第910話 憧れのミサ
街一番の大きな娼館に、ある一人の少女が売られた。
悲劇でも何でもない。彼女達が売られる事情は様々だが、それを気にする者はいない。どこの街でもよくある、日常茶飯事に過ぎないのだから。
女は男の求めに応えて、金を得る。遥か古より続く、シンプルな商売だ。
しかしながら、本日売られた少女は、客を取るには少しばかり早すぎるようだった。華奢というより発育不全の痩せた体は、彼女の貧困を端的に表している。年齢は十に届くかどうか。
こんなに小さく痩せた幼い少女であっても需要はあるものだが、真っ当な商売を掲げているその娼館は、いきなり売り出す真似はせず、小間使いとして働かせることに決めた。
ワケも分からず売り飛ばされ、ワケの分からぬ場所で働かされることとなった少女は、不安と困惑でただ黙って俯き、表情を暗くさせていた。
押し付けられた掃除用具を手に、最初の仕事である便所掃除へと向かわされたそこに、彼女はいた。
「アンタが新入りね! ワタシはミサ、アンタの先輩よ!!」
天使と見紛うばかりの、美しい少女であった。
フワリと舞う艶やかな桃色の髪と、キラキラのピンクに輝く大きな瞳。何より、自らが光り輝いていると言わんばかりに自信に満ち溢れた、堂々たる笑顔。
なんて綺麗で、なんて美しい。こんなに可愛い女の子を見たのは初めてだ。目を奪われるとは正にこのこと。
凄まじい存在感と美貌。そのせいで、彼女が身に纏っているのは煌びやかな娼婦の衣装ではなく、自分と同じ薄汚れたエプロンスカートであることに気づくのが遅れた。
「あっ、あの、私は————」
「ワタシが先輩なんだから、ワタシの言うことは絶対服従よ! いい?」
少女が名乗るよりも先に、手にしたモップを突き付けて、ミサが睨みつける。
その愛らしく綺麗な目が、自分だけを真っ直ぐ見つめていることに、ドキリと鼓動が高鳴った。
「は、はいぃ!!」
「うんうん、いい返事じゃない。アンタ見どころあるわね」
気を良くしたのかニカっと真夏の太陽のような笑顔で、少女の肩を無遠慮にバンバン叩いて来るミサ。
「ふふん、先輩であるワタシに従ってれば、悪いようにはさせないから。アンタは大人しくワタシについて来なさい」
少女が何かを答えるよりも前に、言いたいことを言い切ってミサは仕事に取り掛かる。
一番汚い便器の掃除を指導の名目で少女一人に体よく押し付けつつ、自分は楽なところだけをさっさと片づける。都合よく使われただけの新人少女はしかし、愛らしい美貌に快活な笑みを浮かべて、どこまでも突き進んでいきそうなミサの姿に、すでにして魅了されていた。
「————ミサちゃんは、凄いよね」
「はぁ? なに当たり前のこと言ってんの」
少女が娼館へやって来て、早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。
初めての便所掃除を終えて以降、先輩小間使いであるミサに忠実に従う少女の姿は、仲良くやれていると判断されたこと。二人の年齢がほとんど同じであること。諸々の理由込みで、ミサと少女は同室で詰め込まれ、基本的にセットで仕事をさせられていた。
寝室というより物置小屋のような狭く埃っぽい部屋に、詰め込まれるように置かれた店の中古ベッドで二人寝転がり、眠るまでのささやかな自由時間でお喋りをしている。
「だってこのワタシが一番可愛いんだから」
「うん、ミサちゃんが一番可愛いよ。でも、可愛いだけじゃない……お仕事も出来るし、大人のお客さんとだって話せるし、お勘定だってできるでしょ? 凄いよ、ミサちゃんは、何でもできる」
「ふふん、そこに気づくとは、アンタも見る目があるじゃない。いやぁ、そうなのよ、ワタシは可愛いだけじゃない、デキる女でもあるの」
純粋にして素直な賞賛の言葉に、ミサはどこまでも満足そうに笑いながら、ワシャワシャと少女の頭を犬のように撫でまわした。
「えへへ……」
髪の毛がぐちゃぐちゃになるのも、喜んで受け入れる。
少女はミサの笑顔が大好きだった。彼女が笑うと嬉しい。機嫌が良いと嬉しい。そしてこんな自分を見て、褒めて、認めてくれるのはもっと嬉しかった。
それはまるで、神の愛を受けるかのように、心が満たされる。
「で、でも、ごめんね……私、ミサちゃんの足引っ張ってばっかりで……」
まだ務めて一ヶ月。仕事に慣れていない、というのを差し引いても、少女は要領が悪かった。
ドジだのノロマだの、失敗して罵倒されたことは何度もあるし、殴られたことだって。自分のせいで、危うくミサにまで火の粉が降りかかりそうになったこともあった。
ミサの隣にいることは嬉しい。けれど、こんな自分が隣にいていいのかという思いは、日々高まってゆくばかり。
容姿にしたって、あまりにも釣り合いが取れていない。
縮れた焦げ茶色の髪に、可愛げのない細目。これまでの生い立ちから、子供らしい純粋な笑顔の浮かべ方など忘れて、卑屈な愛想笑いが染みついている。貧相な体。荒れた肌。女の子としての魅力など何一つない、醜い存在。
そんな自分が傍にいることで、この美しく気高い天使のような彼女を穢してしまうのではないかと、そう思ってしまう。
「バァーッカじゃないのぉ? 先輩が後輩の面倒見るのは当たり前じゃん」
意地の悪い顔をしながら、盛り上がった髪の毛をバフバフと叩くミサに、少女は目を丸くする。
「てか、余計な心配しすぎ。ワタシは神様に愛されているんだから、ぜーんぶ上手くいくの。信じる者は救われるーってね」
子供が故の全能感。いいや、それ以上の確信を得ているかのように、どこまでも自信に満ち溢れた顔でミサは言い切る。
「アンタはワタシに忠実な良い子なんだから、それで十分。他の奴らなんて、このワタシの美貌に嫉妬するだけのバカなブスばっかり。アイツらはその内、天罰下るから」
自信過剰な物言いはしかし、半ば以上は真実でもある。
飛びぬけた美貌を誇り、何にも物怖じしない自由奔放な性格。それは男の欲望が集う娼館という場所にあっては、客の歓心を大いに得ると同時に、女子からの妬みは集中する。
まだ体を売り始めてはいないが、すでにして看板娘のように客から可愛がられて人気を確立し、その姿に将来の稼ぎ頭になると見込んだ娼館主からも目をかけられている。
同じ境遇の少女達からすれば、こんなに面白くない存在はないだろう。ミサが光り輝けば、その分だけ闇は色濃く影を落とす。
「だからアンタはそのままがいいの。ワタシについて来れば、絶対にいい思いさせてあげるから。例えば————」
言いながら、ミサはベッドから抜け出すと、ただでさえ狭い部屋をさらに圧迫しているクローゼットを開けた。
「————ちょっとお高いバター菓子だって、食べられるんだから」
クローゼットを漁ったミサの手には、丁寧に包装された紙袋が。客から嬢への差し入れというのは間々あるモノだが……
「ええっ、そ、それって!」
「ふふーん、ワタシへの貢ぎ物ぉー」
自慢気な笑みを浮かべながら、雑に開けられた袋からマフィンのような菓子を取り出すと、その一つをベッドの上で驚いている少女に押し付ける。
「ダメだよミサちゃん、寝る前に、それもベッドの上で食べるなんて……」
「いいじゃんいいじゃん。ちょっと悪いことするくらいが、楽しいし美味しいのよ!」
元よりミサに逆らえる道理などない。流れる様に、二人はベッドに並んで腰かけてスイーツを口にする。
それはとろけるように甘い、幸せの味がした。
それから数年後。生理を迎える年も過ぎ、そろそろ客も取り始めようかという頃である。
ミサのお陰で多少は身綺麗になった少女であったが、それで彼女の隣に立つに相応しい姿になれたとは思っていない。むしろ、美しさの差は広がるばかり。
「いらっしゃいませぇー」
「こんばんは、ミサちゃん!」
「おおっ、ミサちゃん新しい衣装じゃん! カワイイ!」
「ねぇ、ミサちゃんさ、そろそろじゃないの? 俺、結構貯めてるからさぁ」
「バーッカ、お前みたいなのが買える額じゃあ売らねーだろ」
「なんだとテメぇ!」
「おいうるせぇぞニワカが、俺は何年も前からミサちゃんのファンやってんだからな」
「ほらほらみんな、お姉様方がお待ちなんだから、早く行ってあげないとご機嫌損ねちゃうぞー」
娼館のフロントに立つミサは、すっかり看板娘ぶりが板についている。
彼女が声を上げれば誰もが耳を傾け、酔っていようがいきり立っていようが、速やかに誘導してゆく。
この数年で成長したミサの美貌には、さらに磨きがかかっていた。
眩い娼館の灯りに彩られた淡い桃色の長髪は幻想的に煌めく。その顔は少女の幼さを残しながらも、確かな女を感じさせる色香がすでに宿る。
神に愛されたと豪語するその美しさを、見栄え重視の煌びやかな娼婦の衣装が引き立てる。
着飾ったミサの姿を前にすれば、その美しさに対して妬むことさえ忘れて見惚れる。圧倒的な美貌と才覚を発揮するミサに対して、もう誰も面と向かってケチはつけられない。
彼女を売り出せば、その時点でナンバーワンが確定する。
そんな立場にまで登り詰めたミサの姿を、少女は誇らしく思いながら、眩しいものを見る様に目を細めてその背を見つめた。
「やぁ、こんばんは、ミサ。今夜もまた、君は格別に美しいね」
「ああっ、子爵様ぁ! 嬉しい、会いに来てくれたのぉ?」
そろそろ満室になろうかという頃に、一人の青年が現れる。
ミサが子爵と呼んだのはあだ名でも何でもなく、本当にこの街を治める子爵本人である。
事故によって先代を失い、若くして党首の座を継いだ子爵家長男。幸いなのは、すでに十分な教育と実務経験を経て、さらに本人の才覚もあって領地経営に支障をきたさないほど優秀だったこと。
一時は子爵領の存続も危ぶまれると混乱したものだが、今はすっかり安定している。彼の統治がこのまま続けば、更なる発展も望めるだろう。そう期待されるほどの、若く、そして美しい有望な青年子爵。
そんな彼は、党首を継いで最も過酷だった時期に偶然知り合ったミサに、すっかり入れ込んでいるのであった。
「遅くなって済まない。仕事で領外まで出ていてね……実はついさっき、戻って来たところなんだ」
「とっても大変だったんだね。それでも会いに来てくれるなんて、ふふっ、愛されてるって感じがして、すっごく嬉しいな」
「そう言ってもらえると、頑張った甲斐があったよ」
「それじゃあ、ミサのために頑張ってくれた子爵様に、今日は特別にいっぱいサービスしてあげちゃう」
「それは楽しみだな」
朗らかに会話を弾ませる二人が、この娼館で一番奥のVIPルームへと消えてゆく。
ミサはまだ娼婦として売り出してはいない。だが、売る先はすでに決まっていた。
本気でミサを愛して入れ込んでいた子爵は、彼女の身請けを相当な額で娼館主と契約を果たしていたのだ。
それは本来ありえない、途轍もない快挙。体を売ることを生業とする女性なら、一度は夢見るような展開だ。
若く美しい、地位も名誉も富もある王侯貴族の男性に、愛しているのただ一点だけで結婚する。そんな一発逆転、儚い夢でしかない話を、ミサは今まさに現実のものにしようとしていた。
「やっぱり凄いよ、ミサちゃんは」
最高の幸せを掴もうとしているミサを見送る少女は、同じように幸せであった。夢のようなゴールイン。それこそ正に、憧れのミサに相応しい結末だと。
夢見る少女は、きっとミサよりも甘い幸せに浸っていた。
「んぁ……」
妙に寝覚めが悪い朝だった。
まるで昔の夢でも見たかのような気分。
「なーんか、そろそろここに浮かんでんのも、飽きてきたわねぇ」
身支度を整え、朝食も終えた頃になると、寝起きの不快感はすっかり消え去り、その代わりに次の遠征準備の名目で、ダマスクに居座り続ける日々の不満が漏れて来る。
ダマスク攻略は久しぶりに楽しめた。流石は王城の守備についているだけあって、ドワーフ戦士も精鋭揃い。実に殺し甲斐のある相手。
魔族を殺戮するのは楽しいが、あまりにも手ごたえがなさすぎるのもつまらない。だからといって、アイのようにわざわざ強敵を探したり、自ら枷をかける真似までしようとは思わないが。
ミサは戦うのが好きなワケではない。敵を蹂躙し、その屍の山を踏みつけ頂点に立った時の眺めが好きなのだ。それこそが神に愛された美貌の聖なる少女、第十一使徒ミサに相応しい光景なのだから。
「————おい、ミサ。いるか」
「なによネロ、こんな朝っぱらから。暇なの?」
「お前と一緒にすんなよ」
ノック一つで無遠慮に部屋へとやって来たネロに軽口を叩いてミサは笑う。
ネロのことは気に入っている。以前、彼に語った通り。そこに嘘偽りはない。
「で、なによ。どっかの魔族が挑んできたりでもしたわけ?」
「クロノにアヴァロンを奪われた。俺はこれを取り戻すために、ここで引き返す」
「ふーん」
あっそう、とどこまでも興味なさげにミサは言う。
事実、ミサにとってはアヴァロンがどうなろうと、どうだっていいことだ。強いて気になることと言えば、
「マリーちゃんはどうしたよの」
「アイツは死んだ。無様に晒し首になってるとよ」
「そっか、マリーちゃん死んじゃったのかぁ……バカな奴、つまんないことで死んでんじゃないわよ」
第十二使徒マリアベル。気に食わないいい子ちゃんの真面目ちゃんだったが、決して嫌いではなかった。自分なりに可愛がっていたし、数少ない気の置けない相手だ。
「また一つ、アイツを殺す理由が増えたじゃない」
この美貌を傷つけた復讐に、上乗せしてやろうと思うほどには、怒るに足る存在を失った。
「ミサ、お前はどうする」
「ふん、アンタをアヴァロンまで送ってやるほどの義理はないわね」
「そう言うと思ったぜ」
「ここまで来て、今更戻るなんて冗談じゃないわ。クロノ、あの男をぶち殺すまで、私はどこにも帰らない」
迷うことなく、ミサはこのまま進むことを選んだ。
そのためにここまで来た。アダマントリアを抜け、荒野を越えた先に広がるヴァルナ森海。ここを越えれば、ついにエルロード帝国の支配圏たるアトラス大砂漠へと至る。
「アンタこそいいの? 因縁の相手、私に譲ってくれるんだ」
「どうかな。俺がアヴァロンに戻り、お前が砂漠に辿り着いた時、アイツがどっちを守るのか、分からんぞ」
「私にはピースフルハートがあんのよ。こっちが先に砂漠につくに決まってんでしょ。まっ、アンタはお仲間連れてゆっくり帰んなさいよ」
「……ああ、そうさせてもらう。じゃあな、ミサ。世話んなったぜ」
「いいのよ、気にしないで。後輩の世話をするのは、先輩の役目なんだから、ね」
在りし日の言葉と共に、ミサは機嫌を損ねることもなく、快くネロとその軍勢を見送った。
ここに使徒二人を抱えた大遠征軍を、真っ二つに分断するという————最も愚かな決断が下された。
2023年1月6日
新年あけましておめでとうございます。今年も『黒の魔王』をよろしくお願いいたします!