第926話 一触即発のヴァルナ
「————それで?」
メテオフォールの巨大なオリジナルモノリスを背に、能面のような冷たい無表情で、幼いリリィは腕を組んで見下ろす。
女王陛下が眼下に眺めるのは、揃いも揃って平伏した獣人、獣人、獣人……這いつくばるように頭を下げ、平身低頭を体現した姿。中にはチラホラと仰向けに転がって腹を見せているポーズの者達もいるが、決してふざけているワケではなく、彼らの種族において最上級の謝罪を示す姿だと知っているから見逃している。少なくとも、条件反射で撃ち殺そうとはしない程度には、リリィも冷静ではあった。
「此度の不始末においては、如何様な罰も受ける所存にあります」
「謝罪はどうでもいい。私は状況を聞いているの」
ヴァルナ百獣同盟を代表してリリィへ謝意を伝えるのは、帝国との顔役であるライオネルである。
いつも牙を剥いて豪快に笑う元族長の豪傑も、今この時ばかりは誠心誠意、身を伏せていた。次の瞬間には、怒り狂っているに違いないリリィの手で首を刎ねられてもおかしくない状況だが……震えの一つも見せず、堂々とした態度は流石の胆力であろう。
「大角の縄張りには、すでに数え切れぬほどの大遠征軍が展開されております。その様子から、いまだ総力を挙げて魔王陛下の捜索を続けていることは間違いありませぬ」
「今この時も、クロノは追われているということね」
だと言うのに、こんなところで這いつくばってお前らは何をしているのか。とでも言いたげな威圧感が言外に発せられる。
途轍もない圧力を前に、貧弱なリス獣人の代表などは泡を吹いて倒れてしまった。
「反乱の一報が届いてすぐに、足の速い者だけで編成した救出部隊を繰り出しましたが……」
「敵は転移で大軍を展開しているものね。突破できるはずもない、か」
「仰る通りにございます……敵の防衛線はあまりに強固であり、こちらも偵察を行うのが限度です」
用意周到に練られた魔王暗殺計画だ。当然、外から救援が即座に差し向けられることは想定済み。
メテオフォールから大角の勢力圏へと通じるルートは、真っ先に防備が固められている。その守りに就くのは反乱を起こした大角の氏族ではなく、集落全てを即座に制圧した大遠征軍である。
大角の氏族が支配していた領域は、一夜にして丸ごと全て大遠征軍の征服地と化した。外からの救援を寄せ付けず、また内に閉じ込めた魔王を逃さぬ檻としても機能している。クロノは敵の腹の中に飲み込まれたも同然の状況であった。
「大角の者は、ここにいる?」
「はっ、こちらに」
ライオネルが一声鳴けば、即座に大角の氏族の代表者が連れて来られる。
さながら重罪人を連行するかのように、大柄で完全武装した獅子獣人の戦士二人に両脇を抱えられて来たのは、小柄な老婆。メテオフォールのオリジナルモノリスが座すピラミッド型の神殿を管理する、大角の氏族の神官長である。
「……リリィ女王陛下には、お詫びの言葉もございません。どうか、この婆の首で、ほんの僅かでもお怒りが沈められることを、願うばかりにございます」
元より年老いた、深い皺の刻まれた顔は、憔悴しきって今にも死んでしまいそうなほど生気がない。
それも当然だ。事は自分の命どころか、氏族の存亡に関わっているのだから。いや、それ以前に大角の氏族が反乱を起こした、と聞いて驚愕し、絶望したのはこのヴァルナで彼女を置いて他にはいないだろう。
取り調べの結果、すでにして反乱の首謀者は次期族長候補の男に間違いないと判明している。大遠征軍と通じることが出来るのは、偵察隊としてアダマントリアまで向かった彼らをおいて他にはいない。偵察中に一時、行方不明となり、まさか敵に捕まったのではと思った頃に、彼らが戻って来たことで騒ぎにならなかったが、この期間の間に接触を持ったのは今の状況から鑑みれば明白であった。
だが神官長は、この状況下でまさか身内から裏切り者が出て、これほど大それた真似をするなど予想できるはずもない。衝撃的な凶報にそのまま天に召されそうな気分になったが、それでも老い先短いこの命を使って、少しでも減刑を請わなければと、最期の使命を果たすために気力で立っているようなもの。
ヴァルナで最も哀れな老婆であることは、取り調べの結果から誰の目にも明らかではあるし、リリィとて理解はしているだろう。
「貴女の首一つで、治まるワケないでしょう」
幼い声音でありながら、殺意に満ち満ちているほど冷え切った言葉。神官長は、大角が族滅の憂き目に遭うのだと悟る。
氏族を滅ぼすのは、大遠征軍かリリィか、それだけの違い。
「ええ、そうよ、大角の氏族は私が滅ぼす。愚かな反乱を起こした忌まわしい一族として、一人残らず殺し尽くすし、貴女にはそれを最後まで見届けてもらいましょう」
今すぐこの場で、舌を噛んで死のうかと。本気で神官長はそう思ったが、
「でも、クロノなら私を止められるわ。クロノだけが、この怒り狂った私を止めることが出来るの」
これは脅しではない。大角の氏族が滅びずに済む最後のチャンス。
魔王の慈悲に縋ることが、大角の氏族に残された唯一の生きる道ということだ。
「メテオフォールにいる大角を全員集めて、集落一帯の情報を出せるだけ出して。救出部隊に同行する、地理に明るい者も選別しておきなさい」
「は、ははぁ! 今すぐ、女王陛下の仰せのままにっ!!」
老婆とは思えぬほど機敏に跳ね起き、大広間を飛び出して行くのを、リリィは自らの感情を抑えながら黙って見送った。
「ライオネル、将軍だけ集めて後は退出させて。作戦会議を始めるわ」
「御意」
不安げな面持ちの各氏族の代表者を追い出すように退出させ、代わりに戦場で指揮を執る者達だけが集う。
帝国軍はリリィ元帥を筆頭に、右はフィオナ特務大佐、左をネル軍医総監が固めている。ネルのすぐ脇には、不機嫌そうに鼻を鳴らしているベルクローゼンが座り、出撃許可が下るのを黙って待っていた。
更にはゼノンガルト大佐、シモン魔導開発局長、と『アンチクロス』が勢揃い。これに加えて、ウィルハルト中将と、その補佐としてエメリア将軍が付き、ほとんど帝国軍の首脳全員が揃っていた。
一方のヴァルナ百獣同盟側は、同盟軍の総大将を任されたライオネルと、その末娘にして古代兵器の運用を引き受けるライラもこの場に立つことを許されていた。それから三大氏族を代表して、大牙の将軍と大角の将軍もそれぞれ並び立つが、当然と言うべきか大角将軍は見るからに肩身の狭そうな雰囲気である。
その他、武闘派を自負する力自慢の部族を束ねる戦士長達が並んだ。
「さて、状況は知っての通り最悪よ」
リリィが口火を切ると同時にオリジナルモノリスが輝き、中空にヴァルナ森海のマップが投影される。
北は大遠征軍の一大拠点と化している商業都市サラウィン。そこからすぐ南からヴァルナのジャングルとなり、程なくして帝国軍と百獣同盟が築いた最前線の砦があり、その付近に古代の隠し砦がある。
本来の作戦では、前線砦で敵の侵攻を喰い止めつつ、隠し砦と連携し密林を通って側面から打撃を与える、というものだ。
「正面の敵の数は随分と減ったけれど、その代わりに万を超える軍勢がすでにヴァルナの内側にいる」
魔王暗殺のために展開された大軍団は、そのままヴァルナ攻略の戦力となる。今はまだクロノを追っている最中のため、大角の勢力圏から打って出てくることはないが、もし目的を果たした後は、すぐにでも進軍を開始するだろう。
当然のことながら、そちら側には大した防備は施されていない。想定されていない敵の侵攻ルートにまで、防御を固める余裕などなかったので当然だ。
「クロノの救出が成功しても、この大角方面と正面、二方向から侵攻を受けることになるわ」
マップにはサラウィンのある北側正面ルートと、クロノを包囲する大角の集落があるルート、両方から推定兵力数が表記された赤色の矢印が点り、敵の侵攻路を示す。
「そして何より、すでにミサを乗せたピースフルハートが配置についている」
ヴァルナ森海に入る手前、正面となる北街道の直上に、十字の描かれた帆を張った赤色の船のマークが一際大きくマップに輝く。
「引き連れて来た地上部隊を置き去りにしてでも、あの女はここまで乗り込んで来た」
当初想定していたピースフルハートの到着時間よりも、大幅に前倒しされている。本来ならミサは、アダマントリアから出陣した何万もの軍勢と共にやって来るはずだった。
だがしかし、魔王暗殺作戦が半ば成功したことで、ミサは主力級の大軍を置いてでも先乗りすることを選んだ。
「やっぱり、ミサの狙いはクロノただ一人ということね」
奔放にして軍事に興味の欠片などないミサが、こちらの手の内を見越した上で行動したとはとても思えないし、戦略的な判断に基づいた行動を彼女に言い聞かせられる人物も存在していない。ミサの判断は、ただ自らの手で因縁のクロノを討つためだけのものと思われた。
しかしその短絡的な判断が、結果的にこちらにとって最も嫌な一手と化している。
「ピースフルハートがもうこの距離まで来ている以上、シャングリラの背は見せられないわ」
このまま真っ直ぐ大角の勢力圏へとクロノ救出にシャングリラを飛ばすのが、最も手っ取り早い。地上部隊など、空を制するシャングリラの前では無力に等しいのだから。
だがしかし、少しでも船首がそちらへ向けば、ピースフルハートは即座に襲い掛かって来る。ミサが先走ってやって来たからこそ、シャングリラを牽制できる位置に、今この瞬間につくことが出来ているのだ。
もしもあと一日、いや半日でもミサの到着が遅れていれば、数時間後にはクロノ救出は完了していただろう。
ミサにとってはこれぞ天啓か。あるいは、兵は神速を尊ぶに基づいた立派な戦略か。結果的にミサは大軍を置き去りにしてきたのを補って余りある有利な状況を得ていた。
「第十一使徒ミサと天空母艦ピースフルハート。これの相手が出来るのは、私達だけ」
リリィにとって、正に苦渋の決断であった。
戦争の行く末などどうでもいい。クロノの命と比べれば、他のありとあらゆる事は無価値である————しかし、そんなリリィの暴走を止めたのが、フィオナとネルの二人であった。
たとえシャングリラでクロノを助け出したとしても、確実にその後は続かない。ピースフルハートに背後を襲われ、形勢不利な状況でミサが乗り込んで来れば……それでも勝てると慢心できるほど、使徒は甘くない。
万全を期して臨み、完璧に作戦勝ちもできていた第十二使徒マリアベルとの戦いでも、大天使召喚というイレギュラーが発生したのだ。ミサも同じように、追い詰められれば一体どんな奇跡を起こすか分かったものではない。
今この時だけクロノを助けられても、ミサに殺されるのでは全く意味がない。シャングリラを失うワケにはいかないし、不完全な状態で使徒と戦うのも避けねばならない。どちらにせよクロノとサリエルを欠いている今、万全な状況で挑むことは無理であるが、それでも現状で出来る最高の体勢で戦わなければ勝利を掴むことは出来ないだろう。
「だから、クロノの救出は貴方に任せる」
故にこそ、溢れ出る感情を理性でもって押し殺し、リリィはクロノの命を一人の男に託した。
「第一突撃大隊長、カイ・エスト・ガルブレイズ。女王リリィの名をもって命じる、魔王クロノを救いなさい」
「おう、俺に任せとけ。オール・フォー・エルロードッ!」
女王陛下の勅命に、覇気に溢れた男の声が応えた。
「————ふぅん、やるじゃないあのハゲ」
クロノの誘い出しに成功、との報告を受けたミサは上機嫌に笑った。
ノールズの作戦など元より大して期待はしていなかったが、当たれば儲けもの、くらいには思っている。それが当たったのだ。
「アイツを逃がさないよう、じゃんじゃん送りなさい!」
ミサの後押しによって、大角の中心集落への転移による増援も強力に後押しされることとなった。
征服したアダマントリア首都ダマスクにある鉄血塔のオリジナルモノリスより、後詰として残していた兵力を次々と送り出すよう命じられた。彼らはノールズの根回しもあり、さらにミサから大々的に許可も出たことで、魔王の首という最大の功を競って出陣して行った。
それがつい、三日ほど前の話である。
「やっと着いたわね」
ミサもまた、嬉々としてヴァルナまで文字通りに飛んできていた。主力となる地上部隊を置き去りにしてピースフルハートで先乗りすることに、誰もがなんて無茶をと思ったが、使徒に真っ向から意見できる者などいるはずもない。精々、出来る限りの兵を満載にすることくらいであった。
「で、アレがシャングリラってヤツ?」
白亜の宮殿に設けた司令部にして、記録用の光魔法により投影された映像を眺めながらミサは眉根を寄せる。
「はい、天空戦艦シャングリラ。このピースフルハートに匹敵する古代兵器、魔王軍の切り札でございます」
「シャングリラはすでに、ヴァルナの敵本拠地メテオフォール上空に待機しております」
空中偵察によって得た情報を下に簡単な戦況報告がなされるが、ミサは興味の欠片もない顔で聞き流していた。
「ふーん、なんかあんまりカワイクない……アレはいらないかなぁ」
「恐れながら、撃墜するよりも、鹵獲する方がよろしいかと。もしあれほどの古代兵器が手に入れば、我らが十字軍は————」
「は? じゃあアンタがやれば?」
ただでさえつまらなそうな顔のミサが、露骨に不機嫌に歪む。滲み出る白銀のオーラが、そのまま殺意と化して突き刺すような威圧感が奔った。
「も、申し訳ございません……全ては、第十一使徒ミサ卿の御心のままに……」
「ったく、自分が出来ないことを、人をアテにしてんじゃねーわよ」
ふん、と鼻を鳴らして椅子にふんぞり返っては、足を卓の上に投げ出すミサ。これ以上、つまらない話を聞く気はない、と態度で示され司令部の空気が一気に冷え込んだ。
「失礼。敵は、そのシャングリラという船は、まだ動かないのですか?」
下手な報告も命取りになる、と明らかに尻込みする将校へ質問を発したのは、ミサの隣に座ることを許された、名目上の大遠征軍総大将であるルーデル大司教であった。
軍事に疎い少年大司教の素朴な疑問、などでは勿論なく、ミサの機嫌を損ねてしまったことに対するフォローに違いない。少なくとも、それを察せない者はこの司令部にはミサただ一人だけであろう。
「ははっ! シャングリラ甲板には武装した竜騎士の姿も確認しており、高い魔力反応から即座に出撃できる臨戦態勢にあると推測されます」
「では、これからシャングリラで魔王の助けに向かうのでしょうか?」
ルーデルがマップを指さす先には、メテオフォールから大きく離れた樹海の一角。大遠征軍の勢力を示す青色に塗られた領域、すなわち魔王包囲網を形成している大角の氏族の縄張りが示されている。
徒歩で向かうには相当な距離となるが、すでにピースフルハートに長らく搭乗しているルーデルは、空を飛べばどれだけ早く移動できるかというのを身をもって理解できている。ならば、これほどの距離が離れていたとしても、シャングリラで飛べばすぐにでも救出に向かえるだろうことは容易に想像できた。
「こちらが向こうを偵察できるように、向こうもこちらを発見しております。恐らくは、こちらの動きを警戒し、背を向けるような行動は避けているのではないかと」
「空を飛ぶ古代兵器同士となれば、この程度の距離はすでに間合いの内も同然です。敵からすれば、このまま睨み合いを続けたいところでしょう。その間に魔王の救援を差し向けるでしょうからね」
「ありがとうございます、よく分かりました。もしもこのまま魔王の救出を許せば、敵の士気は大いに上がるでしょう。ミサ卿は如何なさいますか?」
「ふん、させるワケないでしょ、そんなこと」
クルっと身を捻って、軽やかに席から跳ね飛び、そのまま卓の上にミサは立つ。
肌身離さず持ち歩いている大鎌の武装聖典『アークディヴィジョン』を、映像の中に浮かぶシャングリラに突き付けた。
「この私を差し置いて、空飛ぶ船に乗るなんて生意気よね。まずはコイツを叩き落して、それからクロノの首を獲りに行くわよっ!」