第933話 堕天使(1)
「————おはようございます、マスター」
心地よい微睡みから目覚めると、すぐ傍にサリエルの白い美貌があった。
「おはよう、サリエル」
ぼんやりしながら反射的に挨拶を返す。
それから一拍おいて、やっと状況を思い出した。
樹木の洞には朝日の光が柔らかく差し込み、薄っすらと照らし出している。よれた寝具に裸で寝転ぶ俺と、目の前に立つサリエルはすでに身支度を整え終わっており、かっちりとした軍装を纏っていた。
「すまん、寝坊したか」
「いえ、今は時間よりも、ゆっくりとマスターに眠ってもらう方が重要ですから」
この脱力感とボーっとした感覚は、熟睡していた証。
ここ数日はいつでも飛び起きて戦えるよう、浅い眠りを短時間とっていただけだったからな。熟睡なんてしている場合ではなかったが……昨晩ばかりは致し方ない、か。
「お陰様で、体力は回復したよ」
流石に自分でもはっきり分かるほどの疲労感だった。体力的にも魔力的にも、そして精神的にも結構キツくなっていたと思う。
けれど今は、随分と体も頭もスッキリしている。自己嫌悪しそうなほどだ。
「マスターに満足していただけたのなら、嬉しい限りです」
「うっ……」
昨晩のことは、何というか、その、初めての時よりはマシだったということにしてくれないだろうか。
いや、ダメかもしれない。自分でも歯止めが効かなかった自覚がある。
いくらサリエルが気絶しなかったからといっても……
「無事に、新たな加護の力も目覚めました」
「本当か? というか、そういうのすぐ分かるものなのか?」
決してソレだけを目的としたワケではないのだが、上手く行ったのなら大きな戦力となる。それこそ、この危機的な状況を打開するほどの。
「力の使い方は、すでに理解しています」
「そうなのか」
「はい。この加護の力があれば、私一人で最後の防衛線を突破することも可能かと」
凄い自信だ。それも自己主張最小のサリエルが言うのだから、決してただの自惚れではなく、そう言い切れるに足る根拠があるのだろう。
今の俺達は少しずつ、けれど着実に大遠征軍が支配する大角の氏族の領域を脱しようと進んでいる。
だがその動きは当然、向こうも把握している。
俺達の脱出ルートを特定し、そこに最大限の兵力を集中させた最終防衛線を構築するのは明らか。最後に最大の壁が立ちはだかることとなるだろう。
「お前を一人にはさせないさ。でも、その力には頼らせてもらおう」
「はい、私にお任せください。そのために————」
ぐっとサリエルの顔が近づいてくる。
急に来られてドキっとするが、もう今の俺に彼女を止める理由は何もない。
「————もっと、愛してください、マスター」
「やはり最短距離で来たな」
報告されたクロノの位置情報を聞き、ノールズは深く頷く。
ジャングルでの追撃戦を始めて一週間近くが経とうとしている。戦功目当ての馬鹿を煽って兵力を投入し、最精鋭の聖堂騎士で追跡を続けて、絶え間なく攻め、追い立てて来た。
ただの騎士や冒険者であればとっくに全滅している苛烈な追撃を受けても尚、魔王は最小限の犠牲に抑えて進み続けた。
そして今、ついにこちらの支配圏を脱そうかと言うほどの距離にまで辿り着こうとしている。
ノールズは詳細な地図の上で、報告にあった位置に魔王を示す駒を進めた。
王冠を模った黒い駒の前にはちょうど、己を示す白い大駒が立っている。
「おおっ、凄いじゃあないですか。予想的中!」
ノックもなく司令室に入っては、地図上の配置を見て聖堂騎士の隊長は相変わらずの軽薄な声を上げた。パチパチと白々しい拍手もついている。
白い駒は地図上に赤い太線で描かれた上に陣取っている。そのラインがこちらの兵を展開できる限界。最終防衛線だ。
すでにノールズは大角の中心集落にある神殿を離れ、自ら主力を率いてこの場へと司令部を移していた。
これでクロノが全く見当違いの方向へ逃走を図っていたならば、自分が戦える機会は潰えてしまうところであったが……現実は予想した通りの場所へクロノは現れた。
「ここぞという時は、己の力を頼りに道を切り開くことを必ず選ぶ。だからこそ、最短距離を突破して、ここを脱する腹積もりだ」
ジャングルを延々と逃げ回り、救援をアテにするような男ではない。
ましてクロノは因縁の第十一使徒と決戦を行うつもりでヴァルナへとやって来ている。自分が陥った窮地よりも、魔王というトップを欠いた自軍を心配しているだろう。一刻も早くメテオフォールへと戻り、ミサとの決戦に臨みたい
ノールズはそうクロノの思考を推測している。
その考えに基づけば、必ずやクロノの目指す突破口は今自分が陣取っている付近とならざるを得ない。
「ふっ、今度はこちらが川を守る番か」
ヴァルナ川。
この地域を指す名をそのまま冠した大河の支流が、この辺一帯における大角の氏族の縄張りを区切る境界線となっていた。
川は自然に引かれた、非常に分かりやすいライン。あちらとこちら、境界は一目瞭然であり、部族社会というシンクレア人からすれば遅れた体制の者達が土地を区切るのに、川を利用するのは当然だと思えた。
森海の南方にある高地から流れる長大なヴァルナ川。ここに流れ込むのは無数にある支流の一部で、本流と比べれば川幅もずっと狭いが、それでも1キロ近い幅を誇っている。
中型の水棲モンスターが群れで悠々と泳ぐほどに深さもあり、流れも速い。普通の軍隊では、まず渡ることは出来ないだろう。
よって、この川を越えるためには必然、ここにかかる橋を利用するより他はない。メテオフォールへと続く主要街道を繋ぐためのこの橋は、大角の縄張りでも最大の大きさを誇る。
それは巨大な石造りの大橋。遥か古の魔王の時代よりかけられている、古代遺跡の橋である。
悠久の時を超えても尚、一切の揺らぎを見せない古代の大橋。アルザスの時のように、渡っている敵を落とす作戦は不可能だ。
いざという時に破壊して落とすことが出来ないため、この境界線を守る砦がここにはしっかりと築かれている。
砦は大角の縄張り側に建っているが、今回の相手は外から攻めて来る敵ではなく、内から逃げ出す者である。よって、ノールズが守る本陣は橋を渡った先に設けた、急造の防御陣地だ。
しかしながら、大遠征軍の莫大なマンパワーによって設営された陣地は、十重二十重に結界で守られ、ノールズ直下の精鋭と、万を超える大軍が駐留する一大拠点と化している。これが僅か20に満たない小勢を倒すために集めたなどと言えば、馬鹿馬鹿しくて話にもならないだろう。
けれどノールズはそれをやった。全身全霊をかけて、魔王クロノを孤立させた上で、自分に集められる最大限の兵力を結集させたのだ。
万が一にでも、これでクロノを取り逃せば、これほどの大作戦を推し進めた全責任を被り処刑は免れない。今日ここで、クロノを討ち取るより他に、自分が生き残る術はない。
これは覚悟だ。アルザスの戦い、その因縁に決着をつけるべく臨んでいる。
そうして静かな闘志を燃やしながら、ノールズは時を待つ。そして、やがてその時は訪れた。
「————おっ、来たみたいだよ」
飛ばしている使い魔から情報を得たのか、先んじて聖堂騎士隊長が言えば、直後に伝令兵が飛び込んでくる。
「報告します! 魔王クロノが現れました!」
「どこだ」
「橋へ続く街道上に、単騎で姿を現しました!」
「一人だと……?」
配下はどうした。少なくとも、まだ暗黒騎士を名乗る取り巻き連中を全滅させたという報告はない。
仕留めたのは僅か三人ばかりで、いまだに大半は生き残り戦闘能力も保持し続けている。
どこかへ隠して、置いて来たのか。この期に及んで足手纏いだと断じたのだろうか。だとしても、クロノと並ぶ高い戦闘能力を誇る元第七使徒サリエルだけは同行させるはず。
「本物か? 幻影の囮かもしれん。大挙して押し寄せるよう真似はするな。まずは本物かどうかの確認を————」
「————本物だよ」
ノールズの指示を遮るように、隊長が言い切った。
睨みつけるような視線で、何故かと問えば、隊長は肩をすくめて答える。
「本物の呪いの武器を振るってる」
最前線では、すでに戦端は開かれたようだ。
隊長は使い魔を通して見た姿を、隠すことなくありのままノールズへと伝えた。
「不死馬を駆り、死霊を操る大鎌を振るう、スパーダの死神だっけ?」
「まさか!」
「こっちの雑兵を狩って、アンデッド軍団にする気だよ。ははっ、流石は魔王を名乗る男、酷いコトするねぇー」
「謡え————『反魂歌の暗黒神殿』」
狂気的な絶叫を撒き散らす墓守の呪いが宿る大鎌『獄門鍵エングレイブドゥーム』を掲げながら、メリーに跨った俺は密林に敷かれた街道を駆け抜ける。
ここ最近はずっと深い密林に潜ませて歩かせるだけだったせいか、メリーは鬱憤を晴らすように大きないななきを上げ、元気に全力疾走をしてゆく。アンデッドなのに元気というのも妙かもしれないが、それくらいの力強さを乗っているだけで感じられるのだ。
俺達は逃げも隠れもせず、堂々と道のど真ん中を単騎駆け。
真っ直ぐに伸びた道の向こうには、縄張りの境界線とされる大きな川が流れ、そこにかけられる古代の大きな橋がある。橋のたもとには幾つもの十字の旗と、どこぞの貴族の家紋と思しきエンブレムの入った旗も翻り、結構な人数が群れているのが遠目にも明らか。
こっちから見えているなら、当然、向こうもすぐに俺の姿に気づいたことだろう。
「魔王が来るぞっ!」
「相手は単騎だ! 討ち果たす絶好の好機、絶対に逃がすな!」
ただ真正面から突っ込んでくるだけの俺に対し、整然と迎撃態勢をとっている。
あっという間に無数の槍の穂先が突き出された壁が形成し、複数の魔術師部隊が攻防共に支援する配置についていた。
次の瞬間には、矢と攻撃魔法の雨が降り注いでくることだろう。
上等だ。その陣形、隅々まで侵し尽くしてやる。
「『荷電粒子竜砲』、発射」
大軍相手には恒例と化している、チャージ済みの『ザ・グリード』をぶっ放す。
ここを超えれば脱出成功。もう魔力を温存しておく必要もない。出し惜しみ無しで暴れる。
「総員、防御態勢ぃー!!」
「————『大山城壁』!」
「————『海流城壁』」
流石にこちらの一撃を警戒していたようだ。俺の動きを察し、素早く上級範囲防御魔法を展開させてきた。しかも二枚あるし。
一枚目はやはり堅牢さにおいてはトップクラスの土属性。文字通りに城壁が如き大きく分厚い石の壁が突き立つ。
二枚目は高熱への対策だろうか、水属性の防御魔法だ。大きな滝を逆さまにしたかのように膨大な水が地面から沸き立った。
ボシュゥウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!
極大の雷光の穂先は、まず分厚い水の壁を貫く。着弾した瞬間にはもう沸騰し、爆音を立てて膨大な水蒸気が上がる。
飛び散る飛沫だけで熱そうだ。
湧き上がる『海流城壁』の半分を水蒸気に、もう半分を熱湯へと変えた『荷電粒子竜砲』は、次に本命の『大山城壁』へと突き刺さる。
真っ当な魔術師部隊が力を合わせて発動させた防御魔法だ。流石の硬さと厚さだが、俺の『荷電粒子竜砲』だって貴重な弾を費やしている渾身の一撃だ。
聖堂結界でもないのに、この程度で防ぎきられては困る。
「ぶち抜けぇ!!」
さらに魔力を込めて一押し。照射時間を延ばす。
そうして次の瞬間には大爆発が巻き起こり、赤熱化した岩の破片が噴火でもしかのように方々へと降り注ぎ、岩の城壁は砕け散った。
「うわぁあああああ!」
「陣形を崩すな! 守りを固めろ!」
「狼狽えるな、持ち場を守れ!」
「急いで負傷者を下がらせろ。すぐに次が来るぞ」
「魔術師部隊、早く掩護しろぉ!」
正面から二重の防御が破られ、相応に混乱が発生している。それでも陣形が崩壊するほどではないので、十分に『荷電粒子竜砲』の威力が削がれてしまったようだ。消し炭になった奴らはそれほどでもないはず。
俺が突っ込むまで、まだ多少は距離がある。どんどん行くぞ。
「『魔剣・裂刃戦列』————全弾発射」
密林逃避行のせいで、残弾数が心許なくなっている赤熱黒化剣も惜しみなくつぎ込んでいく。
放物線を描くように飛ばし、密集する敵の頭上で炸裂させてやる。今は一人でも多く、敵兵を殺すことが重要だ。
「ご主人様、換装完了でーっす!」
「よし————『魔弾掃射』」
赤熱化した砲身を銃身へと換装し、すぐに銃撃を開始する。
水と岩の壁は崩れ去った以上、射線を塞ぐものは何もない。黒い銃弾の嵐が情け容赦なく前面に配置された敵兵へと襲い掛かる。
「ぐわぁーっ、た、盾が貫通してる!」
「回復! 早く回復してくれぇー!」
「上の爆撃を早くなんとかしろぉ!」
「応戦しろ! 敵はもう目の前だぞ!!」
最前線の混乱ぶりがはっきりと目に見えるようになると、騒々しい喧騒もよく聞こえるようになる。俺は持てる火力を注ぎ込みながら距離を詰め————よし、この辺だな。
敵集団へと突っ込む手前ほどの位置で、メリーの手綱を引いてコース変更。奴らの目の前を横切るように走り始めた。
俺自身が敵のど真ん中に突っ込む必要はない。ほどほどに敵を殺し、これくらいの間合いを維持できればそれでいいのだ。
何故なら、すでに『反魂歌の暗黒神殿』は発動しているのだから。
「ぎゃぁあああああああああああああああ!!」
「おいっ、何すんだ、やめろぉ!?」
「ゾンビだぁー!!」
「な、なんでゾンビが出るんだよ!」
「いかん、これは敵の闇魔法だ! 死んだ奴をゾンビに変えているぞ!」
狂える墓守の歌声は十分に届いている。
倒れた死者に漂う悪霊達が憑りつき、次々と立ち上がりすぐ隣にいる生者へと襲い掛かり始めた。
やはり多勢に無勢の時は、この技は役に立つ。
「おい、退けお前ら!」
「司祭様がゾンビを浄化するぞ!」
「皆さん、恐れず、祈りなさい。聖なる輝きの前に、邪悪なるアンデッドは全て滅び去るので————んばっ!」
混乱する敵の隙間から、ゾンビ対策で偉そうに出て来た目立つ法衣姿の司祭が、脳天ぶち抜かれて倒れるところがちょうど見えた。
誰が撃ったかまでは分からないが、いいタイミングだ。流石は我が精鋭、暗黒騎士。
ゾンビみたいな下級のアンデッドモンスターは、司祭の力で一網打尽にされかねない。そして十字軍には貴族の騎士団であっても、回復役として最低限の司祭は必ず同行しているものだ。
まだまだ暴れ始めたゾンビの数は少ない。ここで制圧されてしまっては困る。
かといって俺のポジションから、後方に陣取る司祭を狙うのは難しい。だから司祭を仕留めるのは、高所に陣取った暗黒騎士の役目だ。
ここがただの草原だったら無理だが、鬱蒼と生い茂る密林は、周囲に幾らでも大きな樹木がある。
俺が一人で目立つ大暴れをすれば、その間に暗黒騎士達が配置につける。
動ける時間は短く、敵陣の間近という危険な場所だが、敵の目は本命である俺へと引き付けられ、さらにゾンビ発生でパニックに陥れば、樹上に陣取り狙撃に徹する暗黒騎士の対応にまで手は回らないだろう。
「よし、崩れ始めたな」
ほどなくすると、いよいよ陣形の維持が困難となり、敵は潰走を始めた。
死んだ兵がゾンビとなり、蘇ったゾンビが隣の兵を食い殺して、新たなゾンビが蘇る。司祭達が狙撃で排除されれば、この連鎖を止められる者はおらず、瞬く間に生きた者よりゾンビの方が増えてくる。
両者の数が拮抗した時点で、もう勝負アリだ。
「退け! 退けぇーっ!!」
「ここはもうダメだ!」
「早く行けよぉ! ゾンビが来る!!」
そして奴らの逃げ場は、後方に伸びる橋だ。
橋の向こう側に敵本陣は構えられている。味方に助けを求めて、大挙して橋を渡り始めていた。
そして大勢が橋へと逃げ出せば、獲物を追うゾンビ達も自然とそちらへ引き寄せられてゆく。
『反魂歌の暗黒神殿』は大量の悪霊を展開させるが、俺がそれらを制御できるワケではない。ゾンビ達も同様である。
けれどこの状況下においては、俺が操作など出来なくともいい。逃げる奴らが勝手にゾンビを橋へ導き、引き寄せて行ってくれるのだから。
これでゾンビの大軍を、橋の向こうの敵本陣へとけしかけられる。
流石に敵の本丸に単独で突っ込むのは、俺も遠慮したいからな。
「————逃げるなっ、この不心得者どもがぁ!!」
生者と死者が入り混じり、続々と橋へと殺到してゆく混乱の中で、ジャングルに響き渡るほどの大きな怒声が上がる。
「出て来い、魔王クロノ! アルザスで取り逃がした貴様の首、このノールズが今度こそ討ち取ってくれようぞっ!!」
2023年6月16日
この度、同時連載している『呪術師は勇者になれない』の第一部が完結しました。
まだ読んだことがない、という方がいれば是非この機会にご一読を。今なら完結まで一気読みできます!