第935話 黒魔装
「————ん」
夢のような一夜の終わりに、夢を見ているのだとサリエルは自覚した。
目の前に広がる光景は、乾いた土のグラウンドと抜けるような青い空。そして遥か遠くに突き立つ、黒い……城壁、と呼ぶべきなのだろうか。サリエルの目に狂いがなければ、この距離でこの見え方ならば、高層ビルの如き高さの城壁となる。
だが、景色など些細な問題だ。
夢で見るような、自分の頭が作り出した幻に過ぎないからではない。
ここは己の夢の中であり、同時に、神域でもあるからだ。
「————貴女に、新しい加護を授けます」
初めからそこにいたかのように、忽然と姿を現した。
漆黒の鎧兜を身に纏った女騎士。その姿は、パンドラ大陸においては魔王ミアに次いで有名であろう。
「暗黒騎士・フリーシア」
「また一人、この領域にまで辿り着く者が現れました。実に、喜ばしいことです」
兜から流れる長いプラチナブロンドをそよ風になびかせながら、女神フリーシアは微笑む。
我が子の成長を見守る母親のような眼差しが、サリエルへと向けられる。
「ありがとうございます。暗黒騎士・フリーシアの導きによって、私は主と結ばれることができました」
神の前で人がそうするのは当然と言わんばかりの自然な動作で、サリエルは跪き、深く頭を垂れた。
感謝の言葉は、かつて白き神の恵みに対する決まり切った形式だけのものとは違い、紛れもなく本心からによるもの。
当然だ。人ならざる人形の分際で、主の寵愛を得られるなど、神の奇跡に縋る以外にはありえなかった。
「主従の愛こそ、最も崇高な真実の愛。サリエル、貴女がその真理の体現者となったことを、私は祝福しましょう」
あ、コイツも自分の愛が一番なんだと信じ込んでいるクチだ……サリエルは神の真実を悟った。
フリーシアの主義思想はどうであれ、そのお陰で自分は愛と力、最も欲するものを両方、得ることができるのだ。サリエルにとって、フリーシアを信奉することに否はない。
「さぁ、貴女の望む力を授けましょう」
「私の望む、力……」
まるで、好きな能力を得られるかのような物言いだ。
しかし、そんな白き神でしか成し得ないような万能な力の付与が、できるはずもない。
「どんな力でも構いません。拳でも、剣でも、魔法でも————古代兵器でも」
フリーシアがそう口にした瞬間、サリエルの周囲に無数の武器が現れた。
騎士達の墓標の如く、数え切れない剣、槍、斧、あらゆる刃を備えた武器が突き立つ。中には弓もあれば、すっかり見慣れた古代の銃器EAシリーズも勢揃い。
さらには魔法の杖に、ぎっしり魔導書の詰まった本棚まで。
挙句の果てには、数々の武器の向こうに鋼鉄の巨人、戦人機がズラズラと並び立ち、頭上には天空戦艦シャングリラが浮かんでいた。
「ここはエルロード帝国の中心、アヴァロン王城。私の暗黒騎士団が日々の鍛錬を積む練兵場です。古今東西、ありとあらゆる武器が揃っていますよ」
これは一種の概念のようなものだとサリエルは理解した。
現実に遥か古代のアヴァロン王城に、過去未来に存在しうる全ての武器が保管されていたはずがない。だが、世界中のありとあらゆる武器を所蔵していた、というのは事実なのだろう。
故にフリーシアの神域となったこの場は、己の知る限り全ての武器が存在する場所となる。
そして、その中のどれでも好きなモノを使えと言っているのだ。
「いいですね、私も槍を愛用していました」
サリエルは最も近くに突き立っていた、『反逆十字槍』を手に取った。
他の古代兵器に目もくれず、迷いなく自らの槍を選んだサリエルの姿に、満足そうにフリーシアは笑みを浮かべて————同じように、槍を構えた。
「その槍は……」
「武装聖典『聖十字槍』、と言うのですね。敵ながら、良い槍です」
漆黒の装いに反する、聖なる純白の槍をフリーシアはその手に取り、構えた。
その構えは、自分と全く同じ。シンクレアの槍術を基礎に、使徒としての実戦を経て、磨きに磨き抜いた我流。
それを自分より、それも第七使徒であった頃のサリエルよりも、完成された姿でもって構えていた。
「貴女が望む力は、分かっています。私はそれを否定しません。さぁ、どうぞ存分に、納得するまでお付き合いしましょう」
フリーシアの言葉に、僅かな逡巡を経て、サリエルは応えた。
これでいい。これがいい。
何故なら、これがきっと、自分にとってもクロノにとっても、最強のサリエルの力なのだから。
「よろしくお願いします————」
そこから先は、もう言葉はいらなかった。
ただ白と黒、二本の槍が全てを決するのみ————
「『黒魔装』」
そしてサリエルは、この力を得た。
夢の中で訪れた、暗黒騎士・フリーシアの神域。望む力を与えると、さも万能な力が授けられると勘違いしそうになるが、その本質はなんてことはない、修行だ。
自身が望む方向性の修行に、実戦形式で女神フリーシアが無限に付き合ってくれる。
己が望む力を手にするのが先か、不可能と挫折するのが先か。
彼女の神域から目覚めるためには、自分で納得できるだけの力を身に着けてからだ。
フリーシアは確かに、新たな加護を与えた。けれどその力の本質は、己の潜在能力によるものだ。それを引き出すための機会を設けるのが、フリーシアの与えた加護そのものと言ってもいいだろう。
そうしてサリエルは手に入れた。
堕天使の如く黒い鋼鉄の翼を生やしたサリエルの身から、禍々しい暗黒のオーラが迸る。
「な、なんという事だ……その姿は、まるで……」
使徒のようだ、とでもノールズは言いたいのだろう。
事実、サリエルの身に宿る膨大かつ高密度のエーテルは、使徒と遜色ない出力となっている。その力の発露として、全身からオーラとなってみなぎるのだ。
聖なる使徒が身に纏うオーラは神々しい白銀。しかしサリエルの発するオーラはその対極にあるような黒である。
「そう、今の私は第七使徒と同等————」
黒きオーラを纏ったサリエルが発揮するのは、無限の魔力を授かっていた第七使徒の頃と全く同じ超人的な身体強化。人として、どこまでもシンプルな強さである。
だがしかし、ただの素人が、あるいは騎士や冒険者といった玄人であったとしても、人体の限界を超えたスーパーパワーを得ても、十全に扱うのは難しい。大きすぎる力に振り回され、思い通りに動くことはできないのだ。
走ろうと思った瞬間に、速度が早過ぎて壁に激突してしまう、といったように力は大きければ大きいほど、その制御は困難。フィオナが魔力制御を不得手とするのも、似たような理屈である。
けれど、サリエルにその心配は不要だ。
「————この力の扱い方は、よく覚えている」
「ぬわぁああああああああああっ!!」
言葉だけを置き去りに、黒き雷光が閃く。否、それは黒雷を纏った反逆十字槍の穂先。
ギャリギャリとけたたましい金属音を立てて、光り輝く巨人の首筋を削ってゆき、思わずといったようにノールズの声が上がる。
慌てて首を傾げるように回避しつつ、そこを巨人の掌が叩くものの、すでにそこにはサリエルの姿はない。
とうに間合いを離脱したサリエルが、フワリと虚空に浮かんでいるのを、振り返ってからようやくノールズは捉えた。
「この裏切り者の背神者が……再び、使徒と同じ力を使うだとぉ……」
凄まじい雷槍の威力と、目で追え切れない程の神速。
それもただ早いだけでなく、サリエルは首筋を抉りながら静かに肩を駆け抜けていった。超高速の疾走を、完璧に制御しきっている証だ。
なるほど、確かにこんな動きが出来るのは、使徒くらいのものであろう。はったりの大言壮語と疑う余地はない。
だからこそ、尚更に許し難い。
「貴様は一体、どこまで神を愚弄するというのだぁ!!」
ノールズの怒れる巨大な拳が振るわれる。
金属質な巨人の体は如何にも鈍重そうだが、その動きは戦士として鍛え上げた肉体を持つノールズのフィジカルをそのまま反映し稼働していた。
強い怒りを覚えながらも、その身から繰り出される打撃には確かな体術の術理が宿る。自身が圧倒的な巨躯を誇るが故に、大振りの一撃は不要。
速度重視の乱打が、前方の空間全てを圧殺するかの如く、轟音と風圧を伴って繰り出される。
「————『雷天踏破』」
重厚な質量の暴力が襲い掛かる中で、サリエルの空中機動はさらに加速する。
かつて第七使徒だった頃には、『千里疾駆』を移動強化武技として愛用していた。極まったその技は、ただ素早さを上昇させるだけでなく、虚空を蹴りつけて跳躍することも可能とする。
この達人級の武技とペガサスを駆使して、サリエルは幾度となく空を支配するドラゴンを制して来た。
しかしフリーシアの神域にて新たに編み出した『雷天踏破』は、完全な飛行能力をも備える。
ネルのような本物の翼ではない。だが、偽りの鉄の翼であっても、空を飛ぶという役割は機能していた。
「くっ、捉え切れん……」
拳は空を切るばかり。
完全に見切られている上に、回避を可能とするだけの速度と機動力が発揮されている。
『千里疾駆』の高速と空中ステップに加えて、サリエルの背にある黒翼がスパークと共に羽ばたきをすれば、その身はフワリと宙を舞うのだ。
ノールズとて、まさかあの鉄の翼が空を打って空を飛べているとは思わない。
明らかに纏った黒雷、すなわち雷属性の力で飛行力を得ているのだと察せられるが、その詳しい原理までは分からない。少なくとも、雷属性魔法で空を飛んだ魔術師の話は、聞いたことなど一度もなかった。
「————『一穿』」
「うぉおおおお————『光盾』っ!」
飛び回るサリエルが視界から消え、完全に背後を取られたと察した瞬間に、防御魔法を発動させる。
背中全面をカバーできるよう、背負うような形で展開した『光盾』。下級防御魔法だが、『八識聖痕』による巨人状態のノールズが行使すれば、それに見合ったサイズと出力を発揮した。
キィン! と光の防御を叩く甲高い音が響く。
サリエルの武技を、巨大な『光盾』は見事に防ぎきる。
しかし無傷では済まない。確かな亀裂がそこに刻まれ、二度三度と受ければガラスのようにあえなく砕け散るだろう。
「させるかぁ!」
連続攻撃など受けては堪らないと、振り向き様の裏拳が次の瞬間には叩き込まれる。
だが勿論、サリエルは悠々とその場を離れ再び間合いを脱した。
「硬い」
けれど、砕けないほどではない。
もっと硬い奴がいた。
もっと速い奴がいた。
もっと大きく、強く、絶望的な敵がいた。
竜王ガーヴィナル。
第七使徒サリエルの全身全霊を賭け、その上で天運に恵まれ奇跡的な勝利を遂げた。今でもこれまで戦ってきた相手の中で、単独で最強の個体である。
かの竜王と比べれば、伝説を模しただけの『ローゼリア島の聖堂巨人』などさしたる脅威とはならない。
強く、大きく、硬い、光の巨人。だがそれだけだ。
その強靭な巨躯を削り切り、分厚い胸元の奥底に宿る術者を仕留めればそれでいい。
ゴルドランの丘で竜王ガーヴィナルと演じた綱渡りのような戦いは必要ないのだから。
「な、何故だ……何故だぁ! どうしてこの俺が、こんな背神者にぃ————」
光の巨人がどれほど暴れても、蝶のように軽やかに、蜂のように鋭く、縦横無尽に宙を駆け回るサリエルを捉えることはできない。
使徒と同等の力を出せるようになったとはいえ、無限の魔力を得られるわけではない。当然、この『黒魔装』にも制限時間と呼ぶべき限界は存在している。
だが迫り来るそのリミットにサリエルが焦ることはない。その程度の緊張で、動きの精彩を欠くことは決してない。
何故なら自分は人形だから。人形でいいと、主に許され、ありのままを愛された。
故に戦闘マシーンとしての自分に没頭できる。最後のコンマ一秒まで、最善の戦闘行動をとり続けるのみ。
「許されない、こんなこと、あってはならんのだ! 俺は神命を授かった、魔王を討つ神命を! それを貴様のような裏切り者なぞに、阻まれてなるものかぁ!!」
先に焦りを覚えたのは、重い使命を負ったただの人間に過ぎないノールズの方だ。
その拳はより激しく、さらには魔力消費の後先を考えないかのように、攻撃魔法も織り交ぜ、全周囲を制圧するような範囲攻撃を連発する。
けれどそれがサリエルに命中することは終ぞなかった。
攻撃の苛烈さは増しても、サリエルは刻一刻とノールズの攻撃パターンを学習してゆく。使徒の優れたスペックに頼った、目で見てからの高速回避に頼る必要もなく、瞬間的な攻撃予測でさらに余裕をもって対応できるようになる。
回避の余裕が出来れば、その分だけ攻撃の手数も増す。
大技は使わない。『一穿』や『飛閃』を中心とした基本的な武技で、着実に削って行く。
だが、この瞬間は僅かに溜めの動作を差し込んだ。
クラウンチングスタートのような前傾姿勢で、黒翼を折りたたむ。一時的に浮力が失われ、自由落下に身を任せる。
「————『黒雷突破』」
直後、大きな落雷が炸裂したような爆音と共に、レールガンで放たれた砲弾の如き勢いでサリエルの突進武技が放たれる。
ノールズの防御は間に合わない。叩き落そうと伸ばした掌を置き去りに、バリバリと黒き雷光を纏ったサリエルが突っ込み、
ギィイイイイイイイイイイイイインッ!!
けたたましい音と共に、巨人の膝が砕ける。
全長20メートルの巨躯を支える要が揺らぎ、さらには膝を狙うサリエルを迎え撃つために体勢を傾けていたこと。
巨人でなくても、転倒は避けられない。
重力の軛に囚われ、轟々と傾いでゆく巨人の体は、一拍の後に巨大な水柱を上げて倒れ込んだ。
体勢を崩したせいで、橋の上から転げ落ち川へと転落。間抜けな恰好ではあるものの、それが巨人サイズとなれば、砦が崩れたかのような地響きを起こした。
しかし宙を舞うサリエルにとって、大地の揺れも、豪雨のように降り注ぐ水飛沫も、全く怯むに値しない。
素人目で見ても明らかな好機。この瞬間、ノールズは致命的な隙を晒してしまった。
「『月光』————」
それは『最大狂化』を超えた上昇効果を誇る、禁断の強化魔法。実質的には強力な『狂化』状態と化すことに変わりはない、状態異常のデメリット込みでの技である。
第七使徒の頃であっても、ここぞという一撃の瞬間にだけ発動させる使い方に限定していた。
最後にこの技を使ったのは————竜王ガーヴィナルと戦った時だ。
「————『魔神槍』」
ゴォオオオオオオオオオオオオオオオン————
再びヴァルナの密林に鳴り響く、鐘の音が如き轟音。
かつて竜王ガーヴィナルは、第七使徒サリエルが誇る最強の攻撃、『月光』からの『神槍』を受けても尚、手傷を負う程度に留めた。
分厚い黒竜鱗と竜王を守りし加護、そしてなによりドラゴンの強靭極まる生命力が、神の穂先であっても容易に命には届かせなかった。
けれど、伝説を模しただけの巨人を倒すには、一撃で事足りる。
白銀に輝く胸板は迸る雷鳴と共に砕け散り、ギラギラと破片を盛大に撒き散らす。そこから怒涛のように吹き上がるのは真っ赤な鮮血ではなく、見慣れた白銀のオーラ。
巨人の肉体を動かすエネルギーたる白色魔力が噴き出ているのだ。
濛々と煙る水蒸気のように立ち込めるオーラの向こう。そこに、大きな男の影がある。
「ぐっ……馬鹿な……俺の授かった、神の、力が……」
大きな結晶体のようなものに埋もれた、生身のノールズがサリエルの前に晒される。
ノールズの体を覆っていたであろう結晶体も割れ、上半身は完全に露出している。もうその身を守るものは、何もない。
「少し、威力が足りなかった」
真に使徒と同じ力があれば、これでノールズごと貫き殺し切っていた。
やはりまだ授かったばかりの加護の力を、引き出し切れていないとサリエルは反省した。
「敗北など、ありえない……俺は、俺はようやく、神に選ばれたというのに……」
「神は、人を選んだりはしない」
呆然と、うわ言のように呟くノールズの言葉に、サリエルは応える。
彼女の言葉など、届くはずがないというのに。
それはきっと、神を信じ、信じるより他はなく、最後まで信じ切った男の最期を、憐れむ気持ちの現われか。
あるいは、かつて使徒として、ほんの僅かながらも本物の白き神と通じた経験が故か。
少なくともサリエルは、第七使徒の位を授かった時に、神に選ばれたという自覚など無かった。
あの感覚は、まるで機械的なシステムによって定められていたかのよう。人間という一個人のことなど、全く認識していないような感覚を覚えた。
はっきりとそう自覚したのは、きっと黒き神々の一柱たる『暗黒騎士・フリーシア』という女神と対話を果たした後のこと。
白き神と黒き神々。その在り方は、全く異なるものだと、サリエルは心の底から理解した。
「その首、貰い受ける」
これがせめてもの慈悲とばかりに、サリエルは一突きでノールズの心臓を貫いた。