第956話 超えられぬ海
ダマスクにてあまりにもあっさりミサと袂を分かち、自ら始めた大遠征軍を抜けてアヴァロン奪還に向けて来た道を戻り始めた、ネロ率いるネオ・アヴァロン軍。
特に足の遅い攻城兵器などは置き去りにしたこともあり、その歩みは順調そのもの。様々な勢力が我先にと占領した各地であっても、使徒たるネロには平伏せざるを得ない。補給も現地で十分以上に賄うことが出来た。
だがその帰路は、レムリアの海を前に止まることとなった。
「ちいっ、ルーンか……」
広大なパルティアの大草原を縦断し、北部レーベリア平原にある首都バニロニカまで戻って来た時に、ようやくレムリア海の現状が判明し、ネロは忌々し気に呟いた。
出発地点であるアヴァロン一の港町セレーネ。そこへ最短で渡れる上に、大軍を運ぶのに十分な設備の整ったレムリア沿岸南西部の都市国家ウーシアから船を出す予定であったが……
「レムリア海はルーン海軍によって封鎖されています。セレーネへと渡るのは不可能です」
「腰抜け共が。奴らに睨まれただけで、もう海も渡れないと抜かすか」
淡々とありのままの現状を報告するのは、今や腹心たる竜騎士団長ローラン。
巨大な内海であるレムリア海に浮かぶ島国ルーン。かつては海の覇権を争い合う時代もあったが、現代のアヴァロンにとってはスパーダに次ぐ友好国であり、交易相手でもあった。
ルーンはレムリア海を通じて遥か大陸西側にも繋がる中継港だ。長らく中部都市国家群が平穏でいられたのは、ルーンを介して沿岸部の都市国家と活発な貿易がされたこと。そして何よりレムリア海の治安が安定していたことである。
だがしかし、十字軍の出現によって俄かに十字教が復権したことで、平和は破られた。そもそもが、偽りの平和に過ぎなかったと言うべきかもしれない。
アヴァロンはネロの謀反によって十字教を掲げるネオ・アヴァロンへと替わり、その後すぐに魔王クロノによってエルロード帝国に征服された。十字教か否か、各国の情勢変化は目まぐるしい中、ルーンは沈黙を保っていたが……どうやら、完全にエルロード帝国に与する方を選んだと明らかとなった。
「ルーン海軍は強大にして精強です。対抗するためには、沿岸都市国家の艦隊を集結させるしかありません」
不機嫌さを隠さぬネロにも、全く臆することなく彫像めいた無表情で言葉を続ける。
「ふん、出来もしないことを」
「聖王陛下のご威光をもってすれば、不可能ではないかと」
「俺にレムリアの海岸線を端から端まで歩いて来いってか?」
冗談ではない。面倒臭すぎる。
だが各国に檄文を飛ばしただけで、即座に応えるはずがないともネロは理解していた。愚者は目の前に危機が迫らなければ動かないのだから。
「正攻法で海軍戦力を集めるには、それしか方法はありません」
「ルーン海軍を破る必要はねぇ。俺はセレーネに渡れればそれでいい」
「それを最も警戒しているのです。ルーン海軍はセレーネへ通じる航路の哨戒を目に見えて増しています。そして恐らく、セレーネには帝国軍も守りを固めており、最悪の場合、すでに艦隊まで用意されているかもしれません」
「今すぐ強行突破すりゃあどうなる?」
「ご命令とあらば、我らは海を渡って見せましょう。ただし『ドラゴンハート』は半減。地上部隊は全滅かと」
聞くまでもない結末だ。海の上で敗れるというのは、そういうことである。
空を飛べる竜騎士は例外だが、レムリア海を縦断するのはそれだけで航続距離の限界ギリギリ。それを少なからず海戦で消耗すれば、セレーネまで届かぬ者の方が多いであろう。
「聖王陛下が伝説になぞらえて、海を割る能力も授かっているならば、十分に勝算はありますが」
「あるわけねぇだろそんな能力」
白き神はネロが望む力を授けたが、望んでもいない能力までは授けていない。
「最低限、レムリアを突破できるだけの船がありゃあいい」
「それでは、各都市国家に応援を?」
「仕方ねぇ、流石に俺も船がなけりゃあ海は渡れねぇからな。近場に顔を出すくらいはしてやろう」
「ご英断かと。港に船も集めさせましょう」
「ああ、あるだけかき集めて来い。どうせ時間がかかる、ついでに船も作らせておけ」
「これから建造するとなると、出来ても輸送艦が精々でしょう」
「兵を乗せられれば十分だろ。人手も奴隷も、幾らでもあるんだ、それなりの数は揃うだろう」
「では、そのように————」
ルーン海軍による海上封鎖によって、ひとまずはこれを突破するための準備を進めるよう動き出したが、その数日後には、新たな凶報がネロの元へともたらされた。
「バカが、ミサの奴……素人のくせに、一人で挑むからこうなるんだ」
第十一使徒ミサ、敗北。
大遠征軍にとって衝撃的な報告ではあるが、ネロとしては半ば予想的中といったところ。強いて予想外といえば、ミサの死があまりにも早かったくらいか。
ミサは自分と違って戦闘能力も経験も皆無の、ズブの素人、そこらの町娘も同然の少女に過ぎない。そんなどこにでもいるただの少女に、使徒として絶大な力を白き神は与えたのだ。
ミサの戦闘スタイルが加護の能力頼みであることは、多少なりとも共に過ごした間に明らかとなっている。
戦いの才能はない。だが圧倒的な使徒の力と、古代兵器たる天空母艦ピースフルハートを駆り、十万に届かんばかりの大軍を率いているのだ。未開の蛮族獣人が蔓延っているだけのヴァルナ森海などあっという間に蹂躙し、帝都たるパンデモニウムを控えたアトラス大砂漠で、魔王軍とミサの決戦になるだろう、とネロは予想していた。
そして万全の迎撃態勢を整えた魔王軍を前に、自分のいないミサは敗れ去る……と思っていたが、まさかヴァルナ森海の段階で討たれるとは。
「所詮はただの女か」
勝てないにしても、意地を見せて魔王軍に、あるいはクロノ自身に一矢報いることもなく、大敗したらしい。
魔王軍の虎の子の戦略兵器たる天空戦艦シャングリラはピースフルハートと半ば相討ちの形になったらしいが、時間が経てば必ずやシャングリラとピースフルハートの両方を復帰させるだろう。
そして何より、クロノも魔王軍幹部も兵士も、これといった損耗はない。ミサとピースフルハートを失った大遠征軍は一方的に蹴散らされたという。
「魔王軍は早くも、アダマントリア奪還に向けて動き始めているそうです」
「時間稼ぎにすりゃならねぇな」
ローランの報告に、うんざりした顔で卓上の地図へ視線を落とす。
魔王軍を示す赤い駒は、ヴァルナ森海より北上し、アダマントリア南部手前に置かれている。
「ダマスクは確か、なんだったか、聞いたこともねぇような小国の」
「ローゲンタリアでございます」
「あんな雑魚共じゃあ、魔王軍を相手に守り切れねぇだろうな」
「ダマスクの堅牢な防備は健在です。ヴァルナから戻った大遠征軍と合わせれば、それなり以上の兵力となります。籠城戦に徹すれば、年単位の時間を稼ぐことも十分に可能かと」
「期待なんざ出来るわけねぇだろ。どいつもこいつも、俺がいなきゃロクに戦えもしねぇくせに、デカい口ばかり叩きやがって」
アヴァロンを奪い返され、同じ使徒であるミサもあっけなく敗れた。これで有象無象の小勢が叫ぶ大言壮語を、信じられるはずもない。
弱い。弱い。弱者ばかり。そのくせ口だけは一丁前。
「おいローラン、レムリアを超えられる船を集めるのと、クロノがここまでやって来るの、どっちが早いと思う?」
「ダマスクが三ヶ月以上持ちこたえなければ、魔王軍はパルティアへと進軍してくるかと」
迷うことなく言い切るローランの言葉に、これ見よがしに溜息を吐きながら、ネロは命じた。
「クロノの方から俺に追いつくってんなら、いいだろう————このレーベリア平原で、奴を迎え撃つ」
「うわぁあああああああああああああああん! ミサちゃん死んじゃったぁあああああ!!」
素直に号泣しながら第十一使徒ミサの死を悼んでいるのは、先輩たる第八使徒アイ。
スパーダ王城にある王族のプライベートエリアにて、豪勢な食事の数々を並べられた前に座るアイは、アイゼンハルト王子の体も相まって本物の王族らしい風格が漂う。漂っていた、というのが正確なところ。
今回の体では制約ナシの王族プレイを楽しむアイが、王子様らしく贅をつくした宴をしている最中に、その悲報がもたらされたのだ。
「はぁああああ……ミサはさぁ、小生意気でうるさいメスガキだったけど、でもそこがまた可愛い後輩だったんだよねぇ……」
「……左様でございますか」
大泣きに泣きながら、ミサとの在りし日の思い出語りを一方的に聞かされているのは、十字軍総司令官アルス枢機卿である。
時を同じくしてミサ敗北の一報を聞き、どうしたものかと頭を悩ませ始めた途端に、アイから追悼式だと呼び出しを受けてしまったのだ。
何故自分なのか、他に誰かいないのか、こんな忙しい時に、と諸々の不満をひたすら心の奥へ沈めて、神に選ばれたる超越者にあらせられる使徒様のご機嫌を取ることをアルスは強いられていた。
「それほどまでに悲しんでおられるならば、アイ卿は報復を?」
せめてこの無駄な時間を少しでも実りあるものにするべく、今の内に第八使徒アイがこれからどう動くつもりなのか、探りを入れることとした。
「んん? 報復なんてとんでもない! これでますます、クロノくんとの再戦が楽しみになってきたよ!!」
今までの涙はなんだったのか、というほど上機嫌に笑いながら、肉汁滴る骨付き肉を豪快に食らいつく。ついでにジョッキに並々と注がれた、冷えたエールを一気飲み。
「ぷはぁ! いいかいアルス君、ここだけの話、私とミサはさぁ、クロノくんとは少しばかり因縁があってだねぇ」
「アルザスでのことならば、聞いております」
「なんだよ知ってんじゃーん!」
あはは、と笑いながら脂のついた指先で突っつかれたアルスの頬が引き攣る。
「こう見えて私ってば、それなりに長く使徒やってんの。だから今まで、色んな戦いがあったワケよ」
化け物め、と内心で思いながら、見た目だけは赤い髪の偉丈夫を眺める。
これがついこの間までは、うら若き冒険者の少女であったとは、とても信じ難い。
他人の体を乗り換えながら、人間としての寿命を超えて生きながらえるとは、シンクレアにおいてはとんでもない邪法もいいところだ。神の摂理に反する、許されざる存在。
しかしそれが、白き神が与えた加護の力で成されたならば、聖なる行いとして崇拝されるのだ。アイの存在をどこまでも素直に神の奇跡の体現、と崇められる原理主義者がアルスは少々、羨ましく思っている。
マトモな頭を持っていれば、こんな化け物となどお近づきにはなりたくない。使徒でなければ、おぞましい邪法使いとして即刻処刑したいくらいだ。
そうでなければ、次の瞬間にはアイに自分の体を奪われているのかもしれないのだから。
「戦いってのはさ、ただ戦えばいいってものじゃないの。そのまま戦うだけで、最高の戦いになるんてのは正に奇跡的な巡り合い、神様お願い、どうか運命の好敵手を、って願うくらい、滅多にないもんなのよ」
「ええ、確かに、自分と拮抗する実力の者が常に相手になるとは限りませんからね。ましてアイ卿が満足できるほどの実力者とくれば、国に一人いるかいないかの英雄となりましょう」
「そうそう、そうなのよ! 使徒になった唯一の後悔は、強くなり過ぎたこと」
「故にこそ、アイ卿は自ら身分と力を隠しておられるのでしょう」
「うん、使徒が戦いを楽しむためには、縛りプレイが必須なのだよ。でも、クロノくんは久しぶりに……いや、これまで誰も至れなかったステージまで、登って来てくれそうなんだよね」
当然だ。これほどまでに使徒が次々と打ち破られたことなど、百年前の大戦期にまで遡らなければならない。
かつてアルスは地方で異教徒の侵略に抵抗する激戦を経験したが……使徒にとっては、あの頃の死闘でさえお遊びのようなものなのだろう。第七使徒サリエルが加わってからの反転攻勢の凄まじさを、身をもって体感しているからこそ、アルスは使徒の力の強大さを理解できている。
それは翻って、三人もの使徒を倒した魔王クロノの恐ろしさを、十字軍の誰よりも正確に理解できると言ってもいい。
「私の待ち望んだ強敵。その上さらに因縁もアリアリと来ればさぁ、盛り上がらないワケないよねぇ?」
「それでは、アイ卿はまだ魔王クロノとの戦いは期を待っている、ということですか」
「うん」
平たく言えばそうなるね、とヘラヘラ笑いながら、アイはズズズと音を立ててスープを飲み始めた。
「お体の具合は、如何でしょうか」
「もうとっくに治ってるに決まってるじゃん。久しぶりに棺にどっぷりだったし」
ファーレン侵攻から戻ったアイが、強烈な呪術を受けて負傷をしていたことには驚いたが、残念ながら、いや幸いと言うべきか命に別状はなかった。そして十字軍のパンドラ侵攻の本拠地として、様々な設備が日夜充実してゆくスパーダにあっては、治療や解呪の体勢も万全である。
「では、このままスパーダにて魔王軍の襲来を待つのですか?」
「それはまだもうちょっと先になりそうだし、うーん、あっ、そうだ! 北のエルフ狩りに行くんだった!!」
「ファーレンの次はオルテンシアですか」
「そうそう、そこ! あそこってさぁ、王族がハイエルフってマジ?」
「そのような噂がありますが、何分、排他的な国のようで。あまり正確な情報はありません」
パンドラ大陸の北端まで、北部で最も広大な領地を誇るのがエルフの国オルテンシアである。
スパーダでは少々の交易がある程度で、あまり活発な交流はない。とはいっても、アスベル山脈を隔てた上に、さらに北上してようやくたどり着く。地図上の直線距離で南端のカーラマーラほど離れてはいないが、遠い異国であることに変わりはない。
「パンドラ北部侵攻のためのルートが、ようやく開通されました。まだまだ手つかずの大陸北部を狙う者達は多く、近い内に大規模な遠征隊が組まれるでしょう」
アルスは持参した地図を広げてアイに示す。
アヴァロンからスパーダまで北へ行く道を塞ぐように並び立つのが、アスベル山脈である。アヴァロン側にはハーピィの国家ウィンダムがあるのだが、スパーダのある東側までその領域は伸びてはいない。
そして現在、魔王に奪い返されたアヴァロンは帝国領としてスパーダ側へと睨みを利かせ、日々その国境防備を固めている。さらにはアヴァロンの一部地域をウィンダムへと割譲した結果、山から下りて来たハーピィも大々的に砦を建設し始めている。
スパーダからアヴァロンへ侵攻するならば、まずは平地に居座ったハーピィから相手にしなければならない。アルスはこれを、自分達に対する備えとして、魔王がわざとウィンダムへと領地を譲ったと考えている。
ただでさえ強固に築かれつつあるアヴァロン国境の防備に加えて、ウィンダム領も挟むことで、さらに一枚防衛線を構築している。これを一息に破るのは難しいだろう。
たとえ第八使徒アイに先陣を切らせて、力業で突破を図っても、その間にアヴァロン国境には魔王クロノを筆頭とした帝国の対使徒戦力を集結させる。
現状においては、後先考えずに突っつくのは、あまりにもリスクが高い場所と化している。攻めるならば、こちらの支配領域をもっと広げ、魔王のエルロード帝国そのものを弱体化してからでなければ、割に合わない。
そしてスパーダから南側はと言えば、完全制覇目前でファーレン領の大半を奪い返され、何とか首都ネヴァンを維持しているといった程度。そこからさらに南下させてパルティア方面への侵攻は順調ではあるものの、一応の同盟関係にあるネオ・アヴァロンと大遠征軍と支配地の奪い合いが起きかねないラインまで迫りつつある。
その上さらに、魔王軍は瞬く間にアトラス大砂漠を平定し、ヴァルナ森海でミサを破り、今まさにアダマントリアまで魔の手を伸ばしかけている。怒涛の勢いで北上してくる魔王軍と、近い内にパルティアでぶつかるのは目に見えているのだ。
「にゃるほど、だから今は北が狙いどころってワケ」
「そのように考える者が多いですね」
十字軍を構成する多くは、シンクレアから野心を持ってやってきた貴族連合である。信仰心を燃やして邪悪な魔王軍を討つべし! と叫ぶ者はおらず、彼らが望むのは楽して手に入る美味しい領地だ。
防備の固められたアヴァロン、制圧したものの奪還されそうなファーレン、大遠征軍と争うかもしれないパルティア、どこにもリスクがある以上は、今は手つかずとなっている北部への侵攻を目論むのは当然と言えた。
その結果、スパーダで最も北西にあるダキア村から、アスベル山脈を越えるルートが整備されることとなった。多くの者の欲望によって尽力された結果、驚くほどの短期間で険しい山脈を貫く道が開通したのだ。
「じゃあ、私もそっちに行くから。くれぐれも、スパーダ落とされないようにね」
「ご心配には及びません。ここはパンドラ侵攻の最重要拠点として、万全の防備を整えておりますので」
「そりゃそうだよね、ジュダスのお爺ちゃんもいるし」
ここでジュダスの名前を出してくるところが、アイがミサと違ってただ能天気に好き勝手やっているだけの小娘と決定的に違う。
伊達に長生きしていないのだろう。アイもまた、ジュダスという謎の多き老人の力を借り、世話をされたことがあるのだ。
「第八使徒アイ卿も、くれぐれもお気をつけて」
「にゃはは! 吉報を待つが良い!!」
かくして、アイはハイエルフの美女を求めて大陸北部へと向かう。
ネオ・アヴァロン軍から、第八使徒アイを対魔王軍の応援として寄越せないかと連絡が来るのは、アイがウキウキで旅立った一週間後のことであった。
2023年11月17日
第45章はこれで完結です。
次章ではいよいよネロと決着をつける、大きなエピソードになるかと思います。
それに見合った話数もかけるので、次章でついに第1000話の大台に到達するでしょう。今、連載を追ってくれている、あるいは追いついてくれた読者の方々、本当にありがとうございます。
これからも『黒の魔王』を楽しんでいただければ幸いです。それでは、次回もお楽しみに!