第938話 罪の清算(2)
2023年7月21日
今週は二話連続更新です。こちらが一話目になります。
「おかえり、クロノ」
「おかえりなさい、クロノさん」
「ああっ、クロノくん! 無事ですかっ、お怪我はっ!?」
「これで詰みじゃな。逃げ場はないぞ、小娘」
上から、左右から、後ろから、聞こえる声はどこか遠くから響いてくるかのよう。頭の中はボンヤリしていて、まるで寝起きに微睡んでいるみたいで、
「はっ……はっ……」
けれど、息は詰まったように苦しく、灼熱の陽光に照られたように汗は噴き出し、雪山を彷徨ったように体の芯は凍えている。
震えているのは、寒さからではない。
それは紛れもなく、恐怖であった。
「はっ、はぁ……ああぁ……」
右手首から先がない。
その右手と一緒に、握りしめていた武装聖典『比翼連理』も失った。
そして何より、目の前にも、それ以外にも、恐るべき敵がいる。
「うふふ、使徒ともあろう者が、そんなに震えてどうしちゃったのかしら」
頭上には、煌々と輝く光の怪物が浮かんでいる。
「それはそうでしょう、完全に詰んでますし」
「油断は禁物ですよ。また大天使とやらを呼び出すかもしれません」
青く燃える魔女と、偽物の天使。
「ならばこそ、さっさとトドメを刺すがよかろう」
背後で蠢く黒竜。
「ああ、行くぞ————フォーメーション『逆十字』」
そして真正面から、魔王が迫り来る。
ミサは察した。おぞましい呪いの気配と濃密な殺意を滾らせるクロノとは別に、自分を追い込む恐ろしい力が解放されようとしていることを。
その発信源は魔女。使徒に致命的な弱体化を与える、忌まわしい次元魔法を放つ気配だ。
アトラスの砂漠では、魔女の世界に囚われてマリアベルは敗北を喫した。ついさっき、自分は砂漠の世界で追い詰められた。
魔女の世界は、灼熱の砂漠よりも過酷にして残酷な煉獄。ここに囚われてしまえば、もう生きて出ることは叶わない。
負ける。
死ぬ。
使徒である自分が。神に愛されたミサが。
どうしようもない窮地に陥った今この瞬間に、ミサが決断したのは、
「うっ、あ、あぁあああああああああああああああああああああああっ!!」
「偽杯だっ!」
残る左手で空間魔法から取り出したのは、『聖母アリアの純潔聖杯』。
グレゴリウスからは、これが本物の聖杯だと言われて預かったものだ。曰く、マリアベルやアルス総司令官にも、本物と偽って偽物を渡している。けれど最も信頼できる第十一使徒にこそ、本物を預けるのだと、実に嘘くさい微笑みを浮かべて語っていた。
ミサにとって、この聖杯が本物か偽物かはどうでもいい。ただ武装聖典を失った彼女が、最後に縋れそうなモノがこれしかなかっただけのこと。
そしてミサは聖杯に祈った。
「助けてっ、神様ぁ!!」
かくて聖杯は乙女の祈りに応える。
左手に掲げた聖杯は眩い輝きを放ちながら、ミサの求めた救いを顕現させた。果たして、そこに現れたのは、
「————なるほど、『天送門』か」
その飾り気のない白い大きな門を、クロノは知っている。
第五次ガラハド戦争にて、第七使徒サリエルを逃がすために自動的に起動した、緊急離脱用転移魔法だ。
そう、ミサが求めたのは憎き敵を殺すための力ではなく、逃げ道。
勝てない。心の底から敗北を認めてしまったが故に、発現したのはただ逃げ出すためだけの転移魔法だったのだ。
「もう、お前の心は折れたのか、ミサ」
「————『破空』」
大天使のような強敵を呼び出すでもなく、更なる覚醒を経て強くなるわけでもない。ただの逃げ道が現れたことで、クロノはミサの心中を察した。
クロノがいっそ憐れむ様な視線を向けるのは、すでにその逃げ道も塞がれていることを知っているからだ。
すでに一度見た逃走手段。対策しないワケがない。
フィオナは『煉獄結界』の発動を中断し、代わりに一本の短槍を投げつけた。
それは『紅炎の突撃槍』と同じ、魔法の槍だ。そこに込められた魔法は『破空』。空間魔法を破壊する魔法だ。
ガシャァアアアアアアアアアアアン……
ガラスが割れるような虚しい音を立てて、『天送門』は砕け散る。
それと共に、ミサの掲げた偽の聖杯も粉々に砕け、白い光の破片と化して消え去った。
「い、いや……」
頼みの綱の逃げ道を瞬時に潰され、ミサの頭の中は真っ白になる。
嫌だ。
死ぬのは嫌だ。
脳裏に木霊するのは、ただただ己の死を拒絶する強烈な生存本能————否。
「ミサちゃんは、死なせない」
迫り来る死の気配の中で、ミサは仄かに輝く希望の光を見出す。
もう猶予はない。呪いの刃を振り上げて魔王が正面から。頭上から光の大魔法を放つ妖精が。魔女の炎、天使の拳、ドラゴンブレス。次の瞬間には何れも致命となるに十分な威力の攻撃が殺到していくる中、
「————飛べぇっ(エンターァッ)!!」
ミサは天空母艦ピースフルハートの艦内転移を発動させた。
「し、しまった、飛ばれた……」
「いいえ、ちゃんと追い込んだわ」
ついに転移を成功させ、ミサが消えた甲板上。
取り逃したかと焦るクロノを、宙に浮かぶリリィは笑って言う。
「ネズミが巣穴の奥まで下がっただけよ。これでもう、最後の逃げ場もないわ」
「————飛べぇっ(エンターァッ)!!」
叫んだ瞬間、全身を包み込んだのは転移の輝き。全方位から向けられた破滅的な攻撃が届くより前に、何とか脱出に成功したと理解できたのは、目の前の光景が甲板上から変わっていることに気づいてからだった。
「ふっ、はぁあああ……」
使徒となってから、初めて全身から力が抜けた。
ミサは死の窮地を脱した安堵感で、その場にへたり込む。
「あー、ここ、どこだっけ……」
ピースフルハートの艦内であることは分かっている。
だがミサの生活圏は基本的に宮殿だけで完結している。自分に相応しい美しく煌びやかな白亜の宮殿と比べれば、いくら古代文明の遺産とはいえ、軍事兵器に過ぎないピースフルハート本来の艦内は殺風景で狭苦しい、遺跡系ダンジョンの中と変わらない印象を受ける。
よって、ミサはよほどピースフルハートの操作に必要でない限りは艦内に、より正確に言えば艦の中枢、この司令室にやって来ることは滅多にないのだ。
最後に司令室へ来たのは、ダマスクから出発する際に、大雑把に目的地と航行速度を設定した時以来だろう。
「まずい、早く逃げないと」
一時的に逃れはしたものの、まだ安全には程遠い状況下にあることはすぐに理解した。
この船の主であり、第十一使徒である自分がこの有様だ。すでにピースフルハートは魔王の手で制圧されたも同然。
次の瞬間にでも、司令部の分厚い扉を破ってここへトドメを刺しにやって来てもおかしくない。
武装聖典を奪われ、それを握る右手さえ失い、もうミサには魔王とその恐るべき配下を相手にすることは不可能だ。いまだに使徒としての力も魔力も残ってはいるが、その程度では奴らにとって頑丈なサンドバックにしかなりはしない。
「私は死なない……私が、死なせない……」
神への信仰も、クロノへの恨みも、誇りもプライドも、全てがどうでもいい。
ミサにとって最後に残った、けれど一番大事な思いを胸に、立ち上がる。
一刻も早く、魔王の手に落ちたピースフルハートから脱するべく、司令部の扉へと一歩を踏み出した瞬間、
「しゃあっ! プロテクト解除キターァ!! さぁーって、私のお宝ちゃんとご対面よー!!」
うっひょーっ! と絵に描いたような下品な笑いと共に、硬く閉ざされているはずの司令部の扉が開かれた。
そこにいたのは、ピンクの女。
全身をピッタリと覆うアサシンスーツのような衣装のくせに、色は目立つショッキングピンク。手にしているのは、ハートを模ったピンク色の弓。
ピンクとしか言いようのないピンク一色の女だが、
「……嘘」
ミサの目に何よりも輝いて見えるのは、豊かに波打つ淡い桃色の髪と、強烈な煌きを宿すピンク色の瞳。
「ミサちゃん……?」
ミサが物心ついた頃には、もう自分はこの世の底辺にいるということを悟った。
「あぁー、なんか面白ぇコト起こんねぇかなぁー」
5歳にして真昼間から空を見上げて、そんな怠惰なことを呟いやいてしまう程度には、日々の生活に期待も希望も失っていた。
両親はいない。もう顔も覚えちゃいないし、どうでも良かった。
一応、親代わりとして自分の世話をしている連中は、自称傭兵の盗賊団。こんな奴らに可愛い一人娘を預けるような親だ。どの道ロクな奴じゃない。
「おいミサぁ、なんか収穫あったかぁ?」
「んっ」
近寄って来た世話役の男に、ミサは銅貨がジャラジャラ入った小袋と、錆びついたナイフを投げ渡す。
「ちっ、シケてんなぁ」
銅貨の袋だけひったくるように懐に仕舞い、男はさっさと去っていく。
「シケてんのはお前らの方だろうが」
冷めたジト目で男の背中をミサは見送った。
傭兵を名乗る集団である以上、荒事の現場にはよく遭遇する。ミサは戦場のドサクサに紛れて、死んだ奴らから身ぐるみ剥いだり、投棄された装備品の回収が、小さな彼女の主な仕事であった。すでにして鋭く目端の利くミサは、放っておけば金目のモノをよく集めてくれると、彼らも早々に悟っていた。
そうしてミサは彼らにくっついて、半端な小競り合いばかりの戦場を渡り歩き、時には盗賊行為を働き、初心者冒険者から獲物を横取りしたりしながら、シンクレアの一地方を点々としていた。
そんないつ騎士団か賞金稼ぎに狩られるかもしれない生活を続けていた、ある日の晩の事だ。
「————ミサ。可愛い子。貴女に加護を授けましょう」
神の声を聞いた。
夢の中の出来事であると、子供ながらに理解はしている。けれど聞こえたその声は、あまりにも美しく、甘く、とても同じ人間とは思えない魅惑的な響きをしていた。
あれは本物の、女神の神託に違いない。ミサはそう確信した。
そして女神の言葉に、ミサは一つの真実に気づく。
「そっか、私って可愛いんだ!!」
蒙が啓けるとは正にこのことか。自分の本当の武器にミサは気づいたのだ。
それからの行動は早かった。あるいは、それもまた天の巡り合わせとでも言うべきか。
「おい、私を売れ。金貨2枚になるぞ」
「よっしゃ、売った」
7歳で娼館に売られた。正確には売り込んだ。
遅かれ早かれではあったことだろう。だが売られるならば、最も大きな街の娼館がいいとミサは決めていた。下手な田舎町では、一生そこから抜け出す余地もなくなってしまう。
自身の美貌を武器に、目いっぱいに小奇麗にして愛想を良くしたミサは、実に金貨3枚の値が付けられて売却された。
将来有望な美幼女を仕入れられて娼館主は満足。傭兵団はガキ一匹が高値で売れて満足。ミサは成り上がれそうな場所に来れて満足。正に三方よしの取引であった。
かくてミサは夜の世界へとやって来た。己の美貌という、最大の武器を活かすための舞台へと。
「アンタが新入りね! ワタシはミサ、アンタの先輩よ!!」
娼館に売られて一年も経てば、ミサは完全にここでの生活に適応していた。
初めて後輩が出来た時も、自分はその道ウン十年やってきた、とでも言わんばかりの堂々たる態度で指導という名の雑用を押し付け、いいようにこき使い始めている。
後輩は他の少女達と比べても一段劣る容姿だが、自分の分を弁えているような従順さをミサは気に入っていた。
他の有象無象ではなく、この神に愛されし美貌を誇る自分に媚を売ることを選んだのは、ミサを買った娼館主と同じくらい先見の明がある。という評価は別にしても、ミサは自分に媚を売る奴は大好きだ。もっとチヤホヤしろ。
そんなミサの態度は、良い方向にも悪い方向にも働いた。
ライバルといえる同年代の小間使い少女達の間では、図抜けた美貌を持ち、それでいて自分こそ選ばれし特別な人間であると信じて疑わない傲岸不遜な姿は、大いに反感を買ったものだ。結局、数年経ってもミサを慕うのは後輩一人きり。
けれど娼館に来る客は、幼くも魅惑的な容姿に、元気一杯の自信満々でお喋りするミサを大いに気に入っていた。
まだ売りに出されてはいないが、ミサに目をつけていた男はそれなりにいたが、
「ふふん、チョロいもんだわ」
ミサが選んだのは最上級の獲物。
この街の支配者たる子爵の青年であった。
「いよいよ、このワタシも次のステージに進む時が来たわね」
すでに自分がこの娼館史上最高の額で身請けされる契約が果たされていることは知っている。
何年も同じ場所に務めているのだ。あらゆる場所に自分の目と耳が届くよう、小細工はしている。ミサには秘密ということになっているが、契約情報は筒抜けだ。
子爵様はミサの誕生日、ということにしている当日にサプライズでミサに身請けの件を伝える、なんてことを計画しているようだが……精々、彼が望む可憐な感動リアクションを今から練習しておこう、とミサは考えていた。
「ここがゴールじゃない。ワタシはもっと上まで登り詰めてやる」
子爵との結婚など、通過点に過ぎない。
なにせ自分は女神の祝福を得ているのだ。ならば、貴族の家にたまたま生まれただけの奴らなんかより、自分の方が幸せになって然るべき。神に選ばれなかったくせに、高貴な血筋などと、笑えて来る。
「このワタシが頂点に立つ! シンクレアにミサ王朝でも打ち立ててやるわっ!!」
それはきっと、幼さ故の全能感。
しかしミサの美貌と才覚は本物で、夢を現実のものにできると錯覚してしまいそうなほど、成功の連続でやって来た。
けれど、ミサの野望が叶うことは決してない。
運命の誕生日、身請け当日。その日、ミサという少女の命運は尽きるのだから。