第958話 黒竜大使
冥暗の月7日。
現在のエルロード帝国において最西端となる、ベルドリア西側国境線。
ここは陸路でパンドラ南西部へと繋がる要衝であり、平時であれば通常の交易路として、ついこの間は旧ベルドリアが十字教勢力からの支援を運び込むためのルートとしても使用されていた。
いまだ平定していない大陸南西部に蔓延る十字教勢力と相対するべく、ここには元からあった砦をさらに増築し、防衛線の強化を図っている。
いまだに拡大工事中の国境砦の前に、古の魔王ミアの御旗である黒龍旗を掲げた一団が現れた。
「————我こそは、黒竜伯ガーヴィエラ・ゲネレイル・ラグナであるっ!!」
砦が建設されている渓谷を震わせるほどの大声が轟く。
その声はビリビリと肌を刺激するだけでなく、生物としての本能にも危機感を訴えるほどの強烈な圧を伴っている。
「うわぁ……本当に黒竜来ちゃった……」
「わっ、わっ、わぁああああ! 本当に黒竜が来たぁあああああああああああああっ!!」
ラグナ公国より来る黒竜大使ガーヴィエラの到来を見て、同じような台詞を吐きながらも、全くテンションの異なる者が二人。
「お、怒らせちゃったらどうしよう……我、消し炭にされるかも……」
恐れおののくような震え声で呟いているのは、かの妖精女王の腹心にして良心、弱小ギャングのボスから帝国大貴族へと成り上がったエルロードドリームの体現者、カーラマーラ大公ジョセフ・ロドリゲスである。
「ぁあああああああああああああ!? 尻尾! 尻尾がもう生えてる! えっ、ちょっと待って、角も羽もあるんですけどぉ!?」
まるで憧れの王子様を見かけた少女の如くミーハーにキャアキャア言って騒いでいるのが、かつてベルドリアの竜王子と称えられた才気煥発の王太子ラシード・マウザ・ベルドリア。
竜騎士団の戦力を倍増し、サラマンダーさえ従え、今こそ我が国がアトラスを征する時、と野心を燃やしていたのも今は昔。心から愛する本物の黒竜と触れ合える竜騎士教導団の長として、趣味と実益を兼ねたお仕事に務める充実した日々を送る、帝国に下ったベルドリアで一番幸せな男だ。
「……ラシード君、お願いだから本人の前でそういうのは止めてね」
「無論です、大公閣下。このラシード、決して黒竜に不快な思いはさせません。誠心誠意、最高のおもてなしをしてご覧に入れましょう」
「いや君の仕事、我の護衛だからね。忘れないで」
あらゆることに中立・不干渉を貫くラグナ公国が、他国へ大使を派遣、それも爵位を持った本物の黒竜を遣わせるのは非常に稀なことである。ここ五十年で一度あったかないか、というほど。
そして何より、ベルクローゼンという黒竜を擁するエルロード帝国だからこそ、どの国よりも黒竜の強さを理解している。ラグナ公国との関係如何によっては、対十字軍戦略に大きな影響を及ぼしかねない。
敵対だけは何としても避けねばならない。大使とは非常に重要な交渉となるであろう。
よって、帝国でもその名を轟かせるカーラマーラ大公であるジョセフがわざわざ、帝国の隅であるベルドリア西端まで出迎えにやって来たのであった。
「早く! 早く行こうよ!!」
「よ、よぅし……それじゃあ、行くぞぉ……」
はしゃぐラシードを気にする余裕がないほど、帝国の未来を左右しかねない重圧を感じるジョセフは、弱々しく気合を入れてついに一歩を踏み出した。
「————遠路はるばる、ようこそエルロード帝国へ。我々はラグナ公国大使団を歓迎いたします」
開け放たれた城門の前にて、にこやかな笑顔を浮かべて出迎えの言葉をジョセフは放つ。
不安も恐怖も押し殺し、外面を取り繕うのはギャングのボスの頃からやっている。そして相応の精神防護の心得と、さらにリリィ直々の指導によって、ジョセフの内心を読める者はそうはいない。
(うわぁ、どうして世の中には怖い女の子ばっかりいるんだろう……)
読まれたら困る内心の呟きだが、紛うことなく本心でもあった。リリィを筆頭に、姿こそ美しい少女だが、破滅的な力を秘めた女ばかりが魔王の下に集り過ぎているせいで、そんな感想が漏れてしまうのも致し方ない。
そうして真っ向から対面を果たした、黒竜ガーヴィエラもまた同様。真の姿であるドラゴンではなく人型ではあるのだが、その身から迸る覇気は尋常ではない。
人の姿としては長い黒髪をツインテールで括った美しい少女だ。しかしミアの子孫以外で発現する黒い髪と爛々と輝く真紅の瞳は、黒竜種であることを示す。
いや、それ以上に人型でありながらも、随所にドラゴンの特徴を残す竜人と言うべき姿が何よりも雄弁に自らが黒竜であると主張していた。
側頭部から生える角に、やや小型の翼が背に。そして自身の胴と変わらぬ太さを誇る、長い尾も生えていた。
顔こそ少女らしいあどけなさを残す整った容貌だが、真紅の瞳は縦長の瞳孔である竜の目であり、口を開けば鋭い牙が覗く。
スラリと伸びた手足に、女性らしい起伏にとんだスタイルを誇ってはいるが、ジョセフにはこれ見よがしにギラつく漆黒の竜鱗を目にするだけで、その身に秘めた恐ろしい力を感じ取ってしまう。
少女の姿だが、彼女は確かにドラゴンだ。
本物の黒竜を前にした実感を嫌でも覚えてしまうが、それでも帝国を代表する貴族に相応しい態度と姿でジョセフは黒竜大使ガーヴィエラへと第一声を発したのだが、
「さぁ、今すぐ魔王を僭称するクロノという男を出せ! 私が自ら、その器を見定めてくれよう!!」
バシーン! と黒竜の尾を強く大地へ叩きつけてガーヴィエラの戦意溢れる大声が再び轟いた。
あの、もしかして宣戦布告されてます?
つい喉元まで出かかった台詞を、何とかジョセフは飲みこんだ。
「……恐れながら、今この場にクロノ魔王陛下はおりません」
「なに? ここはもうクロノ帝国の領土であろう!」
「はい、ここは帝国領の端も端。ラグナ大使団が最初に足を踏み入れる玄関口に過ぎませんので、今日はまず、このカーラマーラ大公ジョセフがお出迎えに上がった次第にございます」
ボスとして見栄を張るのに慣れているが、平身低頭もまたジョセフの得意分野。ロクな給料も払えないのに、昔のよしみでカオスレギオンを支えてくれる人達は多く、そんな彼らに若造に過ぎないジョセフの頭は上がらなかった。
その経験が生きたかどうかはまた別の話であるが、ジョセフはこの場において、何よりもラグナ公国と敵対するような展開は避けねばならない使命を負っている。
そんなことは出迎えを直々に命じたリリィが念を押す必要もないことだ。帝国と大遠征軍との戦いは、破竹の勢いで勝ち進み領土も急拡大しているのは事実だが、その実体は常に薄氷の上を歩くが如く。まだまだ油断や慢心など許されない状況に変わりはない。
そんな状況下で万が一にでもラグナ公国と敵対などすれば……ジョセフでなくとも、下手に出るより他はない。
「ささやかながら、歓待の準備をさせていただいております。まずはこのベルドリアにて、長旅の疲れを癒して————」
「魔王クロノはどこにいる! ここにいないのであれば、私が飛んで行ってやろう」
人様の国に来て開口一番ド無礼発言を穏便にスルーしてやったというのに、こちらの事情などまるで意に介さぬよう変わらぬ気勢を上げるガーヴィエラの反応に、ジョセフもつい口元が引き攣ってしまう。
(ど、どうしようリリィさん……我じゃあこの人、止められないよぉ……)
心の中でワンワン泣き言を言いながらも、ジョセフは余裕をもった微笑みの仮面を何とか被り続ける。
「そう事を急がずとも、よろしいのではありませんか。魔王陛下はラグナ公国との友好をお望みです。ですので、どうぞここは大使殿のご要望を聞かせていただく機会を設けてはもらえないでしょうか」
「私はクロノに会いに来たのだ。他でもない、黒竜の使命を果たすためにな。貴様のような下っ端を相手に、話をする時間などないわ」
取り付く島もない。まるで平民相手にするかの如く、全く聞く耳を持たない態度だ。
これ以上、食い下がっては次の瞬間にドラゴンの本性を現し襲い掛かってきかねない雰囲気。決して冗談ではなく、それほどの気迫と強烈な意思をジョセフは確かに感じ取った。
「それでは、大使殿は一刻も早く魔王陛下へと謁見することをお望みであると」
「言葉に気をつけろ、悪魔族。見定めるのは私の方だ」
「……承知いたしました。最も早く魔王陛下との顔合わせが出来るよう、ご案内させていただきます」
「黒竜を相手に、小賢しい時間稼ぎが出来るなどと思うなよ。私が少しでも邪魔をされたと感じれば、目の前の全てを焼き払って王宮に直接乗り込んでくれる」
「ご忠告、痛み入ります」
深々と頭を下げたジョセフの頬に、冷や汗が流れた。
まずい。非常にまずい事態である。
ラグナ公国は最早、帝国との外交などまるで気にも留めず、戦争になっても一向に構わんという態度で押して来た。
これは強気に出て交渉を優位に進めよう、などという交渉術では断じてない。もしそうであれば、下手に出たジョセフの態度に満足して引き下がり、次の交渉テーブルへつくことを望む。
だが黒竜大使ガーヴィエラは思惑も駆け引きも一切なく、純粋に言葉通りの意味でしか喋っていない。早く案内しろ。邪魔すれば全てぶっ壊してでも進む。脅しでも誇張でもなく、黒竜という最強の種族は本当にそれをするだろう。
(も、申し訳ございません、リリィさん……)
多少の時間稼ぎすらもままならず、心底悔いながらもジョセフもガーヴィエラが不審に思わない程度に、案内の準備を進めた。
「な、なんという傲岸不遜ぶり……これこれ、やっぱり黒竜はこうでなくちゃ!」
「ラシード君さぁ……」
帝国の危機になりかねない非常事態だと言うのに、一人だけ大満足して盛り上がっている竜騎士教導団長には重い溜息しか出てこない。
どうしようもない護衛役など放っておいて、ジョセフの命で砦の兵を整列させる。
開け放たれた城門の先、遮るものなど何もないよう道を開け、左右に兵士達が立ち並ぶ。最低限の歓迎を示す体面を整えるのを、ガーヴィエラは不動の姿勢で仁王立ちを続けて、不機嫌そうな顔で眺めていた。
「それでは、転移装置のある旧ベルドリア王城まで、ご案内させていただきます」
「うむ」
「こちらで竜車も準備しておりますが、お乗りになりますか?」
「いらん。自分の馬車に戻らせてもらう」
ガーヴィエラが乗って来たのは、黒塗りに黒龍旗の紋章が描かれている他には、特に変わったところはない普通の馬車である。他には僅かばかりの騎士と侍従、荷物を積んだ竜車が一台だけ続くのみ。
とても公国を代表する大使団とは思えぬ小勢。多少羽振りがいい個人の行商人といった程度の規模だが、そもそも黒竜であるガーヴィエラに護衛など不要。他国を訪れるにあたって最低限の体裁だけ取り繕った一団に過ぎない。
そんな小さな大使団の馬車へと戻ると素っ気なく言い放ったガーヴィエラだが、踵を返した途端に、その足取りはピタリと止まった。
「むっ……」
「何か御用がありましたでしょうか、大使殿」
眉間に皺を寄せた険しい表情でガーヴィエラが振り返れば、そこには穏やかな、もう肩の荷は全て降りたと言わんばかりの安堵感が滲み出ているジョセフの微笑みがあった。
「なるほど、来たか」
ガーヴィエラはすでにジョセフから視線を外し、空を見上げて呟いた。
燦燦とした冬晴れの青空に、キラリと輝く一筋の赤い流星。
クォオオオオオオオオオオオン————
飛竜の国ベルドリアに、竜とは異なる鋼の怪物の咆哮が轟く。
赤い流星は真っ直ぐ隕石と化してこの場へと落ち行き、
「リリィ女王陛下のっ、おなぁりぃいいいいいいいいいいいいいいい!!」
天より降臨せし帝国の妖精女王。ジョセフの声に、集った兵達は一斉に跪く。
「————話は聞かせてもらったわ。余計な苦労をかけてしまって、ごめんなさいね、ジョセフ」
「こちらの方こそ申し訳ございません! 我が身の未熟を恥じ入るばかりにございます!!」
赤い光の粒子を吐きながら宙に浮かぶ魔改造古代兵器こと専用機甲鎧『ヴィーナス』の上で、ジョセフを見下ろしまずは労いの言葉をリリィはかけた。
「いいのよ。後は私に任せて、下がっていなさい」
「仰せのままに! オール・フォー・エルロードッ!」
救世主の登場に心の底から安堵しながら、ジョセフはリリィの言葉通りに引き下がった。事はすでに、自分如きが出る幕ではないと心得て。
「ふん、貴様が噂の妖精女王か。魔王を操る影の支配者との話もあるが、私にとってはどうでもいい。用があるのはクロノという魔王を騙る男ただ一人。さぁ、この国諸共消し炭になりたくなければ、今すぐ連れて来るがいい」
「ラグナ公国から大使が来ると聞いていたのだけれど……困ったわね、まさか野良ドラゴンが襲ってくるなんて」
あっ、これ戦争だわ。
ラグナと正面戦争になる。
リリィの一言で、ジョセフはそう察した。ジョセフでなくとも、この場で声を聞いた者は誰もが察する。これ以上ないほどの煽り文句をリリィは吐いたのだ。
「この私に向かって何と言った。妖精風情が、この黒竜を愚弄するか」
「人様の国に来るなり、言いたい放題の上に、焼き払うと脅すなんて。絵本に出て来る悪いドラゴンそのものね」
ジョセフが驚愕したように、リリィもまた驚いていた。
まさかこんな短絡的に喧嘩を吹っ掛けて来るバカを寄越して来るとは。
これでは宣戦布告も同然だ————パンデモニウムの最下層、白百合の玉座にて全てを見聞きしていたリリィは、ガーヴィエラが一言目を発した時点で飛び出して来た。
ジョセフでは手に余る。純粋な外交交渉であれば何の問題もなかったが、初手から武力にモノを言わせて魔王に会わせろと迫られれば、交渉の余地など最初からない。
よってリリィは急ぎ転移でベルドリア王宮まで飛び、『ヴィーナス』を展開してテイクオフ。赤い流星と化してベルドリア西端のここまで最速で駆け付けたのであった。
そして到着してから5秒で黒竜と睨み合い。
爛々と輝く真紅の竜眼と、妖しく光る翡翠の瞳が交差する。
「……今すぐひれ伏し、クロノを連れてくると約束すれば、その無礼を不問にしてやっても良い」
「可哀想に、ラグナの山奥に引き篭もっていたせいで、世の中の礼儀も常識も知らずに育ったのね。竜王ガーヴィナルはダイダロスを治めた偉大な国王だったけれど————娘がこんな有様では、浮かばれないわね」
「この羽虫がっ! 私の前でその名を口にするなぁっ!!」
強力なテレパシー能力を持つ妖精を前に、無防備に心を晒す方が悪い。ベルクローゼンではこうはいかない。紛れもなく、それはガーヴィエラの甘さ、未熟さの証だ。
リリィを前にして自分の心の内も隠せないようであれば、最も触れられたくない部分を突かれるのは当然のこと。
黒竜ガーヴィナル。かつては誰よりも尊敬していた、愛すべき父親。
しかし自分を捨てて、自らの野心をとった男。黒竜の使命を放棄した裏切り者。
ガーヴィエラの胸中で今も解消されることなくドロドロと渦巻く父親への愛憎の念など、リリィともなれば嫌でも目に入ってしまう。
「貴様は今、黒竜の逆鱗に触れたぞ。もう全てが手遅れだ、私の怒りがこの国の全てを焼いてくれる」
「あらやだ、怖い。そんな危険なモンスターなら、冒険者ギルドに討伐依頼を出さなくちゃ」
無遠慮にトラウマに触れられ、烈火の如き怒りに燃えるガーヴィエラを、リリィは嘲笑う。
次の瞬間にドラゴンと化して、怒りのブレスをぶっ放さんばかりの彼女に、機先を制するようにリリィは口を開いた。
「けれど、もし貴女に欠片でも黒竜としての誇りがあるのなら————決闘しましょう」
「決闘、だと」
「そうよ、私と貴女。一対一での決闘」
その言葉に、ガーヴィエラの怒りは帝国全土からリリィ一人へと集約されてゆく。
ブレスでこの無礼極まる羽虫を消し飛ばした後は、二度と国など興せぬようアトラス全土を焦土に変えてくれようと思っていたが、
「黒竜たるこの私を相手に、よくぞ決闘を挑むと吠えた」
か弱い妖精族など、所詮は魔王が集めた手駒を頼みとして偉そうに踏ん反り返っているだけだと思っていたが、誰の手を借りるでもなく、自らの力のみを頼りに一対一での決闘を言い出すとは、怒りに燃えるガーヴィエラをしても驚きを感じた。
むしろ、それほどまでに自分の力に自信があるのなら、ちょうどよい。一撃で灰と化してしまっては、全く腹の虫も治まらない。
「いいだろう、妖精女王リリィ。貴様の決闘を受けて立つ」
「それじゃあ、明日の正午。場所はアトラス大砂漠で」
「今すぐこの場で始めても良いのだぞ」
「ラグナから歩き疲れて負けた、と言い訳されたら困るもの。今日はゆっくり休んでてちょうだいね?」
「————ふん、いいだろう。精々、この一晩で策を弄するがいい」
かくして、クロノも知らない内に帝国の存亡を賭けた決闘が行われることとなった。
「ふぅぉおおおおお、リリィ女王と黒竜のガチ決闘!? ヤバい、これマジで世紀の一戦だよ、歴史に残る! 絶対録画して永久保存版確定ぃ!!」
「ラシード君、お願いだからもう君は何も喋らないで……」