人間の宿敵(軽)
雨上がりの蒸し暑い日だった。夜、寝床についた彼は暑さに耐えきれず起き出すと、冷蔵庫から発泡酒を一缶取り出しグビグビ飲みだした。つまみの代わりにテレビをつけてのんびり飲むペースを落とした。まだ早い時間でテレビでは「トランスフォーマー」をやっていた。映画館に見に行った映画だが、同じようなカメラワークばかりで退屈で途中でうとうとして後半はよく覚えていない。そもそも「車がロボットに変形する」という描写が、カシャカシャカシャカシャカシャと、これだけ細切れにしちゃったらどんな形にだってなってしまって、「変形」というデザインの面白さが全然なくなってしまっている。トンデモ「ドラゴンボール」のホイホイカプセルといい、まったくハリウッドというのはどうしてこう、ブツブツブツ。ま、いいや、と思って滝川クリステルにチャンネルを変えた。いいなあ………。ミヤネ、じゃま。明日は朝が早いのでさっさと寝ようと思ったが、けっきょく11時半になってしまった。
部屋の物置小屋に通じる戸を開け、ゴミ箱に飲み終わった缶を投げ入れ、戸を閉めると、そのまま彼は固まった。
足下の畳の上に、黒い物体が居る。
機能美の凝縮したシンプルにして完成されたフォルム、メカニカルな光沢を放ち、その大きさの10倍超の存在感を誇る、ヤツ。
彼は足下から震えのわき上がるのをこらえ、刺激しないようにそうっと遠回りして離れ、赤紫色の「アースジェット(大)」を手に取った。
ヤツの動きを計算し、台所への道をふさぐようにそうっと回り込み、ヤツの正面に立った。武器さえ手に入れればこっちのものである。
「食らえ!」
思い切りトリガーを引き、大量のジェット噴射を浴びせてやった。彼は勝利を確信していた。ヤツは、カタカタカタカタ、と素早く足を動かすと、果敢にジェット噴射に立ち向かってきた。
「うひいっ」
彼は情けなく悲鳴を上げて飛び退き、しかしヤツは急カーブを切ると別の出口向かって走り出した。
「逃すかあっ!」
彼は鬼のようにジェット噴射を発射しつつヤツを追い、玄関の板間に出たヤツの逃げ道をふさいでこれでもかこれでもかとジェットを浴びせ続けた。20秒間の長きに渡ってトリガーを握り続けた彼の心中の恐怖は想像するにあまりある。
ヤツは壁際に置かれた今は造花の花瓶置き場になっている電話台の裏に逃げ込んだ。ヤツを死地に追い込んだ彼は尚もとどめのジェット噴射をしつこく狭い隙間に発射し続けた。
「フッ」
殺った。と彼は確信していた。そこには腹を見せピクピクと足をうごめかせるヤツの無惨な姿があるはずだった。が、
「居ない!・・・・・・・」
そこにヤツの姿はなかった。反対の隙間から逃げたのかと壁と壁に切られた角の隙間を見たが、やはりヤツの姿はない。
「バ、バカな、ヤツの動きはしっかり捕捉していたはずだ…………」
どこに消えたというのだ?
彼の背筋にゾクッと震えが走った。壁か!? 天井か!? ぶら下がる電灯をつけ、頼みの綱のアースジェットを「くそっ、くそっ、」と向けながらヤツの姿を探したが見つからない。
「逃がしたと言うのか…………」
あれだけの猛攻撃を受けながら、ヤツは生き延びたというのか!?
彼は呆然として手にした缶を見つめた。
「使用方法●噴射レバーを引き、室内のハエ、蚊には、6畳(約10㎡)につき約5秒間噴射する。ゴキブリ、ノミ、トコジラミ(ナンキンムシ)及びイエダニには直接噴射する…………くそお、何秒噴射すればよかったと言うんだ?」
しかしヤツは既に1分以上直接化学兵器を浴び続けているはずだ。それで死なないなど………
「ヤツは…………化け物だというのか?…………」
ふんっ、ふんっ、
彼はじっとり汗をかき……ビール(第3の)を飲んでクーラーをつけていない中全力ダッシュしたんだから当然かもしれないが、いや、今彼の心の中には想像以上の敵に遭遇した恐怖感がわき起こり心拍数を著しく上げているのだ。銃口をあちらこちらと向けながら、彼の心はパニックに陥る寸前に追いつめられていた。
くそお、追いつめたのはこちらだったはずなのに……………
忽然と姿を消した、ヤツ。
神出鬼没の、ヤツ。
どんな狭い隙間にも潜り込む、ヤツ。
彼の脳裏には十数年前に一夜を過ごしたある施設での恐怖の体験がよみがえった。
故あって臨時の宿にあてがわれたそこは、数年来住む者もなく、外では強風にイチョウの大木が葉をバサバサと大きな音を立てさせ、眠れそうもないなあと思いつつ灯りを消して床についた彼の枕元に、
ボトッ、
と、軽く乾いた物が落ちる気配があった。なんだろうと再び灯りをつけた彼の視界には、
この世の地獄が映し出された。
畳と言わず壁と言わず天井と言わず、黒い、ヤツらが、我が物顔でカサカサ這いずり回っていたのだ。
その夜彼は朝まで一睡もしないでスリッパでヤツらを叩きつぶし続けたのだった。
いやあ、あの研修会はひどい目に遭ったよなあーと思い出しつつ、しかし、現在の恐怖は続いているのである。
彼はおっかなびっくり玄関の土間に置いた革靴を片方持ち上げ、ひっくり返した。ハアー……、ハアー……、と息をつきつつ、もう片方も。端に揃えてあるスニーカーも。上がり口の下を覗き込む。居ない。傘立ての裏にジェットを噴射する。ヤツは、出てこない。
取りあえず表面的なところは全部捜した。ここにいなくて更に廊下の奥に逃げたとなれば、棚にごちゃごちゃ積まれたカップラーメンだの掃除道具だのの隙間がいくらでもある。ここまで逃げ延びたのなら残念ながらヤツの勝ちだ。
彼は、
「もういいや。寝よ」
と、洗面所に向かった。もう面倒くさくなったのである。
固形物を食べたわけではないので洗口液で口をゆすぎ、しかしその間も、視界に黒い色が入れば、ハッと、ギョッと、ギクッと、びびりまくっていた。彼はホラー小説なんかを書いている割には現実世界ではどうしようもない小心者だった。
恐怖の一夜が過ぎた。
起床した彼は朝の白い光の中、昨夜ヤツを見失った玄関の板間の電話台をよいこらしょと持ち上げて動かした。
「あー、いたいた」
綿ぼこりで四角く白くなった床に仰向けに茶色い腹を見せ、ヤツが居た。
なんのことはない、電話台の裏に開いた隙間から下に潜り込んでいただけのことである。そこに更に大量の殺虫剤を噴射されて、前の方は完全に下までぴったり塞がっているので、袋小路に自ら飛び込んだヤツはあえなくノックアウトされたのだった。
まあここにいるだろうことは想像がついていたのだが、夜中重い物を動かすのが面倒でこの可能性を排除していただけである。
「フン、ざまあみろ」
残酷に笑った彼は、さて古新聞に包んでゴミ袋に捨てるかと思いつつ、次の瞬間、
心底 震撼した。
仰向けになって開いているヤツの脚が、ピクッ、ピクッ、と動いているのである。
彼は古新聞を持ってくると、そうっとヤツをすくい、折り畳むと、ブチッとひねった。
「アーメン」
彼は恐るべき敵に畏怖を込めてその冥福を祈った。
いやあ、本当にびびった。まさかまだ生きているとは思いもしなかったものなあー。ううむ恐るべき生命力。
しかし、戦いは、まだ、始まったばかりである。
ヤツは一匹見かけたら百匹は生息していると見た方がいい。
百匹、この恐るべきヤツの仲間と戦わなくてはならないのだ!
ヤツらが生き残るか、人間が生き残るか、二者に共存はあり得ないのだ!
ヤツらが勝利するか、我々が勝利するか、二つの種族は生まれながらにして戦う運命にあるのだ!
帰りにゴキブリホイホイを買ってこようと心にメモしながら彼は家を出た。
END