第992話 レーベリア会戦・暴君の代償
ォオオオオオオオオオァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
魔獣の遠吠えが轟く。ラースプンのように凶悪なモンスターの響きを、遥か遠くから聞いているような感覚だった。
一拍遅れて、その咆哮が自分の喉から発せられていることに気づく。
ブースター全開、超高速機動の戦闘中だというのに、やけにゆったりとした時間感覚。早朝に目覚める間際のように、凍えた体を湯舟に沈めたように、あるいは、母親に抱かれる赤子のようかもしれない。温かく、柔らかい、心地よい微睡にどこまでも沈んでいきそうで。
ああ、溶ける。心も体も、溶けてゆく。
「クロノ」
俺を呼ぶ声に、飛びかけた意識がかろうじて繋ぎとめられる。
「まったく、しっかりしろ」
「ああ……ミリア、か」
目の前に、黒髪に真紅の瞳を持つ、どこかミアの面影を残した愛らしい少女の姿がある。
裸でぴったりと添い寝するような密着体勢に、ちょっどドキリとさせられる。俺もまた裸でいるようで……なんで精神世界の中ってすぐ裸になんの。
気にはなるが、そんなことに慌てている場合でもないだろう。ミリアの元の姿を見たのは、初めて『暴君の鎧』を黒化で制した時以来。
お前、普段はシステムボイスだけで、ヒツギみたいにその姿も声も表に出さないからな。
「ふん、隠居した王はみだりに姿を晒すものではないからな。だが、お前がこの鎧を纏う限り、私はいつでもお前を見守っている」
「すまない、ちょっと情けない姿を見せてしまったな。鎧に、飲まれるところだった」
「この未熟者め、精進せよ」
「分かったよ」
どうやら『暴君の鎧』を真に使いこなすためには、まだまだ練習が必要なようだ。
けれど、差し当って今は目の前の戦いを終わらせなければならない。
「お前は、私のようになるな」
「俺も鎧の中で溶けて消えるのは御免だよ」
「ならば、さっさと終わらせて来るがいい――――哀れな老人よ、彼奴もまた、この呪われた鎧に心を囚われておるようだ」
どこか憐れみを感じさせる言葉を残して、俺の意識はようやく現実へと戻って来る。
全く、コイツは本当に恐ろしい呪いの鎧だ。ミリアが呼んでくれなければ、手遅れになっていたかもしれない。
『戦闘形態』の発動から2分を過ぎ、俺の体と鎧の一体化が進んだことで、ついに『唯天』ゾアを押し込むほどのパワーとスピードを発揮し始めた。そして一秒ごとに、俺の黒色魔力を喰らって鎧はさらに出力を増してゆく。
飛びかけた意識、本能だけで戦うモンスター同然の立ち回りでも、ゾアを圧倒するほどに。
クリアに戻った視界でしっかりと前を見れば、すでにしてゾアは満身創痍。全身血濡れと化し、息は乱れ、その身に纏ったオーラにも揺らぎが見える。
確かに追い込んでいる。このまま力だけで押し続ければ、それで勝てそうなほどに一方的な流れだが――――それを断ち切る逆転の一撃が、今まさに繰り出されようとしていた。
荒れ狂う本能と同時に、俺のこれまでの経験と理性が、全力で危機を訴えた。
「コォオオオオオ……投ッ!!」
鋭い呼気と共に、在りし日の第七使徒サリエルを思わせる神速の投擲。
これまで攻守共に中心的な役割を担っていたメインウエポンたる『天獄牙戟』を投げたのだ。
ついさっきまでの俺ならば、迷わず突っ込んだだろう。だが意識の戻った今なら、冷静に判断し、対処を選択できる。
この投擲を鎧で受ける。致命傷にはならないだろう。本能で動いても避けないのだから、そこは間違いない。無傷とはいかないが、それでも武器を手放した相手に勢いのまま肉薄し、トドメを狙う……今の力量差があれば、シンプルに勝てる方法に思えるが、ゾアに逆転の一手があると思えば、これをすれば奴の思う壺。気づいた時には首と胴が泣き別れになっていてもおかしくない。そう思えるほどの危機感を覚えるのだ。
ならば回避。それが出来れば一番良かったが、ここまで追い込んでおきながらも、ゾアの投擲攻撃はそれを許さぬ鋭さとタイミングだ。
回避は不可能ではないが、確実に体勢は崩す。そこに一撃が飛んで来るだろう。
一瞬前まで、本能のまま戦っていたのが仇となった形である。意識を保ち続けていられれば、もうちょいマシな体勢でいられただろうが、今更の話だ。
俺が選択すべきは、防御だ。
この手に握るのは体が自然と選んだ、最も慣れた二本。右手に『首断』、左手に『悪食』の大剣二刀流である。
悪食能力を持つ『天獄牙戟』を防ぐなら、同じ力を持つ方が安定。『首断』で受ければ、大きく弾かれるだろう。そして、それはそのまま反撃を受けかねない隙へと繋がる。
故に、ガードを安定させるなら『悪食』で――――その判断を下しかけた寸前、俺はそれを翻して『首断』を振るった。俺の直感、そして『首断』にそうしろと言われたような気がしたから。
「ぐううっ!」
咄嗟に振るった右手一本の『首断』で受けるには、あまりに重い一撃。刀身に渦巻く濃密な呪いのオーラが、悪食の牙によって食い荒らされる。呪いごと喰われる嫌な感覚と共に、右腕が持っていかれるような衝撃で俺の体が傾ぐ。
ここで来る、本命の一撃がっ!!
「我流抜刀――――『天上天下』」
ゾアが抜いたのは、最初から腰に下げていた剣だった。
神速の抜刀術。鞘から抜かれた刀身がその輝きを見せた瞬間、死んだと思った。
それほどの圧力。一体、その刃にどれだけの魔力を溜め込んでいるのか。これまで見てきた中で、間違いなく最高の魔力密度が刀身に宿っているのが分かった。
そして、そこから放たれる超密度の斬撃。
直撃すれば、死ぬ。この戦闘形態でも、鎧ごと断ち切られるという確信がある。
そして『首断』でも受けきれないとも。呪いの刃は折れずとも、押し切られるだろう。
だから『悪食』なのだ。魔力の斬撃、どれほど密度を高めようが、魔力の塊なら悪食の牙は喰らいつく。この究極の抜刀術を防ぐ、唯一の可能性は『天獄悪食』にしかない。
飛んでくる斬撃は、俺から見て右下から左上へと切り上げるような斜めの一閃。すでに崩れかけた態勢で、逃れられる状態にはない。
受ける、真っ向から。
「喰らえっ――――悪食ぃ!!」
『天獄悪食』の刃を差し込む。斬撃のど真ん中。これで止められなければ、俺の体は真っ二つだ。
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
吠えているのは、俺か鎧か悪食か。
斬撃と触れ合った瞬間に、途轍もない硬質な感触と、呪いの怨念染みた強烈な思念もまた感じた。五百年生きた伝説の達人が、全てを込めた一撃だ。
押される。無理だ、喰らいきれない。
悪食の吸収力を遥かに上回る超密度。歯が立たない、とは正にこのことか。
ダメだ、この斬撃からは逃げられないし、防ぎきれない。ならば――――
「喰い破れっ!!」
断ち切る。『天獄悪食』の刀身が斬り結ぶ、その一点だけを切り裂く。
俺の思いに答えるかのように、悪食の刃は斬撃へと斬り込んで行く。ただここだけ、刃の触れた箇所にだけ、牙が突き立てばそれでいい。
刹那の交差――――果たして、『天上天下』は両断される。
「がぁああああああああああああああああああああああっ!!」
そして究極の斬撃の過ぎ去った後に、俺は手足を失った。
当然だ、すぐ傍で斬撃を真ん中から断ち切ったとしても、それで全てが俺の体から逸れてくれるワケではない。
なんとか回避できたのは、胴体を両断するラインだけ。ただ死なないためのガードに過ぎない。
即死を避けるために払った代償は、右足と左腕。中央から断ち切られて僅かに軌道が揺らいだ斬撃は、深々と俺の右足と左腕を根本からぶった斬って行った。
戦闘中においては、実質的な致命傷。
けれど、死ななければそれでいい――――手足が飛ぶくらい、最初っから経験済みだからな。
『天獄悪食』を握りしめたまま、血飛沫と共にクルクル宙を舞う左腕を置き去りに、ブースターを吹かし、残った左足一本で地を蹴る。
向かう先は勿論、驚愕で目を見開くゾアの元へ。
「――――『闇凪』」
漆黒一閃。
奪われた手足の恨みを晴らすかの如く、呪いの刃がゾアの首を断つ。
「……だ」
すでに飛んだゾアの首は、その瞬間に表情を歪める。
痛み、恐怖、屈辱、そのどれでもない。それは、まだ勝利を諦めない不屈。次の瞬間には失われるであろう生命力の限りを尽くして、尚も抗う、怒れる鬼神が如き形相だ。
「まだだっ!!」
動く。頭が離れた、首無しの巨躯が。
この手に剣を握る限り、戦いは終わらない。終わらせない。
そう訴えかけるかのように、ゾアの体は見事な二の太刀を繰り出す――――
「『パイルバンカー』」
叩きつける、最初にして最速の黒魔法。
知ってたさ、首が無くても、動く奴がいるってことを。嫌というほど、経験してきた。
どいつもこいつも、往生際が悪すぎる。
ゾアの心臓に向けて解き放った『パイルバンカー』に、確かな手ごたえを感じると共に、片足を失い踏ん張りの効かない体は、そのまま仰向けに倒れ込んで行く。
ドサリ、と音を立てて背中が地面を打ったのは、俺もゾアも同時であった。
「五百年目の決闘は、俺の……いいや、俺達の勝ちだ」
手足を失っただけの俺に対し、首が飛んで命を失ったゾア。生者と死者。これ以上なく分かりやすい、決着だ。
「いやぁあああああああっ!? クロノ様ぁあああああああ!!」
「ノォオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
勝利の余韻に浸る間もなく、絹を裂くような悲鳴が耳をつんざく。
なんだよ、と思えば死にそうな顔をしたレキとウルスラが、それぞれ俺の手足を抱えてすっ飛んで来ていた。
「ああ、持ってきてくれたのか、ありがとな」
「そんなっ、クロノ様、大丈夫……ああ、大丈夫なワケないの……」
「わぁあああああああ! アァアアアアアアアア!?」
「俺は大丈夫だから、落ち着けよ二人とも」
やっぱり自分よりも慌てている人を見ると、却って冷静になれるよな。
俺は倒れた体を起こし、縋りつくように泣きじゃくる二人を落ち着かせるために頭の一つでも撫でようと思ったが、右手一本しかないから同時には撫でれないことに手を伸ばしかけて気づいた。うん、やっぱ片腕は不便だよな。
「綺麗に斬り飛ばされたからな、これくらいならすぐ治せる。ほら、俺の手と足を返してくれよ」
「ウウウウゥー!」
「ほ、本当に大丈夫、なの……?」
「大丈夫だ。それより、ちょっと離れててくれ。危ないぞ」
手足を受け取ると、ずっとくっついていそうな二人を一旦、離れさせる。
「緊急離脱」
バシュウウウウウ……と熱い蒸気を噴き出しながら、鎧の全部位が解放される。
すでに『戦闘形態』は解除している。『パイルバンカー』を叩きつけた直後に解除して、稼働時間は3分2秒。ちょっとだけ足が出てしまったが、仕方がない。ギリギリ許容範囲内だ。
『戦闘形態』を解除した後は、鎧そのものも機能が停止していしまう。そもそもが特攻兵器なのだ。『戦闘形態』の終わりは、龍を道連れにするための盛大な自爆と決まっている。そこで戦いは終わるのだから、鎧の機能維持については全く考えられていない。
故に、途中で『戦闘形態』を停止することは、本来の使い方ではないイレギュラーなのだ。その無理を通した結果が、しばらくの機能停止。自己復旧が完了するまで、この『暴君の鎧』もただの金属塊になり下がってしまうのだ。
それでも、仕事は十分果たした。使徒に匹敵する力を持つ『唯天』ゾアを、見事に討ち果たせたのだから。
「ありがとう、ミリア。後はゆっくり休んでいてくれ」
解放状態の『暴君の鎧』を影空間へと沈めて仕舞い込みながら、代わりに浮かび上がってくるのは、澄まし顔の小さなメイド。
「お疲れ様でした、ご主人様。見事な勝利にございます」
「想像以上の強敵だった。お陰で手足が飛んじまった……応急処置を頼む」
「はい、ヒツギにお任せください」
「それと、もうちょっと目隠しも」
「すでに、囲いは済ませてあります」
鎧から噴き出た排熱の蒸気に代わり、今は黒々とした煙幕が焚かれている。珍しく気が利くな。
レキとウルスラは、俺の手足が飛んだだけで、酷い狼狽えようだったからな。それ以上に負傷した姿を見せるのは憚られる。
そう、俺の負った傷は、ゾアに斬り飛ばされた手足だけではないのだ。
「うわぁ、今の自分の姿は見たくないな……」
視界に映るだけで、酷い有様だ。体に残る右手と左足が、溶けている。
指先の方など骨が見えており、爪は完全に溶け落ちていた。そこから皮膚が消えて、赤々と筋繊維が剥き出しとなった状態が肘と膝まで続き、爛れて溶けかけた皮膚が根本まで続いている。見た目的には、切断されているよりも痛々しい。
濃硫酸にでも突っ込んだのか、というこの有様なのは勿論、鎧に肉体が取り込まれる最中だったからだ。ここからあと30秒でも『戦闘形態』を続けていれば、肘と膝から先も失っていただろう。
改造人間である俺の体を以てしても、3分以上使えば肉体が末端から溶け落ち、鎧に吸収されてしまう。本当に、恐ろしい古代兵器だ。
「ご主人様、手足の固定完了、ヨシッ!」
「その不安になる言い方やめろ」
ただ、こうなることは百も承知。そして、体が溶けるからコレを使った後はもう戦えないんだ、と退場する気はない。戦いはまだ続いている。少なくとも俺は、本命のネロを討つまでは、休んでなどいられない。
だから『戦闘形態』使用後も戦い続けられるよう、回復手段も用意してある。
念のために自分でも、斬られた右足と左腕がしっかり切断面で固定されていることを確認してから、
「『海の魔王』」
第五の加護、発動。
高い自己再生能力を持つこの加護は、こういう時にこそ真価を発揮する。少しばかり四肢を欠損した程度でも、すぐに戦線復帰できる。最高の応急処置だ。
この治癒力を他人にも発揮できれば、俺もネルのように多くの人々を救うことができるんだが、そんなことは魔王の仕事ではないと言わんばかりに、自分の回復だけに特化した黒魔法仕様なのである。
「それでは包帯巻きますねー、グールグール!」
「楽しそうだな」
「いいですよねぇ、包帯巻き巻きは、こう、お世話している! って感じがするですー」
カオシックリム戦以来の看護に上機嫌なヒツギであるが、まぁ、確かに世話されている感は、俺にもあるな。
洗浄・消毒代わりにエクスポーションを振りかけた後に、ヒツギが包帯を俺の全身に巻きつけてゆく。
溶けた体の再生を促すために、気合を入れて黒化を施しておいた専用の黒い包帯も影の中に準備してある。コレをグルグル巻きにしておけば、ひとまずは安泰。
溶け落ちた指先も、肉体補填の要領でとりあえず物質化した魔力で補っておけばいい。
そこまで含めてしっかり包帯で覆っておけば、処置完了。
「顔はどうだ? 大丈夫?」
「お顔は綺麗なままですよ」
やっぱり、色濃く魔力が満ちている頭と胴は、溶けていくのが最後になるようだ。ここから先はもう『暴君の鎧』を使えないから、顔も剥き出しの装備となる。まぁ、いざって時は大体、素顔を晒して戦うから、別に兜が無くても困りはしないのだが。
「結局、この恰好が一番落ち着くよ」
「今日もよくお似合いでございます、ご主人様!」
包帯を巻いてから着替えを済ませ、最後に羽織るのは『悪魔の抱擁』だ。勿論コイツは二代目だが、悪魔の革はやはり体にしっくり来る。
「それでは、行ってらっしゃいませ、ご主人様」
再び影に沈み行くヒツギに見送られて、俺は煙幕を割って再び戦場へと舞い戻る。