第909話 最も愚かな決断
白金の月21日。
俺がファーレン解放を終えてパンデモニウムへと帰還した日、すなわち、ネルに見られながらブリギットとフィオナを二人同時に相手した翌日である。
今朝、昨晩は大変お楽しみでしたね、と尊敬の眼差しでプリムに言われた俺の気持ちは……
ともかく、ようやく凱旋したワケだが、どうやら俺には呑気に戦勝に浸っていられる余裕は一日もないらしい。即日、緊急の課題と直面することと相成った。
「————クロノ魔王陛下、どうか、どうか我らが祖国、アダマントリアをお救いくださいませっ!!」
ディスティニーランドの魔王城、漆黒の玉座の間に悲痛な懇願の声が響き渡る。
滂沱の涙を流し、額を床に擦り付けてそう訴えかけるのは、アダマントリアの第三王子カール。
ファーレンの解放は成った。けれどドワーフの国アダマントリアは、時を同じくしてネロとミサの大遠征軍により滅ぼされたのだ。
ファーレンとアダマントリアのどちらを救うか。二者択一のように思えるが、実質的にアダマントリアの救援は不可能である。
まず転移がすでに抑えられていること。
ファーレンにあるオリジナルモノリスはモリガン神殿、領土の東端に位置し、首都ネヴァンが占領されても影響はない。十字軍が完全にファーレン全土を占領しきるまでは残る立地にある。
だがアダマントリアのオリジナルモノリスは、王城直下、地下深くにある古代都市の跡地にある。アヴァロンやスパーダと同様に王城に位置している以上、王都が陥落すればそのまま封鎖されてしまう。
つまり、救援に向かうには陸路を行くしかない。幾ら機動力のある少数精鋭を連れていくとはいえ、ヴァルナ森海を通って、さらにしばらく荒野を進んでアダマントリアへと向かうのは、あまりにも厳しい。
辿り着いたところで、相手は使徒二人を抱える大軍が、鉄壁の防御を誇る王都ダマスクに居座っているのだ。これをどうにかするなら、こっちも全軍を率いて行かねば相手にならない。
立地、敵戦力、勝利条件。どれを見てもファーレンしか勝機はなく、アダマントリアはあまりにも絶望的過ぎた。流石に俺でも、こんな無茶な解放戦に何の勝算もなく挑むわけにはいかない。
「諦めなさい。今すぐアダマントリアを救うのは不可能よ」
俺の気持ちを代弁するかのように、冷たい声音が響く。
幼女の姿ではあるものの、明確に大人の意識を戻したリリィが伏せるカール王子へと言う。
すでにして、二人の間で話はついている。俺が早々にファーレンへと出向いた間、帝国はリリィが預かっている。普段からそうだけど……ともかく、アダマントリアの救援要請に対応するのもリリィであった。
第三王子カールは王城が陥落する寸前に、何とか転移でパンデモニウムへの脱出が成功した、数少ない生存者の一人だ。
スパーダが落とされた時も追い詰められていたが、それでも多少は転移で脱するだけの猶予はあった。そのための時間を死ぬ気でスパーダ軍と俺達が稼いだから。その結果、ウィルを筆頭として、王城まで逃げ伸びた者達も残らず脱出することに成功し、スパーダ臨時政府の樹立もスムーズに行えた。
だがアダマントリアは違う。空から王城へ使徒二人が乗り込んでくるという最悪の電撃作戦を喰らったのだ。
魔族殲滅を徹底する残虐極まる第十一使徒ミサに、邪魔する者は全て斬り捨てると虐殺も厭わぬ第十三使徒ネロ。この二人が暴れる王城がどんな地獄に陥ったかは、想像に難くない。
唯一幸いなことは、大遠征軍が首都ダマスクの包囲が完了する前から、女子供を含めた避難民を多少はパンデモニウムへと逃がしたこと。とはいえ、それもダマスク住人の極一部に過ぎない。
頑固一徹なドワーフ達には、絶対にダマスクを離れる気はない、死んでも故郷を守るために戦うのだと、避難を拒んだ者達もかなりの数いたようだ。
そうして結果的に、パンデモニウムへの避難民は極一部となり、そしていざミサとネロが王城を襲った時に脱出を成功させたのは、真っ先に逃がされたという第三王子カールを含めた十数名のみという有様だ。
「うっ、ううぅ……無茶なことを言っていると、分かっております……分かっておりますが、ですが、ここで諦めてしまえば、私には父上にも兄上にも、そして何より侵略者と最後まで戦い抜いた戦士達に向ける顔がありませぬっ!!」
使徒に蹂躙される王城を脱したカールが、そこに残った国王と兄王子、そして防衛の戦士達がどうなったのか直接その目で見届けてはいない。だがその末路はどうしようもないほど決まり切っている。
十字軍は魔族の捕虜など取りはしない。白き神の意思に従い、一人残らず殲滅するのが基本。少なくとも王城を襲ったのが使徒二人である以上、生き残りなど一人も許さないだろう。
今のエルロード帝国に、アダマントリアを即座に救う力はない。それをカールも分かっているだろうし、リリィにだってはっきり断られている。
それでも帝国の皇帝たる俺に、顔を合わせて訴えたいとカールは願い出てこの場がある。
俺としても、彼とはアダマントリアと同盟を結ぶにあたって懇意にしてきた間柄だ。その思いを無下にする気は決してないが、それでも出来ることと出来ないことというのはある。
「すまない、カール王子。俺にも、帝国にも、今すぐアダマントリアを救う力はない」
「はい……」
ようやく俺が発した言葉は、やはり否である。
そんなことは、カールとて分かり切っていることだ。けれど、その表情が絶望に陰るには十分な一言であった。
「大遠征軍は強大だ。それに二人もの使徒を擁する。これを打ち破るには、こちらも万全を期して挑まなければならない」
「仰る通りに、ございます……」
「俺達は必ず大遠征軍を倒す。使徒も殺す。アダマントリアの解放を成すには、それからだ」
「それは……それは一体、何時になるのでございましょうか」
不遜な物言い、ととられかねないカールの言葉。だが俺はリリィを手で制する。そんなことに、わざわざケチをつける必要はないさ。
「それは相手の動き次第だ。俺達はアトラス大砂漠に大遠征軍がやって来るまで、こちらから手を出す気はない」
「クロノ、アトラス戦略を————」
「いいんだ、カール王子には知る資格がある。少数とはいえ、アダマントリアのドワーフ達の力をすでに借りているだろう」
アトラス大砂漠まで大遠征軍を引き込み迎え撃つ、アトラス戦略はまだトップシークレットである。誰でも考えれば当たり前の防衛構想だが、早々にこちらの真意を明らかにするのはよろしくない。
万に一つでも向こうに知れ渡り、対策を立てられても困る。奴らには何としても、勢いに任せてそのまま砂漠まで突っ込んで来てもらわなければならない。
「カール王子、大遠征軍を倒すにはまだまだ準備が必要だ。ここへ逃げ延びたドワーフの職人達が、すでに工業区で腕を振るっていると聞いている」
「え、ええ……ダマスクに住む者の多くは職人ですから。あの広大な工房が広がる場所で、すぐに彼らの働き口が得られたのは幸いにございます……」
ドワーフの、それも工業大国を自負するアダマントリアの首都ダマスクに住む者達は、女子供であっても一端の腕前を持つ。どこの工房に務めても即戦力だろう。
それだけでなく、アダマントリアの技術力の最新にして最高峰を行く超一流の職人もそれなりの人数が脱して来ている。最高の技術を持つが故に、危険な戦場からいち早く逃がし企業秘密の保持を優先したのだ。
フィオナがお世話になった、トール重工の工房長も来ていると小耳に挟んでいる。彼らの技術力は、帝国の軍備拡張に大きく貢献してくれるだろう。
「時間はかかる。だが必ず、この魔王クロノがアダマントリア解放を成し遂げると約束しよう。そのために、故郷を失ったドワーフ達の力を貸してほしい」
「……ああ、なんと寛大なお言葉を。誠にありがとうございます。我らアダマントリアのドワーフは、祖国奪還のため一丸となり魔王陛下へ尽くすことを、お約束いたします」
深々と頭を下げて、カールはそう口にした。
ひとまず、これがお互いに可能な一番の落としどころだろう。
今すぐは助けられないが、いつか必ず取り戻す。そのための力を蓄える……長く苦しい、苦難の道の始まりだ。
「失礼、ちょっといいかしら?」
これで話はついたと思った矢先に、リリィが声を上げる。
何だ、と思いはするが、わざわざ言い出すくらいだから緊急性のある話だろう。
頷くと、リリィはピョンと飛んで俺の胸の中に収まり、そのまま内緒話の如く耳打ちを始める。
玉座に座っている君主に大した断りもなくいきなり飛びつくというリリィの行動に、若干驚いた様子のカールは気にしない。いや、気にする余裕などすぐに吹き飛んだ。
「……は? いや、マジで?」
「うん、本当よ」
魔王演技も忘れて、思わず素でそう返してしまった。それほどの驚愕すべき情報がリリィによってもたらされた。
「じゃあ、もしかして、イケるんじゃね?」
「イケるわね」
にっこり笑うリリィに、俺もまた笑って応えた。
よし、そうと決まれば、のんびり座っていられる暇はない。
俺はリリィを抱っこしながら玉座より立ち上がると、改めてカールへと視線を向けた。
「喜べ、カール王子。アダマントリアの解放は、思ったよりも早く済みそうだぞ」
「はっ、そ、それは一体、どういうことでございましょうか……?」
「奴らは、最も愚かな決断を下した」
アダマントリアの首都ダマスク。
質実剛健。武骨に極まる王城の直上には、白亜の宮殿、空中要塞ピースフルハートが鎮座している。空に浮かぶ使徒の城が、何よりも明確にこの国の支配者を示していた。
大遠征軍がダマスクを完全に占領し、バルログ山脈周辺に広がるアダマントリア領の全土も順調に制圧が進んでいる。
その一方で、ここもまた通過点に過ぎないため、次なる目的地たるヴァルナ森海へと向かうための準備と補給が完了するまで、しばしの間ダマスクに滞在し続けていた————そんな頃に、ネロの下へついにその報告が届けられた。
「……なんだと」
「ネオ・アヴァロンは、魔王の手により奪われました」
信じ難い最悪の報告を耳にし、俄かに殺気を漏らすネロに対して怯むことなく、最強の竜騎士であり忠実な僕であるローランは、無表情のままはっきりと言い放つ。
「どういう、ことだ……」
「裏切りの騎士セリスの手によりエルロード帝国へと亡命を果たした前王ミリアルドが、魔王へ救援を要請。これに応え、前王を担ぎ上げ正統なアヴァロン奪還を名目に、魔王率いる帝国軍が国内の反乱勢力と協力し————」
「そんなことはどうでもいいっ!」
白銀のオーラが爆ぜる様に迸る。ただ感情に呼応して発せられたオーラは衝撃波と化して、室内を駆け抜ける。ミサの趣味である瀟洒な椅子やテーブルはひっくり返り、その上に備えられたティーセットも根こそぎ吹き飛び、一瞬にして荒れた様子と化す。
しかし直立不動のローランは何事もなかったかのように、報告を続ける。
「詳細はこちらの報告書にまとめております。他に私に応えられることでしたら、何なりと」
ホムンクルス特有の白い容貌は、本当に石膏像が動いて喋っているかのような無機質さ。その恐れも動揺もない無感情な様子が、怒りに燃えるネロの脳裏に冷静な疑問を投げかけた。
「……ネルは、どうなった」
「ネル姫様は魔王に連れられパンデモニウムへ。正式に婚約を発表し、古の魔王ミアを継ぐ正統な魔王であること、そしてアヴァロンの支配者であることを内外へと示しているようです」
「馬鹿なっ、婚約だとぉ!?」
更なる最悪の報告に、ついに怒りを堪えきれなかったネロは背後の壁を殴りつけた。技も何もない、力任せに叩きつけただけの拳はしかし、使徒の力によって容易く崩壊する。
ガラガラと崩れる壁を前に、ネロは白く染まった頭をかきむしる。
ネルの婚約。それも魔王クロノと。考え得る限りで最悪の展開だ。
「それだけは……それだけは許さねぇと、国に置いて来た結果がこのザマか……」
愛する妹を、最も憎むべき男に奪われる屈辱。
だがそれにも増して、愛も情も欠片もなく、魔王である自らの覇道にアヴァロンの姫君の婚約を利用されたことが何よりも忌々しい。
リンのお陰で真実の愛を知った。故にこそ、王族であれば当然とされる政略結婚への嫌悪感も増す。
それでも自分だけならまだいい。だがしかし、そんな自身の大切な感情を捻じ曲げるような真似を、ネルにだけはさせるものかと————使徒となるよりも前から、常々思い続けてきたネロである。
けれど、もうそんなことに思い悩む必要もない。そのはずだった。
使徒の力は全てを解決する。この力さえあれば、全ては己が望むままに。世界を正しく作り変えられる。
そのはずが、そうなるはずが、最悪の方向へと進もうとしていた。
「殺す……一刻も早く、クロノをぶち殺す……」
「それでは、いかがいたしましょうか」
「ああ?」
「魔王クロノを討つ道は二つ。このまま進んでパンデモニウムを目指す。あるいは、ここでネオ・アヴァロンへと引き返すか」
一刻も早く魔王クロノを殺したい。それが主の望みならば、どちらがより早く達成できるだろうか。
単純な二択、けれど重要な選択をローランは己の主へと問うた。進むのか。戻るのか。
「パンデモニウムは魔王の居城。ここを置いて、他に逃げ場はどこにもありません。一方、アヴァロンは無理を押して奪った重要な地。再びここを奪い返されるとなれば、魔王も自ら守りにつくことでしょう」
どちらを選んでも、クロノは必ず防衛に現れる。
使徒の力を持つネロは、出会って戦いさえすれば必ず勝てるのだ。ならば、後はもうどちらのルートがより早くクロノと会敵できるか。それだけの話である。
「ご命令を、ネロ聖王陛下」
「……出て行け、ローラン。少し、頭を冷やして考えたい」
「御意」
背を向けてそんなことをいうネロに対し、優雅な一礼だけをしてローランは退室していった。
一人、荒れ果てた室内に残ったネロは、重い溜息を吐いてその場に座り込む。
ぼんやりと一瞥すれば、ひっくり返ってちょうど一回転して元通りに立っていたデスクの上に、ネオ・アヴァロン陥落に関する詳細が記された報告書が乗っていた。
ネロはそれを手に取り、黙って目を通し始める————
「クソ、どいつもこいつも、役立たず共が……」
留守を任せたアークライト公爵の失態は勿論、よりにもよって同格の使徒たる第十二使徒マリアベルがあっけなく討ち果たされ、晒し首となったことも、あってはならない出来事だ。
白き神の加護を賜る使徒が敗れる。その意味の重さを、同じ使徒となった今のネロには嫌と言うほど分かってしまう。
これだけの力を与えられながら、どうして負ける。一体どれだけの無能ならば、この最強の力を持って敗北することができるというのか。
「ふん、結局、頼れるのは自分の力だけということか」
僅かでも信じて任せた自分が愚かだった。
まだただの人間であった頃の感性が残っていたかと、ネロは自らを省みる。
「俺は第十三使徒。聖王ネロだ。進もうが、戻ろうが、どちらでも構わん。俺の行く先に勝利があるだけだ————」
このまま大遠征軍を予定通りに進ませてパンデモニウムを征服するか。それともここで引き返し、ネオ・アヴァロンを再び取り戻すか。
どちらがより良い選択なのか、などと僅かでも不安に思って悩もうとした自らをネロは恥じた。
考える必要などない。どちらを選ぼうと、何をしようと、自分を止められる者は誰もいない。そして、どちらの道を行こうと必ず魔王クロノが立ち塞がるというのなら、どうあっても自分があの男を殺す運命なのだ。
そう結論を出したネロは、怒りも焦りも表情からは消え去り、いつもの気怠い表情で立ち上がる。
部屋を出て真っ直ぐ向かった先は、このピースフルハートの宮殿で特別に部屋を用意させている最愛の恋人。リィンフェルトの下であった。
「リン、ちょっといいか」
「えっ、何よ急に。アンタだって仕事中でしょ。私も無駄に立場があるせいで、余計な仕事ばっかり溜まってるんだからー」
聖女と崇められるに相応しい華美な法衣に身を包んだリィンフェルトは、与えられた一室でくつろぐことなく、山のような書類をデスクに置いて書き物の最中であったようだ。
あからさまに不機嫌な表情で口を尖らせているが、ネロが訪れたことを本気で迷惑だと思っていないのは百も承知。
上辺だけの言葉よりも、平気で自分に物を言うリィンフェルトの態度に、ネロの表情は僅かに綻んだ。
「ああ、悪ぃな。ちょっとお前に聞きたいことがあってよ」
「んー、何よ?」
「アヴァロンがクロノに奪われた。このまま遠征を続けるか、戻って取り返しに行くか、どっちがいい?」
「ふーん、アヴァロンが奪われ————はぁっ!? 奪われたって、はぁ! ちょっと待って、嘘でしょ、どういうことよっ!!」
「落ち着けよ。奴ら、俺が留守なのをいいことに、アヴァロンに乗り込んで来てそのまま奪いやがった」
「はぁあああああああああああああああああああああっ!?」
それからしばしの間、リィンフェルトの言葉にならない叫びが木霊する。
人払いを済ませておいて正解だったな、と思いながらネロは呆れ顔でリィンフェルトが落ち着くまで宥めるのだった。
「————というワケだ。それで、進むか、戻るか、お前はどっちがいい?」
「そんなの戻るに決まってんでしょ! 故郷を奪われて呑気に遠征なんかしてらんないわよ!」
「別にお前の故郷ではねーだろ」
「私の帰る場所はもうアヴァロンなんだから。ネロ、さっさと取り返して、もう二度と奪われたりしないようにしっかり守りなさいよねっ!」
怒り心頭、といった態度でネロを指さして叫ぶリィンフェルト。
そんな彼女の言葉に、ネロは呆れたように笑って応えた。
「やれやれ、しょうがねぇな。そんじゃあ、今から戻って国を取り戻しに行くか」
2022年12月30日
今回で第43章は完結です。そして今年最後の更新となります。
今年も一年、ありがとうございました。来年もどうぞ『黒の魔王』をよろしくお願いいたします!




