第943話 ヴァルナの帰路
第十一使徒ミサを討伐し、天空母艦ピースフルハートを制圧した後は、そのまま残党狩りも同然の流れであった。
数万規模の大遠征軍だったが、その中核戦力であり何よりも象徴的な使徒と空飛ぶ古代兵器を失えば、その戦意は落ちるところまで落ちるのは当然だ。まして勝ち馬に乗りに来ただけの勢力による連合軍。強い統率力でもって残存兵力をまとめることも叶わない。
ヴァルナの玄関口とも言える商業都市サラウィンには、万を超える兵力が結集しており、彼らはミサに合わせて正面からの侵攻を開始していた。しかしあえなくミサが討たれた後は、即座にサラウィンへと引き返し、防備を固めた。
使徒という明確なトップを失い、お飾りとはいえ大遠征軍総大将を務めるルーデル大司教すら降伏を呼びかけるという、ロクに指揮系統も働かない中で、速やかにサラウィンへと撤退していった彼らの行動は賢明であったと言えるだろう。だがしかし、最善の行動をとったからといって、最善の結果が付いて来るとは限らない。
彼らが戻った矢先に、サラウィンを急襲したのは、女王リリィ率いる精強な竜騎士団。そして怒りに燃えるヴァルナの獣人歩兵の大軍団だ。
妖精と飛竜による空襲と同時に、正門をたった一人の魔女に吹き飛ばされた後は、牙を剥き出しにした屈強な獣人戦士が雪崩れ込み、サラウィンは一夜で蹂躙された。
一方、卑劣な罠によって魔王クロノ包囲網を形成していた、大角の氏族の縄張りに展開していた大遠征軍も、万に届かんばかりの兵力が残る
しかしクロノの救援へと駆け付けた精鋭戦力たる第一突撃大隊と百獣同盟の秘密兵器たる四脚戦車部隊によって蹴散らされた。
魔王を討つための最終防衛線に集結していた大軍はその場で敗れ去り、後は大角の集落に点々と残る駐留部隊と、敵拠点と化している中心集落は残っていたが……大遠征軍そのものが敗北した以上、彼らも最早、大角の氏族の縄張りに居座る理由はない。カイ大隊長が中心集落に乗り込む頃には、モノリスの転移を使って全軍撤退しているであろう。
こうして、決戦から数日の内にヴァルナ森海での戦いは終わりを迎えた。
戦勝に湧くメテオフォールであるが、魔王クロノは長々と宴に興じることなく、早々にシャングリラの一室で体を休めていた。
艦長室には、クロノが一人だけ。その部屋の前には、いつもの如くサリエルが番について、
「むぅー、絶対通さないからね! めっ!!」
サリエルは番についておらず、代わりに立ちはだかるのは幼い姿のリリィ女王陛下その人であった。
「そうは言ってもですね、リリィさん」
「そうですよ、クロノくんが傷ついているなら、それをお慰めするのが伴侶の務め!」
などと言いながら、部屋へと押し入ろうとする暴徒、もとい婚約者二人。フィオナとネルが幼女リリィに詰め寄る姿は傍から見れば、大人げない、という言葉の具現であった。
「ダメったらダメなの!」
「なっ、なんでヒツギまでぇ……」
ペカーっと妖精結界を輝かせると、あまりの眩しさにフィオナとネル、そしてついでとばかりにつまみ出されたメイド長ヒツギも後退ってしまう。
こうまでしてリリィがクロノを一人にさせていることにこだわっているのは、他でもない。今回の戦いの結末が、素直に喜べるものではなかったからだ。
大角の氏族の裏切りに端を発した此度の決戦だが、最終的にはこちらの犠牲は最小限に、それでいて第十一使徒ミサを討ち、天空母艦ピースフルハートを鹵獲し、大遠征軍も壊滅させたと、最高の戦果を得られてはいる。
何より、クロノは自らの手で怨敵たるミサを討ち取ることができ、アルザスの因縁を晴らすことが出来たのだが……
「リリィ様の言う通り。せめて今夜は、マスターをそっとしておくべき」
クロノより遅れて、無事に帰還したサリエルもやって来た。
その身はすでにメイド服を纏っており、一週間も密林を彷徨った疲労も汚れもまるで感じさせない。
いつも通りの業務をこなしに来たとばかりのサリエルだが、事の顛末はすでに聞き及んでいる。そして、クロノが今頃なにを思っているのかも。
「はぁ、素直に喜ぶべきことではないですか。クロノさん自らミサを仕留め、ついでに『悪食』も進化を果たしたのですから」
「フィオナさん、本気で言ってます……?」
「クロノさんが、何か気に病んでいることくらいは分かっていますよ。なので、やはりピンクも殺しておけば良いのでは?」
「それで解決するなら、クロノくんだって一緒に斬り殺していますよ」
第十一使徒ミサは、本物のミサではなかった。
ミサという名前と、桃色の髪と瞳を持つ美少女は、ピンクの前世であったのだ。
使徒のミサは、ペトラという名の美貌も才能も何も持ち合わせていない無力なただの少女。何もなければ、侯爵殺しの大罪をもって翌日には処刑されて終わっていた。けれど、そうはならなかった。
白き神は、ペトラの強烈な思いに、何故かその手を差し伸べた。あるいはその瞬間に、使徒となる資格を得る条件をクリアしてしまったのだ。
ミサを失うという耐えがたい現実を前に、ペトラは神の奇跡に縋り————そして、最後もやはり神の奇跡によって、ミサと再会を果たして、満足して逝った。
「ピンクは生前から、何故か『淫魔女王プリムヴェール』の加護を授かっていた。故に、サキュバスとして転生を果たすことができた。ピンクの転生について、白き神が介入している余地はない」
「だからリリィさんも殺さなかったのでしょう」
「ぐぬぬぅ……」
本人は納得していない、とばかりに渋い表情で唸るリリィ。だがフィオナの言う通り、ピンクの再度取り調べにおいても、虚偽の発言はなく、何よりクロノ自身がピンクを生かすことを選んでいるのだ。
確かにピンクに落ち度はない。全て自分勝手にミサに憧れ、その真似をして残酷なまでに自由奔放に振舞った、第十一使徒の罪である。
それでも、お前の顔が気に入らないと、ただの八つ当たりでピンクを斬り殺すことは出来た。それで魔王陛下の気が晴れるのならば、喜んで命を差し出すべき、くらいのことはホムンクルスの暗黒騎士なら思うであろう。
だが、そんな情けない真似をクロノは決して選ばないことを、リリィは知っている。
「かといって、割り切ることも簡単には出来ないから、クロノさんはこうして思い悩んでいるのですよね」
「ああ、そこまでは理解しているのですね」
「当然ですよ」
そこまで察してくれるという信頼が、どうして自分にあると思えるのだろう。そう目で訴えるネルだが、フィオナにそんな意思など届くはずもなかった。
「ですから、こういう時こそ婚約者の出番でしょう」
「そうですよ! ここで何もせず放っておくなど、女が廃るというものです!」
「だから、そういうのがダメなのっ!!」
そうして議論が一周して、元の押し問答へと戻って来る。
リリィはクロノの気持ちを最大限に尊重し、せめて今夜だけでも一人にさせるべきだと覚悟を決めた。
一方で、フィオナとネルはそんな悩みなど体で忘れさせてやる、とばかりに息巻いてやって来ている。
サリエルはリリィを支持しているが、叩き出されたヒツギはフィオナ派に回っていた。両派閥の意見は拮抗していた。
「うわっ、何やってるの皆して……」
そんな修羅場の中、やって来たのはシモンであった。
何をやっているとはこちらの台詞とばかりに、魔王の婚約者達から一斉に視線が向けられるが、
「誰も行かないなら、僕が行かせてもらうよ」
説明などなくとも、おおよその事情を察したシモンは小さな溜息を吐くと、堂々と修羅場を演じる彼女達の間を突っ切って行った。
同時にリリィ達も、シモンが抱えた大きな酒瓶を見て、彼が何をしにここへ来たのかを察している。
「いいかな、リリィさん?」
「むううぅ……」
不満げに唸るものの、リリィはシモンを止めきれなかった。
その行動を、自分が止めるべきではない。止める権利はないと、理解してしまったから。
「お兄さん、僕だけど、良かったら一緒に飲まない?」
誰に物怖じすることなく、ノックと気軽なお誘いの言葉をシモンは放った。
「……ああ、シモンか。入ってくれ」
ガキリ、と分かりやすくロックの外れる音が響く。
魔王陛下の許しを得たシモンは、彼女達に一瞥することもなく、そのままクロノの待つ部屋へと入って行った。
「うっ、ううぅ……ううぅわぁああああああああ……」
「あ、リリィさん」
「泣いてしまいました……」
今夜のクロノは恋人達よりも、男同士での語らいを求めたのだと、テレパシーなどなくともまざまざと見せつけられたリリィは、とうとう扉の守護を放棄した。自分が求められなかったショックで泣きながら、どこぞへと走り去って行ってしまう。
「それでは私も」
「フィオナさん、よくこの流れで突撃できますね!?」
「ここは通しません」
「ご主人様ぁ、せめてヒツギだけでもぉ……お酒注ぎますからぁ……」
リリィに代わって、いつも通りの門番と化したサリエルが立ちはだかり、今夜のクロノの平穏は守られたのだった。
今回の戦いの結末には、大いに思うところはあるのだが、それはそれとしていつまでもウジウジと悩んではいられない。
昨晩のリリィは随分と気を利かせて、俺を一人にしてくれた。フィオナ達が押しかけて来ては、扉のすぐ外で騒いでいたのはご愛敬。
でも結局、一人で思い悩むよりも、誰かに話した方が一番スッキリするわけで。その辺、シモンはよく分かってくれていたようだ。他でもない、気兼ねなく話せる同性の友人にして、アルザスを共に生き残ったシモンだからこそ、俺は酒の勢いを借りて思いの丈をぶちまけた。
ちょっと情けなくてリリィ達には言えないような内容である。どの道、リリィにだけは隠し事など出来はしないのだが、それでもカッコはつけたいのだ。
そうして散々に愚痴った結果に、シモンはこう言った。
「みんなの仇は討った。それでいいんだよ」
区切りをつけるべき、ということだろう。
確かにミサは十分な報いを受けたとは言い難い。アイツにとって、本物のミサと再会を果たしたならば、死など恐れるものではないだろう。むしろ、幸せの絶頂で死ねるのは救いなのかもしれない。
先に自分が死ねば、もう憧れの彼女が死ぬ姿を見ずに済むのだから。
「悪食の呪いが解けたのも、ヴァルカンがこれでいいんだって、許してくれたからでしょ」
ああ、俺だって、あの時に見たのがただの夢だとは思いたくはない。ミサに復讐を果たすのを見届けてくれたからこそだと、そう信じることにした。
そうして区切りがついたならば、過去を偲ぶのは止めて、これからの未来へ目を向けなければならない。要するに、戦後処理のことである。
「改めて見ても、なかなか酷い有様だな」
抜けるような青空の只中で、俺はピースフルハートの広大な甲板の上に立っている。
最も目立つのは、決戦装備たる巨大衝角『アヴェンジャー』が突き刺さった箇所だ。斜め前から正面衝突するような恰好で、深々と甲板を穿つ『アヴェンジャー』は今もそのまま。
元より追加装備である衝角は、パージすることができるようになっている。あまりにも深く刺さり過ぎて、ピースフルハート諸共にシャングリラも墜落しては堪らない。そういう最悪の場合や、上手く成功した後も引き抜くよりそのまま取り外しできた方がスムーズにシャングリラも動ける。
そういうワケで、甲板には刺さった巨大衝角はそのまま残され、シャングリラは再び空を飛んでいる————ボロボロとなった、ピースフルハートを曳航して。
「これでもマシな方じゃないかしら。何とか飛べているのだし」
意識は大人に戻しているものの、幼女姿で俺に抱っこされているリリィ。
なんだかんだで昨晩は我慢を強いた形になる。お陰で、今はギューッと首元に抱き着いて離れない。今日は一日この状態かもしれない。
「逆に不安になるけどな」
見た目こそ中破状態だが、機関部は幸いにも無事である。
こうして飛行能力が生きたままピースフルハートを鹵獲できたのは、ミサを倒したことよりも大きな成果だろう。
「これで空飛ぶ艦が二隻目だ」
「ええ、やったわね、クロノ」
「……」
無邪気に喜ぶ俺とリリィだが、ここに唯一同行させていたシモンは、遥か青空の向こうを遠い目で見つめていた。
それから深呼吸をして、大きな溜息を吐いてから、ようやくシモンが口を開く。
「……すぐ使えるようになるって、思わないでね」
「だ、大丈夫だって、そこまで無茶はさせないから」
ただでさえ今の時点で相当な無茶をさせているのだ。シャングリラの改装だって、今回のヴァルナ決戦に向けて急ピッチで進められた。
パンデモニウムへ戻れば、まずはシャングリラの修理から始まり、それから後回しにされていた改装計画が続行される。これだけでも大仕事なのに、この上さらにもう一隻の天空母艦もヨロシク! なんて押し付ければ、今度こそシモンは死んでしまう。
「でも、意外と何とかなるかもしれないわよ」
「何かアテでもあるんですか、リリィさん」
猜疑心全開のジト目で問いかけるシモンに、リリィは素知らぬ顔で応える。
「詳しいことは、フィオナに聞いてちょうだい」
「あー、そういえば、第三主砲とか任せてたし、上手くいけばかなり楽できるかも」
言うものの、あまり期待しないでおくよと、話はそこで打ち切られた。
だが俺は正直ちょっと期待している。フィオナがリリィに隠れて、秘密の魔女工房で随分と熱心に何かやっている様子だった。
俺もまだ工房へ招待されていないので、詳細は一切不明だが……あの天才魔女様なら、何かデカいことを成し遂げてくれるだろう。
「それで、無事にヴァルナは守れたワケだけど、次はどうする、っていうか何時頃に攻勢かけるの?」
要約、納期はいつだ。
無茶ぶりはやめろよ、とシモンから無言の圧が発せられている。
「大遠征軍はアダマントリアまで退くだろう。再び侵攻するにしろ、防備を固めるにしろ、まずはダマスクに戦力を集中させるはずだ」
サラウィン制圧戦で、そこに集っていた大遠征軍はほとんど壊滅させている。万単位の戦力が削れたが、もう一方の大角の集落を占領していた奴らは、速やかに大神殿からの転移で撤退していった。こっちはそれなり以上の戦力を残したままだ。
とりあえず大神殿のモノリスは黒化を果たして、厳重な管理体制に置かれているので、再びここから奴らが飛んで来ることはない。
「ダマスクの防衛設備はほとんどそのまま残っているわ。正攻法でここを落とすのは、骨が折れるわね」
「だから、せめてシャングリラが動けるようになってから、アダマントリア解放に向かうつもりだ」
「うーん……年内は厳しいかも」
やはり、そうだろうな。今は夏の時期で、まだ半年以上の時間が今年は残っていることになるが、しっかり戦力を整えようと思えば時間はまるで足りない。
そもそもシャングリラの修理が終われば、それだけで勝ちが確定するというワケでもないのだ。
ダマスク王城はあのドワーフが心血注いで築き上げた、国を守るための要塞である。王の威光や豪華な見栄えを二の次として、質実剛健をモットーに建設されている。
王城を守る防御結界は二重三重に張り巡らされ、シャングリラの艦砲射撃を一方的に叩き込んでも破れる保証はない。恐らく、ミサとネロは結界が全て稼働するよりも前に、電撃作戦で王城に乗り込むことに成功したからこそ、速やかに制圧することができたに違いない。
空中降下を許さぬよう、全方位の結界を万全に展開されれば、大遠征軍もそう易々とダマスクを奪うことは出来なかったはずだ。しかし、その油断は先に大遠征軍がついてしまった。
奴らは俺達にシャングリラがあることを知っている。ならば当然、自分達と同じ方法で奇襲されないよう、徹底的に対策を取るだろう。
下手にシャングリラを王城に近づけてしまえば、対空用の大魔法で撃墜される危険性すらある。
「シャングリラが万全でも、ダマスク攻略は難航する。流石に次の戦いは、地上部隊にも相応の被害が出るだろう」
「そこはヴァルナの獣人達に頑張ってもらいましょう。汚名返上の、ちょうどいい機会になるわよ?」
平然と言い放つリリィ。やはり俺が謀反にあった件は、そう簡単に許し難いようだ。
これについても、上手く治めなければならないだろう。下手に甘い処分にすれば、舐められる。魔王陛下は一回くらいなら裏切ってもセーフだと。
だが逆に厳し過ぎる罰、すなわち大角の氏族を滅ぼすような真似をすれば、力による恐怖政治の始まりだ。そういうやり方は、どんどん歯止めが効かなくなる。反発も招きやすく、さらなる裏切り、謀反を助長しかねない。
そして今回の事から、十字軍はその気になれば魔族に取り入ってでも内乱を誘発させるような策も使えることが明らかだ。
嫌だぞ俺は、パンデモニウムで四面楚歌になるのは。
「はぁ……勝ったはいいが、課題は山積みだな……」
立ちはだかる戦後処理という強大な敵を前に、今度は俺が遥かな青空を遠い目で見つめるのだった。