面魔法陣――周囲にルーン文字を含むそれが、マリオネットとヒトミたちの間に盾の如く立ち塞がる。けれどそれが目的ではない。更に紡がれる言霊。

「届くのならば聞き入れよ。聞けぬのならば消滅を持って――」

 魔法陣を描く文字が激しく輝く。それでもなお、マリオネットは階段を目指す。ギギギと頭を上げ、虚ろな目がヒトミを見上げた。それをシュバルツは見据えて、声を吐き出した。

「裁きとする」

 告げた言葉。そして仕上げの術式発動トリガー――しかし――

「来ないで、バケモノ!!」

 想像以上に膨れ上がったヒトミの感情が、目に見える赤い光の奔流となって体から溢れ出す。それが魔法陣に吸い込まれ、ルーンが赤く染まった。そして、シュバルツの組み上げた術式とは別に五つ――魔法陣が展開される。

「ば、バカな……。まだ魔力の暴走は始まっていなかったと言いたいのか」

 驚愕しながらもシュバルツは全ての魔法陣に目を通す。魔力の流れと制御を示すルーンが滅茶苦茶だ。これならば魔力を消費するだけで、発動はしない。

 そう認めた時だ、発動しないと思った魔法陣がシュバルツの描いた魔法陣に重なり、ルーンを吸収、肥大する。

「術式を……、奪い取った……、と」

 不完全だったルーンが、補完された。どうしてそんな事が、と少女の表情を見れば、涙を湛え見開かれた目には、恐怖を纏った憎悪が見て取れる。

 ここからが本当の暴走。

 系統は自分が描いたものと同じなれど威力は計り知れないだろう。最悪を考えたくはないが、これでは自分たちを巻き添えにして空間ごと吹き飛ぶ。

 せめてもの救いは術式の発動にはまだ至っていない事。しかし――

 魔法陣を発動させるトリガーが、ヒトミの言葉によって引き絞られる。

「消えろって、言ってるでしょ!」

 絶叫として放出された思いが魔法陣にあたる。呼応した魔法陣が輝くと、眼前の空間が一度収縮し、中空に小さな紅色べにいろの球を生んだ。

「いけないっ!」

 咄嗟にシュバルツは叫び、ヒトミを庇うように飛びかかる。瞬間、紅色の球が眩しい閃光を生み、世界を赤色に染めた。



       ☆



 デーン、デーン、デーデデデー、デデデー。

 ヒトミの枕元で暗黒面へと墜ちた勇者のテーマソングが流れ出す。それに合わせて、携帯のイルミネーションがチカチカと輝き、ブルブルとその体を揺らした。

 はっ、と目が覚める。

 そして被っていたシーツを振り払い、ヒトミが携帯電話を手に取ると、着信は沈黙。代わりに、不機嫌そうな声が飛んできた。

「やっと起きた?」

 声の主は見るまでもない。それほどヒトミにとって特別な声だ。

「お、お姉ちゃん?」

 ぎこちなく回す首がギギギと、音を立てているかのようにヒトミが声のした方を見ると、そこには腕組みし、仁王立ちで見下す姉の姿があった。さすがに姉妹と言うだけあって、ヒトミとよく似ている。ただ、髪の色がブラウンで背も高く、体のラインがはっきりわかる細身のジーンズとロングTシャツを着こなした姿はモデルのようだ。

 そんな姉が、パタンと手に持った携帯を閉じ、大きく息を吐きだすと、腕を解き、腰に当てた。

「ドジね、あんたも」

「え?」

 と、目を丸くしたヒトミに、姉は溜め息をついた。

「まったく、コンビニ帰りに地獄階段から転げ落ちといて、よくのんきな顔してるわ。救急車や警察とか群がってさ、野次馬たちが前代未聞の大事件だって、大騒ぎだったんだから」

 大事件? と疑問符が飛ぶ。けれど、記憶の断片を辿ってつなぎ合わせれば、それ以上の事があったように思う。それよりなにより、今、自分がいる場所について、よくわからなかった。

 何があったかと説明する姉の言葉を気持ち半分で聞きながら見回した景色は、実にシンプルな物だった。外から入る光で、淡い緑色に見えるカーテンに仕切られた小さなスペース。人ひとり分の空間に備えられたヒトミの乗るベッドと、昼過ぎの時刻を知らせる置時計が乗る小さな棚。枕元に見つけたコードから繋がる押しボタンは、ナースコールだろう。ならば、つまり、ここは病室。そこでこの姉は、携帯電話を鳴らしたっていうのか。何と常識のない。

「ま、怪我もないようだし、今はゆっくり休むことね」

 そう言った姉に、ヒトミは思い出したかのように顔を向けた。

「お姉ちゃん。あたし、ホントに地獄階段から落ちた……の?」

「ん? 覚えてない? もしかして頭とか打った?」

 眉を上げた姉は、再度の明言をしなかった。けれど、そうなのだろう。思いだそうとすれば――ザザっと記憶にノイズが走る――頭の奥で何かが痛んだ。

 確か、お姉ちゃんにお使いを無理矢理頼まれ、牛乳を買いに行った。そして、地獄階段を登り始めた所までは覚えている。けれどそこから、記憶があいまいだった。親友であるショウコの家にいた気もするし、地獄階段の下に転がる牛乳パックを見下ろしたような気もする。それに、白い犬――でも、何か悪い夢を見ていたように、思いだそうとすればするほどノイズが強く、わからなくなってしまう。それは――まるで、何者かによって記憶が封印されてしまっているかのようだった。

 夢――だったんだろうか……。

「ホントに大丈夫?」

 ぬうとヒトミの視界を覗き込む姉。それにヒトミは二度瞬いた。

「いや、わかんないけど、たぶん、大丈夫」

 焦点が定まらず考え込むヒトミ。ちょこんとベッドに座る妹を見て、姉は首を微かに傾げるが、大丈夫だろうと、自分たちの周囲を囲んでいたカーテンに手を伸ばす。

「そう。けど、一応このあとに精密検査もあるから、ここでじっとしてなさい。わたしは少しやる事があるから離れるけど、すぐに戻って来るから」

 言って、姉はカーテンの外に。薄い緑のカーテンへ映った影が離れて行く。

 ひとり残されると、話す相手がいなくなって、静かだった。部屋のつくりからして相部屋なのだけれど、他に誰もいないのかもしれない。その空間で、今の状況を再確認した。

 時計を見れば、どうやら一日も経っていない。姉に買い物を頼まれたのが午前十時ころだったのだから、今に至るまで三時間くらいだろう。けれど、不思議とお腹は空いていなかった。

 姉が言うには牛乳を買いに行った帰り道、地獄階段から落ちたという事らしいが、体は五体満足でどこも痛くない。それどころか、着ているジャージに汚れすらなかった。

 本当に、そうなんだろうか?

 だとすれば、ショウコの家に行った記憶は間違いと言う事になる。夢だと言う事になってしまう。けれど夢だとしても、思い出されるショウコとの記憶は意外と鮮明だった。

 ふと、手に持つ携帯に目をやる。

「あ、聞けばいいじゃん」

 と、リダイヤルからショウコを選び出した所で、発信ボタンに伸ばした指を止めた。

 さすがに病室で電話をするのはマナー違反だ。例え他に誰もいなくて、誰彼に迷惑をかける訳じゃないと言っても、さすがに気が退ける。

 そっとカーテンに手を駆け、ずらし、外を伺うと布団も敷かれていないベッドが五つ見えた。カーテンも束ねられ、他に患者はいないようだ。いや、それよりも姉の見張りはないようだった。

 検査って言っても、すぐじゃないよね。

 と、緑のスリッパに足を入れ、スニーキングミッションさながらの動きで、病室入り口ドアへ手をかけ、静かにスライドさせる。

 当り前だが、ドアの隙間から見えた向こう側は廊下だった。白い壁に整然と並ぶ同様の病室へ続くドアたち。首だけ出して左右を見れば、行き交う看護師の姿もない。この時間帯であれば昼食を下げるワゴンがあったり、看護師さんが動いていてもいいはずなのに、誰もいなかった。

 けれど、それが好都合。そそくさと廊下に出たヒトミは、きょろきょろと案内板を探し、通話が可能なスポット――談話ルームを見つけ、そこへ向かう事にした。

 ぺったんぺったんとスリッパの音が不気味なくらい廊下に響く。

 明るい分、怖さはないけれど、異様な空間のように感じられ、無意識ながらヒトミの歩くスピードが速くなる。病棟の中心にあったナースステーションには目もくれず、談話ルームとプレートが掲げられた部屋に飛び込んだ。

 そこは十畳くらいの部屋だった。壁は廊下と同じように白く、青い空が映る大きなはめ殺しの窓が明るさを強調していて、コントラストとしての影を落とす自動販売機に流し台。それとテーブルと椅子がいくつか。部屋の隅には、組まれた金属ラックの上に乗る液晶テレビもあった――けれどここにも誰もいない。

 そんな室内を通り抜け窓際に立つと、携帯電話を取り出し、ショウコの電話をコールした。

 二回、三回と鳴るコール音を聞きながら、ヒトミは窓の外を見る。

 どうやら、この病院はかなり高い所にあるようだ。見晴らしがすごくいい。市内で比べるならば、桜ケ丘と同じくらいだろう。と、眺めてみれば、遠くに桜ケ丘が見えた。ここからでは縦線にしか見えない地獄階段もある。この景色が見えるとすれば――ヒトミの記憶が確かなら、低い建物ばかりの市内で該当する病院はひとつ。

「って事は、ここはマスターグレード?」

 と、ヒトミはひとり零す。

 マスターグレードと言うのは通称で、正式な呼び名は《MG総合病院》。正式と言いながらMGと略称が使われている不思議な病院だ。マスターグレードと呼ばれるきっかけとなったのは“最高の品質をあなたに”の謳い文句で有名な大元であるMGグループが原因。同グループの傘下にある物全てがそう呼ばれているだけに、証券会社でも、銀行でも、総合病院であっても、マスターグレードは、マスターグレードなのだ。したがって、ガンダムのプラモデルとは一切関係ない。

 MGグループについて更に書くと、ヨーロッパを中心とした多種多様の業種に裾を広げる世界的なインダストリアルで、ヒトミの使う携帯電話もマスターグレードの傘下会社だった。

 しかしそのマスターグレードな携帯電話であっても、相手が出なければコールを繰り返すだけ。

 もう数十回はコールしているのに、ショウコにはつながらない。もう少し粘ってみようかと思うが、姉の言葉が過り、ヒトミは諦め携帯電話をしまった。

 談話ルームから廊下に出る。けれどやはり、人影はなかった。ヒトミは、ナースステーションを見つけ、そちらに向かってみる。

 病室が並ぶ廊下の丁字路――そこは左右対称になっている病棟の中心にあって、エレベーターや非常階段、トイレの集まった場所。その一角がナースステーションだった。

 見つけたナースステーションのカウンターに手をついたヒトミが中を覗きこむと、医療器具の並ぶ棚や、書類やカルテが置かれた机などが目に入る。一度、盲腸で入院した友人のお見舞いにとマスターグレードに来た時は、ここに看護師が何人も詰めていた気がするのだが、今はがらんとしていて、人の気配が感じられない。

 さすがにヒトミもおかしいと思う。

 これだけの病室を抱えていて、ここに誰もいないなんて、病院としてはあるまじき怠慢だ。最高の品質を謳うマスターグレードならなおさらだろう。

「あのー、誰かいませんかぁー」

 声を出してみる。けれど、返答はない。

「あのー! 誰かぁ!」

 今度は怒鳴ってみた。すると、奥の方でゴソっと音がする。

 誰かいる。

 カウンターに身を乗り出し、更に奥を覗き込めば、看護師たちの休憩所へ続く扉が開いているのが見えた。その奥で、ピンク色のナース服に身を包んだ看護師が、机に突っ伏して寝ている。そんな看護師が何人いるのかはわからないが、ヒトミの見る限り三人はいた。

「居眠り? って、職務怠慢じゃない?」

 嫌味っぽく奥へ聞こえるように言ってみるけれど、突っ伏した看護師からは、反応も、返答もなかった。

 それからしばらくじっと眺めてみた。けれど、何も変わらない。誰ひとりとしてヒトミの対応をしようとしなかった。

「なんぞこれ、マスターグレードって嘘つきじゃん」

 いい加減諦めた。ヒトミはぷいっと頬を膨らませ、自分の病室に戻る事にした。

 ぺたぺたと廊下を進む。ふと、他の病室の入院患者を示すプレートに目を向けていけば、全て空白。ずらっと部屋が並んでいても、誰も入院していないようだ。やがて、自分の名前だけが掲げられた部屋の前まで戻って来ると、ヒトミは眉を寄せる。ここは何かおかしいと思いつつも、扉に手をかけ、静かに開けた。

 出た時と何も変わらない病室で、ヒトミはベッドに腰掛けた。しかし、やる事もない。ぼんやりと天井を眺め、足をぶらぶらと振った。テレビもなければ携帯電話も使えない。ゲームもないし、書籍もなかった。

 退屈。

 と感じる沈黙の中、ヒトミは姉の言いつけどおり、しばらく検査が始まるのを待ってみた。けれど、一向に始まらないし、そんな気配も感じない。時計を見れば姉が出て行ってから、かれこれ一時間が経っている。

 姉も戻らない。先生も来ない。看護師たちは寝ている。自分の他に誰も入院していない病室。静寂ばかりで、何も進まない空間――これはどこかで――走るノイズ――高鳴り始めた鼓動。異様な雰囲気を持った場所にいるのが、なんだか少し、怖くなってきた。

 静けさは時に、耳鳴りのような沈黙を生む。痛みさえ感じてしまうような静寂の中、ヒトミは「うん」と思いたち、スリッパではなく、スニーカーをはいた。



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