第968話 騎馬戦(2)
「いいからさっさとやれ、『魔手』————『蛇王禁縛』」
「冥土流黒魔法————『沙羅鎖螺蛇』!」
魔王クロノが一瞬にして頭上を越えて行ったことに驚く間もなく、強大な黒魔法が発動————それは巨大な蛇の群れと化して、自分達の前に立ち塞がった。
「おのれっ、なんだコレは————」
だが呆然としていられる暇はない。
必勝の包囲網を完成させ、敵の重騎兵部隊の速度も想定通り。後はいつも通りに一方的に攻撃を仕掛けるだけ……そのはずが、一手だ。魔王が打ったたった一手で、返されるはずのない攻守が入れ替わった。
そのことを理解させられたスラーハは、明らかに自分達の足を止めるための大きな妨害用の魔法を超えるために声を張り上げた。
「散開しろっ! 出来る限り蛇の群れを避けながら突っ切れ!!」
大地を黒く染め上げ、威嚇音の代わりにジャラジャラと鎖を鳴らす、おぞましい黒魔法。進行方向の広範囲に渡って展開されたこれを、迂回するのは無理だ。どうにかど真ん中だけを避けて、後は強引に突破するより他はない。
勇猛果敢な騎馬民族たるスラーハ以下の団員達は、誰一人として怯えることなく瞬時に覚悟を決め、強く鞭を打って魔王の領域へと踏み込んでいった。
その覚悟は正しく、たとえ火の中水の中。歴戦と呼ぶに相応しい強靭な意思を持つ行動力の顕われだが————物理法則を超えることは出来ない。
「クソッ、ダメだ、避け切れねぇ!?」
「ぐわぁああああああああああああああああああっ!!」
「ちくしょう、退けっ! 退けよぉ!!」
誰よりも早く草原を駆け抜ける駿馬も、その蹄が踏みしめるのが大地ではなくただの泥沼となれば、その速度は奪われる。
全身が浸かって溺れるほどの深さがないのは幸いか。いいや、それ以上の深さまでは必要ないからに過ぎない。
膝丈にも届かぬ程度の浅い泥沼だけで、機動力を削ぐには十分。トップスピードを維持できない騎兵へ、静かに蛇達が忍び寄る。
目の前に立ちはだかる大蛇を避けようと大きく体を傾げた瞬間に、後ろ足に鎖の蛇が絡みつく。
大きく跳躍して蛇の群れを超えた直後、着地に合わせて新たな蛇が牙を剥く。あるいは、跳んでも避け切れないほどの群れへ突っ込んでしまった者も。
ブライハンの騎馬戦士達は、ほんの数十メートルを進むこともできずに次々と黒い沼と鎖の蛇に囚われて行く。
「ええい、怯むな! この程度っ、死ぬ気で活路を切り開いてみせろぉ!!」
しかしここにいるのはスラーハ団長と轡を並べる最精鋭。その卓越した馬術と武技でもって、泥沼に馬の足をとられることなく水面を駆けるが如き走法と、手にした馬上用の長い曲刀を振るい、文字通りに道を斬って開いて行く。
「姐さん、俺達の後ろに!」
「道を開きます!!」
最も熟練した戦士達が先頭を行き、突破口をこじ開ける。殺到する蛇の群れを切り払い、その毒牙を決して団長に届かせまいと奮戦。魔王の領域を早くも50メートルを超えようかというほどの勢い。
視界の先に、ようやく忌々しい泥沼が途切れ、希望の地そのものとなる草原の緑が再び見え始めた頃だ。
「ふふん、ここまで来るとは、中々やりますねぇ」
「っ!?」
一瞬の油断が命取りになる鉄火場にあって、場違いにも程がある少女の呑気な声が響く。
誰だ。何処だ。
自ら答えを見つけるよりも先に、ザブンと激しい水音と飛沫を上げて、ソレが目の前に現れた。
「頑張ったお前達には、ご主人様の黒くて硬くて太いのをぶち込む栄誉をくれてやるですぅ!」
「くっ、ヒュドラか————」
それは真っ先に避けた、泥沼の主が如くど真ん中に出現していた、一際に巨大な九つの首をもたげた黒いヒュドラ。その内の首の一つ。
その頭に目はなく、ただ貪欲に獲物を貪る大口だけがある、巨大な多頭蛇のモンスター。恐ろしく凶悪な怪物大蛇の頭の上には、本当に場違いなメイド少女が楽し気に跨っていた。
質の悪い冗談のような幻を見ているのか、と自らの頭を疑ったのが、最後の思考となる。
「どーん!!」
ただその巨体を叩きつけるだけの、シンプルな攻撃。だがしかし、莫大な黒色魔力によって形成された金属質なヒュドラの巨躯は、あっけなく歴戦の騎兵戦士を圧殺した。
希望の道は断たれた。魔王の眷属たる黒き大蛇によって————だが、それでもスラーハは諦めない。
「我に続けぇええええええええええええ!!」
左右を固める側近と、自分の後ろに続く多くの部下達に向けて、それでも諦めることなく駆け続けろと叫ぶと同時に、全力を振り絞る。
跨った愛馬の四肢に、俄かに真っ赤な炎が迸る。ジュウジュウと踏みしめる黒い泥を蒸発させるような熱量を発揮させ、駆け抜けた後に炎の足跡を刻みながらスラーハは急加速をして突っ込む。
目標は、ヒュドラに跨りケラケラと笑い声を上げている、悪霊のようなメイド少女。
アレも魔王の眷属なのか。少なくとも、メイド少女が泥沼に這う無数の蛇を操る術者であることは、鋭い第六感で分かっていた。
「私の、一族の悲願っ、邪魔をさせてなるものか! たとえ魔王が相手でも————」
踏み越えてみせる。
鬼気迫る勢いでもって、地に伏せたヒュドラが起き上がるよりも前に間合いへと踏み込み、刀身に灼熱の火炎を纏わせ、スラーハは剣を振り下ろす。
「諦めが悪いですねー」
ネズミを弄ぶ猫のような顔を浮かべながら、溶けるようにメイド少女がヒュドラの巨体へ沈んだ。ジャボンと水へ潜るように消えた直後に、スラーハの灼熱剣技が轟々と炎を振りまきながら、ヒュドラの体を深く切り裂いてゆく。
手ごたえはない。ただ硬質な鱗と重い粘土のような肉体を切り裂いた感触がその手に伝わった。
「姐さんに続け!」
「遅れるなっ!!」
スラーハの一撃に続いて、後続の戦士達から次々と攻撃が飛んで来る。ヒュドラの巨躯に、燃え盛る矢や投槍が突き刺さり、再び動き出すのを封じた。
その僅かな隙に、再びトップスピードまで乗り始めた騎兵が続々と横たわるヒュドラを乗り越えて行き、
「くふふ、逃がしませんよぉー」
「————なにっ!?」
スラーハが能天気な少女の声に振り向けば、そこには消えたはずのメイドがいる。
長い、長すぎる黒髪が触手のように何本もの束となって、自分の騎馬へと伸びていた。黒髪の触手は馬の尻周りや馬具へと絡みついている。
敵や奴隷を縄で縛って引きずり回すことは何度もやった。けれど、髪を伸ばして自ら馬と繋がり、堂々と腕を組んで仁王立ちしながら地を滑る奴など初めてだ。
遊ばれている。
悟った瞬間に沸いた怒りで、反射的に剣を振り上げ、
「このっ、離れろぉ!!」
「ふふーん、もう遅いです————よっと!」
刹那、強烈な慣性がスラーハの体を襲う。
脳裏に過ったのは、まだ幼い頃、急に立ち止まった馬の背から、放り出された時のこと。
あの時と全く同じ浮遊感。そして歴戦の騎馬戦士として、二度と味わうことがないはずだった、無様な落馬の感覚。
反転した視界の中で、スラーハは愛馬の後脚に呪いのように絡みつく黒髪の束を見た。
「ぐううううぅ!?」
地面へ叩きつけられる衝撃。だが手綱は決して手放すことなく握り続け、鍛えた肉体はインパクトに耐えると共に受け身も反射的にとっていた。
大したダメージはない。ブライハンの戦士はたとえ落馬しても、骨折し、立ち上がることすらままならない、といった無様は晒さない。
問題はこの場所で止まってしまったこと。
早く起きねば。走らなければ。戦わなければ。
「————お前がブライハン騎馬団の団長、スラーハだな?」
だがしかし、勝負はすでに決していた。
「ま、魔王……」
見上げた先には、禍々しい漆黒の鎧兜を纏った大男の姿。
その手には最早、剣も槍もなく、ただ手綱を握るのみ。スラーハの生殺与奪を握るには、それで十分だった。
目の前で振り上げられたのは、魔王が跨る不死馬の前脚。高々と掲げられた蹄には、赤黒いオーラが濛々と吹き上がっており、
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
けたたましい断末魔は、愛馬のものであった。
美しい真紅の毛並みをした、強い火属性の適性を持つ、一族でも最高峰の騎馬。激しい気性で、天性の才を持つスラーハであっても手懐けるのに何年もかかった。
けれど最高の相棒だ。相棒、だった。
首元を不死馬に踏みつけられた愛馬は、その口から血反吐と火の粉を吹きながら、事切れた。
「降伏しろ。命ばかりは、助けてやろう」
クロノが単騎で前方に陣取る騎兵部隊の足止めに成功した。
その直後に、嵐が吹き荒れる。
「————蹂躙せよ」
将軍エメリアの命に応え、『テンペスト』は隊名の通りに激しい雷を一斉に解き放った。
重騎兵としての打撃力に加え、隊員の全てが中級以上の攻撃魔法を習得しているのがテンペストである。
雷属性を中心とした攻撃魔法の嵐が、足止めを食って速度が落ちた敵部隊の後方から襲い掛かる。
如何に精強なブライハンの騎馬戦士とはいえ、その最大の強みである機動力が奪われれば、軽装の戦士に過ぎない。過酷な環境を耐え忍び、武技を身に着けた強靭な戦士達であることに変わりはないが……それだけで対抗しうるほど、スパーダの重騎兵は甘くない。
エメリアの命じた通りの蹂躙が始まった。
必死に弓で応戦するも、すでに相手の雷魔法の射程圏内。激しい攻撃魔法に攻め手は鈍り、見る間に距離が縮まってくる。
そして間合いが詰まれば、いよいよ重武装の騎兵突撃が炸裂。軽装のブライハン騎兵は成す術なく崩れ去ってゆく————
「————申し訳ございません、陛下。半分ほどには逃げられました」
「流石に不利を悟って退いたか。だが、半分は始末できたんだ。十分な戦果だろう」
勝敗はすでに決し、半壊した部隊を率いて撤退したブライハン騎馬団が地平線の彼方へと走り去っていった後、エメリアはクロノの下へとやって来た。
「半分も倒れるまで奴らが粘ったのは、やはり最初に頭を抑えたからでしょう。見事なご活躍にございます、魔王陛下」
怜悧なエメリアの青い瞳が、不死馬の足元で黒い鎖によって雁字搦めにされたスラーハを見下ろした。
「エメリア将軍は、大将のくせに出過ぎだぞと言わないんだな」
「剣王の戦い方は陛下もご存知でしょう。スパーダの将軍は皆、このやり方には慣れ切っておりますので」
「やっぱり、レオンハルト王は偉大だよ」
総大将たる魔王本人が「俺が一人で敵部隊を足止めする」などと言い出しても、当たり前のように了承したエメリアに、やけに話がスムーズだなとクロノも思っていたところだが、今の答えを聞いて得心がいった。
竜王と一騎打ちをする王様に仕えていた将なのだ。大将であると同時に最高戦力という構成の軍に慣れているのは当然のこと。
その強さに信頼を置いているからこそ、クロノの足止めに寸分たりとも遅れることなく突撃をエメリアは成功させたのだ。
「この後はどうされますか? すぐに追撃を?」
「いいや、まずは避難民を送り届ける。ケンタウルス戦士もそれなりにいるようだし、これで各地の抵抗勢力と渡りをつけられるかもしれない」
ブライハン騎馬団は半壊状態だが、単純な戦力は半減以下となったであろう。
団長スラーハのいる部隊は最精鋭で固められていたが、これがほとんど全滅に近い。包囲が崩れ、団長を救うべく他の部隊も慌てて仕掛けて来るが、攻撃力と防御力に優れる魔王軍を破ることはできない。得意のアウトレンジ戦法で完封するより他にブライハンに勝ち筋は無かったのだ。これが崩された時点で、どう足掻いても魔王軍は止められない。
それでも戦わねばならない時が、戦士達にはあるのだ。あえなく捕らえられたスラーハを救うべく奮戦したが、半数近い犠牲を重ねてようやく諦めざるを得なくなった。
草原は夥しい数の人と馬の死体が横たわり、仲間が撤退したことで取り残され投降するより他はない者達も、無傷で済んでいるのは一人もいない。
ブライハン騎兵の多くを殺したが、結果的にはそれなりの人数の投降兵も抱えることとなった。
避難民と合わせて考えれば、この後すぐに逃げた敵の追撃に動くことは難しい。
「承知しました。奴らは団長含めて半壊状態ですので、どこかの拠点で慌てて散った兵を呼び戻して合流するでしょう」
「この女を取り戻しに来るか?」
「敵の戦いぶりを見るに、それなり以上に慕われてはいるようです。族長の娘でもあるそうで、姫のような扱いでしょう」
「お転婆なお姫様はどこにでもいるんだな」
「シャルロット殿下はもっと可愛げがありますよ」
確かに、とクロノは笑って頷いた。
「ブライハンの残党がこのまま北部まで退くならば、流石にこれ以上は追い切れないが……お姫様の身柄を諦めないようなら、残りも潰す」
「尋問して、早急に敵の合流地点を聞き出しましょう」
「リリィがいれば早かったんだが、何とかなるだろう。アイン、任せていいか?」
「イエス、マイロード」
拘束したスラーハを副官アインに引き渡す。敵の大将だから丁重に扱ってやれ、とだけ伝えて、尋問による情報収集を丸投げ。
「ところで、ケンタウルスの代表は?」
「ケイオンタス・ハイラムと名乗る騎士の男です。お会いになられますか?」
「ああ、知り合いなんだ。すぐに挨拶しに行こう」
点々と立てられたテントと大勢の避難民達が集っているのを背景に、彼らを率いてきた代表を務める騎士ケイオンタスが駆け寄って来た。
「おお、クロノ様……お久しぶりにございます」
「久しぶりだな、ケイ。よくぞここまで、苦労したな」
あれはリリィとよりを戻した後、パルティアまでマンティコア討伐のクエストを受けた時のことだ。クエストの依頼主が彼で、なんやかんやでハイラムの町を襲う暴走賊と、その背後で暗躍していたノールズ率いる機甲騎士と戦った。
あの時はハイラムの平和は取り戻されたが、こんな状況となってしまった以上、あまり喜んで思い出話に花を咲かせる気分にはならないな。
「いえ、まさか本当に助けが来るとは……クロノ様に救われたのは、これで二度目です。どうすればこの恩に報いることが出来るか」
「気にするな、ケイ。本番はこれからだからな」
涙ぐんで言うケイに、大袈裟な、とは言えない。ブライハン騎馬団が今にも襲い掛かって来ようとするタイミングだった。九死に一生を得る、とはその通りではあるのだ。
「そうだぜ、こっからパルティアを取り戻すんだろうがよぉ!」
「ん、お前……どっかで見た顔だな」
「おい、俺を忘れてんじゃねぇ! パルティア大草原に駆け抜ける黄金のイナズマぁっ!『雷電撃団』三代目総長ぉ、ギャリソン・ライバックたぁ、俺のことよっ!」
ああ、いたなぁそんな奴。
そういえば雷龍の刺青背負った若い兄ちゃんが総長張ってた。
でも気合の入ったリーゼントではなく、ただの金髪ポニテになってるせいですぐに思い出せなかった。こうしてみれば結構男前じゃないか。
「よせ、ギャリソン! クロノ様はもう冒険者ではなく、一国の君主であられるのだぞ!!」
「あんまり気にするな、所詮は成り上がりさ」
「へへ、だってよ? 流石は魔王様、器がデケぇってなもんだ」
「お前達も、大遠征軍を前に呉越同舟といったところか」
ケイはハイラム領主の息子であり、ギャリソンはその町を襲撃した賊のリーダー。普通なら処刑して終わるだけ。出会ったところでお互いに憎み合う関係性にしかならないはずだが……最悪の侵略者を前にすれば、手を組まざるを得なかったのだろう。
「はい、仰る通りで。本来ならば処刑台送りを待つばかりの身でしたが、今は一人の戦士としてパルティアのために戦っております」
「おうよ、俺らのシマぁ、余所者にメチャクチャされて黙ってられるか」
「いやお前の領地ではないだろ」
「うるせぇ、とにかくパルティアは俺らケンタウルスのモンだ! 誰にも奪わせたりはしねぇ!!」
「気合は十分だな」
「たりめぇよぉ!」
「だから止せって、ギャリソン……失礼、クロノ様。いえ、魔王陛下。パルティアの盟主である大王ボルグモアはすでに討たれ、有力氏族も滅びました。今はとても、この地の支配者と呼べる力は、我らケンタウルスには残されておりません」
気炎を上げるギャリソンを下がらせ、改めてケイが切り出す。
やはり思っていた通りの惨憺たる状況のようだ。
「生き残った全てのパルティアの氏族は、エルロード帝国が保護しよう。俺達は首都バビロニカに居座る大遠征軍と第十三使徒ネロを討つため、決戦を挑む。ケンタウルス達には、是非とも協力して欲しい」
「勿論でございます。最早我らには、魔王陛下の御慈悲に縋るより他に、残された道はありません」
「……ちっ、仕方ねぇ、今は大人しく従ってやらぁ」
ケイは馬体の四脚を折って跪き、渋々といった表情ながらも、ギャリソンもそれに従い、頭を垂れた。
「ありがとう。必ずパルティアを、ケンタウルスの手に取り戻すと約束しよう」