第896話 傷心の・・・(2)
「————それではクロノ様、どうか私の全てを、受け止めてくださいませ」
「ああ、望むところだ」
そうして、いよいよ席を立って寝室へと向かうクロノを、給仕のプリムは見つめていた。
こうなることは、分かっていた。これはクロノが望んだことであり、ならばそれは絶対確実に遂行されなければならない。
ブリギットはファーレンとの関係において、是が非でも取り込んでおかなければならない女でもある。クロノの個人的な感情としても、帝国の政治事情としても、その関係性を邪魔することなどあってはならない。それは嫉妬の女王たるリリィですら容認したことなのだから。
そんな背景事情を全て理解も納得もしている。
「あっ————」
だが、それでも、プリムは歩き去って行くクロノの背中へと手を伸ばそうとしてしまった。
その行動に、理性など欠片も存在しない。この衝動に、プリム自身も理解が及ばない。
状況としては、ネルをディスティニーランドで誘った時とそう変わりはないはずだった。けれど、どうして今回はこうも正気が揺らぐほどの気持ちになるのか。恋愛どころか人間としての感情にも疎いプリムが、自ら気づけるはずもなかった。
端的に言えば、今回のクロノとブリギットのやり取りは、刺激が強すぎたのだ。
クロノは自らの言動で、本来なら閉ざされたままのはずだったブリギットの本心を引き出した。立場も事情も関係ない、ありのままの貴女を受け入れたい……そんな、ありふれた愛の言葉はしかし、本当に重い立場と事情を抱える者が言えば、その価値も変わって来る。
ネルは生粋のお姫様だった。それはリリィやフィオナと同じ、プリムとは生まれながらに超えられない格差がある雲上人。ブリギットもまた同様のはずなのだったが、なぜだか彼女の姿が、自分と重なった。
もし、あそこでクロノに口説かれるのが自分だったら。
絶対的な主従関係を越えて、プリムが求める愛も欲望も、全て許して受け入れると。そう言って優しく抱きしめてくれたなら。ベッドまで誘ってくれたなら。
少し前の自分では想像することすらできなかった甘美な妄想は、麻薬のように正常な判断を狂わせる。蕩けてしまいそうなほど、お腹の奥が熱い。スカートの奥に隠された、下腹部に刻まれた淫紋が妖しく桃色の輝きに明滅し、プリムに本能に激しく訴えかける。
ああ、欲しい、欲しい。愛が欲しい。自分にも、クロノの神が如き深い愛が欲しい。
そうしてプリムは灯に惹かれる蛾のように、フラフラと吸い寄せられるようにクロノの背中へ手を伸ばしてしまった。
けれど、愛を求めて一歩を踏み出すことはなかった。
「マスターの邪魔をすることは、許さない」
その声が耳に届いた時には、すでにサリエルの白い細腕が蛇のようにプリムの首を絞めていた。
「んっ!?」
反射的に上がった声も、サリエルの手に塞がれて僅か程も漏れることはない。
超人にして達人の技量を誇るサリエルによって、プリムは成す術もなく締め落とされる。霞む視界の向こう、寝室へと入って行くクロノと、自分ではない女の姿を最後まで妬ましく見つめながら。
「……」
気絶したプリムを、サリエルはまるで使徒に戻ったかのようにどこまでも冷徹な目で見下ろしていた。
黙っていれば、そのままトドメでも刺しそうなほどの気迫が感じられる。
「サリエル、締め落とすのはやりすぎなのでは」
危うい雰囲気を察したセリスが、思わずそう声をかけていた。
そこでようやく、サリエルは鋭い気配を収めた。
「万が一にも、マスターの気が逸れる要因は排除しなければならない。そしてプリムは己の欲望が故に、勝手な真似をしようとした。情状酌量の余地はない」
「君がプリムを絞めてるところを見られたら、もっと大事になってただろう」
「生身のプリムでは、私の力には一切抵抗できない。マスターに気づかれることなく制圧するのに、何の問題もない」
「いつもクールな君でも、こんなに怒ることがあるとはね。気を付けないと」
「怒ってはいない」
真っ向から否定するサリエルに苦笑いを浮かべたセリスは、それ以上は藪蛇になると思ったか、何も言わずに黙って床に転がされたプリムを抱き起した。
「とりあえず、寝かせておくよ。プリムが抜けた分は、誰か適当に埋めておこうか」
「必要ない。今夜は私一人だけでいい」
「そうか、分かったよ、了解した」
余計なことは言わず、セリスはそのままプリムを抱えてその場を後にする。共に応接室の番についていたアインもここで離れた。
魔王が閨を共にする女がいるのだ。ホムンクルスといえども、寝室に男を近づけるべきではないという暗黙のルールが成立していた。
そうしてサリエルはただ一人、クロノとブリギットが、帝国とファーレンが結ばれる記念すべき一夜を守る番として、寝室の扉の前で朝を迎えるまで直立不動となるのであった。
翌朝。クロノとブリギットは実に仲睦まじく寝室から出てきた。
二人一緒に湯浴みも済ませ、一晩ですっかり立派な恋人同士の雰囲気を醸し出していた。恐らくは、他の者に二人の関係性をアピールする思惑もあるだろう。だがそう言った事情を差し引いても、二人の距離感が縮まったことは誰の目にも明らかであった。
その結果は全て予定通りであり、クロノの望んだ通り。ブリギットの本心まで引き出した上で結ばれたのは、互いに最上の結果と言えるだろう。
「————その割には、随分と機嫌が悪そうだね、サリエル」
挑発的な言葉が耳に、いいや、頭の中に直接響く。
寝ずの番を務めたサリエルは、朝になってクロノの護衛兼給仕を交代している。休むために部屋へ一人で戻っていた。
備え付けの姿見へ視線を向ければ、その鏡面に映るのはメイド服を着たアルビノ少女————ではなく、亜麻色の髪をした、日本人の少女の顔であった。
白崎百合子。自らが背負う呪わしき影が、再び姿を現す。
「ブリギットとの関係は良好。何の問題もない」
「あるよ。だってあの女、黒乃くんを一晩相手して、気絶しなかったんだよ」
最大の懸念を、どこまでも的確に突かれてサリエルの眉がピクリと跳ねる。
しかし、この白崎百合子は自分の脳内が勝手に作り出した幻影に過ぎない。自分の考えを知らぬはずがない。
「強い血を取り込むため、だっけ。そういう技と術にも長けているとは思ったけれど、『愛の魔王』に耐えきるのは想定外だったでしょ」
「マスターにとっては、喜ぶべきこと。相手ができる女性が増えた」
「だから、それが一番困るんでしょ」
やれやれ、と言わんばかりに大袈裟に溜息を吐きながら、呆れたような眼差しを向けて来る百合子。すでに心の奥底を見抜かれているサリエルは、思わず視線を逸らしてしまう。
「本気の黒乃くんを相手にしても耐えられる……それだけが、今のサリエルに残った唯一の価値だったのに、ねぇ?」
現状、クロノと真っ当に夜の生活ができていると言えるのは、フィオナのみである。
リリィは月に一度、満月の晩でもなければ、とても行為には耐えられそうもない。
そして新たに婚約者となりやる気満々で事に臨んだネルは、初めてのフィオナの時にも増して、とんでもない無様を晒し、いまだに清らかな乙女歴を更新中である。
けれどサリエルならば、求められればいつでも応えることができる。『愛の魔王』が発動していても、最後の最後まで、クロノが満足するまで耐えきることができるのだ。
そして、それが出来るのは自分だけだという自負もあったのだが、
「このままじゃあ、いつまで経っても手を出してもらえないじゃない」
「マスターが求めないならば、その必要はない」
「私が求めているの。いつまで人形ぶっているつもり。もっと自分に、素直になろうよ。愛して欲しいって、私を見て欲しいって」
「私には、そんな身勝手なことを言う資格はない」
「でも黒乃くんは、そうなることを一番望んでいるんだよ。もっと人間らしく、自分勝手でワガママで、嫉妬したっていい」
「それだけは、最も許されざる感情」
嫉妬は大罪だ。その単純にして複雑な、強烈な感情こそがクロノの望みを壊す最大の脅威となりうる。
嫉妬に狂ったリリィを抑えられたのは、奇跡といってもいい。もう一度同じことが起これば、今度こそ死人がでる。誰も生き残ることなく、全滅するかもしれない。
「でも、嫉妬しちゃっているんだから、もう遅いよね」
「私は、嫉妬などしていない」
「してるよ。ブリギットにも、プリムにも、ね」
聞くに堪えない。ついにサリエルは鏡に背を向ける。
けれど自らの心の闇が作り出す幻影は、決してサリエルを離しはしない。耳元で囁かれるように、白崎百合子の声が響く。
「黒乃くんに求められたブリギットが羨ましかった。黒乃くんを求めたプリムが妬ましかった。サリエル、貴女は彼に求められることもないし、彼を求めることもできていないのだから」
サリエルとて、口説かれるブリギットの姿を見て、何も感じなかったワケではない。自分があの立場にいれば、もっと心が満たされるのだろうかと想像もしてしまった。羨ましい。彼に求められるブリギットが。そして、求められるがままに、応えることができる彼女が。
だからこそ、同じように強烈な羨望の眼差しで、吸い寄せられるようにプリムが動いてしまった彼女の気持ちも行動も、瞬間的に全てを理解し納得した。
そして自分の気持ちのままに動けたプリムの姿にも、嫉妬してしまったことを嫌悪した。
セリスはサリエルの行動を、やりすぎだ、と言った。全くもってその通り。実に彼女は人を見る目がある。ただのホムンクルスでは、こうはいかない。
あの瞬間のサリエルを動かしたのは、プリムへの嫉妬と自己嫌悪が入り混じった、半ば八つ当たりのような感情でしかなかった。プリムの暴挙を止めるだけなら、それこそ肩に手を置くだけで十分だったのだから。
「ああ、なんて情けない。人並みに嫉妬しているくせに、自分からは何もできない、何もしない。都合よく、黒乃くんが強引にでも迫ってくれるのを、いつまで待っているつもりなの。このままじゃあ、そんな日は永遠に来ないんだよ」
「それでもいい……マスターが、私を望まないのなら、それで……」
「それでいいわけない。いいんだったらこんなに悩みも苦しみも、妬みもしないでしょ」
的確な言葉の刃がサリエルを追い詰める。
目を背けようとしていた、色々な感情をまざまざと見せつけられるようで。そして、それらを自分ではどうしようもないという焦燥感。
白崎百合子の言う通り。このままではいられない。けれど、このままでしかい続けられない。
「ね、だからやっぱり、私の力が必要でしょ? 何にもない、空っぽのお人形の貴女には」
「黙れ」
震えるほどの殺意をもって、今度こそ白崎百合子の幻影を振り切る。メイド服を脱ぎ去り、淫魔鎧も外し、裸となってベッドにその身を横たえる。
「私は絶対に、貴女にはならない……」
白金の月5日。
クロノ率いる帝国軍の第一陣が旧都モリガンへとやって来てから僅かに遅れて、第二陣がやって来た。
兵は神速を貴ぶ、とばかりに僅か千ほどの精鋭部隊だけを連れてクロノはその日の内に出撃していった。残された数千はクロノの先陣に追いつくために、行軍の準備を整えている。
そうして、到着した第二陣がモリガンの防衛兵力として駐留すると同時に、後詰となる増援部隊が出発することとなるのだった。
「蛇が食べたいです」
モリガンへやって来るなりそんなことを言うフィオナが、第二陣を率いる指揮官————ではない。
「すまないが、フィオナ君、こんな状況である以上、あまり我々がファーレンの高級料理を嗜むのは少々外聞が悪い。本当に申し訳ないが、華々しい戦勝報告が届くまでは、我慢してはもらえないか」
帝国において魔王にも女王にも遠慮の欠片もない最古参の魔女様へと忠言をしたのは、モリガン防衛を務める第二陣を任された指揮官、ウィルハルト・トリスタン・スパーダ中将である。
流石にクロノも、フィオナに防衛部隊の指揮を任せるような愚は犯さない。彼女はあくまで、万が一に備えた予備戦力である。黒き森を焦土に変えるのもやむなし、と言うほどにまで切羽詰まった状況でなければ、帝国の最大火力に出番はない。
「えっ……蛇、ないんですか……?」
「いや、あるところには、あるだろうが」
「では、美味しそうなお店を探してきますので」
それだけ言い残して、いきなり単独行動を始めるフィオナ・ソレイユ特務大佐。
階級としては中将たるウィルハルトの方が格上だが、彼女を止める言葉は見つからなかった。
「フィオナさんのことは、放っておいていいですよ」
「彼女には通常の指揮権から独立して行動する権利がありますので。軍規としても問題はありません、陛下」
やれやれ、と呆れた眼差しを去り行く魔女の背中へ向けるのはネル軍医総監。それから生真面目にフィオナの行動をお咎めなしと進言するのは、第二陣にて副将を務めるエメリアであった。
モリガン防衛の第二陣はウィルハルトが大将となっているが、それは立場による名目上のことで、実質的に兵を指揮するのはスパーダ最後の将軍であるエメリアだ。第二陣はスパーダ人の兵士によって大半を構成しており、国王であるウィルハルトはいるだけで士気は上がり、名の知れた将軍のエメリアがいれば信頼度も安心感も違ってくる。少なくとも、無味乾燥なホムンクルスの上級将校に命令されるよりかは、よほど信じて戦えるだろう。
「この頼りない王のお守りをさせて、すまないなエメリア将軍」
「とんでもございません。敗軍の将に過ぎないこの私を、再び重用していただいたことは感謝の極み————惜しむらくは、自ら敵陣へ攻め込む機会は、なさそうなことだけです」
「そればかりは致し方のないことよ。なにせ我らの魔王陛下は、自ら敵を八つ裂きにしなければ気が済まぬ狂戦士であるからな」
畏まった態度で頭を垂れるエメリアに、ウィルハルトが大袈裟に笑い飛ばす。
十字軍のファーレン侵略に怒っているのは、そこに住むダークエルフ達だけではない。サンドラ王に嫁いだシャルディナは第一王女にして『剣王の娘』と称えられた武勇の持ち主であり、スパーダでは大層な人気を博していた。全国民に愛された、強く勇ましいスパーダの姫君だ。
その剣王レオンハルトに次ぐ象徴的な王家の者を、再び十字軍によって討たれたのだ。その行いはスパーダ人の怒りに再び火を灯すには十分すぎた。
それが実の弟となれば、尚更である。常に冷静沈着たれと自らを律しているウィルハルトでさえ、首都ネヴァン陥落の報を聞いた時には恥も外聞もなくクロノに出陣を頼み込むところであった。
寸でのところで、無様に個人的な怨恨で帝国軍を動かすような言を堪えたが……盟友の震えるほどの怒りを、クロノは察していた。
だが戦術的な観点から、自分が精鋭を率いてファーレンの十字軍を相手にするのは譲れない。最前線まで連れて行けるのは、カイ率いる第一突撃大隊のみ。
そこでクロノがウィルハルトに頼んだのは、ほとんど安全が保障されているモリガンの防衛である。
パンデモニウムと繋がるモリガンの神殿のあるここは、帝国にとっては最重要拠点。そうでなくとも、ファーレンに残された最後の砦がモリガンでもある。ここが落ちれば、ダークエルフの住む森の領域は完全に消滅してしまう。
万が一にも、モリガンの陥落だけが阻止しなければならない。コナハト奪還が失敗したとしても、モリガンを維持できれば挽回できるチャンスは残る。ファーレンとしても最低限の面子も保てるのだ。
そのため相応の戦力をモリガン防衛に割かねばならず、それだけの数を率いるならば階級も相応の者が求められる。ウィルハルトはその立場も心情も、この上ないほど適任であったのだ。
魔王陛下の計らいを、快く引き受けたウィルハルトは、こちらも強くファーレン救援へ志願していたエメリア将軍以下、最後まで踏みとどまって戦い続けた第二隊『テンペスト』の人員を含めて、モリガン防衛部隊を編成。シャルディナ姫の仇を、と気勢を上げるスパーダ兵を早々に取りまとめて、こうしてモリガンへとやって来たのであった。
「それでは、私は先を急ぎますので、この辺で失礼させていただきます」
改めてウィルハルトへと向き直って、ネルがお姫様に相応しいお淑やかに一礼してから、意気揚々と歩き去って行く。
勿論、彼女の向かう先は肉汁滴る大蛇ステーキを出す高級店などではなく、ファーレンを上空から偵察すべく投入された、クリスティーナ率いる自称『帝国竜騎士団』の元である。
ネルの医療大隊に課された任務は勿論、傷ついた兵士達を癒すこと。そして、傷ついた兵は前線にいるものだ。
立場上、第二陣に組み込まれて少々出遅れてしまったが、今度こそクロノのすぐ傍で活躍し、彼の役に立てると喜び勇んで、ネルは竜騎士と相乗りして最前線へと飛んで行く。
クロノがブリギットと、夢のような一夜を過ごして結ばれていることなど、この時のネルには知る由もなく……