第962話 暴君の記憶
五百年前。パンドラがまだ暗黒時代と呼ばれていた、戦乱の時代。
パルティアの大草原を西に過ぎれば、海と見紛うほどの大河が現れる。ただ北大河と呼ばれた。
峻険なバルログ山脈が途切れた向こう側にもまた、巨大な大河が流れる。こちらもただ南大河と呼ばれる。
大陸の中央付近を流れる二本の大河を北と南で呼び分けるのは、南北大河に挟まれた地域に立って見ているから。いいや、正確にはこの地の中央に天を衝かんばかりに高く聳え立つ聖なる山。トリシエラ山から見た名前なのだ。
トリシエラ山を中心として、それぞれの大河に沿った肥沃な平地が広がる豊かな地はしかし、暗黒時代にあって複数の国に分かれて終わりなき統一戦争を続けていた……というのは、十数年前までの話。
トリシエラ山の中腹に居を構えた小さな里。これが出来て以降、周辺国の争いは小康状態に陥り、これまでの戦乱の傷を癒すように各国は矛を収めていた。
戦が止まるのも、無理はない。何故ならば、この小さな里を味方につけた方が必ず勝つのだから。勝敗の結果が分かっていて、戦いを始める馬鹿はいない。
しかし里に野心はなく、この平穏こそが望みであると広く表明し、あまりにも長く続き過ぎた暗黒時代の終わりを訴えた。
戦乱を治めたその小さな里は、『ヴェーダ武仙郷』と名乗っていた。
トリシエラ山の麓。雪解け水が流れ込み大きく広がった湖の畔に、一人の少年が立っている。
手には長い釣り竿。出で立ちはそのまま湖に飛び込もうというのか、いまだ強い肌寒さの残る時期にあっても褌一丁のみ。しかしその少年らしい細身ながらも、見事に引き締まった肉体には鳥肌の一つも立ってはいない。
眠るように静かに目を閉じていた少年だったが、釣り竿が反応する寸前にカっとその目を見開いた。
「————ハッハァ! コイツぁ大物だぜぇ!!」
竿が折れんばかりにしなると共に、激しい水飛沫が湖面から上がる。
水面に映るのは、明らかに尋常ではないサイズの魚影。否、巨大な鰭こそ見えるものの、ソレは爪も牙も持つ獰猛極まるモンスターであった。
しかし釣り竿を握る少年の体に、俄かに淡い緑色のオーラが漲ると、
「オラァッ!!」
気合一閃。背負い投げをするような動きで、一息に湖面で暴れる巨影を釣り上げた。
ズン、と重苦しい音を立てて畔に投げ出されたのは、水の中を自在に泳ぐ鰭と、獲物を引き裂く鋭い爪と牙を備えた水棲の竜であった。
「テメぇが噂の人食い魚竜だな」
ギョォァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
人の言葉など介さぬ魚竜は、不遜にも己を釣り上げた小さな獲物に向かって、牙を剥きだしにして鰐のような大口を開いて吠えた。
「へっ、釣られた獲物が、大人しくしてやがれ————」
それから半刻後、魚竜との激闘を制した少年は郷へと戻る山道を登っていた。
ズルズルと引きずるのは、分厚い甲殻が割れ、牙も爪も砕け散り、白目を剥いて絶命した魚竜の死骸。
血の匂いに惹かれて山の獣がちらほらと姿を現すが、未練がましく様子を伺うだけで、決して手出しはしない。小さくとも魚竜を仕留めた力量の持ち主だと、本能で察しているが故に。
有象無象を寄せ付けず、堂々と道を行く少年の前に、一人の男が立ちはだかった。
「おお、ゾア。もう仕留めて来たか」
「はい、師匠」
簡素な法衣を纏った、筋骨隆々の大男。青銅色の肌に、額から伸びる一本角。獅子の鬣のように豊かな白髪が伸びる。
自然体で歩みながらも、青いオーガ族の大男からにじみ出る強烈な魔力の気配に、遠巻きに見ていた獣たちは一斉に散って行った。
「ちょうどいい、急ぎで武仙会が開かれることとなった。お前も出ろ」
「えっ、俺が? よろしいのですか」
「すでにお前は立派な十傑。堂々と胸を張って出るがいい!」
郷において全ての決定権を持つ集会が、武仙会。仙位とは、いわば郷での強さランキング上位者だけが名乗れる称号である。
ゾアは今年で十五になる少年だが、最年少で仙位を獲得するに至った、将来有望な天才児だ。
快活に笑って武仙会への参加に太鼓判を押されて、ゾアは喜びを隠し切れぬ様子で、師匠と共に風のような速さで郷へと戻った。
そして日が傾き始めた夕刻。ヴェーダ武仙郷の中央に建つ大闘技場にて、仙位を授かる全員が集った。
「うむ、皆の者、よくぞ集まってくれた」
武仙会を与るトップは、ゾアの師匠たるオーガ。姓はなく、名をマスラーヴァ。郷で最強の称号である『唯天』の位を持つ男。
仙位は一位から順の数字で位を授かる人数も増える。
最強たる『唯天』は一人。
二位となる『双極』は二人。三位『三柱』は三人。
以下、『四聖』、『五将』、『六武』、『七士』、『八衆』、『九栄』、『十傑』、と続く。総勢五十五名の、武を極めた勇士達である。
ヴェーダ武仙郷において、老若男女、種族、出身の差異は一切ない。ここで求められるのは、ただ強さのみ。
だが教えられるのは蛮勇・暴力ではない。太平の世を守る、『正しき強さ』である。
ヴェーダの教えに従い、厳しい鍛錬と数々の死線を潜り抜け、仙位を持つに至った五十五人は、それぞれ性別も種族も異なる。得意な得物も、技も、戦い方も同じ者の方が少ない。
唯天マスラーヴァは青オーガで、弟子であるゾアはハーフエルフだ。ヴェーダにおいて種族の違いなど些末なこと。正しき強さの教えの前に、人は誰もが平等であり、肩を並べて戦う仲間となる。
「皆は、『暴君鎧』の噂を聞いたことがあるだろうか」
マスラーヴァの言葉に、俄かにざわめきが起きる。
更なる強さを求め続ける仙位持ちにあって、より強く、より恐ろしき、強大な力を持つ存在の情報は千金に値する。その噂、誰もが聞き及び、詳しく調べて回っているところ。師匠の下でまだまだ修業に励むゾアですら、その恐怖と共に伝わる二つ名を聞いたことがあった。
「聖アヴァロン王国、第八代国王・マクシミリアン・ミア・アヴァロン。地獄の悪鬼の王が如き、禍々しい漆黒の古代鎧に身を包んだ、正しく暴君と呼ばれるに相応しい男だ」
この南北大河に挟まれたトリシエラ山周辺地域にはまだ影響こそないが、聖アヴァロン王国は全く無秩序に各地へ侵略の魔の手を伸ばす、魔王の野心に狂った国として、毎日その蛮行がこの地にまで伝わって来るほどだ。
パルティア大草原からさらにレムリア海を越えた先にある、古のエルロード帝国の帝都アヴァロンがあった場所、と伝わる地は長らく魔王を志す者達によって熾烈な奪い合いが行われていたようだが、それも聖アヴァロン王国の成立と同時に沈静化していた。それに伴いレムリア沿岸地域も少しずつ戦火が収まって行き、ゆくゆくは貿易で結びついた同盟で固まるだろうと思われていたが————このマクシミリアンが八代目国王となってから、聖アヴァロンは狂気の覇道を進み始めた。
東西南北、全ての方角に侵略開始。剣王と名高き強き王の率いるスパーダに喧嘩を売り、レムリア海の覇者と呼ばれるルーンに殴り込み、海を渡った先ではパルティアのケンタウロスを狩り始めた。
普通ならば全ての戦線が破綻して、すぐに全方位から叩き潰されて終わるはずの無茶な侵略戦争はしかし、暴君マクシミリアンのあまりの強さ故に、破竹の勢いで侵攻していった。
すでに小国は勿論、中堅国家さえ苛烈な攻勢に耐えきれず次々と降伏。スパーダやルーンといった元から強力な軍備を整えていた国だけが、辛うじて自国の領土を守り切れているといった状態だ。
「かの暴君がいずれヴェーダにも魔の手を伸ばすと?」
「レムリアの海も渡って来たのだ。大河を超えるに躊躇するとは思えん」
「すでにパルティア草原の方々で、アヴァロン軍が乱暴狼藉を働いているとか」
「パルティアが落ちれば、こちらに進路を取る可能性は十分にあるだろうな」
「それは困りますね。ようやくこの地も平穏を取り戻したところですのに……」
マスラーヴァが詳しく説明するまでもなく、それぞれの聖アヴァロン王国に対する懸念が共通していることは、すぐに明らかとなった。
そしてこの武仙会で、わざわざ今パンドラで最大の火種となっている狂気の王国の話題を出した理由は、たった一つ。
「近く、パルティアではレーベリア平原にて、聖アヴァロン王国と一大決戦を行うと聞いた」
マスラーヴァの声に、一堂はしんと鎮まり一言一句聞き逃さぬよう耳を傾けた。
レーベリア平原はパルティアの広大な大草原の中でも、北部地域を指す。バビロニカと呼ばれるケンタウロス部族の中心地があり、このレーベリアがレムリア海から上陸してきた敵を迎え撃つに最もふさわしい場所である。
「私がまだ大陸を放浪する武者修行に出ていた頃、パルティアのとある部族に大変、世話になったことがある。此度は、その部族から古い縁を頼り、この私宛に届いた依頼となる————レーベリアにて、かの暴君をどうか討ち滅ぼして欲しい、と」
遠いパルティアの、ささやかな縁しかない依頼主だ。マスラーヴァの下に、この依頼が届いただけでも奇跡的。
しかしその内容は、今このパンドラで誰も手が届かない、暴虐の限りを尽くす古代鎧を纏いし王。全く以て、割に合わない。
傭兵稼業を通してトリシエラ山周辺地域の安定に努めてきたヴェーダ武仙郷であっても、これを受けるにはあまりにも負担もリスクも大きい。
「この依頼を受けるか否か、皆にその是非を問う!」
だが、正しき強さの教えを受けたヴェーダの勇士達に、リスクを恐れる者がいようか。
この地が平穏であれば、それより外はどんな地獄に陥ろうと構わぬと思うか。
否、断じて否。
ヴェーダ武仙郷は、トリシエラを制し、南北大河に囲まれた地を平定してみせた。自分達の正しさは、すでに証明されている。
ならば次は、より広く、より遠くへ。世は正に暗黒時代。パンドラ大陸には、まだまだ無数の戦火が灯っている。
消さねばならぬ。他でもない、正しき強さを持つ自分達が。太平の世をもたらすために。
「依頼を受ける!」
「賛成!」
「俺はやるぜ!」
「暴君、討つべし!」
「今こそ我らヴェーダ武仙郷の名を、大陸全土に広める時!」
満場一致の賛成可決。
マスラーヴァは深々と同胞達に頭を下げ、感謝の言葉を叫んだ。
初めて参加した武仙会で、新参者として一言も発することのなかったゾアだったが、誇り高き先達の姿に、自身の胸の内に強い闘志が宿った————これが武仙郷の終わりを告げる、最悪の判断だったと知るのは、全てを失った後のこととなる。
一か月後。唯天マスラーヴァ率いるヴェーダ傭兵団が決戦の地に到着した。
幸いと言うべきか、暴君マクシミリアンは一時的に別な戦線に向かったらしく、レーベリア平原は静かなものだった。
しかし明日にでもマクシミリアンが増援を率いて草原に乗り込んでくる、と専らの噂。ヴェーダ傭兵団は、祖国防衛に燃えるケンタウロス戦士達と共に、敵の到来を待つのであった。
そして数日後、ついに決戦の時は来た。
「あ、あれが暴君鎧……」
「なんと、おぞましき軍勢だ」
草原の向こうから、暴君自らが先頭に立ってやって来る。無数の軍勢を引き連れて。
翻る数多の黒龍旗。古のエルロード帝国を象徴する、魔王の軍旗だ。
連戦連勝。大陸各地で暴虐と殺戮の限りを尽くすと言われる狂気の聖アヴァロン軍の兵士達は、誰もが生気を失い、力なく項垂れたまま行軍していた。
欲望にギラついた野蛮人の群れを想像していたが、目の前の軍隊は真逆である。覇気の欠片もなく、その様子は敗残兵そのもの。
「信じられん。ただの恐怖心のみで、あれほどの軍勢を統べているのか」
欲もなければ大義もない。彼らはただ、暴君に逆らうのが恐ろしくて、大人しく従っているのだと、マスラーヴァは一目で気づいた。
あんな恐怖でのみ人を支配する者が、大陸の全てを征する魔王となったらば……暴君マクシミリアン。あの男は何としてでもこの場で殺さねばならぬと、更なる義憤に皆が燃えた。
「さぁ、行くぞ! ヴェーダの法の下に!!」
戦いが始まった。
先陣を切るのは、パルティア大王の率いる空前絶後の大騎馬軍団。
恐怖心で縛られた弱兵など、一気呵成に蹴散らす勇猛なケンタウロス戦士の騎兵突撃はしかし、
『王権認証。RX-666・マクシミリアン、起動————』
暴虐の嵐が吹き荒れる。
圧倒的な突破力を誇るはずの騎兵突撃を前にしても、単独で先頭に立つ暴君は一歩も退かない。進む。血塗られた覇道を、進み続ける。
赤黒い光が瞬くのを、ゾアは師匠の隣で見ていた。
怖気がするほどの魔力の気配。あの光が瞬く度に、一体どれだけのケンタウロスが死んでいるのか。
騎兵突撃を真正面から粉砕して突き進む暴君の姿に、あまりの恐怖心から逃避するかのように、雄叫びを上げてアヴァロン軍も動き始めた。
「まずいな、これは。泥沼の乱戦になるぞ」
マスラーヴァの言う通り、早々にパルティア側の陣形は崩壊し、後ろから追い立てられるように決死の突撃を敢行するアヴァロン軍兵士によって、瞬く間に草原はメチャクチャな大乱戦へと発展。
そしてこれが聖アヴァロン軍の必勝パターンでもある。
「行くぞ」
だが、そうはさせじとヴェーダ傭兵団が躍り出る。
手頃な獲物を狩り尽くし、ケンタウロス戦士達もあまりの恐ろしさに怨敵を前に逃げ出し始めたタイミング。
マクシミリアンが逃亡するケンタウロスの追撃に移るよりも前に、マスラーヴァ率いる傭兵団が乱戦の最中にも関わらず包囲網を完成させた。
「傍を守る騎士の一人もいないとは。悲しいな、暴君というものは」
敵も味方も泥沼の白兵戦に狂っている中で、マクシミリアンを囲むヴェーダ傭兵団だけが確固たる統率をもっていた。
暴君であるが故に、戦場であっても常に一人。マクシミリアンに並ぶ者はなく、その背を守る者もいない。
総勢五十を超える手練れに囲まれていると察しているだろうに、マクシミリアンは無言で周囲を眺めるだけ。
「語る言葉も持たぬか、狂気の王め。世を乱すその凶行、今ここで終わらせてくれよう————」
いざ、総攻撃。
マスラーヴァが満を持して全方位からの一斉攻撃を仕掛けようとした、その時、
『敵性判断、脅威度、大。巡航形態解除————戦闘形態起動』
それから五百年後。レーベリア平原には再び、アヴァロン軍とヴェーダ傭兵団が相対することとなる。
ただし、今回は敵ではなく味方として。
「————驚いたな、まさかヴェーダ法国のトップが直々に現れるとは」
「ほっほっほ、そんな大層なものではない。少しばかり、長生きしているだけの老いぼれに過ぎぬ」
聖王ネロの前に立つのは、ヴェーダ法国における武の頂点、『唯天』ゾア。
ヴェーダ法国建国当初から最強の座を守り続ける大長老。その歳は推定で五百を超えている。ヴェーダの生ける伝説と、幼い頃からネロは聞いたことがあった。
その存在に半信半疑ではあった。その地位と長寿から、唯天ゾアは法国の中枢から出てくることは滅多にない。一種の象徴として語られるだけかと思っていたが、
「何が少しばかりの長生きだ。お前、本当に五百年以上生きてやがるな、妖怪ジジイが」
「はっは! いやぁ、やはり若人はこうでなくては」
法国なら一発で首が飛ぶレベルの発言を前に、ゾアは闊達に笑い声をあげた。
見た目は壮健な老人といった姿。体も手足も細身だが、背筋はシャンと伸び、その立ち姿に一切の揺らぎはない。年の頃は七十か八十、あるいは細長い耳からエルフの血が混じっていることを鑑みれば、百を超えているだろうと想像するのが普通だ。
しかしネロは、白と黒のヴェーダ特有の法衣を纏った老人が、五百年の長きに渡って生き永らえただけでなく、今もまだ強大な力を保持し続けている、正しく『唯天』の座に相応しい絶対強者であることを一目で見抜いた。
「十字教の教義は知っているだろう。何故、俺達につく」
ゾア率いるヴェーダ傭兵団は、多種多様な種族で構成されている。ヴェーダにおいては法の下に人は平等、との教えを体現する集団と言えよう。
人間以外を魔族と差別する十字教とは、真っ向から相反するはず。むしろ率先して種族平等を掲げているエルロード帝国に与するだろうと思われるが、
「魔王クロノ。何としても、あの男の首が欲しい」
「分からんな。アイツとヴェーダには何の因縁もないだろう」
クロノの足跡を辿れば、これまでヴェーダ法国とは何の関りもないことは、すぐに明らかとなる。法国にクロノは一歩たりとも立ち入ったことはなく、これまでの戦いで何かしらの影響を与えたということもないはずだ。
またラグナ公国と違って、魔王を名乗る者に対して、特に警戒心を向けるという動きもヴェーダにはない。
何故、クロノにこだわるのか。生ける伝説たる唯天ゾアが自ら出張って来るほどの理由を、ネロは全く思いつかなかった。
むしろこれは、何かの罠なのではと言わんばかりに、あからさまな疑惑の眼差しをネロから向けられたゾアは、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「うむ、これはただの私怨だ」
2023年12月29日
早いもので、今年も最後の更新となりました。
来年も『黒の魔王』をどうぞよろしくお願いいたします!