ガラスの向こうのエンドレスワルツ 5
少女は、暗闇の中を走っていた。
どこへと続く道かなどわからない。そもそもここが道であるかなど、誰にも見えない。前に進んでいるのか、それすら怪しい。
けれど、背後から迫る声に追い付かれたくはなかった。
「あの子って、裏切り者らしいよ」
「そうそう。真面目な顔して、自分のために親友を平気で裏切ったんだって」
「渡してあげるって言ったラブレターを、くしゃくしゃに丸めて捨てたって」
「なにそれ、許せないよね」
「最低」
「裏切られた子、可哀そう」
「だから、みんなで仕返ししてるの」
「これは、あの子のための罰だから」
「絶対、口きいちゃダメだからね」
――どうして? どうしてわたしばかり――
「あなた少し、過敏になってるんじゃないかしら?」
「クラスの雰囲気も悪くは見えないわ」
「他の先生も、勘違いだろうって」
「もしかしたら、あなたに原因があるんじゃないの?」
――こんな目に合わなくちゃいけないの?
「溝奥くん、他に好きな子がいるから、ゴメンって」
「そう……」
「あ、でも、ラブレター貰って凄く喜んでたよ」
「それって、嘘、だよね?」
「え?」
「渡してないんでしょ? くしゃくしゃに丸めて、捨ててあったの、京子ちゃんが持ってきてくれた」
「そ、それは……」
「渡したんだったら、さ。なんで、ここにあるんだろう?」
「違うの、それは――」
「わたし、信じてたのに……。みんなが言ってる事は嘘だって、信じてたのにっ!」
――やめてっ! もう、やめてーっ!
あっ。と、足がもつれた。ふわりとした無重力を刹那に、少女は勢い良く倒れ伏す。
立ち上がろうと顔を上げれば、ひとりの少女が立っていた。
掻きあげればなびく、茶色くウェーブのかかった髪。そして、少女を見下すような冷笑。
「ふふっ。いつ思い出しても辛いでしょ? 友達の為をと思って隠した真実。なにも知らないまわりはあなたを裏切り者と罵り、存在そのものを悪だと決めつけた。イヤな事件よね。誰も悪くはないのに――。でも、あなたはそれを甘んじて受け、口を噤み、あの場所を去った。けれど――例え、新しい土地に身を置いても、新しい学校に通っても、乗り越えたつもりになっても、ずっと、あなたの心は覚えている。そして望んでいるのよ、あの時に選ばなかった選択肢に対する贖罪を――そう、あなたが背負った十字架は、偽善」
言葉が返せない。
そんな少女を見下す瞳が赤く煌めく。
「でも、もしあなたが望むなら、私が救いを与えてもいい」
「救い……?」
「そう。私とあなたで過去を変えるの」
「そんな事、できるわけ……」
「できるのよ。魔法が使えればね」
「魔法、わたしが……」
「どうかしら? やり方は簡単よ。ただ、私の手を取って、全てを委ねればいいだけ……」
すっと眼前に差し出される掌。
「それだけで、あなたは救われるわ。もう、過去に怯える事なんてない。完璧な存在へと生まれ変わるの」
☆
ヴィクターの術式が生み出した光を通り抜け、ヒトミが空間を跳躍した先の世界はまるで、神様が“世界”という“空間”を創り忘れてしまったように、臭いも、音も、光も、上も下も存在しない真っ暗闇だった。
沈み込んで行くようで、浮かび上がるような感覚――ヒトミを襲うこの浮遊感は、夢へと落ちるあの瞬間に似ていた。
ただここは、自宅のベッドなどではなく、ヴィクターが戦場と言い切った、“世界”であるはずだ。
思わずとも、身構えたヒトミの感覚は研ぎ澄まされていった。
けれど、ヒトミが目を凝らせば凝らすほど――闇は余計に濃く、深く。そして、淡く見え、しかしそれでも、光源のない視界は“黒”というカテゴリに呑まれていった。
見えないのだ。なにも……。
指先や、足先、自身の体がここにはある。しかし、それ以外の情報が、なかった。
たまらずヒトミの不安が口をつく。
「ねぇ、ヴィクター。いるよね?」声と共に接触を求めた指先が、こつんと、自分ではないなにかに触る。反射的に身をすぼめ、自身の鼓動が届く胸元に添えた。「近くに……」
「当り前ェだ。今オメェが触っただろ?」
カチカチと、金属同士が当たる音の混じったヴィクターの声を頼りに、ヒトミがもう一度手を伸ばすと、暗闇にルーンがぼやりと浮かび、僅かなともしびを生んだ。
どうやら、ヴィクターの中に綴られていた術式が、ヒトミの魔力に反応したのだろう。
この空間を照らすには蝋燭に劣る火であっても、ひとまず、ヒトミから安堵の息を零させるには十分だ。
「ここって……、なに? なんだかすごくイヤな感じがするんだけど」
「わかんねェ」
と端的に切ったヴィクターだったが、カチリと口を鳴らした。
「が、大方の予想はつく――たぶん、アレだ。固有結界の一種だろう」
「固有結界?」
「ああ……」と零したヴィクターは、自らページをめくる。「空間剥離の延長、みてェなもんさ」
聞きながらも、呑み込めないと口を曲げたヒトミの顔を、ページの影が流れ――とまった。
「まあ、難しく考えねェこった。この世界がどんなもんだろうが、本質を知ってんのは、作った本人だけだろうしな……。だからよ、こっちはこっちのやり方でやるだけさ」
そうヴィクターが言うと、見開きのページに収まるような小ささの魔法陣が描かれ、その中心に、青白い人魂がメラッと揺らめいた。
顔を近づけても熱くない火。
しかし、魔法のかがり火を得てもなお、世界の全容は見えてこない。それほど広い空間なのだろう。
が――
「まずは、この空間をぶち壊す」
「どうやって?」
「おいおい……。オメェは今、“何者”だ?」
空間の迷宮をウンスン抜きで貫いたあの魔法なら、この空間を砕けるはずだ。
「あ、魔法!?――リジェクションで」
と、ヒトミが右手を闇に突き出した。
けれど……。
頭を振ったヒトミ。すっと、ヒトミの腕が下がる。
「できないよヴィクター。もしかしたらここにショコたんが居るかもしれない……。もしかしたら、あたしの魔法が、ショコたんに当たっちゃうかも……」
その可能性は低いだろう。と、口から出そうになるのをヴィクターは呑み込み――
「その可能性はゼロじゃねェな……」
言い換え、カチリ、口を閉じた。
途端――
闇の中に真っ赤な点が煌めいて見えた。
星? そうヒトミの思考が向いた脇で、ヴィクターが激しくページをめくった。
「構えろヒトミっ! 魔法が来る!」
「え?」
と零れた時にはもう、先程までは小さかった赤い点が、人ひとりを軽く呑み込むほどの大きさになって、熱と不気味な唸りを伴いながら、眼前へと迫っていた。
紅蓮に燃え上がる視界。
そこへ咄嗟に右手を突き出す。それに合わせ、ヴィクターが吼えた。
「通さねェっ!」
展開される防御魔法壁。それが火線と呼ぶには大きすぎる砲撃を阻む。
が、足の踏ん張りが利かない。押し留まれない防御障壁ごと、ヒトミは快速電車で撥ね飛ばされるように闇を舞った。
「きゃあっ!」
「クッ」
回る視界を制御し、状況を睨み据えるヴィクター。咄嗟に魔法障壁の角度を変えたおかげで、眼下を貫く赤く燃える彗星に呑まれずに済んだ。いまだ健在の魔法障壁を見れば、防げない魔法ではなかったのかもしれないが、こんな状況で呑まれていたなら――どうなっていた事か。いや、このままだろうが同じだ。
世界の端がありゃ御の字なんだが……。わからない事を期待するより――
思考と並行し、ヴィクターはページをめくる。
「ヒトミ、目ェ見開け! 第二波が来る前に体制を立て直すぞ!」
「けぇー、どぉー」
未だぐるぐると目を回すヒトミから、情けない声が返ってきた。
「バカヤロウ! このままじゃ相手のいい的だ! 一方的にやられたいのかっ!?」
「でもぉー、体が上手く動かないよぉー。止まらないー」
確かにヒトミの言う通り、この世界は無重力の宇宙と似た性質を持っていて、姿勢を保つ事は難しい。が、ヴィクター自身は、姿勢を制御できている。これは研修時代に培った技能だが、魔法以前の技術であって、そう難しいものじゃない。一度経験してしまえば、意識する事もない簡単な事だ。
「弱音を吐くんじゃねェ! 意識を保て、自分を保て! ここは――この空間は、そういうとこだ! 空間に体を繋ぎとめようとするんじゃねェ、自分の世界で、空間を捉えろ!」
「そんな事言われてもぉー」
ヒトミが泣きそうになった時、相手の第二波が唸り声を上げた。
「クソったれっ!」
迫る炎。それを認めたヴィクターは瞬時に赤い彗星へ魔法障壁を向ける。
せめて直撃は避けなければ――出来る限り浅く、受け流すように角度をつけ、彗星に弾かれながらも、ダメージは貰わない。
いや、直接のダメージはなくとも障壁は確実に疲弊している。あと何度耐えられるのか――それを見立てた所で、結果は同じ。なら結論も変わらない。どれだけ強力な射撃魔法がいくら続こうとも――相手の攻撃が続く限り耐えきってみせる。
それが、自身の盟約だ。
「怯えるなヒトミ! 怖がらなくていい! 信じろ俺を。約束しただろ、俺は絶対にオメェは守る。だから落ち着いてイメージしろ――」
ヴィクターの言葉で、パニックになりかけていた頭が不思議と晴れた。
ヒトミは頷き、目を閉じる。瞼の裏には先ほどと同じような暗闇があった。そこへ、ヴィクターの諭すような抑揚の声が、流れ込む。
「なあヒトミ。オメェの意思はなんだ? オメェの目的はなんだ? それはこうやって世界に振り回される事じゃねェ筈だろ」
そこでもう一度、体が大きく弾かれたように感じた。第三波が来たのかもしれない。だがヴィクターは、そんな事など口にせずに続けた。
「いいか? 誰が何と言おうと、オメェは、オメェの物語で主人公なんだ。回る世界の中心は、オメェ自身だ。振り回されるんじゃねェ、自身を貫け――助けるんだろ? 友達を!?」
ショコたん――!
カッとヒトミが見開けば、先程まで縦横無尽に回っていた体が止まった。いや、それだけでなく、ヒトミを中心に光があふれ、世界の闇を浸食していく。
そして世界は――
真っ白に塗り替えられた。
空間そのものが発光しているのか、いやそれとも、影を光が喰らっているのか――そのどちらにしろ、上下左右どこ見ても、影すら落ちない完全なる白の空間が、ヒトミを中心に大地を形成し、重力をもたらす。
それに引かれて、ふわり着地し、グリーブの裏からでもわかる感覚に、一度ヒトミは爪先で大地を叩く。
と――
ヒトミとヴィクターの声が同時に零れた。
「これは……」
ヒトミは現状の解説を求め、ヴィクターは結果に驚愕していた。
すれ違った一瞬の沈黙。
それを破ったのは、身構えたヒトミだった。
「ねぇヴィクター。敵、見える?」
目を凝らすヒトミの横顔。それに一瞥を向けたヴィクターは、ぐるりヒトミを周回するように飛び、元の位置で止まった。
「ああ……、敵は一匹。オメェの見てるこの先真っ直ぐ――どうやら奴さん、状況が理解できてねェな」
ページがめくられる音に混じり、ヴィクターが続ける。
「しかしまあ、オメェには何度も驚かされんぜ……」
「え?」目もくべず、ヒトミが聞いた。
「この世界そのものをオメェは乗っ取ったんだ。こんな事、才能の一言で片付けるにゃ、お釣りがくる荒技だぜ」
「褒めてくれてるの?」
「それ以外に、なにがあんだよ」
聞いてヒトミの頬がふっと緩んだ。
「じゃあ、ここからだよね。あたしたちの反撃は」
「だな……、でかいの一発ぶちかましてやれ!」
すっと真っ直ぐ、ヒトミの腕が伸びる。
「我が言葉は彼の言葉。紡がれし魂の呪い――」
見据えた先に狙いを澄ました六芒星魔法陣が空間に浮かぶ。
「届くのならば聞き入れよ――」
反動に備え、ジリと腰を落とした。
「聞けぬのならば消滅を持って――裁きとする」
あとは、敵に向けトリガーを引くだけ!
が、不意に地面が縦に揺れ、地鳴りが真下から迫って来る――
「きゃっ、なにこれ!?」
「ヒトミ、下だ! 飛び退けっ!」
ヴィクターの警告。それへヒトミが反応する前に、大地が破裂した。
先程まで床だった大小様々な瓦礫が、ヒトミを乗せたまま弾け、中空に舞う。
未だ質量のある足場を蹴り、体を捻って退く中で、ヒトミは飛散する瓦礫の隙間から天を穿つように突き上げる黒柱を見た。
いや、かなりの間合いを取って着地し見直せば、柱に見えたのは黒曜石で出来たような十字架だった。
白い世界を突き破ってきた黒い十字架――その異様なコントラストに、声が奪われる。
瓦礫を敷石に、エメラルドに輝く宝玉を中心に湛えた(十八メートルはあろうかと言う)巨大な十字架を舐めるように見上げていけば、その腕に舞い降りる黒髪の少女。
茶色のローファーに、チェックのスカート。鈴蘭女学園の制服に身を包み、長い黒髪をなびかせるその少女は――
「ショコたん!」
喜びに涙を浮かべ、駆け寄ろうとヒトミが動く。
それを冷笑交じりに見下ろすショウコ。
それがどこか引っかかる。雰囲気がおかしい。そうヴィクターの本能が告げた。
「待て、ヒトミ」
だが、ヒトミは聞かない。足は、止まらない。
そんなヒトミへショウコはすっと掌を向け、真っ赤に燃えるような赤い双眸を細くした。
すると中空に描かれる五芒星の魔法陣――それが、ヒトミを狙い――輝きを増す。
「ヒトミ! 狙われてんぞっ!」
「え?」
ショウコを見上げ、呆けて、ようやく状況が見えた。
が、それではもう遅い。体は、言う事を聞かない。
見開いた目が、魔法陣越しにショウコの唇が動くのを緩やかに見た。
「《フレア・ランス》……」
呟くように引き絞られたショウコのトリガーに呼応し、魔法陣が魔法を具現化する。
それは――
これは――
暗闇の中で襲い来た。赤い彗星――
「踏ん張れヒトミ。弾き飛ばされんぞ!」
叫びに似た声と共に、ヴィクターがすかさず魔法障壁を展開。
だが、ヒトミは動けなかった。
それでも、とヴィクターが魔力を練り込み、障壁の強度を最大限に上げた。
そこへ――いや、その脇――ヒトミの肩をかすめるように抜けた赤い彗星は、熱波を残し、白い大地をえぐり、はるか後方で、爆炎を噴きあがらせた。
轟音が、ヒトミの髪を揺らす。
抉られた大地は黒く影を落とし、闇を溶かした泥沼が、そこから滾々と湧きあがってきていた。
「ショコ……、たん?」
すがるように見上げるヒトミ。しかしそれを、ショウコは冷徹に笑う。
「やっぱり来たわね、ヒトミ――」ショウコの顎が上がり、吹き下ろした声は、冷え切った冬の風のようだ。「まったくあなたは、どこまでわたしの邪魔をすれば気が済むのかしら?」
「え? 邪魔って……。あたし、ショコたんを助けに来たんだよっ」
「それが邪魔だっていうの」と、ショウコは両手を広げて見せた。「どう見たら、わたしに助けが必要なのかしら?」
「で、でも……」災悪の魔法陣にショウコが呑まれて行った時の表情は――「怖い思いとかしてるんじゃないかって」
「そう。それは残念。わたしはこの通り、何も怖いものなんてなくなったの」
「それってどうゆう……」意味なの?
とヒトミの喉が震える前に、ヴィクターが口を挟む。
「気をつけろヒトミ。こいつはもう、災悪に取り込まれてやがる」
「え?」
と小さく零れ出た言葉を見下ろし、ショウコは「ふーん」と鼻を鳴らした。
「取り込まれた――か、ずいぶんな言い方するわね野良犬」
「違ェのかよ?」災悪に魅入られた人間には普通、面毒犀の時のように災悪が寄り添うはずだ。が、今のショウコに寄り添う災悪はいない。いや、見えない――それは、彼女の中に災悪が入り込んでしまっていると言う事だろう。深紅に輝く双眸が、その証拠だ。「――違わねェだろ」
断定を含む疑問。それをショウコは高笑った。
「いいえ、違うわ。“わたし”が“取り込んだ”のよ」
「オメェ……、自分で言ってる意味、わかってんのか?」
ギリとヴィクターの口が歪む。
それをショウコは鼻で笑うと、すいと顎を上げた。
「全てを自由にできる魔法が使えるようになっただけ……。現在過去未来――それら全てがわたしの思うがままになった。ただ、それだけの事……」
そこまで言ったショウコの目が、ヒトミを見下す。
「あなたは中途半端な魔法少女。けれどわたしは、全知全能の神を取り込み、本当の魔法使いになったのよ」
「くっ……」
ヴィクターが言葉に詰まる。
そこへヒトミが口を挟んだ。
「ショコたん……、なに言ってるの? なに言ってるのかわからないよ……。ショコたんは、ショコたんだよね?」
「ホント、相変わらず理解力が乏しいわね、あなたは……。ホント、わたしが居なければ、なにもできないんじゃないの?」
「そうだよ。ショコたんが側にいてくれるから、できるかもしれないって思うし、あたしは頑張れるの。だから、帰ろうよ。こんな薄気味の悪いところ、ショコたん嫌いでしょ?」
すっと差し伸ばす腕。ここから届かないのは目に見てわかる。けれど、届いて欲しい。そう指が言っている。
それを見てか、ショウコの手がヒトミへと伸ばされ――
「ヒトミ……」五芒星の魔法陣が展開される。術式を読み取れば赤い彗星――《フレア・ランス》。「いい加減、気付きなさいよ」
「え……?」
「わたしはもう、あなたの敵だって事に」
それがトリガーだった。ショウコの魔法陣から赤い彗星が放たれる。
「動けヒトミっ!」
ヴィクターの警告。それに今度は体が動いた。かわせるかどうかはわからないが、とりあえず、後方へ思い切り跳んだ。
しかし――いや、やはりか――それでも、彗星の範囲内。
「やらせねェ!」
ヴィクターが障壁を展開。彗星の天井にひっかけられるように弾かれ、ヒトミはぐるりと宙を舞う。
だが、それで終わるわけもない。
第二射、第三射と、落ち際を狙って迫る彗星の上を、魔法障壁をサーフボードがわりにして滑るように、いなす。
さらに繰り出された第四射の脇を使い、大きくショウコから距離を取った。
そして、正面から迫る第五射を、障壁で捌き、逸らす。
「やれば、できんじゃ、ねェか……」
息も絶え絶えになったヴィクターの声が聞こえた後、魔法障壁が音を立てて砕け散り、背後で彗星の爆音が響いた。
とりあえずの危機は回避した。が、ヒトミの表情は、内臓を抉られているかのように歪み、額には脂汗が浮かんでいる。
「どうしたヒトミ? なにか喰らったか?」
ヴィクターがそう目を向けても、式服が綻んでいる痕はなかった。
どうやら魔法攻撃ではないようだが――
「大丈夫か?」
「うん……、大丈夫――ちょっと、“色々”信じられなくって……」
「だろうな……」とヴィクターは、ずいぶんと遠くなった十字架を見据えた。「なんとなくだが、そんな気がした」
「ごめん」
「謝るこたねェ。それよか――動けるな?」
「うん」とヒトミが視線を上げる。その先には十字架。「けど、どうすればショコたんを助けられるの? 取り込まれちゃっても、助かるんだよね?」
「ああ、前例もある。大丈夫だ。が――」と言葉が濁った。
「が?」
ヒトミの不安が魔力に乗った。
「あの嬢ちゃん次第だな」
とヴィクターが言った途端、赤い彗星が迫った。
それをヒトミは見据え、側方へ転がり避ける。
そしてすかさず立ち上がり、走り出す。
「ショコたん次第?」
「そうだ。例え災悪に取り込まれちまってても、心の奥には言葉が届く――言霊って聞いたことあんだろ?」
迫る彗星を跳び越えながら、ヒトミは頷く。
「うん」
「魔法も似たような原理を使ってんだ、が。今回は、言葉に魔力を乗せ、内部から災悪を焼く。つまりは、よくあるパターンってやつだ。呼びかけて、呼びかけて、自我を取り戻させる。そして、災悪が堪え切れず分離した所を――」
彗星を障壁でいなし、逸らし、弾く――反動で跳ねあげられた体を中空で捻り、十字架の上に立つショウコを――いや、その中に巣食う災悪を――睨みつけた。
「倒す!」
「ああそうだ。お決まりにはお決まりだ。そう言うもんだろ、最後に絆と勇気が勝つストーリーってのは?」
「異議なしっ!」
希望を瞼の向こうに描き、ヒトミは宙を舞う。そう、それは文字通りに宙を“舞っていた”。
蛇のようにうねり来る彗星を、障壁ごと踏みつけるようにグリーブで蹴り、足場にして、跳ぶ。それも縦横無尽に迫り来る彗星の尾すら利用し、間をすり抜け、潜り――時には、天地を無視して、ショウコに迫る。
近づけば相手の手数も増えてくる。それでも臆せず、障壁を駆使し、弾き、弾かれながらでも、ヒトミは十字架の上空を、くるりトンボを切りながら、舞った。
そして――
「ショコたんっ! あたしの声を聞いてっ! 目を覚ましてっ!」
言葉を打ち下ろす。
しかしその声を打ち返すようにショウコは彗星を放つ。
「ちょろちょろと五月蠅いってのが、わかんないかなっ!」
視界が炎で埋まった。この位置だとクリーンヒットは免れない。ならばっ――ヴィクターが吼えた。
「全力だあああぁーーー!」
ヒトミを守る障壁が楔を描いた。
いなすのでも、捌くのでもない――まして、受け止めはしない。力を穿ち、切り裂く。
そして、炎を突き抜け、魔法陣を割る。
驚愕に目を見開いたショウコが、無防備にたじろぎを見せた。
それは僅かな時間だったのだろう。しかし、ヒトミはその隙を逃さない。
落下に身を預けながら、ショウコの両肩を掴むと、そのまま十字架の腕に押し倒し――
「もうやめてよショコたん!」跨り、ショウコの双眸を見下ろす。「聞こえてる? あたしの声、届いてる?」
身じろぐショウコ。ぐっと押さえつけた両肩が浮き上がりそうになる。しかしそれを、必死にヒトミが、押しこんだ。
「聞こえてるなら、思い出してっ。本当のショコたんを、取り戻してよ!」
苦悶に歪むショウコの顔。赤い目が――歪んだ口が、ヒトミを押し返す。
「あんたに何がわかるっての? 本当のわたしって何よ? 何も知らないくせに、トモダチ気取ってんじゃないわよ!」
「気取ってるんじゃないよ。親友でしょ!」
「勘違いしないで、わたしはそう思ってない。思った事もない」
一瞬ヒトミの喉が詰まった。が、続く。
「ずっと一緒に居たじゃない。一緒に笑ったじゃない――ショコたんが笑いかけてくれたから、あたしは笑えるんだよ」
「それはわたしの汚点――まさか、ここまで懐かれるだなんて、思ってもみなかった! いつもべたべたくっついて来て、“うざったらしかった”ったら、仕方がなかった!」
「嘘よ!」
「どうしてその結論に至るかってのも、ウザい!」
今度は、声も出なかった。
そこにショウコは言葉を続ける。
「有難迷惑って言葉、知ってるよね? あんたのは正にそれ。ホント、なんでもかんでも他人の世界へ土足で入り込んで、ひっかきまわそうとする。なのに、自分は善意でやってますよって顔が、当事者にとってこの上なくうざったらしいってのに気が付かない? 委員長へのイジメにしたってそう――本人がほっといて欲しいって言ってるのに、無理矢理わたしを巻きこんで、どういうつもりで、どうしたかったってわけ? 下手をすれば、クラス内の空気がもっと悪くなったかもしれないってのに――自分がなにかの主人公にでもなったつもりでいたの? 作者の都合で全てが上手くいくとか、幻想抱いてたりした?」
ドンと頭をハンマーで殴られたような感覚に襲われ、ヒトミは目を見開く。
白い空間に刻まれた黒い闇――赤い彗星の爪痕から泥がゴポリと溢れ出し、白い世界をぬらりぬらりと、汚していく。
「ほらみなさい。やっぱり、自分の都合のいいように世界が回ってるって思ってたわけだ。これだから温室育ちの苦労知らずは、始末に負えない理想論を振りかざすだけ振りかざして、まわりに迷惑をかけていることすらわかっていない。振り回されるこっちの身にもなってほしいわ」
「オメェ、目の前に居んのが誰なのか、わからねェのかっ! もし自我が少しでも残ってんなら目ェ覚ませよ!」
「黙ってなさいよ野良犬! これは、わたしとヒトミの事なんだから、関係のないあんたが、どうこうと口挟まないでくれる」
「なにがどうとかと、うっせェんだよ。こいつはな、普通って生活全部投げうって、テメェを助けようとしてんだ。そんなヒトミに言う言葉がそれかよ」
「だから?」とショウコは鼻を鳴らし、ヒトミの目を見据えた。「助けてとも言っていないのに、勝手な勘違いでこんな所まで来たってわけ……。ははっ、笑える。それでわたしを助けて、感謝でもされたかったの? 『ああ、ヒトミありがとう。アナタは最高の親友よ』なんて、言って欲しかったのかしら?」
嘲笑が混じったショウコの言葉に、ヒトミは俯いてしまいそうになる頭を必死で制し、小刻みに震える体で――腕でヒトミの肩を、ぎゅうと握る。拳を握ることでなんとか堪えながら、それでもまだ、ヒトミはショウコを見つめていた。
そして――
「違うよ……」
かすれて、風が吹けば相手へ届きそうもない声を漏らした。
「違うよ、ショコたん。あたしは……、あたしは、ただ……、ショコたんが苦しむ姿を見たくないだけ……。ううん……。ショコたんだけじゃない……。御神楽さんにしても、クラスのみんなにしても、イジメてた子たちも含めて、苦しんでる姿は見たくないの。みんなが笑って、思い出作って、卒業できればいいなって、そう思っただけ……。困ってる人がいるなら、手を差し伸べたいし、助けたい。それが、凄く我儘な事だって、わかってる。けど――、けど、見てるだけはイヤなの。なにもしなかった事で、あたしはあたしに失望したくないし、後悔もしたくないの」
だから――
「だから、ショコたんを助けたいっ! 災悪なんかに負けないで、いつものショコたんに戻ってよっ!」
言い切ったヒトミの目には涙が浮かんでいた。それを認め、力が抜けたショウコは、一度瞑目すると、緩やかに黒い瞳を覗かせた。
「ヒトミ……」
「ショコたん……」
声が届いた。これでショウコも元に戻ってくれる。そうヒトミが思った途端、ショウコの目の色が燃えるような赤に変わった。
「やっぱりあなたは、わたしの人生についた汚点。くだらない価値観を押し付け合うようなお友達ゴッコはここまでにして――」
途切れた言葉と同時――ショウコが力を込めると、ふたりの間にあった空間が、パンと甲高い音を立て破裂した。
「きゃあっ!」
衝撃に弾かれ、ショウコから引き剥がされたヒトミが宙を舞う。そこにショウコが手をかざせば、ヒトミの体に五芒星の魔法陣が描かれ、それが何かと思う前に、体を締めつけられる感覚がヒトミを襲った。――いや、今回は最初から目にも見えるほど濃密な魔力によって構成された、緊縛の手が、顔だけ残しヒトミの体をヴィクターごと締め上げている。
苦悶の声を漏らし中空へ縛りつけられたヒトミを見上げ、ゆやかに笑みを見せたショウコが立ち上がる。その目には赤い闇が揺れていた。そしてその奥――煉獄に潜む魔物の影が、ぬらり、牙を覗かせる。
「いい加減――わたしの贄になってもらうわ」
「ショ、ショコたん……、なんで……? やめてよ……、こんな事……」
「どうして? わたしは世界の条理に沿って行動してるだけ……。あなたがそれを知ってるかどうかは知らないけれど、なんの犠牲もなく、世界は回らないってことぐらい知ってるでしょ? 魔法を使うにしたってそう――自分の事に自分を犠牲にしたくない。だから、あなたを犠牲にするの――ここまで言えば、バカなあなたでもわかるわよね」
ショウコの伸ばした手がギュッと握られると、それに合わせバインドの圧力が増す。
「くぅ……、や、やめて……」
「ほら、どうしたの? 怒りを――憎しみをぶちまけなさいよ。あなたの本質であるあの魔力を、わたしに向けてみなさい。それが、何よりの賛美になるんだからっ」
更にギリリと締め上がる。体の軋む音――肋骨が悲鳴を上げ、やがて――折れる。
「あああっ!」
ヒトミの絶叫が空間にこだました。それでもヒトミがショウコを見る目は変わらなかった。
涙目になりながらも――
じっとショウコを見つめ――
揺れない視線――
そして――
「ショ、ショコたんを、憎めるわけ、ないじゃない……」
弱々しくも、強い言葉。それにショウコの顔がゆがむ。
「まだそんな事言って、これでもまだ言える?」
更にバインドの圧力が増す。折れた肋骨が肺を貫き、むせかえったヒトミが吐血する。
しかし――
それでも――
「何度だって……、言えるよ……。あたしは、友達を恨んだりしない。本当のショコたんは、こんな事、絶対しないからっ!」
「減らず口――だったら手始めに、あなたとの関係から世界を修正してあげるわ――現在過去未来……、どこをとってもわたしたちは敵だって事を思い知らせてあげる!」
ショウコは振り返り、十字架の柱へ目標を定めると腕を薙ぎ、バインドごとヒトミを叩きつける。
ドンと背中に打ちつけられた衝撃。頭が揺れ、視界が曲がり、意識が飛びそうになる。しかしヒトミは堪えた。耐えた。
ここで、呼びかけをあきらめる訳にはいかない。
押し出された空気の代わりに、酸素を求め、大きく息を吸う。
そして――
ありったけの思いを込めて、叫んだ。
「ショコたんっ! 過去を変えたって、あたしは変わらないよ。絶対に変わらない。変わってあげないっ! 今も昔も、これからだって、ショコたんはあたしの親友だもんっ! それ以外でも、それ以下でもない。それ以前に、あたしはショコたんを助けたいっ! だからショコたん――」
凛と、空気が張り詰めた。
白い世界の黒い爪痕が、ボコボコと沸騰し始め――
「あたしを助けてっ!!」
間欠泉の如く、噴き上がった。
瞬間――
世界に散る泥のような闇の影から青白い閃光が走る。十字架を――いや、ヒトミの脇をかすめるように閃光が通り抜けた。
いや、閃光ではない。
遅れて通り抜けた風の行方に、人影があった。
漆黒に白いラインが際立つ燕尾服に身を包み――長い黒髪が覗く同色の三角帽子が飛ばないように片手で押さえながら、空を舞う小柄な少女。
その手に握られた青白い炎の刃が翻ると、空間に六芒星の魔法陣が描かれる。それを足場に蹴り返し、ヒトミの前に着地した。
リリンと、燕尾服の肩から胸元へと伸びる金糸のモールが揺れ――
ふわり、遅れて髪が流れた。
途端、ヒトミを拘束していたバインドが切り裂かれ、光の粒になって消える。
支えを失ったヒトミの体が、前のめりに倒れ込んで行く。
それを燕尾服の少女が支え、ヒトミの存在を確かめるようにギュッと抱きとめた。そして――
「もう大丈夫だから……」
小さく、囁くように耳打つ。と、ヒトミの心臓が跳ねた。
まさか、この声――
けれど、抱きとめられたままでも肩越しに見える制服姿のショウコ。
こちらを燃えるような赤い目で睨み据えながら、ギリと奥歯を鳴らすショウコが居る。
でも、耳元で聞こえた声は、間違いなく――
ショウコのものだ。
それを確かめるため、ヒトミが喉を振るわそうとした時――赤い目をしたショウコが、重々しい声を出した。
「貴様――どうやってここに……?」
聞いて、燕尾服の少女はふっと笑い、半身に振り返った。胸ポケットから覗くクジャクの飾り羽が、キラリ輝く。
「親友に助けを求められちゃ、来ない方がおかしいでしょ?」
三角帽子の広いつばから覗くシャープな顎と、潤った唇――そして、銀色の弦を持つリムレス眼鏡の奥に、大きく黒い双眸。
やはりそうだ。この少女もまた、ショウコ。
「ショ、ショコたん……?」
うわ言のように漏れた言葉。それに燕尾服の少女は、ふんと鼻を鳴らし「そうよ」と頬を赤らめた。