第939話 転生したら淫魔だった
2023年7月21日
今週は二話連続更新となっております。こちらは二話目ですので、読み飛ばしがないようご注意ください。
「でゅふふふふぅ! キミがミサちゃん? カワイイねぇ!?」
「……は?」
その日、ミサの前に現れたのはオークだった。
いや、よく見ればギリ人間であった。豚のように肥え太った体型と脂ぎった髪と顔の、そんじょそこらでお目にかかれないレベルのブ男だ。筋骨隆々のオークに例えるのは、むしろ失礼だったと反省してしまう。
「あっ、子爵のアイツは来ないから。ミサちゃんはもう俺が買ったからね」
「は?」
この街で領主たる子爵を差し置いて、お気にの嬢を買える男などいるはずがない。
コイツは詐欺の類かと真っ先に疑ったが、
「ああ、今日はなんて素晴らしい日なのでしょう。ミサ、貴女が侯爵閣下に見初められるなんて」
「こ、侯爵ぅ……」
娼館主が完璧な作り笑いを浮かべて言い放った台詞に、ミサは全てを察した。
なんてことはない、子爵の彼よりも、もっと偉い侯爵家の豚が出てきたというだけの話。お偉い貴族様の世界は、もっとお偉い奴には決して逆らえない。
あるいは、将来有望な子爵が、こんな卑しい血筋の売女を正妻に迎えようという愚行を、誰かが止めるために豚侯爵を引き込んだのかもしれない。
「じゃ、行こっか。今夜だけはキミは俺の嫁だから」
誰の思惑でこうなったのか、今のミサにとっては最早どうでもいい。
あれだけ愛を語った子爵も、権力の前には無力に等しい。
豚侯爵は一晩の寝取りプレイを楽しみ、娼館主はより高値でミサが売れて儲かった。
今夜の間にミサが女として壊されてしまっても、誰も気にしないし、誰も助けない。所詮、場末の娼婦の扱いなど、こんなもの。
自分の命運を、ミサは最奥のVIPルームに向かう間に悟った。
「はぁ……」
隠すことなく重苦しい溜息を吐いてしまった。
子爵家嫁入りという上がりを目前にして、この仕打ち。娼館で真面目に務めた数年間が、全て無駄になってしまった。
「ちょっとちょっと、なに溜息なんて吐いちゃってんの? キミなんか態度悪くない?」
これはお仕置きが必要かなブヒヒ、なんて笑っている豚侯爵を、ミサは据わった目つきで睨みつけた。
ここはすでにVIPルームの中。扉は固く閉ざされ、外の音は聞こえないし、中の音も外には漏らさない。万が一にもプレイの邪魔にならないよう、それなりに高価な防音設備を整えている。
泣こうが喚こうが、その声はどこにも届かない。
「よし、お前を殺す」
いざという時に備えて常に隠し持っていたナイフを抜く。
照明で照り返すギラつく刃を目にして、侯爵の表情が固まる。
「へ、へっ……? なにそれ、何のプレイだよ、そんなの頼んでないんだけど……」
「お前を殺して、ワタシは逃げる」
殺意を持った相手を目の前にしたのは初めてなのか。デカい図体の癖に蒼褪めて震えあがる侯爵。
一方、ミサは人殺しは初めてではない。
戦場でハイエナしていた頃、虫の息となっていた兵士にトドメを刺して装備を剥ぎ取るのは、作業の一環だった。5歳児でも、小さなナイフで動けない相手の首筋を刺すくらいは出来るのだから。
「このクソ豚野郎ぉ、よくもこのワタシの邪魔してくれやがったなぁ」
こんなところで終わるくらいなら、人を殺してでも自分は逃げ延びる。
ミサは迷うことなく、その判断を下せる人間だった。やると決めたらやる覚悟。そしてダメだと思ったら絶望することなく、即座に方針を切り替える早さ。
躊躇なく、ミサは侯爵殺しの罪を被ってでも、今この場を脱することを選んだのだ。
「ちょ、ちょっと待て、待って! 話し合おうよ、落ち着いて、人は話し合いで分かり合えるからぁ————」
「死ねやぁああああああああああああああああああああああああっ!!」
気合の入った雄叫びを上げて、ナイフを構えてミサは突撃する。
武術の心得など皆無で、ただただ恵まれた家柄で贅沢を貪って来ただけの豚は、小さな刃物を握りしめた少女を前にして、壁際に追いやられて恐怖に慄くことしかできなかった。
疾走する殺意の刃が、肥え太った体に届かんとした瞬間、
「————あふぅん」
ミサは転んだ。
理由は自分でも分からない。躓いたのか、足が滑ったのか。
どうであれ、ミサは土壇場で、文字通りに致命的なドジを踏んだのだった。
「えっ……あれ、し、死んでる……?」
恐怖に震えて固く目を瞑ることしかできなかった侯爵だったが、一拍、二拍、と置いて恐る恐る視線を向けて見れば、そこにミサは倒れていた。
自分で握ったナイフを、自分の胸に突き立てて、何が起こったのか分からんといった呆然とした表情で固まった、ミサの死体が転がっていた。
「……ないわぁ」
マジでないわぁ、とミサは思った。
まさかこんな時にこんなドジを踏むとは。自分で思っていたよりもポンコツだったのか、なんて後悔できている今の状況は何なのか。しばらくしてから気が付いた。
「————ミサ、ああ、可愛い子。待っていましたよ、この時を」
「はっ!? この声は女神様!」
どういうことだ、神に愛されて人生大成功を約束してくれたんじゃなかったのかよテメぇ、と言わんばかりの怒りを爆発させるミサの前に、眩いショッキングピンクの輝きが襲う。
その濃い桃色の光の向こう側に、ミサは見た。女神の姿を。
「も、もしかして、ワタシの女神様って————」
頭から生える角。背中に広がる大きな黒い翼。
十字教会で描かれる天使や神の聖なる姿とはかけ離れた、実に悪魔的なシルエット。
けれど魔の象徴を備えた女神は、神に相応しき絶世の美貌と、冒涜的なまでに過激なスタイルを誇る、
「さぁ、生まれ変わりなさい。ようこそ、淫魔の世界へ」
「淫魔女王、プリムヴェールぅ……」
そうして、ミサは転生した。
転生したら、淫魔だったのだ。
「あっ、子爵のアイツは来ないから。ミサちゃんはもう俺が買ったからね」
「は?」
「ああ、今日はなんて素晴らしい日なのでしょう。ミサ、貴女が侯爵閣下に見初められるなんて」
「こ、侯爵ぅ……」
そのやり取りを目の当たりにした少女は、きっとミサ本人よりも驚愕していた。
ありえない、こんなこと。あってはならない。
「じゃ、行こっか。今夜だけはキミは俺の嫁だから」
馴れ馴れしくミサの肩を抱いてVIPルームへと連れ込んで行く醜い男の姿を、少女は目の前が真っ赤になるような怒りと共に見送った。
「殺してやる……」
あの男が何者かなど、どうでもいい。
ただ、アイツはミサと釣り合わない。醜悪な欲望を隠そうともしない、最も嫌悪すべき存在。
そんな奴を、ミサに触れさせてなるものか。彼女をより幸せにできる男でなければ、とても認めることはできない。
そうだ、天使のミサは、この世界で誰よりも幸せにならなければいけない。最も美しく、気高く、尊い。
それこそ自分のような者が泥を被ってでも。彼女の幸せを守るためならば、どんな罪の十字架でも背負える。
そんな使命感と覚悟を決めて、彼女は草刈り用の鎌一本を握りしめて、VIPルームへと向かった。
迷いのない迅速な行動はしかし、それでも遅きに失した。
「えっ……あれ、し、死んでる……?」
扉を開けて目に入ったのは、壁際で震えながら、間の抜けた声を上げる男の姿。
「み、ミサちゃん……?」
床に転がったその姿に、一拍遅れて気づかされる。
だが目にした瞬間に理解せざるを得ない、あまりにも綺麗で分かりやすい死に様。胸の真ん中に深々とナイフが突き立ち、仰向けに転がったミサは血の海に沈み、ピクリとも動かない。
「嘘……嘘、だよね……」
想像を絶する光景に、真っ赤な怒りは、真っ暗な絶望感へと瞬時に替わる。
嘘、と口にはするものの、無学な自分でもミサがもう手遅れな状態だということは分かってしまっている。
彼女の死に顔は、自分が死んだと気づいてもいないかのように、あまりにも呆気なく、
「お、おい、なんだよお前……違う! 俺じゃない、コイツが自分で勝手に!」
「嘘だよ、こんなの……ありえない……」
「おいやめろ、来るなっ! なんだよ、なんでお前もぉ————」
「イヤァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「いぃいぎぎゃぁああああああああああああああっ!!」
何が何だか、自分でももう分からない。
ただ現実を否定するように、手にした鎌を振り回す。けれど刃がどれだけ肉を引き裂き、血飛沫を上げても、この残酷な現実が覆ることはない。
「ああ、ミサちゃん……ミサちゃん……どうして、こんなことに……」
血濡れになっても美しい、憧れの少女の体を抱き起す。
生気が抜け落ちた今、ミサは本物の人形になってしまったかのよう。
いっそのこと、最初から人形だったなら。否、ミサという少女の魅力は、ただその美貌だけではない。
彼女の一挙手一投足が、紡ぐ言葉の一つ一つが、尊く神聖。生きた本物の少女だからこそ、ミサは天使なのだ。
「天使……そうだよ、天使のミサちゃんは、死んだりなんかしない……」
死んでいいはずがない。
死ぬべきなのは、自分のような醜く、薄汚い人間の方だ。
「私が、ミサちゃんの代わりに死んでいれば————」
『————叶えよう』
それは正しく、本物の天啓。
聞いたことのない声。男かも女かも分からない、不思議な声音が頭の中に響き渡る。
勘違いも聞き違いも許さないとばかりに、何よりも明瞭に神の声は届けられた。
『汝の願いを叶えよう』
「ああ、神様、お願い……お願いします……」
一も二もなく飛びついた。
奇跡。神の奇跡だ。
『ならば祈れ。信じ、祈りを捧げよ。さすれば汝の願い、我が聖なる祝福をもって叶えてくれよう』
「どうか、神のご加護を! 私はミサちゃんを————」
心の底から祈りを捧げた。
醜い自分はいらない。美しいミサを、どうか再びこの世に、
『目覚めよ、これより汝は————第十一使徒ミサである』
白い輝きが少女の全身から瞬くと、途轍もない白色魔力が魂の奥底から怒涛のように湧き上がる。
それは瞬時に全身に行き渡り、殻を破るように濃密なオーラと化して放出された。
轟々と激しく吹き荒れる白銀のオーラの中で、少女がその腕に抱きかかえていたミサの死体が光り輝く粒子となって溶けてゆく。
消えた。いいや、違う。一つになったのだ。
ミサが溶けて一体となったオーラは、吸収されるように少女の体へと再び戻って行く。
そうして、嵐が過ぎ去ったような静寂が戻る。
「ああ、そっか……」
少女がその身を起こすと、着ていた給仕の衣装がボロボロと焼け落ちたように崩れ去る。
立ち上がった時には、上着もスカートも、下着すら消え去り、一糸纏わぬ裸体を晒す。
目の前には、僅かに血飛沫のついた、大きな鏡がある。
ただありのままの姿を映し出す鏡面には、美しい桃色の少女が浮かんでいた。
「……私はミサ」
ミサは死んでいない。死んだのは、醜く薄汚い、何の価値もないただの少女。
「第十一使徒ミサ」
白き神に選ばれた奇跡の少女は、ミサなのだ。
断じて、あんな並み以下の小娘が生きて、天使が死んでいいはずがない。
それが真実。これこそが真実。
私が私である限り、決してミサは死なない。死んだことにはならない。
「だって、ミサちゃんはここにいる」
愛おしそうに、鏡に映った自分の姿をなぞる。
キラキラ輝く桃色の長髪に、煌めくピンクの瞳。幼くも美しく、愛らしい顔立ちに、染み一つない真っ白い柔肌。
その姿は正しく、神の愛した美貌。
「そう、私が、この私こそが、第十一使徒ミサなのよっ!」
ただでさえ天使のミサが、神の加護を授かる本物の使徒へと生まれ変わったのだ。
最早この身は、常人とは異なる。より神に近い、神聖な存在。
「相応しくない。この場所も、ここにいるお前らも、全てがこの私に相応しくない!」
最初に抱いたのは憎悪。
憎い。この醜悪な欲望を詰め込んだ場所が。
憎い。ミサの美を汚す、穢れた者共が。
「消えろ」
再び爆ぜる、白銀のオーラ。
「全て消えろ、消え去れ」
溢れ出るオーラはそのまま、殺意を伴った光の攻撃魔法と化して行く。
灼熱の破壊力を秘めた光が、四方八方、己を囲う全てを壊し尽くすべく、一斉に解き放たれた。
「醜く穢れた、過去なんていらない」
ミサには輝かしい未来だけがあればいい。
無かった。何も無かった。
その在り方に惹かれた凡庸な後輩の少女がいたことも、全て無かったことにする。
ミサは今も昔もこれからも、誰よりも美しく、自由で奔放な、完全無欠の天使であるために。
「はぁ……はぁ……」
気が付けば、瓦礫の山の上に立っていた。
周囲一帯は赤々と燃える焼野原と化していて、立ち昇る黒煙が満天の星空を汚していく。
穢れたゴミは、燃えても尚、美しいモノを汚すのかと苛立ちが募る。
壊したいモノは、もう全て原型を留めぬ残骸となった。それでも胸の奥から湧き上がる、衝動的な怒りと憎しみはまだ止まらない。
自分で自分が止められないことにも気づかないまま、更なる破壊衝動を解き放とうとした矢先、
「……誰よ、アンタ」
「第七使徒サリエル」
そうして、ミサは新たな使徒として迎えられた。
自分勝手でワガママ、自分が一番美しいと信じてやまない、そんな誰よりも自由奔放な少女を演じて。
けれど、ついにそれも終わりの時を迎える。
「……嘘」
一目見て分かった。理解できてしまった。
誰よりも深く、ミサを信仰してきた彼女には。
「ミサちゃん……?」
本物のミサが、第十一使徒ミサの前に現れたのだった。