第897話 傷心にして乱心
晴れてクロノと結ばれた翌朝、ブリギットは抜かりなく二人の仲睦まじい姿をしっかり周囲に見せつけた後に、ダークエルフの仲間達が陣取る館へと戻って行った。
「————死ぬかと思った」
一瞬前まで麗しい笑顔を振り向いていた姿が嘘だったかのように、茫洋とした顔でそんな言葉が漏れた。
ブリギットは着の身着のままでベッドにだらしなく体を投げ出し、ぐったりとしている。
「巫女様、よくぞご無事で」
「魔王陛下は、それほどまで、なのですか」
うー、あー、と声にならない呻き声を漏らすブリギットに、お付きの侍女が声をかける。
この行軍に同行していることから、二人はただの侍女ではない。ブリギットに勝るとも劣らない美しい容姿に抜群のプロポーション。一方は白髪に眼鏡をかけた理知的な、もう一方は凛々しい黒髪の、それぞれ異なる魅力を放つ彼女達の正体は、モリガン神殿でも選び抜かれた神官である。
トップクラスの実力を持ち、どちらもブリギットより10歳程度の年上という年齢が近いこともあり、プライベートな面でも遠慮なく話が出来る、信頼すべき腹心といったところ。
故に、ブリギットは包み隠さず語る。
「噂には聞いていたけど、『愛の魔王』の威力は想像以上だったわ」
「まぁ、そんなに」
「完全武装してなかったら死んでた」
「本当に、万全を期して良かったですね。初めての夜に、自分だけ気絶してしまうなど……女として、恥ずかしくて生きていけませんから」
神妙な顔で頷く。冗談ではなく、事実としてそうなってしまう一方手前までブリギットは追い詰められていたのだ。
「房中術なんて馬鹿馬鹿しいって思ってたけど……あんなのを相手にしなきゃならないなら、必須の対策スキルだわこれ」
しみじみとブリギットが言う。
外から強い血を取り込むために、ミストレアの一族は、引いてはモリガン神殿には遥か古の時代より連綿と受け継がれ、磨き抜かれて来た性の秘技が伝えられている。
ダークエルフもエルフ同様に長命種であり、長い寿命を持つ種族の宿命として、繁殖力の低さがある。天変地異や戦争など、場合によっては次代を残せず滅亡の危機に陥る脆弱性……元々は、それを補うための生存戦略であったのだろう。
繫殖力旺盛な人間やゴブリンよりも、性への欲求が薄いからこそ、より高度にソレを刺激する術が発達したとも言えよう。
そうして、ただの人間に使えば一晩で骨抜きになるだけの秘技を、乙女の身でありながらも習得するのが、高位のモリガン神殿巫女である。
自分より強くてカッコいい男を、と高すぎる理想をぶち上げたせいで落としたい男の一人も見つからなかったブリギットは、あまり房中術の必要性に迫られず、ただ義務感だけで習得したものだ。しかし、ヤル気皆無でダラダラ10年近くの時間を費やして、それでも何とかモノにした過去の自分を、今は手放しで褒めてやりたい気分であった。この努力がなければ、自分は女として大恥をかいて死んでいただろうから。
「見てよコレ、三重淫紋が破れたわよ」
気心の知れた同性相手のために、恥ずかしげもなくバサっと腹まで衣装をめくり上げれるブリギット。その艶めかしい褐色の下腹部には、弱々しく薄桃色に微かに輝く、解れたラインが浮かび上がる。
そこには本来、複雑に描かれた魔法陣が刻まれていた。行為の主導権を握るために自身への感度耐性、相手への感度増幅に興奮作用。さらには女性の快楽信号を、テレパシーを通じて別次元の快楽を男に叩き返す、などという通常の房中術とは一線を画した特殊効果なども組み込まれている。
モリガンの巫女が代々、狙った男を手玉に取り精を絞り尽くすために編み出した技術の結晶たる三重淫紋。それは見るも無残に破り尽くされ、その効力を完全に喪失させていた。
「ま、まさか、このようなことが……」
「恐ろしい。他の術式も、ことごとく破られているようですね」
クロノに対して一世一代の大勝負を仕掛けたブリギットは、三重淫紋の他にも、彼女達の協力を得て最大限に性の強化魔法を身に纏い、昨晩に臨んだのだ。
全ての効果を同時発動させれば、並みの男ならブリギットにそっと肩を撫でられただけでも達するほどの威力。上級淫魔に近い力を昨晩の彼女は備えていた。
そして、それだけの備えをして————どうにか意識を繋ぎ留め、恥をかくことなく何とか穏当に初体験を終える、というギリギリ及第点の結果を掴み取ったのだった。
「私達の房中術も、早急に改善が必要だわ。このままじゃあ、その内にすぐボロが出る……何としても、クロノ様の相手に特化した専用術式を構築しないと」
「ええ、そうですね」
「そうしなければ、巫女様のお体がもちません」
昨晩は、全てが上手くいった。ファーレンにとっても、ブリギットにとっても最高の結果を得た。
だがしかし、この先ついうっかり閨で失態をやらかせば、全てがご破算になってもおかしくない。ブリギットのセックスに、ファーレンの未来がかかっている!
「悪いけど、私は今晩に備えて休ませてもらうわ。出来れば、戦闘があってもちょっと控えさせてもらえると」
「はい、後のことはどうぞ私達にお任せください」
「今夜は、さらに高度な術を施して参りましょう」
かくして、ダークエルフ巫女達の魔王への挑戦が、クロノ本人も知らぬままひっそりと始まるのであった。
晴れてブリギットと結ばれてから三日。毎晩、気合を入れてやって来る彼女と過ごしている。
二人きりの時には、大神官として取り繕うことはせず、素の顔を見せてくれるのは魅力的だ。夜の方もフィオナに勝る積極性。たまにフリーズしたり、なんか小声で詠唱していることもある気がするが……一度も気絶せずに最後までやり通す姿に、俺はちょっと感動を覚えた。
いや、実は『愛の魔王』って大したことないのでは? これを気にしているせいで、俺は基本的に受け身だし。ブリギットは特に何ともないなら、俺がしてやれることも増える。
明日からはもっと積極的に頑張ろう、などと思いながら朝の支度を終えると、
「マスター、後続の第一陣が到着しました」
「もう来たのか」
「はい。ドラグーンとグリフォンのみ、先行して来たようです」
サリエルの報告に少々、驚く。
こんな朝に到着するとは、夜通し飛んで来たってことか。深い森の中を進むよりは、空を飛ぶ方が進みやすいだろうが、それでも夜間飛行とは結構な無理をしたものだ。
だがお陰で、より早くこちらも動き出すことが出来る。貴重な時間を稼げたことに素直に感謝しよう。
「これでようやく、先へ進めますね」
「ああ。ファーレン軍がグリフォンナイトも出してくれて助かった。お陰で人員も物資も、結構な量を運べたからな」
「当然です。出し惜しみなど、私がさせませんよ」
ブリギットはすでに外向けの態度へと変えた言葉遣いで話しながら、俺の隣に寄り添い、腕を組んで寝室から出る。
まずは到着した第一陣と顔を合わせて、と思った矢先、
「クロノくんっ!」
「ネル? もしかして、ドラグーンに乗って来たのか」
白い翼をバタつかせて、通路の角からネルが飛び出して来た。
何故ここに、と思うが竜騎士に乗せてもらう以外にここへ来れる方法などないと、すぐに思い至る。医療大隊を率いるネルの到着は、地上部隊と同じ日程で行く予定だったが、
「だっ、誰ですかその女ぁ!?」
本来の到着予定なんて、どうでもいい些細な問題だと、ネルの絶叫で瞬時に察した。
ああ、まずい。
俺は決して悪いことも、後ろめたいことも、したという気はない。帝国のため、ファーレンのため、そして何よりブリギットという一人の女性のため。この選択に悔いなどない。ないのだが……
「待て、ネル、落ち着け。彼女は————」
「お初にお目にかかります。私はブリギット・ミストレア。モリガン神殿の大神官ですが、今はクロノ魔王陛下より寵愛を賜る、婚約者と名乗った方が良いでしょうね」
にっこり笑って、見せつけるように俺へしな垂れかかってくるブリギット。
何故ここでそんな挑発コマンドを!
「なっ、あ、ああぁ……」
目を見開いて驚愕の表情を浮かべるネルに、俺はかける言葉が見つからない。
いや違う、声をかけるべきはネルではなく、ブリギットであろう。
すでにして言い訳のしようもないほどにハーレム状態と化している俺の女性関係であるが、だからこそ女性同士の関係性には細心の注意を払わなければならない。片方の肩を持てば、もう片方の顔が立たない。挑発行為などご法度である。
「ブリギット、こういう真似は控えてくれないと————」
「ぴゃぁあああああああああああああああ!!」
だが俺の仲裁など意に介さず、秒速で挑発に乗ってしまったネルが、泣きながら突っ込んでくる!
見るからに分かりやすく、ショックのあまり我を忘れてしまったといった様子だが、如何せん彼女は古流柔術の達人。無駄に洗練された足捌きで瞬く間に間合いを詰めて来るぅ!?
「止めるんだネル! 実力行使は止めてくれマジで!!」
「だぁ、だってぇ! なんでっ、なんで私だけぇえええええええ!!」
何がだよ、と言いたくなるが、俺とブリギットがすぐ後ろにある明らかに寝室と分かる扉から出てきている直後だという状況下であることに気づく。
つまるところ、ネルはわざわざドラグーンに相乗りしてまで、一日でも早く俺へと会いに来たというのに、当の本人は新しい女と一夜を共にしていた……というのを心の準備も何もなく、唐突に突き付けられたワケだ。
うーん、これはブリギットの挑発がなくても、こうなっていたかも……なんて呑気な感想を抱いている場合ではない。魔力の籠った両手を突きだしたネルが、もうすでに目前にまで迫り来ているのだから。
ええい、覚悟を決めろ。この程度の修羅場、俺なら何度となく掻い潜って来ているだろう!
「きゃああぁー!」
俺が体を張ってネルの突進を止めたかと思ったら、どこかわざとらしい響きの悲鳴が上がった。
それはすぐ俺の隣から。すなわち、ブリギットが声の主ということ。
ネルは俺が止めている。当たればちょっと痛いじゃ済まないレベルの力が籠った両腕も、どうにか抑えることに成功している。
でも何故かブリギットは悲鳴を上げて倒れ込んでしまった。
「ああ……なんて酷いことをなさるのですか……」
薄っすらと涙を浮かべて、声を震わせながらそんなことを言うブリギット。まるで謂れのない暴力を突然振るわれてしまった、か弱い女性であるかのようなリアクションである。
「えっ、当たったのか?」
そんなまさか、ブリギットほどの実力者がネルの八つ当たり攻撃になど当たるはずもない。見切れないワケないし、そもそも俺が止めているのだから、何もせずとも隣に立っていただけなら絶対に当たったりはしない。
自分から当たりにでも行かない限りは。
「ううっ、胸が……胸が痛いです、とても……」
などと言いながら身を起こして、わざとらしいほど谷間を強調するポーズのブリギット。無意識レベルで視線を吸い込ませる魅惑的な胸元には、確かによく見ればネルの指先がちょこっとだけ当たったかもしれない程度の赤みが、辛うじて見えた。
「やっぱ自分で当たりに————」
「この胸の痛みを、どうかお慰めくださいませ、クロノ様ぁ!」
自演がバレても知ったことかとでも言うような勢いで、ブリギットが俺の背中へ抱き着いて来る。
「こ、この女ぁ! こんな卑劣な手段でクロノくんに取り入ろうというのですか!!」
「アヴァロンのお姫様は、なんて野蛮で恐ろしいのでしょう。私、怖くて泣いてしまいそうです」
前面にはブリギットの自演に気づいて怒声を上げ、ますます力を込めて押してくるネルが。背面には泣き言を言うフリをしながら、退くことを許さないようにきつく抱きしめて来るブリギットが。
へへっ、コイツはいよいよ修羅場じみて来やがってぜぇ……
「たっ、助けてくれぇ、サリエルぅ!!」
「……」
俺は気づいていたぞ、通路の先から介入すべきかどうか判断しかねるように、ジっと成り行きをサリエルが見守っていたことを。出来れば見守ってないで、早いところ割って入って欲しかった!
「……はい、マスター」
いつもと変わらぬ無表情のはずなのに、やれやれ仕方がないとでも言いたげに呆れた風に見えるのは、俺の気のせいだろうか。実際、情けない真似している自覚はある。
でも、求められる助けは、求めておくものだ。数々の修羅場を乗り越えて、俺はそれを学んだのである。
「————先ほどは大変、失礼いたしました。私はネル・ユリウス・エルロード。貴女よりも先にクロノくんの婚約者となった、アヴァロンの元第一王女です」
まだ気は収まり切ってはいないものの、ひとまず暴れるのは止めてくれたネルが、ようやく場を整えてからブリギットへと挨拶をした。
サリエルに助けを求めてからも、ネルもブリギットも両者譲らずといった具合で、治めるのに酷く難儀してしまった。
盛り上がる修羅場を前に、煽りに出てきたヒツギを影に引っ込ませ、ヘルハウンド完全武装で飛んで来たプリムを追い返し……異変を察知したアインが機転を利かせて、セリスとブリギットの侍女達を呼んできてくれたお陰で、ようやく取り成しできる態勢が整った。
そうして、辛うじて無様な修羅場を身内だけで治め切って、ようやく作戦の話に入れる。関係者を村長宅の広間に集めて、ブリーフィングを始める。
「まずは夜通し飛んできて、ご苦労だったな。お陰で予定よりも早く動き出せそうだ」
「勿体ないお言葉ですわ、魔王陛下」
畏まってそう返すのは、竜騎士を率いて来たクリスティーナだ。
夜間飛行の徹夜明けだろうに、そのボリューム感たっぷりの金髪縦ロールには一切の乱れがない。実に優雅なお嬢様然として、俺へと一礼をくれた。
「貴方達も、よくぞ来てくれました。働きぶりに期待します」
「はい、巫女様」
ブリギットがクリスティーナと並ぶ、グリフォンナイトの隊長へとそう声をかけていた。
ドラグーンとグリフォンナイト。両者を合わせれば、結構な空中戦力である。
「小休止の後、早速、空中偵察に出てもらう。大まかな敵の配置だけでも、早い内に掴んでおきたい」
「この私に、どうぞお任せくださいまし」
村を襲っていた占領軍の最先鋒は有無を言わさず速攻で始末をしたが、今後道中にいる全ての占領部隊を相手するわけにはいかない。
作戦目標は早期にコナハトを奪還すること。すでにファーレン中へと好き勝手に散っている占領部隊の全てを掃除してゆくには、時間がかかり過ぎる。
こちらの大規模な反撃を悟られ、本腰を入れてコナハトの守りに入れれば厄介だ。
よって、この先の占領部隊は最低限しか相手にせず、最速でコナハトへと攻め入ることを目指す。
下手をすればコナハト目指して先行する俺達の背後を敵に襲われかねないが、そこを後続部隊で上手く抑えてもらう。後続との連携が不可欠だが、テレパシー通信のある帝国軍なら、そこまで難しいことではない。
「それから、ネル」
「はい、ごめんなさい。反省しております」
「いや、さっきのことはいいんだ」
良くはないけど、今この場でする話じゃないから。
シュンとしたように顔を伏せるネルの姿はちょっと可哀想だけど、あんだけ大暴れしたから情状酌量の余地はちょっと……
「実は、この村を奪還したことで、周辺に隠れ潜んでいたダークエルフの避難民達が集まり始めている」
どうやって様子を知ったのか、昨日、一昨日とそれなりの人数が森から現れ、村へ保護を求めて来たのだ。
黒い軍装の帝国軍の姿には警戒したが、そこは大神官ブリギットとドルイド部隊がいることで、全て解決した。避難民達は村を奪い返したブリギット達の姿に、涙を流して喜び、感謝し拝んでいた。
森に隠れ潜んで難を逃れた彼らだが、それでも無事とは言い難い有様であった。
「避難民は誰も彼も、酷く衰弱していて、負傷者の数もそれなりにいる。ひとまずの応急処置は済ませてあるが————」
「分かりました。全て、私達にお任せください。ふふ、やはり急いで来た甲斐はありましたね」
そう言って微笑むネルの姿は、正しく天使の如き。そしてこれから彼女に癒されるであろう負傷者達には、本物の天使に見えることだろう。
本当に、ついさっきまで発狂していた姿が嘘みたいだよなぁ……